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Sweet&Bitter  作者: みずの
過去の爪痕
33/152

10


「ホントに大丈夫か?そいつだったら放っておいても大丈夫だぜ?」

 先生のアパートの前で車を停めたなっちゃんが、私にそう言った。


 先生は、お酒の酔いからかあの後すぐに車で眠りこんでしまった。首を傾けて静かに眠る姿は安心しきったように安らかで、まるで子どものようだった。



「大丈夫です、終電までには帰りますから」

「いや、それが危ないから今送ってやるって言ってるんだけどな」

 苦笑い気味に言って、なっちゃんは運転席から下りた。



 本当は先生より先に私を家まで送ってくれるつもりだったらしいのだけれど、私が自分で頼み込んだ。酔いが本格的に回ってきた上に車の振動でか、先生は眠りながらも時折気分が悪そうにも見えたから。だからそのまま先生を家まで送ってあげてほしいと頼んだんだ。

「でもやっぱり心配なので、ちょっと様子見てから帰ります」

「そっか」

 駐車場に降り立ったなっちゃんは、そのままグルリと反対側の後部座席のドアに回る。そこを開けて、「おい、ユキ、着いたぞ」と顔をペチペチと叩きながら言った。

「ん…」

 眉を寄せて身じろぎした先生は、ゆっくりと目を開く。まだ頭がボーっとするのか、私となっちゃんを交互に見比べるその瞳は少しだけ焦点が合っていなかった。



 何とか車から先生を引きずりだして、なっちゃんは私に「じゃあ頼んだぞ」と言う。コクリと頷いて返すと、少し笑ってそのまままた運転席に戻った。夜の闇の中に走り出すそのグレーの車を見送る間も、先生の目はどこかうつろに見える。



「先生、歩けます?」

 足取りはそれほどおぼつかないわけではなさそうだ。だけど少しだけフラついていて、私は支えるように先生の腕に自分のそれを絡めた。そうして引きずるようにして歩きながら、アパートの階段に差しかかる。男の人を一人支えながら上がるには、いつもよりその階段はやけに長く感じられた。



 「よいしょっと」と力をこめながら、私は必死でその階段を上る。しかも先生は普通の男の人よりかなり背が高いし、私なんかじゃ大した支えにならなくても不思議じゃない。それでも先生が自力でも歩いてくれるから、何とかなりそうなものだけれど…。




 そうやって苦労しながら階段を上がっていた…途中だった。



「…和美」

 ふと、私に少し寄りかかった態勢の先生からそんな呟きが漏れ零れる。

「……え?」

 聞き逃しそうになった…ううん、空耳かと思わされたその声に、私は思わず聞き返していた。

 ……今…先生、私のこと名前で呼んだ…?



「…先生?」

 呼びかけ返すと、先生は少しの間再び黙り込んだ。怪訝な表情で隣のその顔を見上げると、やがて「…お前さぁ」といつも通りの呼び方で先生が続ける。



「あんま、他の男に触らせんなよ」



「……え?」

 継がれたそんな言葉に、私は何度か瞬きを繰り返した。




 …先生…今、何て言った…?




 普段なら全く聞けそうにない言葉だったので、私は思わず聞き逃しそうだった。



 それに…その言葉の意味を数十秒かけて理解しても、どうしてそんなことを言われたのかがわからない。今日の自分を振り返ってみたけれど、思い当たる節は……。

「……あ?」

 ふと頭をよぎった、ごく短いワンシーン。それは、なっちゃんが私の髪をグシャグシャとかき回した時のことだ。それ以外に、誰かに触られた記憶は一切ない。



「えぇっと…先生…?あれはなっちゃんだし、別に深い意味は…」

「ばーか」

「えぇっ?」

 本当に子どものような言葉を返されて、私は思わず戸惑ったように声を上げた。



 ちょうどそこで、なんとか先生の部屋の前までたどり着く。私が促さなくても、先生は自分のポケットから鍵を取り出した。



 ドアを開けて、中に入る。前に来た時と全然変わらない…先生の部屋の匂いがした。



 …そう、思った瞬間だった。



「…!?」

 玄関に入った瞬間、グイと引き寄せられる。驚いて目を見開いた時には、もうそのままギュッと抱きしめられていた。私の後ろでドアがパタンと勝手に閉まる。



「…やっぱりお前、何も分かってねぇな」

 力強い腕の中で「え」とだけ言葉を零した時、先生がグイと私を離した。解放されたと思った次の刹那、代わりに先生の言葉の意味を尋ね返そうとした唇が塞がれる。




「…んっ」

 キスされたのだと気づいた時には、もう頭が真っ白になりかけていた。手首を掴まれて、あまりの力の強さに体の自由はない。そのまま後ろのドアに押し付けられて、角度を変えてそれが段々と深くなる。



