表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Sweet&Bitter  作者: みずの
番外編「risa」
37/152


「…忘れてた」

 余りにも入学当初から色々とありすぎたせいで、肝心のことを忘れてしまっていた。…いや、忘れられるならずっとその方が良かったのだけれど…。


 この日、帰宅した家で思い出してしまった。





 入学する時、私には2つの悩みがあった。


 一つは、自分が新しい環境で新しい人間関係を築くことへの少しの不安。そして、もう一つは…。




 他でもない、自分の家族のことだった。





「ただいまー」

「……」

 玄関のドアを開けた瞬間、ちょうどそこにいた弟と目が合った。だけど私の挨拶を受けても、弟は返事をすることもなくそそくさと2階へと上がって行ってしまう。最近、私を悩ませているのはこの弟だった。




 弟の准一はまだ小学6年生になったばかりだった。年の離れた姉弟だったので、小さい頃から相当かわいがってきたものだ。だけど5年生の3学期頃から…准一は急に変わりだした。

 家の中でもほとんど口もきかない。母とはボソボソと話をしたりもするけれど、仕事で忙しい父や私とは目が合ってもろくに話をしてくれなかった。



 それと同時に、准一の学校でのテストの点がボロボロになって返ってくることが多くなった。元々90点以下なんて取ったことがないくらいにクラスでも優秀な方だった子だ。目も当てられない点数を取ることなんてなかったのに…まるでわざとやっているようにも思えた。



 私は、本気でこの弟が心配になった。

 何か悩みを抱えているんじゃないか、何か嫌なことがあるんじゃないか。だけどそんな私とは裏腹に、母はドンと構えたものだった。

「悩みぃ?あるに決まってるでしょ!思春期よ思春期!男の子はこうでなくっちゃね!」

 豪快に笑う母は、私とは違って年の功なのか余裕を見せていた。

「でも今度わざと0点取ってきたらしばく!」

 あっはっはと笑いながら言う母の朗らかさに、救われたこともあるけれど今回は私の更なる頭痛のタネだった。もう少し母も父も真剣になればいいのに…私ばかりが准一の心配をしているようにも感じられる。これでも両親共本気で心配して大人同士で夜遅くまで話し合ったりしていたことを私が知るのは…もっと後のことだ。




 話を戻すけれど、とにかく弟のこの豹変ぶりが気になった私は、もしかしたら学校でいじめられているのかもしれないと思った。だけど准一の幼なじみで今も仲の良い愛海ちゃんにそれとなく聞いてみたら、明るく笑い飛ばされたものだ。

「准一がいじめ?そんなことあるわけないよ」

「じゃあさ、どうしてあんなに口きかなくなったかとか分からない?」

「え、准一おうちで口きかないの?学校では普通だよー?」

 …つまりは、私たち家族に対してだけ…ということなのだろうか。何かの甘えなのか、それとも家族に対して気に入らないことがあるのか…やはり定かではなかった。





「え、准一くんまだ口きかないの?」

 翌日、空き時間に奈那子と大学構内のカフェに行った。昨年度末くらいに、奈那子には一通りの相談に乗ってもらっている。今日この話をするのは二度目だった。真剣に聞いていた奈那子は、意外そうにそう眉を寄せた。



