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Sweet&Bitter  作者: みずの
過去の爪痕
32/152


 先生が出したピアノの音に、ベースとトランペットの人、そして修司さんが楽器の音を出す。そうしてチューニングが始まった頃、私はさっきお店の人が持ってきてくれたドリンクに手を伸ばした。そのストローに口をつけてから、ふと隣のなっちゃんを振り返る。

「そういえば、私、なっちゃんに一つだけ聞きたいことがあったの」

 さっき車に乗った時の話の続きを、という振りで、私はそう切り出した。



「何?」

 カルピスベースというかわいいチョイスのドリンクを飲みながら、なっちゃんが短く答える。車で来たため、こちらもノンアルコールだ。

「…先生のこと」

 前置きすると、なっちゃんは少しだけ片眉を持ち上げた。




「前に、修司さんに聞いたの。なっちゃんが、昔から先生のこと…」

 一度そこで言葉を切ったのは、やはり何となく聞きにくいことだったからかもしれない。マイナスな答えが返ってきたらどうしよう…そういう想いが少しだけ残っていたから。

「『誰にも本気になったことがない』って、言ってたって…」

「……」

「でも私、先生の過去の話を聞いて…先生がどれだけ由香子さんのことを大事にしようとしてたのかを知った。だからこそ…分からなくて。どうしてそれを間近で見ていたはずのなっちゃんが…「先生の本気」をわからなかったのか」

「……」

「…なっちゃん?」

 顔色を伺うように…私は少し上目遣いになっちゃんを見る。少しの間黙っていたなっちゃんは、しばらくしてからふーっと長くため息を吐き出した。



「…わかってるよ」

 やがて、そう小さく呟く。



「……え?」

 その呟きの意味がわからず、私は眉を寄せた。そんな私を横目で見てから、なっちゃんはグラスをテーブルに戻す。小さな吐息と共に、言葉を継いだ。



「…ユキが、由香子さんに本気だったことくらい分かってる」

「…だったら……」

「お前は本気じゃなかった、そう言った方が、ユキは余計に罪悪感を感じるだろ?」

 私の言葉を遮るようにそう続けたなっちゃんは…見たことのない表情で笑っていた。不敵とも…嘲笑ともつかない笑み。そんな表情で告げた言葉に、私は思わず耳を疑った。

「それって…」

「あいつがどん底まで落ちればいい、ずっとそう思ってたよ俺は」

 続けたなっちゃんは…そう言って今度は正面から私を見る。



 …考えたくなかったこと。

 なっちゃんのその言葉に…悪意に似た何かがあるなんて。信じたくない。




「……」

 ぎゅ、と膝の上で握った拳に、私は力を込める。それを見たなっちゃんは、私が緊張しているのが分かったんだろう。

 ふ、と表情を緩めた。



「どん底まで落ちたら、後は上がるだけだろ」

「……え?」

 ソファの背もたれ部分に右腕を乗せた態勢で、なっちゃんは今度は苦笑い気味に続ける。一瞬何を言われたのか分からず、私は小さくそう尋ね返していた。



「ユキが罪悪感で自分を追い込んで、苦しんで…それ以上ないってくらいに沈んだら…後は上がるしかねぇじゃねぇか」

「……」



 …つまりは、どういうこと…?

 なっちゃんが先生にわざと突き放すような…否定的なことを言っていたのは、そこに悪意があったわけでも先生が嫌いだったわけでもなくて。ただ、落ちたところから早く抜けだせるように…?





「…良かった」

 呟いてホッと息をついた私に、なっちゃんはまた笑う。今度は嘲笑でも苦笑でもなく…いつもの優しい顔をしていた。


「お前、結構かわいいとこあるな」

 髪をグシャグシャとかき回された。



「つまり、なっちゃんはそれだけ先生のこと心配してたってことだよね?」

「さぁなぁ。どうだか」

「素直じゃないなぁ」

 私が笑ってそう揶揄した時、ステージ上の音がやんだ。一瞬の静寂の後、修司さんとトランペットを持った女の人がステージのフロント側に立つ。



「始まるぞ、白石」

 顎でその様子を指し示したなっちゃんの言葉に、私は少しだけ姿勢を正した。




 ドラムの人のカウントを合図に、流れるような音の洪水が押し寄せてきた。




******



 ドラム、ベース、トランペットの人はここでよくライブをやる人たちらしい。だから必然的に修司さんの知り合いであるらしいけれど、先生は初対面のようだった。それでもこれだけ合うんだから、ジャズはやっぱり不思議だ。まるでずっと知っていた仲のように…音がシンクロする。

