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Sweet&Bitter  作者: みずの
番外編「risa」
38/152


 それから、また2週間が過ぎた。週に2日は必ず崎谷さんはうちに来てくれた。

 いつも優しい笑顔の彼に癒されていたはずの私は、何だか最近ではその笑顔に言いようのない複雑な感情を抱くようになってしまった。それが何故なのか…何となく、自分でも分かりかけていた。

 だけど認めたくない自分もいて…未だに私は奈那子の前でも「崎谷さんに憧れている」フリをしてしまっていた。



 貴弘さんには、あれ以来会っていない。あの飲み会の日、居酒屋に入ってきた彼は私がいる方とは全然違うテーブルについてしまったから。貴弘さんに告白したらしい3年の彼女はそのまま帰ったようで、姿は見せなかった。だけどそのことが、彼の返事を物語っているようだった。





 ある日の朝、私は崎谷さんを探していた。今日はいつもの通り准一の家庭教師に来てくれる日だ。

 だけど朝からその准一に熱があって、学校を休んでいる。だから今日はお休みしてほしいとお願いしたかったからだ。


 崎谷さんと仲の良い人を見つけると、学部棟の喫煙ルームにいると教えてもらった。小さな個室のようになっているそこは、それでもドアは開けっぱなしなのであまり機能的とは言えないものだ。遠目に崎谷さんらしい人を見つけて、私は小走りにそちらへ駆け寄った。



「お前そういや、理沙ちゃんの弟の家庭教師やってんだろ?」

 部屋の入口近くまで来た時、中から男の人の声が聞こえてきた。部屋には崎谷さん以外に2,3人いるらしい。そしてその声の張本人は、前に飲み会で感じが悪かった人の一人だと気がついた。

「あぁ、うん」

 煙草の煙を吐き出しながら、崎谷さんはどこか遠い目をする。…煙草を吸う人だったんだという事実を知ったのも、この時が初めてだ。

「でもいい加減腹立ってきてさ」

 続いた言葉に、私は自分の耳を疑った。声は崎谷さんのものなのに……別の人が言っているんじゃないかと思いたい。…それくらい、彼らしくない衝撃的な言葉だった。



 陰に潜んでいるせいか、私に気づく気配はない。吸っていた煙草の灰を灰皿で落としながら、崎谷さんは続ける。

「それがまた、かわいくねぇクソガキでさ。蹴り飛ばしてやろうかと思ったくらい」

「ひでぇなぁ、お前」

 相手の人は、言葉ではそう言いながらも声が笑っていた。


 崎谷さんが言っているのが…つまり准一のことだと理解するのに、私は驚きすぎて時間がかかる。

 ……これ、誰…?

 爽やかで優しくて、憧れすら感じていたあの崎谷さん…?本当に?



「そもそも何でそんなん引き受けたんだよ」

 誰かが、崎谷さんにそう尋ねていた。聞かれた彼は、少し鼻で笑ったようだった。



「初々しい新入生が俺に気ありそうだったから、ちょっとからかってみた」

「うわ、まじでひでぇ」

 笑って応じる男の声が、やけに耳につく。私は無意識のうちに、ギュッと唇を引き結んでいた。噛み締めたそこから、気を抜くと血がにじみ出そうだ。

「そのまま落とすにはちょっと堅そうだたったからさ、弟から懐柔してけば遊べるかな、と」

 …頭がグラグラする。眩暈に併発して吐き気すら感じるほど。

「ま、マジで付き合う気なんかなかったけどなー。イイ年した女がたかが反抗期の弟のこと本気で心配したりとか、ブラコンでキモイってんだよ」



 …それ以上は、正直聞いていられなかった。


 いや、聞く必要もなかった。崎谷さんの本音はもう嫌っていうほど良く分かったから。



「…っ」

 何かがこみあげてきそうな胸の奥を何とか押し込めて、私はバッと踵を返した。




******



 早くその場から離れたかった。

 授業が始まっている時間だったけれど、出席する気になんてなれない。無我夢中で逃げるように走りながら…私は無意識のうちに非常階段のドアを勢いよく開けてしまっていた。



 カンカンと、音をたてながらそれを下りる。胸の中は余りの衝撃と怒りと哀しみでグチャグチャだった。ただ、それを押し留めようとするので精一杯だ。




「うるせぇぞ、静かに下りろー」

 2階に差しかかった頃、私の姿を見つけたらしい人物からそんな声がかかった。



 …貴弘さん。

 からかうように笑いながら言った彼だったけれど、次の瞬間、私のひどい顔を見て少しだけ目を見開いた。

「…おい、どうした?」

 眉を顰めて、尋ねてくれる。その表情と声に…私はさっきまで必死でこらえていたはずの感情が一気にあふれ出すのを感じた。留めることもできず…ただ、その感情と共に驚くほどの涙が零れる。

