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Sweet&Bitter  作者: みずの
過去の爪痕
25/152

2 side:Yukisada


『お前には誰も幸せになんてできない』

 昔自分にそう言ったのは誰だったか…。


『お前自身が幸せになる資格もない』

 言い聞かせるように説かれた言葉は、突き刺さるように今も自分の胸に残っている。



 …そう。


 そう俺に言ったのは、確か……。








「本城先生」

 高めの声に呼びかけられて、俺はハッと我に返って顔を上げた。

 授業中の職員室。今はちょうどどこのクラスも受け持っていないため、職員室で雑務を片付けていたところだった。

「顔色が優れないようですけど…大丈夫ですか?」

 そう言ってコーヒーを差し出しながら、うちのクラスの副担任、相澤沙織はそう尋ねてきた。「どうも」とそれを受け取って、俺は再び机の上の書類に視線を落とす。

「単なる寝不足です」

「そうですか」

 答えると、相澤はニコリと笑って隣の自分の椅子を引いた。


 彼女も、今はどこのクラスも受け持っていないらしい。担当の英語の教材を広げながら、仕事を始める。

「あぁ、相澤先生」

 思い出しながら、俺は再び呼びかけた。振り返った彼女が、少し首を傾げてみせる。

「今朝はSHRありがとうございました」

 言うと、「いいえ」ともう一度ニコリと笑った。

「とんでもないです。校長先生から頼まれてた雑務、終わりました?」

「何とか、おかげさまで」

 答えて俺は、再び自分の仕事に戻る。



 そう、偶然にも今朝は朝一でやらなくてはならない仕事が舞い込んできて、定刻通りに学校に出勤することができなかった。おかげで白石と顔を合わせなくて済んだ…と安堵している自分と、そのせいで余計に今日の化学の授業で会うのが気まずくなる予感がしている自分がいた。

 まぁ元より、生徒は他にもたくさんいる。私情を出して授業を行うわけにもいかないので、いつも通りを装うしか俺には術はないのだけれど。



 仕事をしている途中で少しでも集中力を欠けば、すぐに昨日の白石の泣き顔を思い出す。そういえば、結局最初から最後まで泣かせていた気がする。

「……」

 自己嫌悪に陥りそうになったりもしたけれど、そうして落ち込むことすら今の自分には許されない気もした。




 …正直、まさかあんな告白を受けるとは思っていなかった。あいつが好きなのは都築なんだと俺は本気で思っていたし、それが一番自然だと考えていたから。



 …そう言えば、自分の気持ちを云う時だけはあいつも泣いてなかったな。ふとそんなことに気づくと、胸がより一層痛んだ気がした。




 そこで、3時間目終了のチャイムが鳴る。次は自分のクラスで化学の授業がある。ため息まじりに授業の準備をして、俺は始業のベルと同時に教室に入れるように職員室を後にした。




「きりーつ」

 日直の号令で、生徒たちが立ち上がる。

「礼」

 一礼して席についた生徒たちを眺めてから、俺は出席簿を開いた。

「欠席は島村だけだな」

 言いながらチェックをして、ふと顔を上げる。それから、真ん中の列の後ろの方の座席がぽっかりと空いていることに気がついた。

 あそこは……。



「白石はどうした?」

 誰とはなしに尋ねると、前の方の席で江口由実が手を挙げた。

「具合が悪いそうで保健室でーす」

 白石の仲の良い友達の一人だ。間延びするように言いながらも、目はまっすぐに俺を睨み据えている。昨日のことを既に聞いているのかどうか定かではなかったけれど、俺が関係していることぐらいは分かっているんだろう。

「そうか。授業始めるぞ」

 何でもないことのように言って、俺はすぐに教科書を開く。

 その日の授業中、江口がずっと不満そうに睨みつけてくるのには思わず苦笑いしかけた。白石の友達の中では、江口が一番分かりやすい性格をしていると思う。




「…ここまで、ちゃんと復習しとけよお前ら」

 授業が半分ぐらい進んだところで、俺は当初の予定通り教科書を閉じた。

「よし、じゃあ小テストやるぞ」

「えっ、聞いてねぇよ先生」

「言ってねぇからな。おら、隣と机離せよ」

 うげっという表情で絡んでくる生徒を適当にあしらって、俺はそう指示をする。


 一様にブーイングを起こしながらも、言われた通り隣との間隔を取り始める辺りこいつらは素直だと思う。残り時間いっぱい使わせるつもりで問題用紙を配ると、それぞれテストに取り組み始めた。

