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Sweet&Bitter  作者: みずの
このささやかな幸せを
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4 side:Yukisada

 日曜日、結局まとわりつく菅原を振り切った頃にはどっと疲労が押し寄せていた。本屋の中で撒いたところまでは良かったが、消耗した体力と精神力は半端じゃない。…これだから、高校生の相手は疲れるんだ。


 そんなジジくさい感想を内心で漏らしつつ、俺は止めていた車を拾って帰宅した。ただでさえ機嫌が悪かったところに余計な疲れまで感じてしまい、翌朝も仕事にならなかったことは言うまでもない。

 月曜日、午前の授業がたった2コマで助かった。4限目の空き時間に化学準備室で仮眠を取ったら、幾分か気分は晴れた気がする。



「失礼しまーす」

 部屋のドアがノックされたのは、昼休みになってからだった。明るい声を響かせながら、入ってくる一人の生徒。両手に1クラス分のノートを持っているせいで、少し開いていたドアを器用に背中で押し開けている。

「…お前、そのまま足で閉めるなよ、ドア」

 嫌な予感がしてそう声をかけると、そいつはまさにそうしようと思っていたところだったのか行儀悪く右足を上げるところだった。俺の言葉に誤魔化すようにニコっと笑って返し、その生徒は足を下ろしてそっとドアから背中を離した。足で閉める必要もなく、支えをなくしたドアはゆっくりと閉まっていく。



「本城先生、課題のノート集めてきました」

「あぁ、そこ置いといて」

 煙草を吸いながら手近の机を指差すと、その生徒は素直にそれに従う。俺が化学を担当している2-Fの、夏川悠花という生徒だ。去年も担当だったし、何よりこいつが人見知りしない性格なので話しやすい生徒ではある。


「7人提出できてません。これ名簿です」

 さっと紙を出されて、俺は椅子に座ったまま夏川の顔を見上げた。

「お前、きっちり提出させろよ」

「無茶言わないでくださいよ。そんな権限私にありません」

 そりゃそうだ。クッと笑って、俺はその名簿を受け取る。つられたのか少し笑ってから、夏川はふと俺の机の上を見回した。

「先生、もうお昼ですよ?ご飯食べないんですか?」

 書類とパソコンしか並んでいない机の上を不思議そうに見やって、そう言う。

「面倒くさいからな」

 自分の時間を消費する優先順位をつけるとするなら、食事は相当下になる。食べることがというよりも、買いに行ったり作ったりという手間の時間の方が無駄なんだ。

 それが分かったからか、夏川は腕にかけていた小さな鞄から「仕方ないなぁ」と何か包みを出してきた。

「あげます。さっき調理実習だったんです」

 カップケーキのようなものを、それなりにラッピングしたものだった。有無を言わさず俺の机の上に置いた夏川を見上げて、俺は肩を竦めて返した。

「いいのか?准一にやらなくて」

 夏川が片想いをしているという3年の生徒の名前を出して、そう尋ねる。

「…いえ、ちょっと色々あって…。……って、本城先生までなんでそんなこと知ってるんですか!」

「噂って怖いよなぁ」

「…名取先生め~~!!」

 俺が貴弘から聞いたと悟ったのか、夏川はここにはいないあいつへ向けて拳を握る。それに笑い返しながらカップケーキを受け取ると、俺は「悪ぃな」と夏川に短く礼を言った。



「それはそうと、本城先生」

 ケーキを包んだフィルムをはがしていると、夏川が少し声のトーンを抑えて再び呼びかけてくる。「何」目線だけ返すと、あいつは首を少しだけ傾けながら続けた。

「朝から噂になってるんですけどね」

「…なんだよ」

「3年の菅原先輩と付き合ってるって噂…本当ですか?」

 少しだけ顔を寄せてそう尋ねてくるこいつの表情を見ると、真顔なはずなのに目の奥がキラキラしている気がした。


 ……完全に、面白がってる。



「何だそれ」

「昨日、腕組んで街中歩いてたとか」

「…ふん」

 くだらねぇ、そう言いかけた言葉と一緒にカップケーキを一口飲み下した。

「お前、どうせそんな噂信じてねぇだろ」

「あ、バレました?」

 ニッコリ笑って、夏川は言う。



 イイ噂もなく怖がられている俺のような教師でも、人懐こく話しかけてくる生徒はたまにいる。昨日の菅原もそうだし、夏川もそうだ。ただこの夏川が異色なのは、今時の女子高生と違って教師をあだ名で呼ぶことも敬語を崩すこともほとんどない。