 「うわー」と子どものように声をあげて、上を向いてただ泣く。何があったのか、貴弘さんに説明する余裕なんてもちろんなかった。



「……」

 少し驚いていた貴弘さんも、その私の涙で大体何があったのか分かったようだった。ゆっくりとこちらに近寄ってきて…立ち尽くして泣きじゃくる私に、手を伸ばす。



「!」

 グイッと引き寄せられたと思った瞬間、次に我に返った時には私はその腕にすっぽり包まれていた。



 ギュッと私を抱きしめる手に、貴弘さんが力を込める。後頭部を撫でてくれる手はびっくりするほど優しかった。

「…だから言っただろ」

 静かな声が耳元で囁いた。

「崎谷はやめとけって」



 言葉ではそういいながらも、その声に私を責める響きはなかった。ただ、優しく包み込んでくれる。



 そんな温かい腕の中で、私は泣きながらコクコクと頷いて返した。




******



「え……?」

 散々泣きはらした翌日、奇跡的に目は腫れなかった。寝る前にちゃんと冷やしてから寝たのが良かったのかもしれない。普段通りのメイクで泣いたことがバレないように努力しながら、私は崎谷さんを前にしていた。



「…ごめん理沙ちゃん、もう一回言ってくれる…?」

 驚いた顔をした崎谷さんが、目を見開く。そんないつも通りの「紳士的な」崎谷さんを目の前に、私はゴクリと息を飲んだ。

「…あの…だから…もう家庭教師は結構です…」

「准一くん、良くなったの?」

「…いえ、そういうわけじゃないんですけど…」

 嘘をつくのには慣れていない。かと言ってバカ正直に話す気なんてもちろんない。もう二度と関わることもないだろうこの人に…正面きって接する必要性を感じないから。



「てめーはもう用済みだって言ってんだよ」

 何と言っていいか逡巡しかけた時だった。後ろから、そんな乱暴な言葉が降ってくる。…もちろんそれは、私ではなく崎谷さんに向けられたものだった。

「…名取…っ?」

「…貴弘さん!?」

 驚いた崎谷さんと、私の声が重なる。私の後ろでこちらを見下ろしていたのは、貴弘さんに他ならなかった。



「身に覚えはいくらでもあると思うけど?」

 後ろからガシっと私の肩を抱きながら、彼はそう言って崎谷さんを睨み据える。目を瞠っていた崎谷さんは…しばらくの間の後、「…ふ」とかすかに笑ってみせた。

「よく分からないけど…俺が悪いわけだ?」

「とぼけんじゃねーよ」

 貴弘さんがどういう顔をしているのかは、彼に抱きしめられていて振り返れない私には分からない。…ただ…声のトーンがいつもより数段低いのだけは分かった。



「大体、何で名取が出てくるわけ?俺と理沙ちゃんの話じゃない?」

 崎谷さんが、最後の抵抗なのかそう言葉を返す。それに今度は貴弘さんが「ふん」と鼻で笑って見せた。

「そんなもん俺達が付き合うことになったからに決まってんだろ」

「……」

「…は!?」

 いきなりな爆弾発言に、目を見開いて無言の崎谷さんと、思い切り驚いてしまった私。そんな私をチラリと見やったけれど、崎谷さんはやがて「…わかったよ」と呟いた。

 最後まで紳士のフリをして笑顔を見せる。だけどそうして去っていく後ろ姿を見ても、かなり彼が無理をして虚勢を張っていたんだろうってことが分かった。



「……」

 なんとか話がついたことにホッと安堵の息を漏らしてから、私はグイッと貴弘さんの腕を振りほどいた。助かったけれど…この人に言いたいことは山ほどある。



「自分で話すから来なくていいって言ったじゃないですかっ」

「んなこと言ったって、実際困ってたじゃねーかよ」

 しらっとした顔で言いながら、貴弘さんは腕を自分の方に引き戻す。

「それに、さっきの……何なんですかっ?付き合ってるとか…!」

「ああ言ったらすぐ引いたじゃねぇかよ」

「…それは…そうですけど…っ」




 言葉を濁した私に、ふと貴弘さんが表情を戻した。さっきまでの態度とは違う…どこか真剣味を帯びた感じ。

 …でも……。

「その気がないのにあんなこと言うの、ずるいです」

 気がつくと、私はポツリとそんな言葉を口にしていた。



 本気じゃないって分かってる。

 崎谷さんを納得させるための嘘だってことも分かってる。それでも…あんなことを言われたらこっちはどうしても意識してしまう。私のことなんて好きじゃないくせに…そんなのってずるすぎる。



