3 side:Kazumi
キス…していたと思う。
それを目撃した時から…翌日学校に行った後まで、私の頭の中からはそのことがずっと離れなかった。普通に話しているだけでは、あんなに顔を近づける必要もない。ましてや腕を掴む必要もない。そして何より、あんな風に腕を組んだりしない。
「昨日はすごかったねー」
昼休み中、由実が不意にそんな言葉を口にした。恐らく、今日朝からその話題をしたかったに違いない。
教室でお弁当を広げている時だった。その一言で何を指しているのか分かったけれど、あえて返事をしなかった。
「まさか教師と生徒が街中でチュウするとはねー」
私の様子に気づく素振りもなく、由実は何か感心したように一人でウンウンと頷きながら続ける。
「…でも…別にキスしてたとは限らないし」
ようやく小さく返すと、由実だけでなく智子や茜も意外そうにこちらを振り返った。
「あんな至近距離で、他に何があんの?」
本気で疑問らしく、目を丸くして由実が尋ね返してくる。「う…」とその返事に詰まった私は、返す言葉もなく口を噤むしかなかった。
「ねぇねぇ、もしかして本城と菅原先輩の話?」
いつの間に近くにいたのか、同じクラスの女の子がふとこちらに声をかけてきた。名前は…クラス替えをしたばかりでまだ思い出せない。
「そうだけど…何か知ってんの?」
由実は知り合いなのか、親しい口調でその女の子に聞き返す。バレー部に所属している由実の部活仲間のようだった。
「私じゃないけど、昨日街で2人で腕組んで歩いてたの見たって人がいて、朝から噂になってるよー。
キスしてたっていうのは今初めて聞いたけど……それって本当なの?」
尋ね返されて、由実が「うん」と返事しかける。それを見て内心で焦った私は、「ううん!」と由実を遮りながら力いっぱい答えていた。
「確かじゃないの!」
「…あ、そうなんだー」
私の勢いに一瞬圧されかけた彼女が、驚いた顔をしてからニコリと笑ってそう答える。そんな私の焦り様に、由実たちが怪訝な表情で首を傾げたのが分かった。
「…和美…?」
こちらの態度を疑問に思ったらしい由実が、不思議そうに私の名前を呼ぶ。
しまった、と思うのと、どう弁解しようかと瞬時に頭の中をグルグルと回るのが同時だった。何と答えようかと考えながら由実の方へ振り返った瞬間…、タイミングよく救いの手が降りてきた。
『2ーA白石和美、至急化学実験室まで』
救いのはずのその校内放送の声に、私は思わずその場で目を見開いてしまう。それは間違いようもなく…本城先生の声だった。
「…行ってくる」
お弁当の包みを直してから立ち上がって、私は3人からの追及を受ける前にその場を後にした。
******
深い深い呼吸を、何度も繰り返す。化学実験室の扉が、これほど重く感じたことは今までになかった。今まで2人きりになることはおろか、呼び出されることすらまずなかったのに…。どうして、このタイミングでそれらがそろってしまうんだろう。
「…失礼します」
恐る恐る扉をゆっくりと開くと、中で本城先生は窓枠にもたれかかって煙草を吸っていた。その姿があまりにも絵になりすぎていたので、思わず私は胸をドキリと弾ませてしまう。…緊張しているはずなのに、自分でも呆れてしまったくらいだ。
「来たか」
私を遠くから見下ろして、先生は近くにあった煙草を灰皿に押し付けて消した。
「お前、今日部活の当番だろ」
言われて、私は「あっ」と声を上げる。化学部で実験がある日は、当番が昼休み中にその日の実験で使う器具の準備をしておくのが常だった。
「すみません!忘れてました…」
「あぁ、これよろしくな」
謝った私に、やっぱり先生は興味なさそうに呟くと一枚の紙を差し出してきた。今日の実験内容と使う道具が書かれた紙だ。それを受け取って、私は急いで実験室の棚の方へと向かった。
先生は、その私の後ろ姿を見ているのか、それとも他の何かを眺めているのか…。私からは分からなかったけれど、少なくとも部屋を出ていきはしなかった。静まり返った部屋に、私が歩く音だけが響く。
そのしん、とした空気に緊張で胸が震えそうだった。
だから、不意に思い出した。
『好きな男に勘違いされるのが嫌なら、ちゃんと弁解するんだな』
