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Sweet&Bitter  作者: みずの
過去の爪痕
26/152


 故意にではないけれども化学の授業をサボってしまった私は、そのせいで余計に先生と顔を合わせることができなくなってしまった。その後のHRでも授業でも、少し目線を外して黒板を見るか、下を向くか。それくらいしかできずに、その目を見る勇気はなかった。


 大好きだったはずの低い声が、塞ぐわけにもいかない耳に届く。それだけで胸は締め付けられるように痛み、あの日の苦しみが蘇ってきそうなほどだった。



 いつまでそうしているつもりか、自分でも分からなかった。このままでいいはずはないけれど、まだまともに先生の顔を見ることはできない。来週からは部活が始まってしまうので、顔を合わせる機会は格段に増えてしまうというのに…。





 事態がより悪化したのは、ある日の昼休みだった。次の授業が移動教室だったのだけれど、私は古文の教師に頼まれた雑務を終わらせていたら授業時間ギリギリに移動することになった。もう智子たちは先に行っているだろう。手提のバッグに次の授業で使うノートやらペンケースやらを急いで入れて、それと共に美術道具を手にする。チャイムが鳴る寸前の教室を飛び出して、私は長い廊下を急いだ。




「…きゃっ」

 角を曲がろうとしたところで、勢いよく誰かにぶつかってしまう。反動で思わず後ろに尻餅をついてしまいながら、私は「すみません…」と謝りながら顔を上げた。ぶつかった相手は、同じようによろけたようだけれど私のように本格的に床にお尻をつけてしまうほどではなかったようだ。

「廊下は走らないのよ?」

 苦笑いをしながら、うちのクラスの副担任である相澤先生は私に手を差し伸べてくれる。



「すみません」

 もう一度謝って、私はその手を取った。そうして立ち上がりながらも、手にしていた鞄の中身が辺りに散乱してしまっていることに気づく。慌ててそれを拾おうとペンケースに手を伸ばすと、先生は手伝おうとしてくれたのか長い髪を耳にかけながら私と同じように床にかがんだ。


「……」

 その相澤先生が、何かを拾おうとした手を一瞬止める。その動きにわずかに首を捻りながら手元を見て、私はハッと目を見開いた。先生が拾おうとしてくれた物は…一枚のCDだった。



「…没収」

 唇を歪めて苦笑を浮かべながら、相澤先生はそのCDを手にする。他にもCDやら雑誌やらを持ち込む生徒なんていくらでもいるけれど、こうして目の前にしては先生も黙殺するわけにはいかないんだろう。

「……あの…それは…っ」

 没収されても文句を言える立場ではないのだけれど、そのCDだけは私としてはマズイものだった。



 …あの日…本城先生に「もう返さなくていい」と言われたジャズのCD…。借りた時の嬉しかった気持ちやら何やらを思い出したおかげで、今でも毎日鞄に入れて持ち歩いてしまっていたんだ。…あんなにはっきりと拒絶された後なのに、自分でも諦めが悪いとは思うけれど…。



「没収って言っても形だけよ。預かっておくから、放課後には取りに来なさい」

 優しくて生徒に評判の良い相澤先生は、そう言ってニッコリ笑った。確かまだ24歳くらいで、いつもオシャレなスーツを着こなした美人の先生だ。だけど、そんな優しい先生の唇から次に放たれたのは私には残酷な言葉だった。



「でも、担任の先生には報告しなきゃいけないから…」

 まだ散らばったままだった残りのノートや教科書を拾い上げながら、相澤先生は続ける。

「これは本城先生に預けておくわね」

「……っ」

 私と本城先生にあんなことがあったなんて知らない相澤先生は、何でもないことのようにそう言って踵を返す。もちろん、先生は何一つ間違ったことは言っていない。そんなこと分かっているんだけれど…。