「……」

 立ち尽くして、ギュッと拳に力を込める。そうしていないと弱い自分は崩れてしまいそうだったから。



「……俺は…」

 俯いた私の頭上で、静かな声で貴弘さんが口を開いた。



「お前に、『そういう態度』で接してきてたつもりだったけど」

「……っ?」

 俯いたまま、思わず私は目を見開く。そんな私の顔を、貴弘さんが両手で包み込んでグイッと上げさせた。仰向けるようにして…ようやく目が合う。



「…分かるわけないじゃないですか…あんなのでっ」

「『あんなの』って言うか…お前…」

 ガクッと少し肩を落として、貴弘さんは呟いた。



「それに、修司だってお前に色々言ってたじゃねぇかよ。俺がお前のこと気に入ってるとかなんとか」

「…だって…その割には貴弘さんからそんな感じを受けなかったし…っ」

「ユキだってさりげなく後押ししてただろ」

「…ユキ先輩のはさりげなさすぎてよく分かりません」

 言うと、そこで貴弘さんは「そりゃそうだ」と吹き出した。だけどすぐに、フッと表情を変える。再び真剣な眼差しを向けて…彼は続けた。



「ずるいのは、お前の方だろ…」

「……え?」

 少し困ったような…悲しい笑い方をしていた。

「『その気がないくせに』そんなこと言う方がずるい」

「……っ」



 そりゃそうだろう。

 貴弘さんや周りの人の中では、私はずっと崎谷さんのことが好きだったはずなんだから。だけど今この場で、それを弁解するのも違う気がした。どんなに言っても…今の私じゃチープな言葉にしかならない。



「俺は、お前が好きだよ」

 頬に触れた貴弘さんの冷たい手が、少しだけ撫でるように上下した。

「『その気になったら』、俺のとこ来て」

「……」

 答えるべき言葉を、私はこの時持ち合わせていなかった。本当なら、すぐにでも頷きたい気分だったのに。今すぐにでも抱きついて自分の気持ちを表したいくらいだったのに。




 …いつからだろう。



 私も、こんなに貴弘さんのことが好きになっていたんだ…。




「…さて、んじゃ行くか」

 不意に、私から手を離して貴弘さんがそう言った。

「…え?どこに…」

 言いかけた私に、彼はニッと笑う。

「お前、今日もう授業ねぇんだったよな?」

 聞かれて、私は自分の時間割を思い出す。確かに、この後は何もないけれど…。

「じゃあ、とっとと行くぞ。お前の弟くんに会いに」

「えっえっ?」

 グイと手首を引っ張られて、私は慌ててついて行く。貴弘さんが何をしようとしているのか…この時はまだ頭がついていかずに理解できていなかった。




******



 昨日は熱を出して休んでいた准一も、今日は学校に行ったようだった。家に着くと、今日は母がいた。貴弘さんを連れて行くと、「まぁまぁ」とどこかのおばちゃんさながら嬉しそうに笑う。

「えっと、私の大学の先輩」

「いつも娘がお世話になってます」

 頭を下げる母に、貴弘さんは自分で名乗って挨拶をしていた。思ったよりはるかにまともな感じだった……なんて言ったら怒られそうだけれど。



 崎谷さんが来る時は、いつも母がいない時だった。…というか、なんだか母がいる時を私が避けていた。何故そうしてしまっていたのかは…今なら自分でも分かる。



 2階の准一の部屋へ、貴弘さんを連れて向かう。母は「そこまで心配しなくてもいい」と私に耳打ちしてきたけれど、私としてはやはり気になってしまっていたから。もしかしたら貴弘さんでも、准一はダメかもしれない。それでも、最後の頼みの綱だった。



 ノックして、入りかけたドアを急に貴弘さんが後ろから制した。驚いて振り返ると、「どいてろ」と小声で言われる。わけがわからないまま目を見開いて立っていると、貴弘さんは自分で部屋のドアを開けた。そして、開口一番言った言葉が…。