「……っせん…っ」

 時折一瞬離れそうになるその隙に呼ぼうとするけれど…。すぐにそれも塞がれてしまって、声にならない。



 恋愛の経験値なんてほとんど皆無の私は、ろくに呼吸もできなかった。たまに息がうまくできずに苦しさすら感じるのに、それでも溺れるように必死で受け止める。




 先生からは、お酒と男の人の匂いがした。

 それすら媚薬のような感覚に陥ってしまいそうで、頭がくらくらする。やがて先生の舌に唇をなぞられると、ゾクリとした痺れがそこから腰の辺りまで一気に駆け抜けた気がした。



「…はぁっ」

 時折呼吸を整えようと、息を大きく吸う。だけどそのまま歯列を割って入ってきた舌に、吐き出すこともままならないうちに塞がれてしまった。

「んぅ…」

 苦しそうに眉を寄せたけれど、それと同時に押し寄せる快感があった。わけがわからないままに先生のキスに応じようとした舌を緩く吸われると、本当に何も考えられなくなる。




「…っ」

 長い長いキスの後、ようやく解放された頃には私は全身の力が抜けてしまっていた。先生が手首と身体を解放してくれた瞬間、その場にズルズルと崩れ落ちる。息がうまくできない苦しさもあったせいか、私の目は涙を溜めて潤んでいた。その眼差しで目の前の先生を見上げる。



 少女漫画や小説なんかでキスだけで腰くだけになるっていうのを見たことはあったけれど、まさか実際にそうなるのだとは思っていなかった。

「…腰抜かすか、普通」

 苦笑いをしながら、先生は私と同じようにその場にかがんだ。だけどその言葉に呆れたりするような響きはない。



「…っ」

 分かっていたはずなのに、急に大人の男の人だと意識してしまう。恋愛素人の私なんかじゃ、全く太刀打ちできなさそうな人。

「…だって…っ初めてでこれは…っ」

 あまりの恥ずかしさに、私は自分の顔が真っ赤になるのを感じながら抗議口調で必死に言う。涙目で訴えても、何の意味もなさそうだった。



「初めてじゃねぇよ」

 かがんだ先生が、すっかり腰を抜かした私をその場で抱き上げる。軽々と持ち上げられて、私はその事実と先生の言葉の両方に目を瞠った。

「……え?」

「2回目だ」

 お姫様抱っこのような格好で、先生は私をそのまま奥の部屋に運んだ。廊下とリビングを抜ける間に…私は驚きを隠せずに「え!?」と声を荒げる。

「いつですか!?」

 全く心当たりがない。寝室の部屋のドアを開けながら、先生は「お前が保健室で寝てる時」と悪びれもせずに答えた。



「~っ」

 言い返す言葉もなく、パクパクと私は口を開けたり閉じたりを繰り返す。平然とした先生は、そのままドサ、と優しく私をベッドに下ろした。



 …これは…もしかして……。



 ドキドキと、胸が張り裂けそうなほどの鼓動を刻む。先生に聞かれたくなくて、私は意味もなく息を止めてしまった。



 上から私を見下ろす目が、まっすぐに射抜く。麻痺したように動けなくなって、私は止めていた息を飲んだ。そうして、またゆっくりと先生の顔が近づいてきて……。




 ドサッ。




「……え?」

 思わず目を固く閉じて「その時」を待ってしまっていた私は、予想と違う音がして恐る恐る目を開ける。首の少し下辺りに重みを感じたけれど、目を開けた私の目に映ったのは先生の長い腕だった。



「…先生…?」

 眉を顰めて、私はその顔に視線を移す。私のすぐ横で、先生はこちらを向いたまま目を閉じていた。そして聞こえてくる…規則正しい呼吸音。



「…ね、寝てる…?」

 拍子抜けして、私は間抜けな声を出してしまう。本格的に眠った人間の重みは力が抜けているせいか思ったよりすごくて、たった腕一本が絡みついただけなのにそれはなかなか外れそうになかった。



