表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Sweet&Bitter  作者: みずの
雨と涙の告白
21/152



 …嘘…でしょ。




 茫然と、私は立ち尽くす。目の前に広がるのは一枚の紙。

 無造作ではなくむしろ小洒落た風に貼り付けられたそれを、恨めしそうに眺めてしまった。



 学校を飛び出して、まっすぐにジャズバーへやって来た。覚えているそのバーのある地名から最寄り駅を調べだし、電車を乗り継いで来た。それなのに、ようやくたどり着いたそこは地下へ下るあの階段の入口にシャッターが閉ざされてしまっていたのだ。そこに貼り付けられた紙に、『マスターの都合により臨時休業致します』の意の挨拶文。




 …ついてない。



 ガクリと肩を落として、私はそのシャッターにもたれかかった。カシャンと音をたてたそれが、迷惑そうに軋む。




 先生の姿は、あるわけもなかった。

『行かないぜ、俺は』

 あの時のそんな一言すら反芻される。



 表通りから一本裏に入った通りにあるので、そこは静かなものだ。たどりついた時刻はもうすぐ6時になろうとしている頃で、段々と空が薄く闇を落とし始めていた。…自分は、何時まで待てるだろうか。


 …いや、何時まででも待つつもりだった。制服で中に入れないのは分かりきっていたので、店の前で先生を待つつもりでいた。それならば店が開いていなくたって同じ条件だ、いつまででも待てる。休業の紙を恨めしそうに見上げるのはやめて、私は自分を奮い立たせる意味で小さく首を振った。




「……」

 うずくまるようにしてそこに座り、鞄を抱え込む。そうしていると、たまに「お嬢ちゃんどうしたの?」とニヤニヤしたサラリーマンが声をかけていくこともあった。聞こえていないフリをして無視していると、それ以上近寄って来られることもなかったけれど。



 6月になって大分日が落ちるのが遅くなってきたと言っても、手首の時計が7時を指す頃にはもう辺りは真っ暗になり始めていた。元々天気が良くなかったということも手伝って、街があっという間に闇色に染まっていく。

「…さむ…」

 今日から衣替えだったのが良くなかった。ブレザーは家に置いてきてしまったし、ニットのベストも夜にはあまり役に立たない。加えてそんな寒さに身震いした頃には、私は頬にポツリと落ちる雫に気がついた。



「…最悪…」

 見上げると、そこにはポツリポツリと透明の雨が降ってきていた。徐々に地面を濡らしていくそれが、すぐにザーッと激しい音に変わっていく。慌てて身を縮めて数歩隣へ移動したけれど、そこには短い庇のようなものがあるだけで、屋根があるわけではない。ほとんど雨宿りの役目を果たしてはくれず、頬を冷たい雨が打ち付けていった。



 …冷たい。



 鞄の中から大きめのハンドタオルを取り出して、頭に乗せることしか凌ぐ方法はなさそうだった。




 先生は…やっぱり来てくれないんだろうか。


 きっと来てくれると信じたいところだったけれど、そう弱気になりかけたのは7時半になる頃だった。雨で額に張り付いた前髪をうっとうしくかきあげて、私は思わず吐息を漏らす。


 どうしても、今日先生に会いたかった。会って話がしたかった。

 もうジャズバーで先生のピアノが聴きたいなんて当初の夢は忘れてしまっていた。

 ただ、会ってもう一度話がしたい。それだけなのに、どうして叶わないんだろう。


 私は、そんなに無謀なことを願っているんだろうか?




「……っ」

 もう、頬を伝っていくのが雨なのか涙なのか自分でも分からなかった。込み上げてくる嗚咽をこらえることしかできなくて、私は膝をかかえこむ。そうしてどれくらいの間小さくなっていただろう。



 …やがて、雨がやんだ。


 いや、雨の音は相変わらずだったのに、私の頭上に降らなくなった。

「…?」

 目線をあげかけた私の頭に、続いてパサッと何かが降ってくる。温かいその感触に、それがつまり大きなバスタオルだと気づいて私は力ない目を頭上に向けた。

「…風邪引くよ」

 いつもの笑顔は見せてくれず、そこに立っていた修司さんは真顔でそう言った。




******



「和美ちゃん、帰ろう」

 …先生じゃ、なかった。

 そう思ってまた膝をかかえてそこに顔を埋めた私に、修司さんは優しくなだめるように言う。ブンブンと首を横に振って応えて、私は心の耳を閉ざした。修司さんの声が聞こえないフリをして、自分の身を抱える腕にギュッと力をこめる。



 どうして修司さんがここにいるのか…考えるまでもなかった。…きっと、先生に頼まれたからだ。それはつまり…彼がここに現れたということは、逆に言えばもう先生はここに来ないということで…。それが分かっていても、私はどうしてもここを動く気にはなれなかった。