 それなりの距離感を保ったまま、親しくできる頭の良い奴は俺も嫌いじゃなかった。


 だから、分かる。

 こいつがそんな噂を信じるやつかどうか。


「大体、その噂を聞いた誰かがそれを信じようが信じまいが俺は興味ないし」

「誤解でもいいんですか?」

「信じない奴は信じないだろ、お前みたいに」

 そう返すと、夏川は「なるほど」とどこか感心したように一つ頷いて見せた。そしてそれ以上この話題を続けることを不必要だと思ったのか、「もう一個食べます?」と笑って聞いてくる。


「いや、もういい」

 甘ったるいケーキをコーヒーで流し込みながら、俺は右手を振って応じた。




******



 夏川が化学準備室を後にして10分ほどしてから、今日の部活当番が準備に来ていないことに気がついた。今回の実験は少しばかり面倒なものなので、用意する器具もそれなりの量だ。別に自分でやっても構わないのだけれど、教師というのは時に面倒くさいもので。生徒のため、責任感を養わせるためとなれば、いちいち呼び出してやらせなくてはならない。

 ここから職員室に戻って呼び出す時間があれば、自分でやった方が明らかに早いのに…だ。



 化学部の当番票を机の中から出すと、そこにあったのは白石和美の名前だった。それを目にした瞬間、自分でも言い表せない不可思議な感情が渦を巻く。果たして不快だったのか、否か…自分でも定かではなかった。



『2-A白石和美、至急化学実験室まで』



 職員室まで行き、呼び出しの放送をかける。視界の片隅で貴弘が何か言いたげな顔をした気がしたが、無視しておいた。




 白石が実験室に来たのは、ちょうど5分ほどしてからだった。窓枠にもたれかかって煙草を吸っていると、「…失礼します」という控えめな声と共にドアが開けられた。中にいる俺と目が合うと、白石は少し肩を強張らせたように見えた。

 …この前あんな態度を取った後だ。怯えさせていても不思議ではなかった。


「来たか」

 だからこそ、逆に平然と俺は声をかける。

「お前、今日部活の当番だろ」

 煙草を灰皿に押し付けながら言うと、白石は「あっ」とその事実を思い出して声を上げる。

「すみません!忘れてました…」

「あぁ、これよろしくな」

 白石の言葉にそれだけ返して、俺は一枚の紙を差し出した。今日の実験内容と、必要な器具を書いた紙だった。ゆっくりとこちらに近づいてきた白石は、わずかに震えそうな手でそれを受け取る。


 ……そこまで怯えさせることをしただろうか。そう思うと、意味の分からない苛立ちがぶり返してきそうだった。



 そのまま踵を返して、白石は教室の後ろの方にある棚へと向かう。その後ろ姿を見やって、俺は聞こえない程度にため息を漏らした。




 やがて、俺が新しい煙草に火を点けた時…。棚の前まで歩いて行った白石が、不意に「先生」とこちらを振り返った。


 さっきまでのこいつの態度から、まさか何かを必要以上に話しかけてくるとは予期していなかったので俺は思わず驚く。だが表面には出さず、無表情のまま「…何?」と小さく聞き返していた。

「あ、あの…この前の話なんですけど…っ」

 持っていたライターを、ポケットに戻す。どこか緊張気味な白石がそう切り出した言葉を、俺は煙草を吸いながら目を細めて聞いた。



「私、別に名取先生が好きなわけじゃないんです…!」

 思い切って、という風に言い切った白石は、その後すぐに俺から視線を外す。だけど俺の方は、そんなあいつから目が離せずにいた。思ってもみないことを言われたせいかもしれない。


 …いや、それだけじゃない。


 もっと、こう…。


「………」

 安堵のような何かを、感じたからだ。




 ……『安堵』?

