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Sweet&Bitter  作者: みずの
過去の爪痕
29/152


 家の中を指し示されて、私は思わず一瞬だけ躊躇した。


 引き返したくなったわけじゃない。ただ、先生の目を見ればこの後どうなるかが分かったからだ。



 …先生は、多分自分の過去の傷を話してくれるんだと思う。私の言葉を受けて…私から逃げないでいてくれるんだと思う。ただそれは私にとってはきっと本格的な失恋を意味していて…。意気込んでここまで来たわりに、足はためらうようですぐには動いてくれなかった。



「……」

 ドアを開けた先生が、無言のままグイっと私の手首を掴む。半ば強引に引っ張られるようにして、私はその中へ招かれることになった。先生はそのまま決して長くはない廊下を突き進む。リビングについてソファの前まで来たところで、ようやく私の手を離した。



 座るように手で合図されて、私は遠慮がちにそこに腰を下ろす。胸は自分のではない気がするほど、高く高く鼓動を打っていた。自分の胸の音が聞こえてきて、先生にも気づかれるんじゃないかというほど。先生に自分と向き合ってほしい…振られるにしてもちゃんと振られたい、そう思っていたはずなのに、緊張で震えそうだった。



「さっきの質問だけどな」

 不意に先生が、そう話を切り出す。私から少し離れた、窓辺に背中をもたれさせていた。煙草を吸うわけでもなく…ただ代わりに口元を手で覆う。何かをゆっくりと考えながら言葉にしているようにも見えた。



 さっきの質問…。

 私が、「高校生のままごとみたいなものだと思ってるのか」と尋ねたことのようだった。




「…そんなこと、思ってない」

 何かを噛み締めるように苦い顔をして、先生は呟いた。




 その表情は…私ではなく、自分の中にある何かに対するもののようだった。先生の中で、思い出した何かがあるのだろう。歪んだ表情に、少しだけ痛みに耐えるような色が浮かぶ。



「俺も、高校時代は同じことを考えたことがある」

「……え?」

 続いた言葉に、私は思わず目線を上げた。



 けれど俯き加減の先生とは、目が合わなかった。



「高校の時、俺は女子大生と付き合ってた」

 当時を思い出したのか、少し遠い目をしながら先生は急にそんな話を切り出す。

「……」

 言葉も返さずに黙ってそれを聞いていた私は、膝の上に置いていた手でぎゅっと拳を握りこんだ。


「年は4つくらい上だった。俺が中学の時通ってた塾の講師をしてて…それで高校に入ってから、そのまま付き合いだしたんだ」

 そこで一度言葉を切った先生が、少しだけ自嘲気味な笑みを浮かべる。

「1年くらい付き合ってたかな。俺は真剣に付き合ってるつもりだったけど…」

 嘲るように歪めた唇が、続けた。

「向こうはそうじゃなかった」



「………」

 私は、口を挟めるわけもなくただ無言で先生をまっすぐ見上げる。少しだけ顔をあお向けた先生は、目を閉じたままふーっと長い息を吐き出した。



「ある時、彼女とその友達が話してるのを偶然聞いちまったんだ」





『ねぇあんたさぁ、コーイチとより戻したってホント?』

『え?あぁ、より戻したっていうか…別に別れてないし』

『えー、でもあんたあのイケメン高校生と付き合ってるじゃん』

『あぁ、ユキ?んーまぁ確かに付き合ってるんだけどさ。

なんつーの?コーイチとちょっとうまく行ってなかったから、その間遊ぼうかな、と』

『えー、ひどっ』

『だって高校生だよ?マジになるわけないじゃん。なったら犯罪でしょー。学生時代の年の差って大きいし』

『まぁね。高校生なんて子どもだもんねー』

『そうそう。コーイチより体力ありそうだし、調教の仕方によっちゃエッチだってうまくなると思って遊んでみただけー。でももーいいよ、最近コーイチとうまくいってるし。あいつにバレる前にユキは捨てる』




