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Sweet&Bitter  作者: みずの
過去の爪痕
30/152


「その日は結局由香子は眠っていたから…顔を見て帰るしかなかった。翌日改めて病院に行った俺は、正直どうやってそこまで行ったのかも覚えてない。それくらい…頭が真っ白だった」

 私から手を離して、先生はそう言う。自分の太腿に乗せた腕で頬杖を着き、手で口元を覆うその姿勢は…何かに耐えているようにも見えた。


「気づくと、病室にいた。心配してついてきてくれてたのか、後ろには貴弘と修司もいた。そうやって何とか辿り着いたらしいそこで…俺はもっと残酷な事実を目の当たりにした」



『…ユキくん』

『……靖子さん、昨日は…』

『…ごめんね、他の男と事故に遭ったなんて…黙っておくのも伝えるのも残酷だと思ったんだけど…』

『…気を遣わせてすみません。あの…由香子は…』

『うん、今日は起きてるよ。…………でも…』



「病室の入口でぼそぼそと話をする俺たちを、由香子が不思議に思ったみたいだった。俺に何かを言いかけていた靖子さんの言葉を遮るように顔を覗かせて…俺と目が合った。それから…言ったんだ」



『だぁれ?靖子の友達?』




「!!?」

 ようやく涙が止まりかけていた私の目は、今までにないくらいに大きく見開かれた。言葉を失い、その意味することを瞬間的に必死に考える。


 それは…由香子さんが、それくらい先生に対して怒りをもっていたということなのだろうか…?しらばっくれて、わざとらしく言うくらい…?



 ……それとも……。




「『記憶障害』」

 考えないようにしたかった嫌な予感は、先生の次に紡がれたそんな一言で予想通りのものとなった。嘘のようなその現実を、先生は思い出して眉を顰める。この上ないくらいに…痛みを感じている表情。



「嘘だと思った。由香子が俺に対する怒りの余り、演技でもしてるんだと思った。だけど……そうじゃなかった。あいつの頭からは、俺に対する記憶が欠落してた」

「……っ」

「ドラマみたいな話だけどな、医者の話じゃ珍しいことじゃないらしい。完全な記憶喪失ならそう多くはないかもしれないけれど…一時的で一部分の記憶障害はよくあることなんだと」

「…そんな…」

「それも、思い出したくないことを都合よく忘れられたりするらしい」

 言って、先生はまたあの自嘲気味の笑みを唇に浮かべた。




 …そんな顔しないで。


 そんな目で、そんな悲しいこと言わないで。



 それじゃまるで、由香子さんが先生のことを忘れたがってたみたいだ。




「由香子は…多分、本気で苦しんでたんだ。束縛をする自分に、病的だと気づいて。だけど止められない。その葛藤で……俺のことを忘れたかったんだと思う」

「……」

 言葉は何も出てこなかった。だけど私は、再び流れ始めた涙を頬に感じながらも…それでも首を大きく左右に振った。



 お願いだから…そんな哀しい顔で笑わないで。




 先生は、当時の悲しみに耐えるかのように両手で頭を抱え込んだ。放っておけば、その腕は震えてきそうで…。思わず私は、先生を包むようにぎゅっと抱きしめていた。




「結局その日、由香子には何も言えないまま…貴弘たちに連れられて病室を後にした。だけど…そのまま病院を出ようと出口の方へと向かう俺に、後ろから声がかけられた」



『…あの…っ、本城さん…ですか?』



「振り返ったそこにいたのは、丸い黒縁眼鏡の男だった。いかにも真面目そうな…気弱そうな男。呼び止められてそいつを見た瞬間…なんでだかピンときた」

 …つまり…その人が由香子さんと一緒にいた人…?私もそこに思い当たって、先生を抱きしめる腕に更に力を込めた。



「あちこち包帯だらけで、まだ安静にしていなくてはいけなかったんだろうけれど…。そうして俺に声をかけてきたその男は、急にその場に土下座をし始めた」



『…あ、あの…っ』

『…何のつもりだ』

 何かを言いかけたその男の人に声をかけたのは、先生ではなくなっちゃんだったらしい。

『あの、僕…っ、由香子さんと3ヶ月前からお付き合いさせていただいてます…っ』

『…っ』

『あなたという恋人がいるのを知っていて…それでも、僕も諦めきれなくて…っ。由香子さんも、ようやく僕を受け入れてくれるようになって…』

『…てめぇっ、抜け抜けと…っ!』

『やめろ貴弘!』



「男に殴りかかりそうになった貴弘を修司が必死で止めるのを、俺はどこか他人ごとのように見てた。その間も…頭は何も考えられない状態だった」



『すみません、本当にすみません…!でも僕、あなたには申し訳ないと思ってますけど後悔はしていません!彼女はあなたのことを本気で好きでしたが…それでも、その分苦しんでいた!彼女は僕が癒しだと言ってくれました。僕なら彼女をあんな風に苦しめない…!』