「そうなの。…というか、0点までとってくるんだからもっとひどくなってるかも…」

「…うーん…反抗期だねぇ。小学校高学年だとそんなもんかもよ?」

 男の反抗期なんて、中学生くらいで来るもんだと思ってた。大体、反抗期って何よ、と思う。大してそれらしいものがなかった私からしたら、理解しがたい。



「お母さんもお父さんもなんかあんまり真剣に考えてないみたいに見えるし」

「そんなことはないんじゃないー?」

「だって、お母さんなんて笑ってたよ?『今度わざと0点取ったらしばく』って」

「あははっ!それくらい余裕で構えてる方がいいんじゃない?私、佳奈さんのそういうとこ好きだなぁ」

「娘の私からしたら余計頭が痛いんだって」

 ため息まじりに呟いて、私はセルフカウンターで買ってきたミルクティーを一口すする。思ったより熱かったそれに、思わず眉を顰めた…その時だった。



「へー、お前弟いるんだ」

 いつの間にいたのか、後ろの席から声がした。急にかけられた声に驚いて、バッと振り返った私は思わず呆れ顔になる。

「…いっつもどこから沸いてくるんですか、貴弘さん」

 聞くと、代わりにその更に向こうでユキ先輩が「お前らが来る前からずっといたけどな」と呟いた。


 どうやら、私が余りにも話に夢中になっていて気がつかなかっただけらしい。



「で、弟が何だって?反抗期だって?」

 話を戻してそう聞いてきながら、貴弘さんは座っていた椅子から立ち上がった。代わりに、こちらのテーブルに近寄ってくる。それを見てユキ先輩も、自分の飲んでいたコーヒーのカップを手に移動してきて、奈那子の隣の椅子を引いた。

 貴弘さんも、断りもなく私の隣に座りながらこちらを見る。

「はぁ…まぁ…」

 曖昧に濁しながら、私は弱々しい返事を返した。



「何だよ、煮えきらねぇ返事だな」

 首を捻りながら、貴弘さんはコーヒーを口にする。思ったよりそれが温くなっていたのか、飲んだ瞬間にまずそうに少し顔を顰めた。

「いえ…なんか、弟の反抗期の心配だなんて、ちょっと…」

 くだらない、と思われると思った。ブラコンだと思われても仕方ないことだろう。奈那子だから相談できたけれど、他の人に自分から言う勇気はなかったから。



 貴弘さんは、濁した私の語尾をしっかりと読み取ったようだった。こちらは見ないまま…前を向いてコーヒーを飲みながら、再び口を開く。

「…んなわけねぇだろ」

 わずかに不機嫌そうに唇を歪めて、はっきりとそう言った。




 …くだらないなんて思わない、と、そういうことらしかった。

 わかりにくい言い回しだったけれど…それが伝わって、私は思わず少し笑ってしまう。そんな私の様子に気づいたかどうかは定かではなかったけれど、構わず貴弘さんは話を続けた。



「まぁでも、小学校高学年だっけ?その頃は色々と悩みがある時期だろ、男としては」

「…そういうものですかね…」

「なぁユキ、お前も色々あっただろ?」

「…俺の経験談でいいなら全部話してやろうか?下ネタになってもいいなら」

「いいぇぇえ!!結構ですっ!!」

 真顔でボケ倒すユキ先輩に全力で拒否すると、貴弘さんとユキ先輩は同時におかしそうに笑う。…どうやら、私の気を紛らわすための2人なりの冗談だったようだ。



「でもまぁ真面目な話、誰か話し相手になってやった方がいいんだろうけどな」

 ユキ先輩の改まった言葉に、私は「そうですよね…」と小さく同意する。でも、それは一体誰が…?私ならいくらでも准一の話を聞いてあげたいのに、准一の方が家族を拒んでいるんだ。



「俺が話するか?」

 ふと、貴弘さんがそう言った。え、と顔を上げると、いつになく真剣な目をした彼と視線がぶつかる。

「姉には話せなくても、男同士なら話せることもあるかもしれねぇだろ?」

 冗談で言っているわけではないことは明らかだった。それは、目を見れば分かる。そしてそんな提案に驚きつつ…一緒に真剣に私の悩みを考えてくれたことが嬉しかったのも事実だった。

「でも…さすがに悪いですし…」

 ただやはりそこまで甘えるのもどうかと思って、そう言いかけた時だった。



「じゃあ、俺ならどう?」

 新たな声がして、私たちは4人そろってその方向を振り返った。いつからいたのか…そこに立っていたのは、ロンTにジーパンといういつもよりラフな格好をした崎谷さんだった。かなり前から話を聞いていたらしく、ニッコリ笑ってそこに佇んでいた。

