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「bitter」シリーズの名取夫妻のなれそめ話です。
過去編になりますので、2人とユキや修司の大学時代の話です。
あの時、私には2つの悩みがあった。
一つは、新たに大学に入って新しい人間関係を築くことへの少しの不安。
そして、もう一つは………。
「りーさ」
間延びするような声に呼ばれたのは、大学のある最寄り駅でホームに降り立ったところだった。後ろを振り返ると、そこには新入生とは思えない貫禄(?)を見せる友人の奈那子。高校時代から仲が良く、大学でも同じ教育学部に進学した。
「おはよ」
ニッコリ笑って応じて、私は奈那子が追いついてくるのを待つ。高校の時から大人っぽい彼女は、やはり新入生のような初々しさは感じられなかった。
「今日は、ガイダンスとオリエンテーションだよね?めんどくさー」
うーん、と伸びをしながら、奈那子はそう言う。入学して2日目の朝だった。授業を登録して本格的に始まるのはまだ先の話だった。
「でもどの授業がいいか、ちゃんと選ばなきゃね」
「うーわー、やっぱ理沙って真面目ー」
私の横に並んで、奈那子はそう言うと苦笑を浮かべて見せた。
真面目…なんだろうか、私は。自分ではあまりそうは思わない。ただ、人より努力しないと報われないタイプだとは思う。奈那子のように生まれつきの天才肌ではないから。
奈那子は、高校の時からそうだった。
本人が努力しているのもあるのだろうけれど…色々な才能に恵まれていて、人より何でもできる。加えて明るい性格でサバサバしているため、すぐに誰とでも仲良くなれる。私のように、新たな人間関係を築くことに不安を覚えることなんてないだろう。
「奈那子は…友達もすぐできるんだろうね…」
思わず呟くように言ってしまうと、奈那子は少し目を丸くした。大きな目が、更に零れ落ちるんじゃないかと思うほど見開かれる。…それから、ふっと笑って見せた。
「理沙も明るくって人気者なのにねー。隠れ人見知りは損だよね」
笑って言って、奈那子は小首を傾げる。
…そうなのだ、一般的には、私も社交的なように見えるらしい。そのせいで話かけてくれる人は多いけれど…表には出さない努力をしていても、実は私は人見知りだった。
特に軽薄そうな男の人が、一番苦手なタイプ。土足でこちらの内面にまで入り込んでくるイメージがあるからだ。
加えて、私は人を見る目もあまりないらしい。
高校時代にできた彼氏の数人も…全て付き合ってみたらろくな男じゃなかった。そのたびに「今度こそは!」と慎重になっているはずなのに、うまくいかない。そんな2つの要因のおかげで、私は新たな人間関係をつくっていくのが憂鬱で仕方なかったのだ。
校門にたどりつくと、教育学部の棟に着くまでの間、道は人で埋め尽くされていた。
「すご…何これ」
思わず口から漏れる声。どうやら、上級生たちが私たち新入生のサークル勧誘をしているらしい。
「君たちかわいいねっ。一緒にテニスとかどう?」
私の苦手系な男が、まるでナンパかとツッコミを入れたくなるような軽薄さで寄ってくる。曖昧な笑顔でそれらをかわしながら、私はそれでも堂々としている奈那子の後ろに隠れてしまいたい心境だった。
「理沙さぁ、入りたいサークルとかあんの?」
奈那子は毅然とした態度で、上級生の勧誘を断っていく。その凛とした姿には、思わず尊敬の念すら抱きそうになる。囲まれただけで萎縮しそうになる私とは大違いだ。
「え、…まだわかんない。特に決めてないけど…」
言うと、奈那子の顔が瞬時にパッと明るくなった。
「じゃあさ、じゃあさっ、私とジャズ研入んないっ?」
「…え、『ジャズ研』…?」
戸惑い気味に復唱すると、奈那子は大きく頷いた。
「理沙さ、歌うの好きじゃん。ジャズ研でジャズバンドやろうよ」
「……ジャズかぁ…」
正直、これまでにあまり興味を抱いたことのないジャンルだ。おじさんっぽいか…おしゃれさんのイメージしかなくて、私には縁遠いと思っていたから。