 教壇からその様子を眺めていたのは、10分くらいだっただろうか。集中しきっている生徒は恐らく気づかなかっただろう。そっと俺は教室を抜け出た。俺がいなくなったところで、あいつらは騒ぎ始めたりカンニングをしたりすることはないと分かっている。

 こういう時、やはり進学校の生徒はやりやすい。



 白衣を翻して、俺は廊下を音をたてないように歩いた。隣のクラスからはまた貴弘が授業の合間にバカ話をしているのか、生徒たちのドッと笑う声が聞こえる。その前を素通りして、さしかかった階段を足早に降りた。



 隣の校舎の1階の一番奥。目的の場所にたどり着くと、そこのドアには「担当不在」の札がかけられていた。…いつも思うが、この学校の保健医がここにきちんといたことの方が少ない気がする。それでも評判の悪くない保健医の顔を思い出しながら、俺は小さく肩を竦めた。



「……」

 中は、静かなものだった。物音一つしない、誰もいない。

 ベッドの一つにカーテンの仕切りがされていたので、恐らく白石はそこにいるのだろう。


 来て、どうするつもりなのかはあまり考えていなかった。昨日散々傷つけておいて、できる話も何もない。ただ、やはり自分のせいで体調を崩させたのかと思うと心配にもなったのは当然で、様子が見たくなっただけだ。できれば、眠っていてくれとさえ思う。



 カーテンのすぐ傍まで移動すると、中からは微かだけれど規則正しい呼吸が聞こえてきた。

「……」

 恐らく、本当に眠っているのだろう。安堵の息を漏らして俺は胸を撫で下ろす。それから、音をたてないようにそっとカーテンを引いた。




 そこで横たわっていた白石は、恐ろしく白い顔をしていた。貧血気味なのか、それとも俺と同じ睡眠不足なのか…。どちらにせよ、やはりあまり体調は良くないのだろう。あれだけ雨に打たれて風邪を引くんじゃないかとさえ思っていたから、熱がないだけまだマシだったかもしれない。


 たまに、何か夢を見ているのか眠ったまま眉を寄せる。苦しそうに少し唸るような表情を見せていた。それをなだめるように、俺は思わずその髪に触れていた。梳くように撫でると、白石の唇が微かに動く。

「……せん…せい…」

「!?」

 起きているのかと思って一瞬手を引き戻しかけたけれど、どうやら眠ったままのようだ。ホッと息をついてから、俺は余計に胸が痛むのを感じる。こんなに辛い思いをさせているのは自分だと、自覚があったからだ。そんな白石の目からは、眠っているのに涙が一筋零れ落ちた。




「……」

 その頬を包みこむように触れて、親指で涙を拭ってやる。少しだけ身じろぎした白石は、それでも目を覚ますことはなかった。




 本当なら、昨日のあの時だって俺も自分の気持ちを云ってしまいたかった。それでもそうできなかったのは、俺の弱さ故だ。分かってる。…分かっているけど、どうしようもない。またもう一度昔と同じように、今度はこいつを傷つけるようなことはしたくなかったからだ。




「…っ」

 いつぶりだろう。思わず、泣きそうになる。



 同じように泣きそうな表情で眠る白石に、引き寄せられた。髪を梳くようにしながら、色の薄い唇に一瞬だけ自分のそれを重ねた。



「……ごめんな…」

 聞こえないとわかっているけれど、俺はそう呟いた。そしてそのまま、身を翻す。

 眉間に皺を寄せていなければ、4年前のあの時涸れたはずの涙が零れだしそうだった。



 飛び出すように開けた保健室のドア。

「っ」

 ちょうど入ってこようとしていた生徒がいたらしく、俺は出ようとした瞬間に思い切りぶつかってしまった。

「…悪い」

「いえ、こちらこそすみません」

 泣いてはいなくても泣きそうな俺の顔に気づいたのか、そいつが謝りながらも少しだけ驚いた顔をしているのが分かった。

 …貴弘のクラスの、向井直。どちらかというと、やっかいな人間に見られなくてすんでよかったという思いもある。謝る向井にできるだけ今の顔を見られたくなくて、俺はそのまま早足にそこを後にした。




******



 携帯電話にメールが入ったのは、放課後になってすぐだった。『仕事が終わったらすぐうちに来てー』と、緊張感の欠片もないメール。ため息まじりにそれを見て携帯を畳み、俺はそれを胸ポケットに押し込む。…乗り気ではなかったが、昨日の礼を改めて言わなくてはならないと思っていたから行くしかないだろう。