「弟さん、小学生なんだよね?だったらちょうどいいかも。俺、小学校の教職取る予定だし」

「……崎谷さん…」

「ね、どうかな?」

 いつもの優しい笑顔で、崎谷さんはそう重ねて尋ねる。ありがたい提案なはずなのに…何故か私は一瞬戸惑ってしまった。



「いいんじゃねぇの」

 答えに詰まってしまった私の代わりのつもりか…隣で、不意に貴弘さんがそう言う。ガタンと椅子から立ち上がりながら続けた。

「確かに崎谷の方が適役だろうな。本人が言ってくれてんだから、甘えたら?」

 コーヒーのカップを手に取って、貴弘さんは「じゃあな」と私の頭の上にポンと大きな手を乗せる。そしてそのまま、崎谷さんの脇をすり抜けてカフェの出口の方へと向かって行ってしまった。それに続いてユキ先輩が、特に言葉なく後を追う。そんな様子を眺めた後、奈那子が小声で「良かったじゃん、理沙」とウィンクしてきた。



 …そう、本当なら、良かったはずなのに…。

 よりによって崎谷さんに悩みの相談に乗ってもらえる上に協力までしてもらえるなんて、願ってもないことなはずなのに。


 それでも、何故かこの時の私の胸の内は複雑だった。


 自分でも理由なんて分からない。



 ただ、目の前にいる笑顔の崎谷さんではなく、去っていく貴弘さんの後ろ姿を目で追ってしまっている自分には気がついていた。




******



「あれから考えてみたんだけどさ」

 早速今日の午後の講義を終えて家に来てくれると言ってくれた崎谷さんは、一緒に乗った電車でそう話を切り出した。どうやら、あの後も准一のことを真剣に考えていてくれたらしい。そのことに対しては本気で頭が下がる思いだった。


「いきなり『話をしよう』って行くよりは、成績も下がってるみたいだし…家庭教師って感じから入るのがいいんじゃないかな」

 崎谷さんは、そう提案してくれた。…確かに、あの准一が初対面の人にいきなり心を許すわけはない。それなら…崎谷さんの言うことはもっともな気がした。

「すみません、お願いします」

 申し訳なさそうに笑って、私はそう崎谷さんに応えた。





 大学から数駅のところにある自宅に、父はもちろん母も不在だった。母は週に3日ほど近くの道場で子どもたちに空手を教えていて、忘れていたけれど今日がちょうどその日だったらしい。准一も小さい頃から母に教わっていたけれど、反抗期のような今の状態になってからは一度も道場には顔を出していないようだった。

 …この日も、崎谷さんを連れて家に帰ると自分の部屋にこもっていた。



「准一、入るよ」

 部屋をノックしたけれど、返ってくる声はない。いつものことだったので、私はしばらく待ってから勝手にドアを開けた。ベッドに座っていた准一は、こちらに視線を返しすらしなかった。だけど…私が崎谷さんを紹介し始めると、知らない誰かもいたことにようやく気づいたらしく顔を上げる。

「准一、今日から家庭教師してくれる崎谷さん」

 そう紹介したけれど、准一は何の感情も読めない無表情で崎谷さんを見つめ返した。

「はじめまして、崎谷です。よろしくね」

 ニッコリ笑って挨拶をして、崎谷さんはスッと手を差し出す。だけど准一の方は、その手をチラリと見やっただけで、応じようとはしなかった。

「…すみません、崎谷さん」

 謝ると、崎谷さんは「気にしないで」とまた優しく笑う。

「じゃあ、2人にしてもらっていい?」

 小声で私に耳打ちする崎谷さんに、私はコクリと頷いた。2人きりにして大丈夫か…崎谷さんが気分を悪くしないか心配だったけれど、確かに私がいてはダメだろうから。

「准一くん、何からやろうか。算数からやる?」

 准一を机の方に促しながら、崎谷さんは穏やかな声で優しく話しかけていた。



 准一が、黙ったまま答えもせずに…それでも言われた通りに机へ向かう。それに一瞬安堵の息を漏らして、私はその部屋を後にした。








「…で、結局どうだったの?崎谷さんの家庭教師っぷりで」

 翌日、会って一番に奈那子がそう尋ねてきた。その問いに、私は小さくため息を漏らす。

「…全然ダメ。崎谷さんはすごく優しく教えてくれたりしてるけど」

 ブリックの苺ミルクを飲みながら、私は肩を落とした。

「准一が全然心を開かなくて…」

 何度か部屋の外で聞き耳を立てたりしてみたけれど、優しい崎谷さんにも准一はろくに喋らなかった。申し訳なさすぎて帰り際に何度も謝った私に、崎谷さんは首を振って「気にしないで」と言ってくれて…。その優しさに、余計に謝りたくなる。