 それは…少し嫉妬すら感じてしまうほどに。



 前に来た時より、ジャズのスタンダードにも少しは詳しくなった。だから先生たちが演奏したうちの数曲は私も知っているものだった。



 堅く誠実な音のドラム、心の芯に響くような重みのあるベース、そして明るく突き抜けるようなトランペットの音色。それに修司さんのサックスの音と、先生のピアノの音が重なる。トリオの時より重厚さを感じるそれは、ともすれば鳥肌すら立ちそうなほど。



「…すごい…」

 思わず呟いてしまったけれど、その声も音の波に飲まれて消えた。




 フロントの2人のソロが終わって、曲はピアノソロに差し掛かる。繊細さと力強さという矛盾した両面を持った先生の音が、長い指から奏でられた。やっぱり、先生はピアノを弾いている時が一番幸せそうだ。その顔を見ながらそう思うと、私は自分も自然と微笑んでしまっていることに気がついた。



 なっちゃんに言わせれば、先生の指はよく回るらしい。人より速く弾く技術があるらしく、だからこそ音の多さに圧倒される。目を奪われたら、きっとしばらく離すことなんてできない。



 それは、周りのお客さんも同じだったようだ。曲が終わったのを知ってから、ハッと我に返る。

 すぐ隣のテーブルに来たOLらしい女性二人も、数曲のライブが終わった後に意識を現実に戻して吐息を漏らしていた。

「すごい良かったね…!皆良かったけど、あのピアノの人すごい…!」

「ね、しかも結構かっこいいよね」

 声を抑えているつもりかもしれないけれど、興奮からか彼女たちの声はこちらにまで届いてしまう。

「……」

 むぅ、と頬を膨らませてドリンクに手を伸ばすと、隣でなっちゃんが笑った。



 先生は、学校では女子生徒に怖がられているけれど…。やっぱり大人の女の人にはモテるんだ。嬉しいというよりは、何となく複雑な心境だった。




「和美ちゃーん、どうだった?」

 ステージを下りてきて、まっすぐに修司さんがこちらにやって来る。その後ろを先生がついてくる途中、当然だけれど隣のテーブルの前を通った。それだけで、さっきのOL2人が「きゃあ」と声を上げる。

「すごくステキでした、修司さん」

 ニッコリ笑って、私はできるだけそちらは気にしないように答えた。「ありがと」と同じように笑った修司さんが、すぐそこに置きっぱなしだったケースに丁寧に楽器を戻す。


「ユキ、何飲む?」

 尋ねられた先生は、私の隣に座りながら「ジントニック」と答えた。タバコの箱は開けないまま、胸の内ポケットに戻す。

「お酒飲む先生初めて見ます」

「そうだっけ?」

 私の言葉に、先生は素っ気無く答えた。突き放すような冷たさはないので、これが先生の素だ。



 先生の周りには、入れ替わり立ちかわり人がやってきた。さっきのドラムの人だったり、トランペットの美人さんだったり。昔からの常連さんで、元々先生と顔見知りの人だったり。

 その人たちとお酒を飲みながら話をする先生はどこか新鮮で、私はそれを眺めているだけで満足だった。時折こちらに話を振ってくれる人に笑顔で返すくらいだったけれど、黙って隣にいるだけで幸せを感じる。



 社交的でもないし話が弾むタイプでもないのに、先生は人から好かれるようだ。話をする相手が楽しそうに笑っているのを見れば分かる。

「どーした?」

 なっちゃんが不意に、急に表情を曇らせた私にそう尋ねてきた。

「……なんかちょっと妬けてきただけ」

 素直に言うと、なっちゃんはおかしそうに声を上げて笑った。





 異変に気づいたのは、それから1時間半くらいたった頃だっただろうか。同じテーブルにいるのに先生は他の人と話していて、私の相手はずっとなっちゃんがしてくれていた。それに不満があったわけではないけれど、そんな近くにいても別々になっていたためにそれまで全く気づかなかったんだ。