『…てめぇ、一発殴らせろ!』

『やめろって、貴弘!』



「その男は、明らかに俺に怯え切ってた。そりゃそうだろう、真面目そうなあいつに比べて俺はガラが悪かっただろうから。それでも…あの男は、由香子の為に一歩も引かずに俺に挑んできた。土下座をしながらも」

「……」



『あの、それでお願いがあるんです!』

 地面に頭をくっつけて、土下座をするその人。そこまでプライドをかなぐり捨ててでも…彼は由香子さんのことを想っていたんだろう。


『由香子さんが、あなたのことを忘れています…。どうか…どうか、このまま彼女と別れてもらえませんか…!』

『!?』

 それは、その男の人のどこまでも身勝手な願いだった。

『あなたのことを思い出しても、彼女はまた苦しむだけだ!僕はそんな彼女を見ていられない…っ』

『…っ、ぶっ飛ばしてやる!お前っ』

『おい修司!お前も落ち着けよ!』


 今度はその男の言葉に激昂したのは修司さんの方だったらしい。なだめる側に回ったなっちゃんが、彼を羽交い絞めにしたんだそうだ。



『本城さん……あなたは、彼女のことどう思ってるんですか?』

 それまで一言も発さなかった先生に、その男の人はそう尋ねた。

『由香子さんの話を聞く限り…あなたが彼女のことを本気で想っていたとは思えない。そんなあなたが…彼女の前にまた姿を現しても、お互いが傷つくだけじゃないですか…!』

『……』

『何度も言うけれど、僕なら彼女を幸せにできる!あなたにはできなくて、僕なら彼女にしてあげられるってこともあると思うんですっ』



「言いたいことを言うその男を、蹴り飛ばしたい衝動にかられた。だけどそんなことできるわけもなくて…それよりそいつの言葉が突き刺さるようだった」

「……」

「結局、俺は何も言わないままそこを後にするしかなかった」



 先生は、そこで少し上体を起こす。そのせいで、私は抱きしめていた腕をゆっくりと解かされた。身体を起こした先生が、今度はまっすぐに私を見る。



「後で聞いた話では…そいつと由香子は会社の同僚だったらしい。俺のことで悩んで悩んで…そいつに相談してたんだ」

 それから…相談するうちに、癒しを求めて……?でもそれは……。



 先生にとったら、ひどい裏切りだ。



 由香子さんも、苦しんでいたんだということは分かる。誰かに救いを求めたかったのも分かる。

 でも…彼女がやったことは、一番してはいけないことだった。高校時代に女の人に裏切られた先生に対して…一番やっちゃいけないことだったはずだ。



「『私は裏切らない』って、言ったはずなのにな」

 苦笑まじりのその笑みは、やっぱりどこかに自嘲の色を帯びていた。




「由香子とは、それきりだ。もうずっと会ってない。聞いた話では…それから一年もしないうちにその男と結婚したって」

「……っ」

「忘れる側の人間はいいよな…って、思ったこともある。『知らない』ってことは、一番残酷なんだ。何もなかった顔して幸せになれる。だけど忘れられた俺はいつまでも…それを引きずって歩くしかなかった」

「……先生…」

 呼びかけると、先生は苦い表情のままコツンと額を私の肩に当てた。



「毎年、桜の時期になるとそのことを思い出してた。胸の中をざわざわした不快感が襲い、呼吸すらしづらくなるほど…。涙なんか一度も出なかったけれど、それでも泣きたくなってしまうほど」

 その言葉に…思い出す。



 そうだ、先生と初めて会ったあの日。学校裏の公園は、桜が満開だった。

 吸うわけでもないのに火を点けた煙草は短くなっていて、泣きそうな目でその桜を見上げていた男の人。

 その時…由香子さんのことを思い出していたんだ…。




「毎年、それが苦痛だった。思い出したくないのにどうしても思い出しちまう。でも…そんな苦い思いも、去年までだった」

「…え……?」

 小さく聞き返したけれど、先生は私の肩に顔を伏せていて表情がわからない。



「去年の春、同じように思い出していた時に一人の女に会った」

「…っ」

 私、だ。

 でも先生はどうやら気づいていないらしい。思わず息を飲んで、私は先生の言葉の続きを待った。



「その女の一言に…不思議と気分が軽くなった。苦い過去を、思い出してもいい。思い出した分だけ痛みから早く解放される……そんな言葉に」


 私だと気づいていなくても…先生は、私のその時の言葉を覚えてくれていたんだ…。そう思うと、ぶわっと視界が再び熱い涙で潤んでくる。泣き顔を見られたくなくて、私は先生の背中に腕を回した。