「……」

 …まぁ、いいか。眉を下げて眠る先生の顔を見ていたら、そんな風に思える。

 今日は父親は出張中、母は夜勤だから祥太郎にメールだけでもしておけば大丈夫だろう。



「…先生ならいいかなと思って、覚悟したのにな…」

 少しホッとしたような、残念なような…複雑な気分。デコピンする振りをすると、その気を感じたのか先生が「…うーん」と一瞬だけ眉を寄せて身じろぎした。



 子どものような寝顔を見ていたら、何だかそれだけで幸せだとも思える。



 微かに微笑んでそれを眺めながら、私は先生のぬくもりに身を寄せた。




******



 翌日目が覚めた時には、一瞬そこがどこだか分からなかった。自分の部屋ではないという認識をしてから、段々と昨日のことを思い出す。目覚めたのが先生のベッドの上だと思い出した時には、寝ぼけていた頭がはっきりと覚醒した。



 ガバッと飛び起きると、私の上にはタオルケットが掛けられていた。代わりに、眠るまで乗っかっていた先生の腕はない。慌てて寝室を出ると、リビングのソファに座っていた先生が「おぅ」と普通に挨拶をしてきた。

「…おはようございます」

 昨日のあのキスの気恥ずかしさから何となく目を見れないでいたけれど、向こうはいつも通りだった。



 先に起きた先生はシャワーを浴びた後らしく、下ろした髪がまだ濡れていた。はずしたコンタクトの代わりに眼鏡をかけていて、いつもより更に知的に見える。



「悪かったな、昨日。帰れなかったんだろ」

 そう謝ってくる言葉に…私は「ん?」と内心で眉を寄せた。

 ……もしかして…。




「…先生、あの…昨日のことなんですけど…」

 恐る恐る口を開いたけれど、嫌な予感がする。

 昨日酔っていたことが嘘のように先生は普段通りすぎて、一つの疑問が浮かんだんだ。



「昨日?…何かあったっけ」

 首を傾げながら言った先生は、「あー頭いてぇ」と二日酔いなのか眉を寄せる。




「………」

 思わず私は、唇を開いたまま言葉を失ってしまった。…もしかして、と思ったけれどやっぱり…。




 酔っていたせいなのか、先生は全く覚えていないんだ。




 私が覚えている中では、初めてのキスだったのに…。昨日、一度だけだけれど私のことを名前で呼んでくれたりもしたのに…。このままなかったことになるのは何だかとても悲しかった。



「お前もシャワー使っていいぜ。服なら貸してやるから」

 言いながら、先生はソファから立ち上がる。言葉通り服を取りに行ってくれようとしたのか、寝室の方へ戻ろうとした。



「……」

 口を開くとなんだか泣きそうで、私は答えることができない。そんな私の横を素通りしようとする先生の顔を見ることすら叶わなかった。



「…どうした?」

 私の様子に気づいたのか、先生がピタリと足を止める。泣きそうな目に力をこめてこらえて、私は顔を上げた。「何でもないです」と答えようとしたその時、一瞬だけ何かが唇を掠める。



 それが昨日の先生の唇と同じ感触だったと気づいた頃には、私は驚きの余り身体を硬直させてしまっていた。



「……」

 触れるだけの、さらっていくようなキス。昨日のとは違うけれど、甘くて優しい。



「3回目」

 先生が、不敵に笑ってそう言うと身を翻した。目を見開く私に構わず、そのまま今度こそ寝室の方へ入って行く。




「…先生っ、覚えてるんじゃないですかっ」

「誰が忘れたっつった?」

 クローゼットを開ける音をさせながら、先生の声が向こうの方から聞こえた。




「……もうっ」

 持ってきてくれた服を受け取りながら、私は頬を膨らませる。それを笑いながら見ていた先生は本当に意地悪だと思う。





 だけどそれでも、やっぱり私は先生が好きなんだ。もう自分でも、それはどうしようもないくらいの想いだった。






 そうまるで、身も心も、全て溺れてしまうほどに…。






「Sweet&Bitter」、第1部はここで終了です。お付き合いくださいましてありがとうございます。


番外編2本をはさんだ後、第2部の両想い編にうつります♪

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