5 side:Yukisada
携帯電話が鳴ったのは、夜7時を回った頃だった。ソファに座り見るとはなしに点けていたテレビでは、くだらないお笑い芸人が見飽きたネタを披露している。傍らに置いてあった電話が何の捻りもない着信音を鳴らして、俺はそれに手を伸ばした。
開くと、そこには修司の名前。わずかに首を傾げながら、通話ボタンを押す。
「はい」
『ユキ?今何してるー?』
間延びしたような声の向こう側では、人ごみの中にいるのかざわめきが聞こえてきていた。どうやら今日は仕事は休みらしい。あいつが店にいる日だったら、こんな時間に外にはいないはずだから。
「何って…テレビ見てる」
リモコンでそれの電源を落としながら、俺は自分でも不思議に思うくらい素直に答えてしまっていた。
『ふぅん…おもしろい?』
「いや、全然」
今世間で一番注目されていると言われているお笑い芸人だったので、本人が聞いたら怒るかもしれない。それでも俺にはクスリともできないネタだったので、バカ正直にそう答えていた。
『ユキ、これから出かける予定ない?』
「7時に家でのんびりしてんだぞ。あるわけねぇだろ」
『それもそうか。じゃあさー、これから行っていい?結構高値のワインが手に入ったんだけど』
「……お前今どこにいるんだ?」
『車で30分もすれば着くところかな』
「…酒飲むのに車で来る気か」
『いいじゃん、泊めてくれたって』
笑いながら修司はそう言う。それに「仕方ねぇな」と呟いて返事をすると、あいつは「じゃあ今から行く」と言い置いて通話を終わらせた。
修司が酒を持って来るなんて、どれくらいぶりだろう。それでも大学時代にはよくあることだったので、俺はさしてこの時その申し出を疑問に思うこともなかった。
家のチャイムが鳴らされたのは、予告通り30分を過ぎた頃だった。今までなら鍵さえ開けていれば勝手に入ってきていたのに、何を遠慮してんだと思う。面倒くさいと思いながらも玄関まで赴き、そのドアを開けた。
「……こんばんは」
そこに立っていた人物が真顔でそう挨拶した瞬間、俺は思わず硬直してしまう。
…なんで…白石がここに立ってんだ…?
一瞬で浮かんだ疑問は、だけど次の瞬間には消えてしまっていた。
…そうか、修司だ。
あいつが俺が家にいるかどうかの確認と、足止めをしたに違いなかった。
「……」
無言のままドアを閉めようとすると、白石がバッとそこに鞄と自分の身を挟みこむ。
「…あぶね…っ」
思わず声に出してしまってから、俺はその行動に驚いて目を見開いた。
どちらかというと、白石はこんな無謀な行動に出る奴じゃないはずだからだ。ドアを閉めさせないようにするあいつのそれに負けて、俺は代わりに眉を顰めた。
「先生、話があるんです…っ」
「俺はねぇって言ったはずだ」
冷たく言い放ったけれど、白石は頑としてそれを聞き入れない表情をしていた。
あの雨の日からここ数日、俺の顔すら見れなかった奴の眼差しとは思えない。それくらい力強い…意志の強い瞳が、射抜くようにこちらを見据えてくる。
「先生にはなくても…私にはあるんです!」
「玄関口でわめくな。近所迷惑だろ!」
こっぴどくフッたのに、今更何の話があるのか俺には見当もつかなかったけれど…。どちらかというと、傷ついてももう二度と俺に近寄ってきてくれない方が救われたのに。手の届きそうな距離にいられると、確固たる決意も崩れ去りそうになる。
「…由香子さんの話、聞きました」
俺のさっきの言葉を受けてか、白石は声のトーンを少しだけ落としてそう言った。思わず俺は、その一言に目を瞠る。誰に、とは白石は言わなかった。それでも分かる。そんな話をできるのは修司だけだ。
「…あの野郎…っ」
唇を噛み締めながら呟いたが、ここにいないあいつには届くはずもない。そんな俺の様子を見ていた白石が、まっすぐこちらを見上げてくる。
「先生の…昔の傷とか…悲しみとか苦しみとか…きっと、私なんかじゃ想像できないくらいのものだと思います」
ドアを開けた態勢でいた俺の腕を、白石はガシっと正面から掴んだ。縋るわけでもなく…媚びるわけでもなく、ただ目を背けたがる俺に自分の方を見させようとしているようだった。
「その話はしたくねぇ!その名前も出すな…っ」
「…先生っ」
「お前まで、俺が過去から逃げてるって言うのか」
噛み締めた唇がギリ、と音をたてた気がした。間近で見上げられても、俺はその目を見つめ返せない。わずかに視線を逸らして、そう答えるのがやっとだった。
「…そんなこと言いません」
やがて、白石がそんな言葉を返してくる。顔を背けたまま、俺はその一言にもう一度微かに目を瞠った。
「過去から逃げて何が悪いんですか?過去の思い出に傷ついて何が悪いんですか!私が言いたいのは…怒ってるのは、そんなことじゃありません!」
どうやら、本気で白石は怒っているようだった。そこにようやく気づいて、俺はハッと顔を上げる。…やっと、そのまっすぐな目を戸惑いながらも見返せた気がした。
「過去の傷から逃げたって構わない。ただ、それを盾に全てから逃げ出そうとするのが許せない!」