「准一~ぃ、ゲームやろうぜゲーム!」

 ……崎谷さんのキャラとは正反対の…そんな一言だった。




 呆気にとられている私を放置して、貴弘さんは遠慮なく部屋に入っていく。これには、部屋にいた准一も驚いてポカンとしていた。



「ゲームくらい持ってるだろ?…ってなんだよ、シューティングしかねぇのかよー」

 人の部屋の私物を勝手に触りながら、貴弘さんはゲームソフトを物色する。

「テレビねぇの?この部屋。んじゃ下行こうぜ。あ、お母さん、リビング借りますー」

 ちょうど2階に用事で上がってきた母にもそう声をかけて、貴弘さんは准一の腕を引っ張った。ズルズルと連れて行かれる弟を茫然と見守りながら、私は開いた口が塞がらない。



「お前シューティング好きなの?男ならアクションバトルをやれ。今度持ってきてやっから」

 リビングでゲームのハードをセッティングしながら、貴弘さんはそんな風に准一に話かけている。勝手知ったる家のように動き回りながら、全ての準備を終えて准一の隣に並んだ。コントローラーを手渡している。



「あ、それと、この前まで来てた家庭教師のお兄ちゃんはクビだから」

 電源を入れながら貴弘さんがそう言った時、准一が初めてその言葉に反応した。

「……じゃあ、代わりに来たの?」

「ん?『代わり』?いーや、俺は家庭教師なんてガラじゃねぇからな。ゲーム友達だと思ってろ」

 ついてきたはいいけれど、私は後ろでハラハラしながらそれを見守っていた。そんな私の隣にやってきた母は、相変わらず落ち着いた表情で2人の後ろ姿を見つめている。

「まぁでも、呼びたかったら俺のこと『名取先生』って呼んでもいいぞ」

「…いや、いいです」

 言葉では素っ気無いような返しをした准一だったけれど……。



「…っ」

「笑った…」

 母と私は、思わず互いの顔を見合わせてしまっていた。



 それからどれくらいの間だろう。

 准一と貴弘さんは、シューティングゲームに本気になっていた。いつもはあまりやらないジャンルらしく、貴弘さんはかなり苦戦したりもしていたけれど。それでも小学生相手に手を抜こうともせず本気になっている姿に、私だけでなく母も大笑いしていた。


 そして、何より准一が…。時折くだらない話をする貴弘さんの言葉にきちんと耳を傾けているのが分かる。ゲームを終えて2人で准一の部屋に行ってしまった後も、ドア越しに准一の笑い声が聞こえてきたくらいだった。



「いい人ね」

 母が、キッチンでお茶を淹れ直しながらそう言う。「うん」と頷いて、淹れたお茶を乗せたトレイを持ち上げて私は笑った。





 母の強引な誘いがあって、貴弘さんは一緒に夕飯を食べて行ってくれた。そうして帰りに門のところまで見送った後…家の中に戻った私は、階段付近にいた准一と目が合った。

「……あ、えっと…」

 また勝手なことをしたと弟に怒られるかもしれない。そう思って、何か気の利いたことを言おうとしたけれど…残念ながら何も思い浮かばなかった。



「お姉ちゃん」

 代わりに、准一の方がそう呼びかけてくる。

「…っ」

 どれくらいぶりだろう、そう呼んでくれるのは。



「この前の人じゃなくて…あの人と付き合ってるの?」

 崎谷さんの時と同じ問いを、准一は口にした。「え」と目を見開いた私だったけれど、一瞬だけ嫌な予感がよぎる。もしかして…私、また「見る目ない」とか「趣味が悪い」とか言われるんだろうか…。



「……」

 余計なことを考えたせいで、答えるのが少し遅くなってしまった。そのせいか、准一が先に言葉を継ぐ。

「…次、いつ来てくれるかな」

 無表情だったけれど、少し照れくさそうにしているように見えた。

「名取先生」

「!…っ」

 頑なだった心を、開いてくれた証だった。

 瞬時に胸の奥がツンと熱くなるのを感じる。涙が出そうだったのを、弟の前なので必死で押し留めた。



「すぐ来てくれるように頼んでおくよ」

 手を伸ばして、准一の頭を軽く撫でる。今までのように拒まれることはなかった。

「うん」

 代わりに、少し嬉しそうに笑う。




 やっぱり、私には男の人を見る目がなかったらしい。

 この子は、こんなに小さいのに少し接しただけで崎谷さんの本性も貴弘さんの内面にも気づけたっていうのに…。



「…ホント、ダメだなぁ」

 自嘲するように言って、私は苦笑いを浮かべた。






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