 その後、結局2週間のうちに4回ほど崎谷さんに来てもらったけれど、准一の態度が変わることはなかった。挙句の果てに3回目の後なんて…准一が珍しく話しかけてきたと思ったら、とんでもないことを言われた。



「あの人と付き合ってるの?」

 久々に聞いたんじゃないかと思うくらいの、弟の声。嬉しさと、質問の内容に驚くという複雑な顔をして…私は「ううん、何で?」と答えていた。

「別に。ただ、付き合ってるんだとしたら…」

 准一は自分の部屋のドアに手をかけながら、一度そう言葉を切った。

「相当男の趣味が悪いな、と思っただけ」



 言われた言葉に、私は大きく目を瞠ることしかできなかった。そんな私の目の前で、准一はパタンとドアを閉めてしまう。私は、崎谷さんに対する弟のそんな暴言を怒る間もなく…ただ驚いて茫然としてしまっていた。




 …准一の考えていることが、ますます分からなくなった。




 ため息まじりにそんなことを思い出しながら、私は学部棟の外付け非常階段を降りていた。階段なら校舎内にもあるのだけれど、今の時間は移動の生徒でごった返している。人ごみを避けて、静かな階段をゆっくりと下っていった。



「…え」

 4階から下りて、2階にさしかかった頃。踊り場の辺りに見慣れた後ろ姿を見つけて、私は思わず声を漏らしていた。

「…おぅ」

 その声が聞こえたらしく、こちらを振り返った貴弘さんは煙草を吸っていた。校舎内では吸えるところが少ないから、ここにいるのかもしれない。



「…なんだか、久しぶりですね」

 声をかけながら、私は止めてしまった歩みを再び前へ進めた。踊り場に降り立って、背の高い彼を見上げる。「そうだっけ」と、貴弘さんは少し笑いながら答えた。



 なんだか随分と会っていない気がした。最後に会ったのがあのカフェでだから……2週間くらい?

「……」

 そう思い当たって、私は思わず自分で驚く。2週間……久しぶりとか随分会ってないとか、そんな風に思うほどの期間じゃないような…。



「えぇっと…私毎日部室に練習に行ってるんですけど…貴弘さんには全然会わないから」

 自分の胸の内を自分でごまかすかのように、私はそう言葉を継ぐ。言うと、彼は持っていた煙草を携帯灰皿に押し付けながら「あぁ」と頷いた。

「俺、楽器はやんねぇからな。ジャズ研入ったのは、聴くためだし」

「…そうだったんですか…」

「そう。だからたまにしか部室には行かねぇんだ」

 灰皿をしまって、貴弘さんは踊り場の壁にもたれかかる。そうして私を見て…「それより」と続けた。

「どうだよ?弟くんの様子は」

 聞かれて、私は「…あ」と小さく声を漏らす。

「…相変わらずです…」

「……そっか」

 私がどれだけこの件で悩んでいるかが分かっているのか、貴弘さんは同じように真剣な顔でそう答えてくれた。



 …忘れて、なかったんだ。

 むしろ会ってすぐ聞いてくれるってことは…気にしてくれていたんじゃないだろうか。



 でも…貴弘さんは、崎谷さんのことを尋ねてきたりはしなかった。だからこそ…またいつもと同じ疑問が頭をよぎる。



 貴弘さんが私のこと気に入ってるなんて…何かの間違いじゃないんだろうか、って…。



 本当に私のことが気になってるなら、崎谷さんのことを聞かない?…ううん、むしろ、あの時相談に乗ってくれる役を崎谷さんに譲ったりしないんじゃないだろうか。




「……」

 そう思った瞬間、ある予感が胸をよぎった。



 入学当初の飲み会で、気に入ってくれたのは本当かもしれない。


 でもあの後私は、貴弘さんの悪口を言ってしまったり…相談に乗ってくれようとしたのに結果的に崎谷さんにお願いしたりと、相当ひどいことをしてるんじゃないだろうか。それなら「今は」もう、私のことなんて何とも思ってないのかもしれない。…別に『気に入ってる』だけで、『好き』だったわけじゃないんだから。