 仕事を終えてその呼び出されたマンションに着いた時、時刻は18時を回るところだった。オートロックでもないので、昔からの習慣でチャイムも鳴らさずそのままドアを引いた。玄関に入った瞬間、そこに主以外の靴が並んでいることに気がつく。それに思わずため息を漏らして、俺は遠慮なくリビングへと上がりこんだ。



「お、来た来た、人でなし」

「ろくでなし」

「人殺し」

「……」

 明らかに最後の一つは違うだろう。ツッコミを入れるのも面倒で、俺はとりあえず言った張本人の頭をはたきながらその隣に座った。


 叩かれた貴弘はそれでも笑いながら、ビールの缶を片手にしている。まだ18時だというのにすっかりできあがりそうになっているところが空恐ろしい。



「修司、これ悪かったな」

 昨日預かったバスタオルを返しながら、俺はメールをしてきた張本人にそう言った。

「傘は玄関のとこに置いてきた」

「あー、うん、了解」

 笑って立ち上がると、修司は冷蔵庫から新しいビールを持ってくる。俺に手渡しながら、向かい側に座った。


 男一人暮らしの狭いキッチンでは、拓巳が何やら夕食の準備をしていた。俺に『ろくでなし』発言をしたあいつは、それでも素知らぬ顔でフライパンの上の物をひっくり返している。その姿を見て、思い出す。先月そう言えば、拓巳が妊娠した報告を受けたことを。取り出しかけたポケットの中の煙草を諦めて、俺は代わりにビールの缶を開けた。



「昨日、大丈夫だった?和美ちゃん」

 尋ねてくる修司に、俺は「あー」と曖昧な声を漏らす。

「悪かったな、ホントに。助かった」

「いや、俺は大丈夫なんだけどさ」

 笑って言う修司は、答えをはぐらかされたことに気づいているはずだった。それでもそれ以上追求しようとしなかったのは、こいつの優しさ故だ。



「大丈夫なわけねぇだろ」

 代わりに、優しさの欠片もない奴が口を挟む。

「泣きはらした顔で数学の授業中も上の空。こっぴどいフリ方したんだろ、お前」

 いつもよりやけにつっかかるような言い方は、貴弘がどうやら本気で怒っているらしいことを物語っていた。

「えっ、先輩、和美ちゃんのことフッちゃったんですか?何で!?」

「それがこいつのわけわからねぇところだ」

 拓巳の驚きの声に、貴弘が不機嫌そうに応じる。



「お前さ、何が引っかかってるわけ?」

 つまみを口に放り込みながら、貴弘は眼鏡の向こうで鋭く俺を睨みつけた。

「白石が好きなのは都築じゃなくて自分だって分かったんだろ?それでも受け入れられないっておかしいんじゃねぇの」

「……お前に関係ねぇだろ」

 ビールを呷って、俺は低くそう答える。

「大体、何でお前がそこまで事情知ってんだよ。白石はお前にそこまで何でも話すのか」

「んなわけねぇだろ。昨日お前との約束の場所に行くって言ってた時のあいつの顔見れば、告白するなってことぐらい嫌でも想像できる」

「……」

 貴弘から視線を逸らし拓巳と修司とを見比べてみたけれど、どうやら2人も白石が俺のことを好きだということを知っていたようだった。

「…っ」

 小さく舌打ちして、俺はこの上ない居心地の悪さを感じた。



「お前やっぱり、まだ引きずってんだな」

 馬鹿にしたように鼻を鳴らして、貴弘は言う。

「昨日も言ったけどよ、白石には関係ねぇ話だろ」

「……」

「お前、まだ由香子さんに未練があんのか」

「…っ」

 貴弘の言葉に、俺はギッと睨みつけ返す。拓巳が少しオロオロしてこちらを伺っているのが視界の片隅に映った。

「その名前を出すなって言ってあるだろ!」

 怒鳴るように言うと、貴弘はそれでも萎縮すらせずにあざ笑う。

「ほらな、その反応が引きずってる証拠だ」

 馬鹿馬鹿しい、と付け足して、貴弘は俺から目を逸らした。


「お前に何が分かるんだ」

 言うと貴弘は目を逸らしたまま首を竦める。

「何も分かんねぇよ。ただ過去から目を背けて逃げてる奴の言うことなんて分かりたくもねぇ」

「…!」

 ギッと唇を噛み締め、俺は思わず拳を握りしめていた。次の瞬間、バンッと乱暴にテーブルを叩く音が響く。何が起こったか一瞬分からず、俺は自分でも無意識のうちに握った拳をそこに叩きつけたんだったかと本気で思ったほどだ。