「……どうしよう…」

 5限の始業ベルが鳴る中、私は立ち尽くしたままそうポツリと呟いた。




******



 放課後になるまで散々迷った。

 由実には、「取りに行くしかないじゃん」と言われ…。

 智子には「返したと思って取りに行かなきゃいいじゃん」と言われた。茜だけは、言葉なくただ私を心配そうに見守ってくれていた。



 どうすればいいのか答えは出なかったけれど、渋々ながらも私はゆっくりと足を職員室へ向ける。散々迷って俯き加減に歩いている間も、ずっと頭の中はグルグルしていた。



 恐る恐る覗いた職員室、廊下から見える範囲に本城先生の姿はなかった。

「……」

 ホッとしたような、そうでもないような…複雑な心境で私は眉を寄せる。そこに丁度通りかかったなっちゃんが、「お、どうした」と声をかけてきた。

「…えっと…本城先生に用があって…」

 なっちゃんの背に合わせて顔を仰向けながらも、私はその目を直視することができなかった。なっちゃんは、きっと私が先生にフラれたことはわかっているだろうから…。



「ユキならこの時間は化学準備室だろ」

 言って、なっちゃんは私の頭の上にポンと手を置く。言葉はなかったけれど、何だか慰められている気分だった。

「…そう…だよね」

 小さく答えて、私は「行ってみます」と続ける。職員室に入っていくなっちゃんとはそのまま別れて、踵を返した。




 …足取りが、重い。




 教科棟の方へ移動しながら、私はため息まじりに歩いて行った。



 たどりついた化学準備室。周りには人気がなく、静かなものだった。何度か大きく深呼吸を繰り返し、私は握った拳に力をこめる。そしてその手でドアをノックしようと、最後にもう一度息を吸い込んだ。



 …ちょうど、その時だった。



「今日、白石さんから没収したものです」

 中から、相澤先生の声がした。その声に…私は思わず手を止める。ちょうどタイミング悪く、相澤先生があのCDを持ってきたところらしい。


「目の前で彼女が落としてしまって没収せざるを得なかったので…。取りに来ると思うので返してあげてください」

 それに返す本城先生の声は、聞こえない。今ここに入っていくのはどうかと思えて、私は仕方なく出直すことを決めた。



「それにしても…かわいいですよね」

 身を翻そうとしたけれど、クスリと笑いながら言ったような…相澤先生のその一言が聞こえる。なんとなくその言葉に足を止めてしまい、私は息を潜めてそこで耳を傾けた。


「ジャズなんて…きっと白石さんの趣味じゃないだろうし。彼女の想い人がきっとジャズ好きなんでしょうね」

「……っ」

 確かに、ジャズが好きな女子高生はそれほど多くはないだろう。それでも私が好きになったのは、何も先生と共通の話題が欲しいからという動機だけじゃない。あの日先生の家で流れていた音楽と…先生自身の指が奏でるメロディーに魅せられたからだ。



「好きな人の好きなものを好きになりたいなんて…とってもかわいい」

 続けた相澤先生の言葉の真意は、分からない。閉ざされた扉の向こうでは表情も見えないし、声からは判別もできない。…でも…何故か褒められている気は全くしなかった。



「ね、本城先生。高校生ってやっぱりまだまだ子どもでかわいいですよね」

「……」

 先生が、それにどう答えたのかは全くわからなかった。低い静かな声はここまで届かなかったし、それに応じる先生の「答え」を聞きたくない気持ちもあった。




(『子ども』…)



 大人な先生たちから見れば、そうかもしれない。でも私は…それでも真剣に好きなのに。

先生も、私の想いは子どものおままごとみたいなものだと思ってるんだろうか?


「…っ」

 そう思うと、胸がギリ、と鈍い痛みを訴えた。




 それ以上相澤先生の言葉を聞きたくなくて、私は今度こそ来た道を戻った。




******



 CDを諦め、私は家へ帰ろうと校門を抜ける。梅雨の時期だから天気は悪く、いつ降り出してもおかしくない曇り空だ。折りたたみの傘が鞄に入っていることを確認しながら、私は駅への道を急いだ。



 目の前に白い車が一台停まったのは、もうすぐ駅に着くという頃だった。スーッと停まったそれに、私はわずかに目を見開く。何で自分の目の前に、とか、一瞬で疑問はいくつも浮かんだけれど…。その次の瞬間には、それらの問いは全て解決してしまった。


「こんにちは、和美ちゃん」

 助手席の窓を開けて、運転席の方から身を乗り出した修司さんが笑顔を見せる。驚いて目を丸くした私は、促されるままに助手席に乗り込んだ。





「この前は…すみませんでした」

 迷惑をかけてしまったことは気になっていたけれど、修司さんの連絡先は一切知らなかったのでこの時までお礼を言うことは叶わずにいた。一番にそう言って頭を下げた私に、修司さんは人好きのするあの笑顔でニッコリと笑う。

「全然。気にしないで」

 言って、車を走らせた。

「この後何か予定ある?良ければちょっと付き合って欲しいんだけど」

 夕日が眩しいのか、修司さんは傍らからサングラスを取り出す。ちょうど真正面からの光が眩しくて、私の方のサンバイザーを下ろしてくれた。

「あ、はい、大丈夫です」

 小さく頷いて応じたけれど、私はどうして修司さんが私を誘いに来てくれたのかまだ理由が分からなかった。小首を傾げながら隣を見たけれど、修司さんの横顔からはそれは読み取れない。