「…て、奈那子ジャズなんて好きだっけ?」
高校時代、ブラスバンドでサックスを吹いていた奈那子だ。ジャズもできないことはないのだろうけれど…。尋ねると、奈那子はニヤッと笑って「それがさぁ」と言葉を継いだ。
「昨日サークル棟覗きに行ったら、ジャズ研の部室の前にテナーサックス持った超イイ男がいてさぁ!」
「………」
思わず、私の口がぽかんと開いてしまった。それと反対に、目は細めて呆れたような眼差しを向けてしまう。
…出た。奈那子の病気だ。
「要はイイ男目当てで入るんだ…」
「それが何よ、理沙。人間いつでも大きな事をやり遂げる時は動機は不純なもんよ?」
もっともらしい適当なことを言って、奈那子は笑った。
特に他にやりたいこともなかった私は…こうして奈那子に誘われるままにジャズ研に入ることになったんだ。
******
そうしてジャズ研に入って数日…新入生歓迎コンパが行われることになった。周りからは決して見えないらしいけれど、私は実はこういう場も苦手。奈那子はというともちろん萎縮することなく、明るく自己紹介すらハキハキとこなしていた。
「飲んでる?理沙ちゃん」
飲み会が始まって一時間くらいした頃、それまでずっと隣に座っていた崎谷さんが声をかけてくれた。飲み会の間、ずっと周りや私に気を配り続けてくれていたイイ人。2年生らしく、担当はドラムなんだそうだ。
「はい、ありがとうございます」
隣にいたのが、この人で良かったと思う。
まぁ、このジャズ研はやはりおしゃれさんが多くて…私の苦手な軽薄な男はいそうになかった。その中でも崎谷さんはとっても優しくて…ホッと安堵の息を漏らす。
飲み会もある程度の時間が経過した頃、途中でトイレに立つと奈那子が後から追ってきた。
「理沙、隣の人とイイ感じじゃんー」
「…あのね、合コンじゃないんだから」
奈那子の思考に呆れつつも、私も悪い気はしなかった。崎谷さんは真面目そうな清潔感溢れる好青年といった感じの人で…もちろん私に悪い印象があるはずもない。
「そういえば、奈那子のお目当てのテナーサックスの人はいた?」
鏡の前で手を洗いながら尋ねると、奈那子がぷぅっと頬を膨らませた。
「それなんだけどさぁ!いないんだよぉー」
「…私ちょっと思ったんだけどさ、サークル棟のジャズ研部室の向かいって管弦楽の部室だよね?そこの人と間違えたんじゃ……」
言うと、奈那子は珍しく大げさに表情を曇らせる。少し焦ったような顔で「そうかも…!」と肩を落とした。
「…うわーん…超イケメンだったのにーぃ」
だからと言ってもちろんジャズ研を辞めようとかいう気はもちろんないらしい。嘆く奈那子の背中をポンポンと叩きながら、私はお酒の席へと戻っていった。
「理沙、奈那子、飲んでるー?」
戻った私たちのところへ、すぐに玲奈さんがビール瓶を片手にやってきた。玲奈さんというのは…このサークルの4年生で、副部長というポジションにいる人。新入生のお世話まで色々と率先してやってくれて、男前な性格がかっこいい人だ。さっぱりとした雰囲気は、ベリーショートの髪型にぴったりだった。
「玲奈さん、一つお聞きしたいんですけど…」
ビールをグラスについでもらいながら、恐縮気味に奈那子が口を開く。
「なにー?何でも聞いて」
「あの、このサークルにテナーサックスの超イケメン、いません?」
…まだ諦めてなかったんだ…。向かい側でそれを耳にしながら、私は半ば呆れた目を奈那子に向けた。
「テナーの超イケメン?……あぁ!」
思い当たるところがあるのか、玲奈さんはポンと手を打つ。
「なになに、奈那子はあいつ目当てで入ったの?」
「目当てというか…ちょっと見かけてかっこいいなぁって」
上級生にいきなりこういう話題ができる奈那子を、私は呆れながらも本気で尊敬する。私には絶対できそうにない。
「そっかぁ、あいつね、小塚っていうんだけど…確か今日は2次会から来るって言ってた。
奈那子が2次会も来れるんなら、あいつの近くにいけるようにしてあげるけど?」
「マジっすか先輩!」