この前のなっちゃんのそんな一言を。
2人きりになったらちゃんと話そうとは覚悟していたはずだったけれど、まさかその機会がこんなに早く訪れると思っていなかったから…。高まる胸の音と、激しく押し寄せる不安の波に押しつぶされそうだった。
きっと…確実に、本城先生は私の話に興味を示さないだろう。私が好きなのがなっちゃんでもそうでなくても…先生にはどうでもいい話だから。だけど、私自身が誤解されるのが嫌だった。
無視されてもあしらわれても仕方ない、そう再び決めて、私は棚の前で先生の方を振り返った。
「先生」
呼びかけると、本城先生は「…何」と小さく返しながらこちらを見る。新しい煙草に火をつけて、ライターを胸ポケットに戻したところらしかった。
「あ、あの…この前の話なんですけど…っ」
思い切って切り出しながら、私は震えそうな手でぎゅっと拳を握った。そうしたら、震えが少しは抑えられそうだったから。
「私、別に名取先生が好きなわけじゃないんです…!」
一気にそれだけ言い切ると、緊張のあまりか先生の目が見られなくなった。その目から視線を少しだけ外して、私は握った拳に更に力をこめる。
「………」
…先生から、返ってくる答えはなかった。なんだかいたたまれない気分になって、「…あの…」と今度は弱々しく続ける。
「だから…誤解されたくなくて…」
そこまで言ってから、私は再び恐々と顔を上げた。ゆっくりと視線を上げていくと、黙ったままだった本城先生はまっすぐにこちらを見ている。その目が合った瞬間、ドキっと鼓動が跳ねたのを感じた。
「…分かった」
煙草の煙を吐き出してから、少し私から目線を外して先生はそう小さく呟く。その返ってきた答えに、「…え」と私の方が目を見開いてしまっていた。
「信じて…くれるんですか?」
無視されたりあしらわれたりすることは予想していたけれど、すんなり返事をしてくれるとは思っていなかった。ましてや、私の言葉を肯定的に受け止めてくれるとも思っていなかった。だから思わず、そんな言葉が漏れ零れていた。
「だって、違うんだろ?」
静かな声だったけれど、先生の言葉に私をあしらうような響きはない。…本当に、信じてくれたんだ。どうでもいいと思うこともなく。
「……っ」
思わず何かがこみあげてきそうな胸を両手で抑えて、私は先生の言葉にコクコクと勢いよく頷いた。その私のリアクションに、先生がふと「…ははっ」と吹き出す。眉を下げたいつもと違う表情は、そう見られるものでもなくて…。こんな風に笑う先生は、今までに見たことがなかった気がする。
そんな先生に思わず見惚れていると、向こうも無防備に笑ってしまった自分に気づいたのか、すっといつもの無表情に戻ってしまった。
「…白石、実験道具ちゃんと揃えとけよ」
そう言い置いて、煙草を手にしたまま身を翻してしまう。…もしかしたら、先生は無愛想なだけじゃなくて照れ屋なのかもしれない。そう気づくと新しい先生の一面を知れて、思わず私は口元をほころばせてしまっていた。
「はい」と短く答えると、先生は隣の化学準備室の方へと入って行こうとする。
その後ろ姿を見送ろうとしてそちらを眺めていた私は、ふと思い出したことがあって「あ、あの!」と再び呼び止めてしまっていた。
「…?」
肩越しに振り返った先生が、私を見据える。
「昨日、街中で先生を見かけたんですが…」
ある意味、自分の弁解よりもこの話の方が緊張したかもしれない。胸の高鳴りを抑えつつ、私は言葉を継いだ。
「先生は、菅原先輩と付き合ってるんですか…っ?」
無遠慮かもしれないと思ったけれど、私はそう尋ねていた。一瞬驚いたのか目を見開いた先生が、私を見下ろす。それから、「…あー」と小さく呟いた。
手にした煙草から灰が落ちそうで、先生は反対の手に持っていた灰皿でそれを受け止める。
「なんか噂になってるらしいな、今朝から」
「えっ、あ、あの、私は誰にも言ってません!」
「わかってる」
あっさりと答えながら、先生は体ごとこちらを振り返った。
「うちの生徒が多いあんな駅前で一緒にいたら、誰に見られても勘違いされても仕方ねぇしな」
続いた言葉に、私は「…勘違い、ですか」と復唱して返す。
「そう」