「ちょっと遠出なんだけどさ」

 代わりに、そんな言葉を投げかけてきた。

「なんかすごい評判の良いカジュアルイタリアンの店がオープンしたらしくて。行ってみたかったんだけど、誰も捕まらなくて」

 苦笑い気味に言いながら、修司さんはハンドルを右に切る。ウィンカーの音が車内に流れるジャズのリズムと重なった。

「和美ちゃんが最後の頼みの綱なんだ。付き合ってくれる?」

 一人じゃさすがに寂しくて行けないし。と付け足して、修司さんはまた笑う。その言葉を受けて、ようやく私は全てを理解した。


 恐らく、誰も捕まらなかったなんて嘘だろうということ。そして、きっと修司さんが私を心配して様子を見に来てくれたんだっていうこと。



 そう気づくと、私も少しだけ微笑み返していた。

「修司さんって、モテそうですよね」

 言うと、前を向いたままだったけれどサングラスの下でわずかに目を見開く。「俺が?全然」ニヤッと笑って言う辺り、やはり本当はモテるんだろうと思う。



「あ、でも私、制服ですけど…」

「大丈夫だよ。堅苦しい店じゃないし、それに制服は正装でしょ」

「…はぁ…」

 そういう意味でもなく、ただ20代半ばの男の人が制服の女子高校生を連れることに抵抗があるんじゃないかと思ったんだけれど…。意外に修司さんはその辺は気にしないようで、平然とそんな風に答えてくれた。



 お言葉に甘えることにして、私はそれまでより少し深くシートに座り直す。なっちゃんや先生の車と違って煙草の匂いすらしないその車内は、少し広めでとてもキレイに掃除されていた。恐らく、修司さんは結構車が好きなんだと思う。



「ところで、風邪引かなかった?この前」

 話を戻して、修司さんはそう尋ねてくれる。瞬時にあの日の痛みが蘇ってきそうだったけれど、悲しい顔は見せたくないので微かに微笑み返した。

「はい、大丈夫でした。昔から体は丈夫なんで」

「はは、そりゃ頼もしい」

 笑って言う辺り、修司さんとしては私が風邪を引くだろうと予想していたらしかった。それはそうだろう。結構な雨に降られたのだから…。



「…修司さん」

 改めて呼びかけると、修司さんはちょうど車を信号待ちで停止したところでチラリと横目で私を見た。それに気づかないフリをして、私は膝の上でつくった拳にキュッと力をこめる。

「…あの、私、先生にフラれちゃったんですけど……聞きました?」

 俯き加減で目は合わせないまま、私はそう尋ねた。それに少しの沈黙の後、修司さんは再び車を走らせる。窓枠に右肘をついた体勢でハンドルを操作しながら、まっすぐの道を突き進んでいった。

「…いや」

 小さく、答える。

「詳しくは聞いてない。何となくあの後のユキの様子で俺も貴弘も気づいちゃったけど」

「…そう…ですか」

 確かに、先生は自分からは話さないかもしれない。それでもなっちゃんと修司さんなら、感づいて悟りそうだ。



「それが…フラれたというか…そもそも相手にもされなくて」

 智子たちにも、まだ辛くて詳しくは話せていない事実。だけど誰かに聞いてほしかったという矛盾した想いもあって、私はこの時初めて縋るような思いで口にしていた。

「告白…したんですけど、『聞かなかったことにする』って…」

 思い出しただけでも涙が出そうだった。だけどそれも何とか堪えて、私はあの日の先生とのやり取りをそう話した。本当にそこまでは予想していなかったらしい修司さんは、私の言葉に少しだけ目を瞠る。意外そうに眉を持ち上げた後、それでも口を挟むことなく私の話を聞いてくれた。



「…修司さん、あの時言いましたよね…先生の傷は深いって…」

「……」

 前を向いたまま、修司さんは無言で小さく頷く。それを確認してから、私は伏せ目がちに呟いた。

「それって…一体どれくらいなんですか?私の告白を、聞かなかったことにしたいぐらい?答えを出すまでもなく…なかったことにしたいくらい?」

「………」

 黙ったまま、修司さんはしばらく答えなかった。


 少しの間思案するように眉を寄せて…ただ車を走らせる。やがて夕日が更に傾き段々とオレンジ色の空に影が差すまで、どちらも口を開こうとしなかった。



「…和美ちゃん」

 どれくらいの沈黙だっただろう。

 流れていたジャズのCDが一周したらしく初めに戻ったところで、それを合図にしたかのように修司さんが再び口を開いた。

「はい」

 少しだけ姿勢を正して答えると、修司さんは前を向いたまま続ける。



「ユキと由香子さんが、どうして別れたのかは俺からは話せない」

「……はい」

「でも、2人がどういう付き合い方をしてたのか…それだけは教えてあげられるよ」

 言って、修司さんはようやくこちらを振り返った。



 …その目は…もうさっきまでのように笑ってはいなかった。




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