「…ひどい…」

 素直な感想が、私の唇から漏れ零れた。その時の先生の痛みは想像に難くなくて、気を抜けばこちらが泣きそうになる。そんな私と、先生はやっぱり目を合わせなかった。

「あの時ほど自分の女を見る目のなさを実感したことはねぇな」

 そう言ってまた、自分をあざ笑うかのような笑みを浮かべる。



「そこからは、何を信じていいのかわからなくなった。女と付き合うにしても、真剣に付き合うのがバカバカしくなった。だから…表向きだけの、後腐れない遊び方をする方が傷つかなくてすむと思った」

 …それで…大学時代の先生は結構遊び人だったって修司さんが言ってたんだ。高校時代に受けた傷が大きすぎた余り…そういう人付き合いの仕方しかできなくなって…。



「好きだ、愛してるなんて言わなくてよくて、ただ自分の都合の良い時だけ一緒にいる。女とはそういう付き合い方をした方が楽だと思った」

 ズキン、と、私の胸が刺さるような痛みを訴えた。先生に…そんな悲しいこと言ってほしくない。



「でも、それが本当にいいとは思ってなかった。だけど抜け出すこともできない。そんな時…由香子に会って、あいつに言われたんだ」




『かわいそうな人』


『どうしてそんな…自分の身を削るような他人との関わり方をするの?』


『本当は誰かに本気で愛してほしいし、愛したいんでしょ?』




「はじめは、『何だこの女』と思った。それから…次は怖くなった。一瞬にして俺の全てを見透かされた気がしたから」

「……」

「だけど、あいつは言ったんだ。『私は大丈夫だよ。絶対君を裏切ったりしない』」


 …それが、修司さんの言っていた母性本能があって包容力のあった『由香子さん』。きっと、先生のことを放っておけなかったんだろう。




「それから付き合い始めて…って、由香子のことは修司から聞いてんだっけな」

 そこでようやく、確かめるように先生は私を振り返った。それに答えるように、小さく頷く。

「…少しだけ。はじめはとっても仲が良かったけど…だんだん由香子さんの束縛が激しくなっていった、って」

 言葉にして、大丈夫なのかと少し不安だった。他人に改めて言われると…現実を突きつけられた気がして先生が余計に辛いんじゃないかと思ったから。だけど先生は…この時、特に変わった様子もなく軽く頷き返してくれた。


「段々と由香子はおかしくなった。ジャズも…俺の周りの大した関係のない女にまで矛先が向いた。…出会った頃の大人で余裕のあるあいつとは大違いだった」

「…だけど…それでも、好きだったんですよね?」

 尋ねた私に、先生は今度はかすかに苦笑いを浮かべる。


「…どうかな」

 小さく、そう呟いた。




「だけど、由香子がおかしくなったのは俺のせいだと思った。俺がジャズに没頭するから…由香子がおかしくなるんだ、って。だけど俺にとってはピアノも捨てられなかったから、せめてその分、空いた時間はできるだけ由香子と一緒にいるようにしてた」


 それでも…由香子さんにとっては、足りなかった…ということなんだろうか。由香子さんは、自分だけを見て欲しかったのかもしれない。



「自分のせいだと思いながらも…いつもあいつに優しくできたわけじゃなかった。俺だってストレスが爆発することがあったから、ケンカも当たり前だった。どうして自分だけじゃダメなのか、泣いてそう叫ぶ由香子を本気でうっとうしく思ったこともある」

「……」

「別れる時がきたのは、そんなある日だった。桜が満開になったとニュースでやっていたから…ちょうど春だ」


 修司さんには、その話は聞けていない。彼は「それは自分が話せることじゃない」と言っていたし、私も聞いていいことではないと思ったから。


 きっと、そこに先生の一番深い傷があるんだろう。


 そう思ってわずかに姿勢を正すと、私はゴクリと息を飲んだ。




『ユキ、今週末の土曜日…車でお花見に行かない?』

『…言っただろ、明日から俺はサークルの合宿があるって』

『でも…土曜日は最終日でしょ?少しくらい早く帰ってきてくれたって…』

『あのなぁ、俺だけじゃなくてバンドの連中だっているんだ。そんな勝手なことできるわけねぇだろ!』

『でも……日曜日は雨だから、土曜日見に行かないと桜も散っちゃうよ…』

『知るか、そんなの。友達とでも見に行って来いよ』



「元々由香子は合宿に行くこと自体を快く思ってなかった。だからこそ…俺にはそのお願いがうっとうしくて仕方なかったんだ」

 振り切るように合宿に行ってしまった先生。


「泣いて俺の名前を呼ぶ由香子とまともに会話をしたのは…それが最後だった」

「……え……?」

 続いた言葉に、私は思わず目を見開く。由香子さんとそのまま別れた…ということなんだろうか?