白石の揺ぎ無い一言は、俺の胸に鋭い刃を持って突き刺さるようだった。
「由香子さんとの話…全部聞けたわけじゃありません。多分、まだ私の知らないところもいっぱいあると思います。それでも…その過去から逃げる先生が、だからといって『今』から逃げていいわけじゃない!」
俺の腕を掴んだ白石の指に、グッと力がこもる。ほんの女子高生のはずなのに怒りからかその力は相当なもので…俺は思わず痛みから眉を寄せたほどだ。
「私は、『今』先生に告白したのに……!私の言葉を、なかったことになんてさせません!」
「…っ」
言い切った白石の言葉に呼応するように、その後ろの階段がカンカンと音をたてる。誰かが上がってくる気配がして、俺は白石の頭越しにそちらに目をやった。やがて、同じ高さに並ぶ一つの影。
「…修司…っ」
今回の件の元凶の顔を見つけて、俺は思わずその名を口にする。白石も驚いたように振り返ったけれど、当の修司は苦笑いを浮かべていた。
「ごめんな、ユキ」
騙したことを謝っているらしい。
「和美ちゃんも、ごめん。先に帰ってるって約束したけど…やっぱり放っておけなかった」
「修司さん…」
後ろを振り向いた白石が、俺を掴む手から力を抜いた。スルリと垂れ下がったそれに、俺は腕を解放される。
「どこまでも頑固なユキに、一つだけ言っておきたいことがあって」
「……」
言葉は返さずに、俺は修司を睨むように見つめ返した。それにもう一度苦笑を漏らして、修司は一歩だけ近づく。
「ユキはさ、由香子さんのことを幸せにしてあげられなかったって悔やんでるんだよね」
「…っ」
その名前を出されたくないことは知っているはずなのに。修司は、あえてそこで口にする。もう俺をどこにも逃がさないために…。
「だから、もう自分は誰も幸せにしてあげられないって思ってるんだろ?」
「……修司…っ」
「そんなユキに、俺が感動したセリフを教えてあげようと思って」
「……?」
眉を寄せて、俺は訝しげにあいつを見る。その次の瞬間笑った修司は…もうさっきまでの苦笑いではなかった。どこか嬉しそうに…柔らかく笑う。
「『私は先生に、幸せにしてほしいなんて思ってません』」
「……しゅ、修司さんっ」
それまで黙って事の成り行きを見守っていた白石が、そこで慌てて声を上げた。裏返りそうなほどの高い声が、つまりそのセリフがこいつのものだということを物語っている。
「ユキ、和美ちゃんはさ、お前に幸せにしてほしいわけじゃないんだって。ユキを幸せにしてあげたいわけでもないんだ」
「……」
「ただ、一緒に幸せになりたいだけだって」
その一言に、俺はハッと目を見開いた。
すぐそこにいる白石の顔は見れなかったけれど、自分のセリフを復唱される恥ずかしさからか耳を塞いでいるようだった。そんな俺達2人を見比べて、修司はニッコリと笑う。
「俺が伝えたかったのは、そのことだけ」
じゃあね、と踵を返すその後ろ姿は、こちらの返事を待たないままに階段の向こうへ消えていった。
「……あの、あれはそのぉ…」
さっきまで威勢の良かった白石は、自分の言葉をなぞられたことが恥ずかしかったようで言い訳するように口ごもる。耳まで真っ赤になり、熱さからか自分の顔を白い手で仰いだ。
「………」
俺はというと、口元に手を当てたまま思わず黙り込んでしまう。こいつが口にしたというその一言で、気づかされたからだ。
…どうして、俺も由香子も…相手にどれだけのことができるのかということばかりに固執していたのか、と。相手を幸せにしてやりたいと願う余りに、逆にその分相手に求めるものもでかくなってしまっていたんだ。本当は、してやったりしてもらったり…そんなことを望む関係性じゃないはずなのに。白石の言うように、一緒に幸せになれればそれで良かったはずなのに…。
「…あの、先生…」
黙り込んだ俺に、おずおずと白石が声をかける。さっきまでの勢いはどうやらなくなったようだった。どこか遠慮気味に…少し困ったような表情で首を傾げる。
「生意気なこと言ったのは分かってますけど…でも、それが私の本音なんです」
ぎゅっと胸の前で鞄を抱え込む腕に力をこめ、白石はそう言った。
「それとも…やっぱり先生も、高校生の言うことなんて子どものままごとみたいなものだと思いますか?」
……先生『も』……?
白石の言葉がどこに由来するものなのか瞬時には理解できず、俺は小さく首を捻る。そんなこちらの様子には気づいた素振りもなく、白石は言葉を継いだ。
「高校生の恋愛なんて…どうせ本気じゃないって…子どもが夢見てるみたいなものだって、思ってます?」
尋ねるその瞳が、わずかに切なそうに揺らぐ。その目に、瞬時にまたぶわっと記憶の波が寄せてきた。
あれは…由香子に出会う、もっとずっと前。
今の白石と同じ目をしていたのは…。
「……」
ドアを開けたままの態勢だった俺は、それを更に向こう側へ押す。白石が通れるくらいの幅に広げて…顎で中を指し示した。
「…入れよ」
蘇ってきた記憶。
こいつと同じ目をしたのは、あの時の自分だった。