「……」

 貴弘も俺も、目を見開く。テーブルを叩いたのは俺でもあいつでもなかった。


「…いい加減にしろ、貴弘」

 怒った目をした修司が低い声でそう言った。



「いくらなんでも言いすぎだ」

「『言いすぎ』?」

 修司の言葉すら、貴弘は鼻で笑う。テーブルに拳を振り下ろした態勢のまま、修司は貴弘を見据えた。

「お前が言いたいことも分かるよ。だけど言いすぎだ」

「……」

「ユキは、屈折しすぎだよ。俺もそう思う。だけど、貴弘はまっすぐすぎる。正論なら何を言ってもいいわけじゃない。お前のは度が過ぎれば単なるキレイごとだよ」

 こんな風に貴弘にくってかかる修司を見ることは今までになかったので、俺は思わず自分のことなのに傍観してしまう。拓巳も、意外そうに目を見開いたまま固まっていた。



「もっと人間らしい感情、理解できない?正論とキレイごとだけじゃ説明できないことだっていくらでもある」

「……」

「ちょっと頭冷やせ、2人とも」

 言い切って、修司は喉を潤すためにビールを注ぎこむ。それを見やっていた貴弘は、何か思うところがあったのか黙り込んだままだった。


「…帰るぞ、理沙」

 やがて、そんな一言と共に立ち上がる。修司はそれを止めようとしなかったし、拓巳はその言葉に慌てて頷いた。



 今は俺と貴弘を離した方がいいと判断したんだろう。拓巳と修司は、何か短くアイコンタクトをしたようだった。



「最後に1つだけ聞くけどよ」

 少しクールダウンしてきたのか、声のトーンを落として貴弘は肩越しにこちらを振り返った。俺に向けた言葉を、低い声で放つ。

「いつから、白石がお前のこと好きだったと思う?」

 問われて、俺はわずかに目を瞠った。



 それは、確かに昨日から考えてみていたことだ。だけど正解なんて分かるはずもなかった。

「…知らねぇ」

 俺も段々と落ち着きを取り戻しながら、続ける。

「どうせ最近じゃねぇの?修司んとこのジャズバー連れて行ってやったから、とか」

 思い当たるとすれば、そこくらいしかない。女子高生に「恋に恋させる」分には十分な要素だっただろうから。



「お前さ、白石が他の生徒と同じようにミーハー気分でお前のこと好きだって言ってると思ってるだろ」

「……」

 半ば図星を指されて、俺は返す言葉もなく口を噤む。

「白石がお前のこと好きになったのは…去年の入学式前だ」

「…?」

 眉を寄せて、俺は貴弘の背中を凝視した。



「会ったんだろ?入学式前に、学校裏の公園で」

「!」

 それは、貴弘が知るわけもないはずのことだった。俺は一度も話したことがないんだから。つまり、白石本人から聞いているということで…。あの時のことなんて、あいつは覚えていないと思っていたせいで俺は思わず動揺してしまう。



「じゃあな、バカユキ。お前も頭冷やせよ」

「…どっちがっ」

 言いかけた言葉を、修司に制止された。拓巳もこれ以上はまずいと思ったのか、貴弘の背中を押し出すように帰っていった。





「ユキ、明日貴弘に謝りなよ」

 2人が帰った後、修司が片づけを始めながらそう言う。

「お前どっちの味方なんだよ。さっきは俺の肩持ってただろ」

「俺はどっちの味方でもないよ」

 笑って言いながら、修司は空になった缶を集め始めた。

「喧嘩両成敗ってこと」

「……ふん」

「貴弘もさ、悪気があるわけじゃないんだから…。あれでユキのこと心配してるんだ」

「……」

「それ以上に、和美ちゃんのことが心配なんだろうけどね」

「…わかってるよ」

 貴弘があんなにも突っかかってくるのは、俺と白石のことを本気で考えてくれているからだ。そんなこと、頭では分かっているんだが…。




「……あ」

 そこで、不意に思い出した。




『お前には誰も幸せになんてできない』

『お前自身が幸せになる資格もない』

 あの時、そう俺に言ったのは誰だったのか。




 そう、4年前のあの時俺にそう言ったのは…。





 由香子を失くした時の、俺自身だったんだ。






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