「合宿の最終日、予定を早めに消化していたおかげもあって修司が言った」


『ユキ、今日一足先に帰ったら?もう予定は終えてるしさ』

『……』

『由香子さん、今日桜見に行きたいって言ってたんだろ?』

『……悪ぃな』


「サークルのメンバーも快く送り出してくれたから、俺はその日急いで家に帰った。冷たくあしらって出てきたこと…後悔もしてたし、気になってもいたから」

 夕方には家に着くから、夜桜なら見にいけるかもしれない。そう思ったんだと、先生は付け足した。



「だけど…戻った家で待っているはずの由香子は、そこにいなかった。もしかしたら出かけてるのかもしれない…そう思って携帯に電話もしたけれど、全く出ない。仕方なくそこで俺は帰りをただ待つことにした」

「……」

「俺の携帯が鳴ったのは、真夜中になってからだった」

 連絡の一つもないなんてこと、由香子さんには今までなかったらしい。段々と心配になってきていた先生は、その時まで部屋で微動だにしなかったようだ。


「かかってきた電話は、由香子の親友の靖子さんからだった」



『ユキくん?あの…今大丈夫?』

『はい。…どうかしました?』

『…あのね、落ち着いて聞いてね。実は由香子が…事故にあって』

『!?』

『ユキくん?大丈夫?……ユキくんには…まだ言わない方がいいかと思ったんだけど…』

『それで、怪我は!?』

『…あ、うん…頭を打ってるけど、とりあえず大丈夫みたい。今は病院で眠ってる』


「命に関わる事故じゃなかったと知って、俺はひとまずホッとした。そしてそれから慌ててそこへ行って…真夜中なのにも関わらず、病院の方に無理を言って病室に通してもらったんだ」



 …そこで…何かがあったんだ。なんとなく予感がして、私は緊張からか息を飲んだ。



「看護師に病室まで案内してもらう途中の会話で…俺は自分の耳を疑った」


『すみません、無理言って通してもらって』

『いいのよ、心配なのも分かるから。さっきもご両親が来られてたわ』

『そうですか…』

『でも…本当に意識が戻って良かった。車、結構なスピードが出てたらしいから、不幸中の幸いだったわね』

『……』

『彼氏さんの方も、怪我は大したことないそうよ』

『………え?』




「…え?」

 思わず私は、回想の中の先生と同じような声で聞き返していた。目を見開き、一瞬頭がついていかない。ニッコリ笑って悪気なく言う看護師の様子が、見たわけでもないのに安易に想像できた。




「…彼氏……?」

 尋ねた私に、先生ははっきりと頷く。

「事故に遭った由香子は、男と一緒だった」

「………そんな……」

 見開いた目に映る先生は、再び小さく息を吐いた。



「由香子が事故に遭ったのは、あいつが行きたがっていた桜の名所へ向かう途中の山道だった。

出していたスピードのせいでカーブを曲がりきれずに…って、聞いてる」

「……」

「それで全てが理解できた。靖子さんが、『ユキくんにはまだ言わない方がいいと思ったんだけど』と言っていた理由。それから、どうして由香子がその男とそんなところにいたのかということ」

「……それは…?」

「俺が行かないと言った桜を見に、その男と行くことを選んだんだ」




「……っ」

 …思わず、それまでなんとかこらえていた涙が溢れてきた。


 話を聞いているだけの私ですらこんなにショックなのだから…先生の受けた衝撃は計り知れない。



「……」

 そんな私を見た先生が、窓から背を離す。ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきて…私の隣に腰を下ろした。


 それから…長い指をこちらに伸ばす。大きな手で私の頬を包みこみ、その親指で零れ落ちる涙を拭ってくれた。




「最悪なのは、ここからだ」

 先生が、私の目をまっすぐに見つめながらそう呟く。



 これ以上…まだ何かあるの…?



 私の胸は、その話の先を聞いても耐えられるだろうか。



 先生の手の温かさを頬に感じながら…私は零れる涙を止めることすらできなかった。






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