「今年の春は、桜を見て胸が痛んでも泣きたくなることはなかった。思い出した分、また忘れることに一歩近づけたと思ったからだ」

 でも…と、先生は小さく続ける。

「今度は、別のことが気になり始めた」


「『別のこと』…?」

 聞き返すと、私の肩に押し当てた頭を先生はコクリと縦に振った。



「そう言って俺を解放してくれた女のことが、どうしても気になって…。しばらくは気づかないフリをしていたけど、ダメだった」

 続けた先生の言葉に、私は胸がドキンと高く跳ね上がるのを感じる。

 …それは…つまり……。


「…好き…になったんですか?」

 恐る恐る聞くと、先生は少しの間黙り込んだ。それから…小さい声で…だけどはっきりと肯定する。

「…そうだな」




 何ともいえない感情が、胸の中で渦巻いた。



 先生が好きになったというその人は、私なのに…。それでも、先生はそのことに気づいていない。

 今更「あれは私でした」なんて言いづらい。それほどわざとらしいことはないだろうから…。



「だけど…また怖くなった。由香子一人幸せにしてやれなかった俺が…また誰かを好きになる資格なんてないと思ったから。…いや、たとえまた誰かを好きになったとしても…うまくいくはずがないと思ってたから」



「……」

 胸が、痛い。

 先生は私のことを言ってくれているはずなのに…気づいていない先生からは別の誰かへの恋心を聞かされているようだった。思わず唇を噛み締め、私は涙の流れる目を固く閉じた。



「だから、長いこと自分の気持ちに気づかないフリをしてた。でも…それも無駄だった。そんな感情を…いつまでもなかったことにできるほど俺は自分の制御がうまいわけじゃない」

 そこで顔を上げた先生が、しがみつくように背中に回していた私の手をゆっくりと解かせる。留まることを知らない私の涙を、少し前と同じように指で拭い取った。



「はじめは、そいつは貴弘のことが好きなんだろうと思った。そしてそんな嫉妬からか…冷たくあしらってしまう自分に違和感を覚えた」

「………え……」

 続いた先生の言葉に、私は思わず目を瞠る。


 ……今……何て……。



「ようやく自覚した時、それでも過去の傷からそれを伝える勇気はなくて…。ただ、想えるだけでもいいと思った。自分に向けられるているわけじゃなくても…その笑顔が見れれば良かった」

「………先生…?」

「都築に突き放すように頼まれた時も、それでもいいと思った。俺が…自分の気持ちに蓋をすればいいだけのことだった。だけど……」

 頬に触れた手が、ぐっと引き寄せられる。そしてそのまま、私は先生に後頭部を支えられる形でぎゅっと抱きしめられていた。

「お前が、俺のことを好きになってくれているとは思わなかった。それを知った時…また怖くなった。求めていたものを得て、また失うのかもしれない…って」




 …先生は……覚えてくれていたんだ。

 あの時、公園で出会ったのが私だって…。わけのわからない励まし方をしてしまったけれど…それを小さな救いに変えてくれて。



「…っ」

 溢れ出した涙を、今度は私は拭おうともしなかった。先生の腕の中で……ただひたすら声もなく泣く。




「だけど…間違ってたみたいだな。…なんでお前に言われるまで気づかなかったんだろう」

 言われて、私は抱きしめられた態勢のままわずかに目を見開いた。


 ……私…何か言ったっけ…?




「俺は、どうして由香子を幸せにしてやらなきゃって思い込んでたんだろう。それは由香子もそうだった。自分を追い詰める人付き合いの仕方をしていた俺を、何とかして救ってやりたいと思ったんだろう」

 そこで先生は、私の後頭部を支えていた手にギュッと力をこめた。痛くはなかったけれど…その力強さに胸がキュッと切なさを訴える。

「何かしてやったり、してもらったり…そんなことばかり望むなんて間違ってるのにな」



 …それで、思い当たった。

 先生が言ってるのは…私の「幸せにしてもらいたいわけじゃない」という言葉のことだ…。




「今なら分かる。俺もお前に…何かしてもらいたいわけじゃないから。かといって、俺がお前を幸せにしてやれる絶対の自信もやっぱりない」

 …でも、と、先生は言葉を継ぐ。


 そうしてまた…私を抱きしめていた力を緩めた。至近距離で、私の目を覗き込むように見つめる。



「ただ、お前に傍にいてほしいだけなんだ」



 先生の瞳は、もう傷ついた色も自分を嘲る影も宿してはいなかった。ただ、まっすぐにこちらを射抜くように見つめる。それが見たことのないくらい優しい光を帯びていたから、私はまた泣きそうになった。



「~~っ」

 言葉は声にならず、ただ私は大きく頷く。

 まさか…まさか、先生も私のことを好きでいてくれていたなんて思わなかったから。


 夢を見ているような信じられない思いと、瞬時に溢れ出した胸いっぱいの温かさで…私の目から雫が零れた。



 今度は、哀しい涙じゃなかった。




「何度も傷つけて…悪かった」

 額がくっつきそうなくらいの距離で、先生が言う。



 今度は大きく首を左右に振って…私はその力強い腕の中に飛び込むようにして抱きついた。






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