煙草を再び口にしながら、先生は少し遠い目をしながら答えた。
「まぁ信じるのも信じないのもお前の勝手だけど」
「えっ、し、信じますよ!」
疑えばキリはないし、本当のことを話してくれる保証なんてない。それでも、同じそんな条件で先生は私の言葉をあっさりと信じてくれたんだから…。私が、先生の言葉を信じられないはずがない。
「…あ、でも…」
言い切った後だったけれど、私はもう一つひっかかっていたことがあって言葉を続けた。
「その時、先生と先輩が…その…」
「腕組んでたって?」
「…いえ、それもそうなんですが…それより…」
言い淀んだ私に、先生は小さく首を傾げてこちらを見る。…そんな目で見ないでほしい。まっすぐ見つめられると胸がいっぱいになって言葉が出てこなくなる。
「…キス、してるように見えたので…」
続けると、先生はちょうど煙草の煙を吸い込んだところらしかった。私の言葉に驚いたのか変なところに煙を吸い込んだらしく、「げほっ」と咳き込んだ。
「!?だ、大丈夫ですか?」
「…」
大丈夫だ、と言わんばかりに私に右手を上げて返して、先生は数回咳払いをして呼吸を整える。灰皿を近くの机に置き、吸っていた煙草をそこに押し付けた。
「何言ってんだ、お前」
いつも無表情、無口、無愛想の先生が、明らかに動揺しているようだった。でもその動揺は…バレて困るとかそういうのよりも、思ってもみないことを尋ねられて驚いているようだ。
「え、だって…そう見えてしまったので…」
「どこで?」
少し強い口調になった先生に、私は「…駅前のファストフード店です」と弱々しく答えた。昨日のことを思い出しているのか、先生はその言葉を受けて私から視線を外す。宙を見据えるようにしているのは、鮮明にその時のことを思い出そうとしているんだろう。
「…あー」
思い当たることがあったのか、先生はしばらくしてから小さくそう声を漏らした。それから、唇を少し歪めて笑う。その表情で私の方を再び見て、「お前、視力いい?」と不意に尋ねてきた。
話の先が変わった気がして、私は首を大きく傾げる。それでも「…いえ、悪いのでコンタクトです」と続けると先生は小さく頷いた。
「ちなみにハード?ソフト?」
「ハード…ですけど…」
意味が分からない。けれど先生の方は、私のそんな答えに満足そうだった。
「俺もハードなんだけど、あれって目にゴミでも入ろうもんならものすごい痛いだろ」
「そうですね」
頷きつつ、私はまだこの会話の意味がつかめない。不思議そうな表情をしていると、先生は苦笑を漏らして「つまりだ」と続けた。
「ハードコンタクトしてる菅原が目にゴミが入ったっつって痛がったから、『こするな』って腕掴んで見てやったんだけどな」
「…え!」
思わず化学実験室に響きそうなくらいの大声を上げて、私は先生を見上げる。
「ま、そういうことだ」
結論を出して一つ自分で頷いた先生は、私の反応を待つようにこちらを見る。
「…目にゴミ…」
言われてみたら、そうだとしたら全てが繋がる。先輩の両手を掴んだことも、顔を寄せたことも…。
「でも、まさかこんな漫画みたいな古典的な勘違いする奴いると思わなかったな」
おかしそうに笑う先生が、そう続けて私を見た。
「…なんだ…」
思わず小さく、私は呟いてしまう。安堵の息を漏らしたことは、先生にはバレていないようだった。
ただの勘違い、だったんだ。先生の言葉に嘘があるとは思えないから、私はそう納得することができた。そうして自然と、安心したからか笑みが零れる。
「知らなかったです、先生コンタクトなんですね」
笑いながらそんな風に別の部分への感想を漏らすと、先生は化学準備室へのドアノブに手をかけながら首を捻った。
「そんな笑うほど面白い情報だったか?」
言われて、私は思わず今度は「ふふ」と声を出して笑ってしまった。
笑顔になってしまうのは、先生のことをまた一つ新しく知ったからだ。好きな人のことなら、どんなささいなことでも知りたいと思って当然だと思う。
小さなことでも、知っただけで少し近づける気がする。それだけで、幸せを感じることができるんだ。
化学準備室に入っていく先生の後ろ姿を、私はさっきまでとは違う晴れやかな笑顔でただ見送った。