 そう気づくと何だか自分がバカみたいに思えた。

 一人で少し意識して…「実は優しい人かも」なんて見直してきたりして…。意識過剰な自分が恥ずかしい。



「…おい?」

 顔を伏せたまましばらく考えこんでいた私に、貴弘さんが声をかけてくる。ハッと我に返って、私は顔を上げた。



 だけど…自分自身が恥ずかしくて、まともに彼の目は見られなかった。




******



 翌日はまたサークルの飲み会があった。このサークルの人たちは、楽器演奏はもちろんお酒を飲みながらジャズ話に花を咲かせるのが本当に好きらしい。参加人数も相当なもので、皆このサークルが好きなんだなぁと分かる。



 まだ不慣れな子が多い一年生が先にバラけて席につき、その隣やら周りに上級生たちが陣取っていく。私はまた隅っこの方に奈那子と2人で座っていた。

「崎谷さん、理沙のところに来てくれるかなぁ」

 ウィンクしながら奈那子はそう言う。…だから、そういう合コンみたいな飲み会じゃないっていうのに…。奈那子は毎回こればっかりだ。



「ねぇ、理沙ちゃんてさぁ」

 奈那子の呟きが聞こえてしまったのか、後ろのテーブルにいた女の子が声をかけてきた。彼女も新入生で…私や奈那子と同じバンドに所属している。

「やっぱり崎谷さんと付き合ってるの?」

「え!?」

 急な問いに、私は驚いて目を見開いた。


「あ、ごめん急に…。なんか最近よく一緒にいるの見かけるし、電車で一緒に帰ったりしてるでしょ?

なんかお似合いだなぁって思って」

 かわいらしい印象の彼女は、そう言って更にかわいらしく笑った。

「う、ううん、付き合ってないよ」

 慌てて首を横に振って、否定する。

「そっか、ごめん、勘違いして」

 少し意外そうに目を丸くした彼女は、そう言って私に謝った。




 …なんだか、複雑な思いだった。崎谷さんとの仲を…誤解されたくないと思ってしまっている自分がいた。あんなに、大人な人だとか…優しいなとか…憧れていたはずなのに。

「…理沙…?」

 奈那子も怪訝な表情で、私の顔を伺う。



「さーって、2年以上も好きなとこ座りなー」

 玲奈さんの掛け声で、先輩たちが入ってくる。思い思いに好きなところに座り始める人たちの中、見知った影がこちらに向かってくるのが見えた。



「……っ」

 崎谷さん、だ。



 …ちょっと今は来ないでほしい…。そんな風にまで思ってしまっている自分にも愕然としたけれど…今の正直な気持ちだった。



「理沙ちゃ…」

 少し離れたところから、崎谷さんが私に声をかけようとした。だけどそんな彼の前に、すっと横から誰かが割って入る。

「……ここ座るぞ」

 煙草の箱とジッポを私の隣の席に投げるように置きながら、ユキ先輩がそう言った。



「…え、あ、はい…どうぞ」

 一瞬驚いたように目を瞠った私は、ユキ先輩の顔を茫然と見上げる。そんな私の隣に構わず座った彼に、向かいの席で奈那子が「ちょっとユキ先輩!」と小声で呼びかけた。小声だけれど…雰囲気的には、少し怒っているような口調。