「マジっす」
いきなり体育会系のキャラになって、奈那子と玲奈さんは笑い合っていた。
「……」
…まったくついていけない、この会話。
「…なんだよ、あいつら…小塚たちやっぱり来んのか」
玲奈さんが朗らかに笑いながら他の人のところへ行ってしまった後、不意にそんな声が聞こえてきた。地を這いそうに低い声は…私の斜め前、奈那子の隣の男の先輩のものだった。
「1次会に来てねぇからラッキーと思ってたのにな」
その更に隣の男の人も、そんな風に同調していた。ボソボソと話してはいるけれど、聞こえてしまっている。奈那子はというと、2次会に思いを馳せているのか聞こえていないみたいだけど…。
…でもなんだか…意味はよくわからないけど、この人たち感じ悪い…。
「やめろよ、そういうこと言うの」
不意に、私の隣で崎谷さんがそう彼らに注意する声が聞こえた。一瞬驚いて、私も顔を上げる。注意された男の人たちも目を見開いていた。
「新入生の前でする話じゃないだろ」
ビールのグラスを置いて、崎谷さんはそう言う。「…でもよぉ」とかなんとか言い訳しようとした彼らも、崎谷さんの無言の迫力を感じたのか次の瞬間には押し黙った。
「ごめんね、理沙ちゃん。不愉快なセリフ聞かせちゃって」
私が少し感じ悪いと思ってしまったことが分かったのか、崎谷さんはこちらにもそうフォローしてくれる。
「こいつら、悪い奴じゃないんだ。ただ小塚たちが来ると女の子もっていかれるから不満なだけで…」
「…気にしてませんから」
「そう?」
ニッコリ笑って言う崎谷さんの言葉に、向かいの彼らは更に身を小さくしていた。
私は…こっそりと横目で崎谷さんを盗み見た。…やっぱり、この人は大人だなぁと思う。
仲間の間違った発言はこうやってちゃんと正すことができて…正義感も強い。イイ人だな、と、思った。
それだけで、少し気分が軽くなる。
奈那子じゃないけれど…何だか楽しくなってきた。カクテルの入ったグラスを手に、崎谷さんに視線を移せば自然と口元が緩んでしまう。
…その、次の瞬間だった。
上機嫌にグラスに口をつけた時、…その宴会の場が、一瞬ワッと盛り上がった。
……なに…?
何が起こったのか一瞬分からず、会場の奥の方にいた私たちは盛り上がっている手前側の席の方を一斉に見る。そこには今到着したらしい誰かがいて…その人たちが来た瞬間に、周りが盛り上がったようだった。
「り、理沙っ。あの人、あの人っ」
珍しく慌てた様子で、奈那子が言う。
それと同時に、玲奈さんがバッとこちらへ飛んできた。
…早っ。
「小塚ー」
玲奈さんが、その奈那子の言う「テナーサックスの小塚さん」を大声で呼ぶ。
それに顔を上げた彼は…なるほど、奈那子が騒ぐのが分かるくらいに整った顔立ちをしていた。
身長は…多分175くらい?かなり細身で、色が白いのに不健康さは一切なくて。茶色い髪は少し長めだったけれど、嫌な感じはしなかった。
「玲奈さん」
ニッコリ笑ったその人は、手招きされるままにこちらに歩み寄ってくる。
「貴弘、あんたもおいでっ」
玲奈さんは、小塚さんの後ろにいたもう一人にも声をかけた。どうやら彼と一緒に今来たらしい。身長が小塚さんより10センチは高くて…女の子なら首を傾けないといけないほどだった。そして、驚くくらい小塚さんに負けず劣らず美形。タイプは違うけれど、黒い眼鏡がおしゃれだった。
「玲奈さん、ずるいよー。いっつも2人を独り占めしてぇ」
冗談っぽく、他のテーブルの女の先輩が抗議した。「そうだそうだー」と、何人かが酔っ払ったテンションで笑っている。それを受けて、玲奈さんも豪快に笑った。
「副部長特権!あんたたちはユキが来たら好きにしなー」
大笑いしながら言う玲奈さんの言葉に、その女の先輩たちは「ならいっか」と笑い合いながら言う。
…なんなの、この会話…。
余りにも男前な会話に呆気にとられているうちに、例の2人がこちらへやってきた。そんな彼らに玲奈さんは声をかける。
「あんたたち2次会から参加じゃなかったの?」