「あっはっは!」

 急に大きな笑い声が隣でして、私は思わず耳と目を疑った。そしてなっちゃんと顔を見合わせる。隣を振り返ると、上機嫌で笑う先生の姿。



 いつも強面で…ちょっと冷めていて。無口で無表情の先生にしては珍しい顔だったから……。

 私は自分が夢でも見てるんじゃないかと思った。



「おい修司っ」

 なっちゃんが、修司さんの腕を掴む。

「ユキに何を何杯飲ませたんだよっ」

「え?…そんなに飲ませてないと思うけど…」

 そう言った修司さんだったけれど、先生の前のテーブルに目を移すとそこには空のグラスが結構な数並んでいた。…普通の人なら相当酔ってもおかしくない量だと思う。

「多いだろ、これは」

「え、だってユキってザルだからさぁ。いつも通りだと思うけど…」

 どうやら修司さんもなっちゃんも、今まで先生が酔ったのを見たことがないほどお酒に強いらしい。だけど今の先生は…私から見ても相当酔っているのが分かる。

 …しかも笑い上戸?



「楽しいと酔いも早いって言うからねぇ」

 空いたグラスを集めて片付けながら、修司さんはそう呟く。確かに、先生は今日かなり楽しそうだったけれど…。そう思って、未だ誰かと楽しそうに話している隣の先生をチラリと見やった。


「あぁ、違うよ和美ちゃん」

 そんな私の視線に気づいたのか、修司さんが耳元で囁くように言う。先生に聞こえないようにの配慮らしかった。

「和美ちゃんが隣にいるから、ユキも楽しいんだよ」

「え……」

 ウィンクまじりに言って、修司さんは空のグラスを手に「よいしょっと」と立ち上がった。今日は仕事でもないのに、カウンターの方へ下げに行ってくれる。



「……」

 修司さんの言うとおりなら、どれだけいいだろう。私がもう一度隣の先生を振り返った時、なっちゃんが吐息まじりに立ち上がった。


「おいユキ、そろそろ帰るぞ」

 その言葉に、スーツ姿のサラリーマンの人と話していた先生が顔を上げる。

「なんで」

「お前酔いすぎだろ、今日」

「酔ってねー」

「はいはい、酔ってない酔ってない。だから帰るぞ、な?」

 無茶苦茶な文脈で先生をたしなめながら、なっちゃんはポケットから車のキーを取り出した。どうやらサラリーマンとの会話を楽しんでいたらしい先生が、少し不満そうに眉を寄せる。

「いい加減白石も送ってやらねぇとまずいだろ」

 立ち上がろうとしなかった先生だけど、なっちゃんのトドメのその一言でようやく腰を上げた。



「ん、帰るか」

 ソファから立ち上がって、先生は私に手を差し出す。それを握り返すと引かれるようにして立ち上がらされて、私は思わず勢いでよろけそうになった。どうやら、先生も酔っているから力加減ができていないみたいだ。



 今日の他の共演者やらマスターやらに挨拶をして、ジャズバーを後にする。車に乗り込む時、今度は先生は私と一緒に後部座席に座った。

「お前なぁ、ちょっとは自分で自制しろよな」

 ミラーを直しながら、なっちゃんは後ろの先生にそう言う。

「なにが」

 答える先生は、自分の側の窓を開けるとシートに深く身を沈めた。



「飲みすぎ、酔いすぎ」

「だから酔ってねーって」

「そんな口調でよく言うよ」

 サイドブレーキを下げて、なっちゃんは車のアクセルを踏んだ。



 なっちゃんの話では、先生が酔ったのを見たことは本当に一度もないらしい。サークルでも一番お酒が強かったらしいし、教員同士での飲み会でも潰れることはなかったようだ。…でも、笑い上戸の先生はちょっとかわいいとさえ思ってしまう。



「大体お前はな、白石を放置しすぎだしな」

 なっちゃんのお説教タイムが始まったようだ。くどくどと言い出したそんな言葉に、先生ではなく私が慌てて首を振る。

「あ、でも、それは私全く気にしてないし…」

「いいから。あんまり甘やかすとこいつ調子に乗るぞ」

 …調子に乗った先生なんて全く想像できない。妄想してみようとしたけれど明らかにギャグのような姿しか想像できず、私は思わずプッと吹き出した。

「…悪かったな」

 私にではなく、なっちゃんに向けて先生は少し不機嫌そうにそう返す。



 そんな言葉を受けて、なっちゃんは更に運転席でため息を漏らした。

「しかもお前、肝心の物まだ渡してねぇだろ」



 ……物?何の話だろう?