「今せっかく崎谷さんが理沙の隣に来ようとしてたのにぃ!」

 声のトーンは落としたまま、奈那子は顔を突き出してユキ先輩に抗議する。それを受けても、ユキ先輩は煙草に火を点けながら「んなもん知るか」と無表情で答えた。

「お前は?別にいいんだろ?」

 隣の私を見ながら、彼はそう言う。

「え、は、はい!」

 勢いよく答えた私を髭の生えた顎で指し示して、「ほらみろ」と先輩は奈那子に応じた。

 …いや、私としては…『いい』というより、むしろ助かったとさえ思っているほどだった。崎谷さんには申し訳ないのだけれど…。



「それに、俺がここにいたらお前の隣に修司が来るかもしれねぇだろ」

「えっ、もしかしてユキ先輩、私のために…!?」

「感謝してもし足りねぇだろ」

 煙草をくわえた口元だけを持ち上げて笑って、ユキ先輩はそう言う。すっかり彼にのせられたらしい奈那子は、「先輩ありがとうっ」とか訳のわからないことを感動で涙目になりながら言っていた。



 そんな様子に、私は気づいてしまった。



 …わざとだ。

 ユキ先輩が私の隣に来たのは。私が、崎谷さんの隣になりたくないと思っているのが分かったから…。



「…ありがとうございます」

 小さくお礼を言うと、ユキ先輩はチラリとこちらを横目で見て肩を竦めただけだった。





 結局、奈那子の隣にはしばらくして女の先輩がやってきた。

「…ユキ先輩、話が違うじゃないっすか」

 急に体育会系のテンションになりながら、奈那子は女の先輩が少し席を外した瞬間に恨みがましくそう言った。

「そういうこともある」

 しれっと何本めかの煙草を吸いながら、ユキ先輩はやっぱり無表情だ。

「あー、修司さんあんなに遠いしー」

 芝居がかった感じで泣き真似をしながら、奈那子はがっくりと肩を落としながら言う。

「そういえば、貴弘さん今日いませんね」

 思い出したように言う奈那子の言葉に、私は一瞬胸がドキンと高鳴るのがわかった。



 …何で…?



 確かに貴弘さんがいないことは気になっていたけれど、その名前が出ただけで何で…。



「あぁ、なんか用事があるっつってたな」

 来られないと聞いただけで、寂しいと思ってしまうなんて。

「早く終わったら来るとも言ってたけど…どうだか」

 続けたユキ先輩の言葉を聞いて、どうかしてると自分でも思う。…何で…こんなに会いたいと思ってしまうのか。




「私、ちょっと…暑くなってきたんで熱冷ましてきます」

 飲んだカクテルは2杯だったけれど、なんだか酔いがいつもより早く回ってきたようだった。席を立って、私は靴を履くと外に出た。春だけど夜はまだ肌寒く、ビュっと風が吹き抜けていく。わずかに身震いして、私は居酒屋の軒下に出た。頬の火照りが冷めるまで、少し休んでいこうとした。



「……」

 しばらくして、ボソボソと誰かが話をする声が聞こえてきた。耳を澄まさないと聞こえないくらいのその声に、初めは空耳かと思ったほどだ。だけどそれは現実近くから聞こえるもので…。私は思わず、その声のする方を覗き込んだ。



 居酒屋の横の、細い裏路地。そこに少し入ったところを覗くと、貴弘さんの後ろ姿を見つけた。



「……」

 用事、終わったんだ…。パァッと胸が明るくなるのを感じながら、私はそちらに行こうとした。声を、かけるために。



「…た…」

 だけど呼びかけようとした私の声は、次の瞬間闇に飲まれた。貴弘さんの方へ近寄ろうとした時、更に彼の向こう側に一人の女の人の姿が見えたから。


 …あれは…確か3年生の先輩。少し涙まじりで俯き加減。どういう状況なのか…考えなくても分かった。



(…告白…されてるんだ…)

 思わずヒュっと息を飲んでしまう。胸がドクンドクンと高鳴り始め、抑えていないと鼓動が響いて聞こえてしまいそうだった。




 OKしてしまうんだろうか。

 彼女と付き合い始めるんだろうか…。




 いや、それよりもどうして私はこんなにショックを受けているんだろう。




 高鳴る胸を抑えながら、2人に気づかれないよう居酒屋の中へと戻った。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