 自分で出した心の中での言葉に、俺は次の瞬間には首を捻る。…何で俺がホッとしなきゃならないんだ。



 無言でそんなことを考えていると、「…あの…」と今度は弱々しく白石が続けた。

「だから…誤解されたくなくて…」

 そう告げてから、白石はゆっくりと顔を上げる。生徒の中で学年一の美人と噂されるだけあった。整った顔立ちを少しだけ困ったように眉を顰めていたが、それでも逆に絵になっている。


 そんな白石をまっすぐに見据えていた俺は、顔を上げたあいつと目が合ってからわずかにそれを逸らした。

「…分かった」

 煙草の煙を吐き出しながら、そう小さく答える。だけどその次の瞬間、「…え」と白石本人が意外そうに声を漏らした。

「…信じて…くれるんですか?」

 俺にとっても意外な言葉を返してきて、白石は目を見開いている。



 確かに、普段の俺なら他人が誰を想おうが興味なんて持たない。だから弁解されたって、それを信じる信じないより以前に聞き流していたかもしれない。だけどこの時俺がそうしなかったのは…貴弘の昨日の言葉を不意に思い出したからだ。


『自分でも分からないイライラに苛まれる時は、周りの声をよく聞くんだな。

そうすりゃちょっとは救われるぜ』


 …そんな、一言を…。



 だからこそ、白石の言葉をもすんなりと受け入れることができたのかもしれなかった。




「だって、違うんだろ?」

 問い返すと、白石は慌てて首を勢い良く縦に振った。その動作が余りにもオーバーリアクションだったので、思わず俺は吹き出してしまう。自分でも珍しく「ははっ」と声を出して笑っていた。


「……」

 俺が笑っているのが珍しかったらしく、白石は呆けたようにこちらを見上げている。その視線に気づいて思わず我に返った俺は、小さな咳払いと共にいつも通りの真顔に戻した。

「…白石、実験道具ちゃんと揃えとけよ」

 何となく勝手にきまずくなって、俺はそれだけ言い置いて踵を返す。煙草を持ったまま、実験室とドア一つで繋がった化学準備室の方へ移動しようとした。


 そうしてそのままそのドアを開こうとした瞬間、後ろで白石が「あ、あの!」と俺を呼び止める声を発する。

「…?」

 肩越しにそちらを振り返ると、さっきよりも白石が固くなっている気がした。それで気づく。…もしかしたら、怯えているというよりも…単に緊張しているだけなんだろうか。勘違いかもしれないその考えに、俺はそれでも心のどこかで胸を撫で下ろしている自分に気づいた。



「昨日、街中で先生を見かけたんですが…」

 予想外の言葉を、白石の唇が紡ぐ。遠慮がちに口火を切ったようだったけれど、次の瞬間には勢いに任せるように拳を握って続けていた。

「先生は、菅原先輩と付き合ってるんですか…っ?」と…。



 そんな一言に、俺は自分らしくもなく思わず目を見開く。そうして、ゆっくりとさっきまでの夏川との会話を思い出した。

「…あー」

 そういえば、と、そんな呟きが漏れる。


「なんか噂になってるらしいな、今朝から」

 手にした煙草の灰が落ちそうで、俺は灰皿でそれを受け止めた。そんな俺に、慌てた白石が声を幾分か大きくする。

「えっ、あ、あの、私は誰にも言ってません!」

「わかってる」

 その言葉に即答して、俺は今度こそ体ごと白石の方を向き直った。

「うちの生徒が多いあんな駅前で一緒にいたら、誰に見られても勘違いされても仕方ねぇしな」

 つまりは、白石以外にも何人かに目撃されていたんだろう。そうじゃなきゃ、昨日の今日でこんなに噂にはならないだろうし。


 続けた言葉に、白石は「勘違いですか」と繰り返してきた。それに小さく頷いて返して、俺は少し目を細める。

「まぁ信じるのも信じないのもお前の勝手だけど」

 それは、本音とは少し違う気がした。



 何故かこの時、俺は言葉は冷静でも誤解されたくないと思っている自分に気がついた。……どうしてだろう。さっき夏川と話していた時に言った言葉は嘘じゃなかったはずなのに。他の誰かが誤解しようがなんだろうが、どうでもいいと思っていたはずなのに。



 俺の言葉を受け止めた途端、「えっ、し、信じますよ!」と白石は再び即答する。その言葉に内心でホッとした途端、さっきの白石自身の「誤解されたくない」という言葉を思い出していた。