「そのつもりだったんですけど、思ったより早く用事が終わったんで」
「ふーん…あ、奈那子、理沙。この2人がうちのサークルの看板イケメン2人」
笑いながら、玲奈さんが紹介してくれる。
「小塚修司と、名取貴弘」
「どうも」
玲奈さんは、ニッコリ笑って挨拶をする小塚さんにごく自然に奈那子の隣を指定した。そうして、自然にもう一人の名取…さんが私の隣に座る。私たちのことも紹介してくれる玲奈さんの言葉に合わせて軽く会釈した時、私はチラリと反対側にも視線をやった。
さっき小塚さんたちが来るのを快く思っていなかった彼らは…やっぱり苦い顔をしていた。嫌悪感を露にした…露骨な顔。
崎谷さんの顔までは…角度が悪くて見れなかった。
「小塚、奈那子はサックスやってたんだって。ジャズ研でもサックス希望だよねぇ?」
玲奈さんがうまく話を振ってくれるおかげで、奈那子は「はいっ」と自然に会話ができていた。でも奈那子も、さすがに緊張はしているらしい。いつもよりしおらしい気がした。
「そうなんだ。ちなみにパートは?」
そんな風に小塚さんに話を振られて、照れ気味に答えている。
「あ、えっと…バリトンなんですけど…」
「バリトン!」
奈那子の言葉に、小塚さんは少し驚いてから笑った。
「すごいなぁ、そんな細いのに大丈夫?」
「えぇっ、細くないですよっ」
恥ずかしそうに顔を赤らめる奈那子は、私から見てもかわいかった。だけどだからこそ…あの彼らの勘に触ったみたいだ。
「出たよ、女その気にさせんのだけは早いよな」
「だからあいつら来るとしらけんだよ」
…さっきの彼らだ。そっぽを向いて話してはいるが、小塚さんたちのことを言っているのは明白だった。しかも、わざと聞こえるように言っている。…まぁ「小塚さんたち」と言っても、もう一人の人はここまでまだ口を開いてないんだけど。
「女持って帰りたいだけならわざわざサークルの飲み会になんて来んなっつーの。軽そうな女と合コンしてりゃいいじゃねぇかよな」
「……っ」
思わず私は、立ち上がりかけた。私が何を言える立場でもないけれど…それでもこの人たちが感じ悪いのはわかったから。
「…せぇな」
その人たちを睨みすえようとしたその瞬間…、私の隣から小さな呟きが漏れ聞こえた。え、と右隣を見ると、煙草の煙を吐き出しながら名取さんが彼らを睨みつける。
「うるせぇっつったんだよ、てめぇら」
「……」
…この人、美形なのに口が悪すぎる。その整った唇から漏れた言葉に、私は目を見開いた。
「しらけんのはてめぇらの方だろうが。言いたいことあるならはっきり言えよ」
大したことを言ったわけではないのに、その凄み方はすさまじいものがあった。一瞬で彼らを黙らせる。
「やめろよ、名取」
それまで黙っていた崎谷さんが…不意に口を挟んだ。
「…お前らも、さっき言っただろ。新入生の前でする話じゃない」
彼らの方にも向き直りながら、崎谷さんはそうたしなめる。…やっぱり、大人な対応だった。
「そうだよ、貴弘。いちいち売られたケンカ買うなって。大人げない」
ため息まじりに、小塚さんもそう崎谷さんに同調して名取さんをなだめる。
…だけど……。
「大体こんなモテないくんの僻みをいちいち真に受けてケンカしてたら、バカみたいだし。ただでさえモテないのにくだらないやっかみで更にモテなくなることに気づいてない奴の相手したって時間の無駄」
…ニッコリ笑って言う小塚さんが、実は一番怖いかもしれない。この人、今彼らのことを何回「モテない」って言った…?大人な対応かと思ったけれど、嫌味返ししてくる辺り倍怖い。
「はい、そーこーまーで」
それまで黙っていた玲奈さんが、仲裁に入る。
「あんたたちも貴弘も、ちょっと頭冷やしな。崎谷を見習え」
玲奈さんの言葉に、彼らは不満そうに顔を歪めながらも押し黙った。
幸い、それほど大声で怒鳴りあったわけではないので、盛り上がっている他のテーブルの人たちの耳には入っていないようだ。ホッと奈那子と目を合わせて胸を撫で下ろす。
そんな最悪な新歓コンパが、私と名取貴弘との出会いだった。