 言われた先生は、そこで我に返ったように「あぁ」と小さく頷く。何かを思い出したように、脱いで手に持っていたジャケットのポケットを探った。

 どこのポケットに入れたものなのかも忘れたのか、何箇所かに手を突っ込んで確認している。



 やがて左胸の内ポケットにあったらしい物を取り出して、先生はそれを私の手の上に乗せた。それは、小さな「箱」だった。



「……?」

 小首を傾げたけれど、隣の先生はそれっきり別に何も言わない。酔っているせいで思考が働いているようで働いていないのかもしれなかった。

「…えーっと?」

 思わず尋ねるように呟くと、代わりになっちゃんが答えてくれる。

「誕生日プレゼントらしいぜ。この前こいつ、当日にお前フッて台無しにしただろ」

 ウィンクしながら答えたなっちゃんと、ミラー越しに目が合った。だけどそこでようやく…少しだけ正気に返ったように先生が目線を上げる。




「…ちょと待て。そもそもなんでお前がそんなこと知ってんだよ」

「何が」

 先生の問いに、なっちゃんがとぼけて見せた。そんなやり取りを聞きながら、私は手に乗せられた箱に視線を落とす。赤いリボンの巻かれた、すごくおしゃれな感じ。



「…開けていいですか?」

 聞くと、先生は前のなっちゃんを睨みすえたまま「どうぞ」といつも通り素っ気無く答えた。



 …胸が、ドキドキする。まさか誕生日プレゼントなんてもらえると思っていなかったし。

 しかもそれが先生からのものだなんて…夢でも見ているようだった。



「……っ」

 開けた箱の中から出てきたのは、かわいいピアスだった。濃いキレイなグリーンと、透明の石が2つついた…とってもシンプルだけどおしゃれなピアス。

「かわいい!」

 思わず満面の笑みで感動したけれど、先生はなっちゃんを睨んだままだった。



「だから、何でお前がそんなこと知ってたんだよ」

「だってお前が理沙に聞いたんだろ、白石の欲しがってる物」

 …理沙さん?

 なっちゃんの口から出てきた名前に、私はもしかして…と思い当たる。



 前に理沙さんにメイクしてもらった時…世間話の流れで、かわいいピアスが欲しいというような話をした覚えがあった。だけど私の耳にはまだピアスホールが開いていない。開けたいけれどその勇気もまだ持てていないと、確かに話をした。



「…じゃあ…理沙さんが選んでくれたんですか?」

 かざすように掲げると、ピアスはキラキラと光った。雑貨屋さんにあるような…私が見てきた安物のピアスとは違う気がする。もしかしたら…透明の石はダイヤか何かだろうか。私の理想通りのかわいさだったので、理沙さんが選んでくれたのかもしれない。



 だけど、そう尋ねると先生がまだ少し機嫌悪そうにシートに背中を押し付ける。それから、窓の外を向いたまま答えた。

「ピアス欲しがってるのは聞いたけど、選んだのは俺だ」

 ぶっきらぼうな返答に、私は思わず目を丸くする。それから、そんな先生の横顔を見て「ふふ」と笑みを漏らしてしまった。



「先生、ありがとうございます。ピアス開けたら大事に使います」

「でもなぁ、教師が生徒にピアスをプレゼントするってどうなんだ」

 一言多いなっちゃんは、そこでまた余計な言葉を発する。私は苦笑いしたけれど、先生はまた顔を顰めてミラーを睨み据えた。

「うちの校則に『ピアス禁止』なんて書いてねぇだろ」

「そういうのを屁理屈って言うんですよ、本城センセー。僕これでも風紀委員の担当なんですけど」

 わざとらしい口調で言うなっちゃんに、先生は半ば本気で後ろから運転席のシートを「うるせぇ」と蹴った。



「ま、まぁまぁ」

 笑いをこらえながら、私は先生をなだめる。



 お酒のせいかいつもより少し子どもっぽい先生は、やはりどこか新鮮さすら感じられた。






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