 …今なら、その感情が分かる気がする。それがどこから来てどういう意味を持つ感情なのかは、わからなかったけれど。



「…あ、でも…」

 言い切った後で、白石はそう遠慮がちに再び口を開く。

「その時、先生と先輩が…その…」

「腕組んでたって?」

「…いえ、それもそうなんですが…それより…」

 夏川に聞かれたことを思い出しながら尋ねたが、白石は口ごもりながらそれを否定した。そして、言いにくそうに唇を歪める。その様子に軽く首を傾げて見やると、白石は少しだけ困ったように眉を寄せた。


「…キス、してるように見えたので…」

「!?」

 続いた白石の言葉に、俺はちょうど煙草の煙を変なところに吸い込んだ。げほっと咳き込んで、瞬時に涙が浮かぶ。

 数回咳払いを繰り返すと、白石が「大丈夫ですか!?」と慌てて俺に声をかけてきた。それに右手を上げて返して、俺は呼吸を整える。持っていた灰皿を机に戻しながら、煙草をそこでもみ消した。

「何言ってんだ、お前」

 自分でも珍しく、明らかに動揺してしまう。

「え、だって…そう見えてしまったので…」

 続けた白石は、自信なさそうに消え入りそうな声で呟く。



「どこで?」

 少しばかり強い口調になってしまったのは仕方ない。俺が尋ね返すと、白石は「駅前のファストフード店です」と答えた。その答えを受けて、俺は昨日のできごとを思い出す。

 …確か、菅原に声をかけられたのがそもそもその近辺で…。それから腕を組まれて歩き出したのは、はっきりと覚えている。



 その、すぐ後…?それなら確か………。

「…あー」

 呟きを漏らして、俺は思わず口元だけで笑ってしまった。



 心当たりなら、ある。一つだけ。あの時結構な強い風が吹き抜けて行ったから。



 思い出して、俺は白石の方を向き直った。そして尋ねる。「お前、視力いい?」と。



 少し面食らったような顔をしたけれど、白石はすぐに持ち直した。

「…いえ、悪いのでコンタクトです」と、困惑しながらも真っ直ぐに答えてくる。

「ちなみにハード?ソフト?」

 重ねて尋ねると、更に眉間の皺を深くした。

「ハード…ですけど…」

 ためらいがちにも、静かにそう答えを寄越してくる。そんな白石の答えに、俺は満足そうに一つ頷いて返した。



「俺もハードなんだけど、あれって目にゴミでも入ろうもんならものすごい痛いだろ」

「そうですね」

 軽く頷いた白石だが、まだ俺の話の意味がわからないらしい。不思議そうな表情で俺を見上げてくるので、思わず苦笑を漏らしてしまった。

「つまりだ、ハードコンタクトしてる菅原が目にゴミが入ったっつって痛がったから、『こするな』って腕掴んで見てやったんだけどな」

「…え!」

 それまでの白石とは天と地ほどの差を感じさせるくらいに、大きな声を響かせて驚く。俺の言葉を聞いて目を瞠ったあいつを見つめ、俺は一つ頷いてやった。

「ま、そういうことだ」

 信じるか信じないかは白石次第だったけれど、それは聞くまでもないことのようだった。

「…目にゴミ…」

 驚いたような顔をしていたけれど、それでも白石はその事実を真実と認識して呟いている。


「でも、まさかこんな漫画みたいな古典的な勘違いする奴いると思わなかったな」

 言って思わず笑ってしまい、俺はからかうように言った。それに困ったように笑った後、白石は「…なんだ…」と呟きながら小さく息をつく。…そのため息の意味がどんなものかは俺にはわからなかったけれど…。誤解が解けた安堵からか、俺も同じような息を漏らしていた。



 もちろん、やはりどうしてこの時ばかりは誤解されたくないと自分が思ってしまったのかはわからなかったけれど。


 ……いや。



 本当はわかっているはずだった。だけどこの時、分からないフリをした。

 気づけば何かが壊れ、何かを失うことを知っていたからだ。得られるものは、きっとほとんどないというのに…。




 それくらいなら気づかない方がいい。そう思って、俺はそれ以上考えることをやめにした。




 今のこの空間の、ほんの一欠けら程度の幸せを壊したくなかったからだ。





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