「和美ちゃん」

 前に会った時より少し厳しい口調で、改めて呼ばれる。分かってる。修司さんは本気で私の心配をしてくれているだけなんだ。

「…っ」

 それでも、私は首を横に振るしかなかった。



「……」

 どれくらいそうしていただろう。私に目線を合わせてかがんでくれていた修司さんが、フーっと長いため息をついた。

「…分かった」

 持っていた傘を私に握らせて、立ち上がる。

「ちょっと待ってて」

 踵を返して、修司さんはひどい雨の中を走り出して行ってしまった。




 そんな彼が戻ってきたのは、10分くらいしてからだっただろうか。その間も一歩も動く気になれず、私はまるで忠犬のようにそこに居座り続けた。微動だにしていない私を見て少し困ったように笑った修司さんは、戻ってきてすぐに私に何かを差し出してくる。

 表通りにあるコーヒーショップの、温かいココアだった。



「何時まで待つつもり?」

 私にそれを手渡しながら、修司さんはそう尋ねる。

「……何時まででも」

 弱々しく答えながら、私は寒さと冷たさで震えそうな手でそれを受け取った。


「それはダメだ」

 私の隣に座りこみながら、修司さんは言いながら自分の手にしたカップに口をつける。匂いからブラックコーヒーなのだと想像できた。

「和美ちゃんがあまりにも頑固だから、ユキが来るまで俺も付き合うよ。でも、高校生だから9時まで。それで来なかったら俺が送っていくから帰ろう」

 譲歩するように提案されて、私は困惑したように眉を寄せる。

「…せめて今日のうちは待ちたいです」

「……じゃあ間を取って10時まで」

 どこが「間を取って」なのか理解できなかったけれど、私はそれ以上ツッコミを入れる気にはならなかった。頷くこともしなかったけれど反論しなかったので、修司さんも納得してくれたようだ。



「…ごめんなさい」

 譲れない部分は言葉通り譲れないので、代わりに私は小さく謝る。するとようやく修司さんはこの前会った時と同じような笑顔を向けてくれた。

「俺は別にいいんだよ」

 頭に乗せられたバスタオルで、修司さんは私の頭を優しく拭いてくれる。

「かわいいお嬢さんのお相手ができて光栄です」

 笑って冗談を言う修司さんの言葉に、ようやく私も少しだけ笑い返すことができた。




 修司さんと2人になって少し心強くなったせいなのか、雨音が少し落ち着いた気がした。地面を叩くその雫の跳ねる様を、2人で言葉なくただ眺める。一本の傘は修司さんが持ってくれていて、更にこちら側に傾けてくれている気がする。申し訳なくて謝りそうになったけれど、それ以上言うと逆に怒られそうにも思えた。



「…和美ちゃんはさ」

 やがて、長い長い沈黙の後に修司さんが重そうに口を開く。それまでは、遠慮して私に話しかけるかどうか考えていたのかもしれない。

「何でユキにそこまで本気なの?」

 尋ねられて、私は少しだけ目を瞠る。そのまま横を振り返ると、修司さんは「…いや」と唇を歪めた。


「ごめん、言い方が悪かった。ユキがイイ奴なのは俺ももちろん知ってる。でも、あいつちょっと難しいタイプでしょ?和美ちゃんみたいな子がわざわざ好きにならなくても…って思うんだけど」

「……」

「しかも教師でしょ?同じ学年とかにもっと付き合いやすい奴いるでしょ」

 当然の疑問だと思う。嫌味でもなんでもなく、修司さんが普通にそう思っているのが分かる。

「俺から見てて、和美ちゃんは『先生好きー』みたいなミーハーな女子高生とは違うみたいだし」

 付け足すように言って、修司さんはまたコーヒーを一口飲んだ。

「……」

 でも、一言で答えられる質問でもなかった。どうして本気なのか……そう聞かれると、『本城先生だから』としか言えないような気もする。ただその意味を説明するのが困難なので、私は思わず黙りこんでしまった。



「…ユキは、難しいよ」

 私が答えなかったせいなのか、修司さんは今度はポツリとそんな呟きを漏らした。

「抱えてる傷が深すぎる」

 今日のなっちゃんと同じことを…口にした。

「和美ちゃんは、それを受け入れられる?癒す覚悟がある?」

 わざと、意地悪な聞き方をしているようだった。修司さんにしては珍しい言い回しだとも思ったけれど、それは逆に修司さんがそれだけ先生のことを心配していることの表れでもあった。


「…分かりません」

 正直に、答える。囁くほどでしかなかった声に、修司さんは少し目を見開いた。

「先生の傷を『受け入れる』とか『癒してあげる』とか…そんなこと考えたこともなかったから」

 再び膝に顔を埋めて、私は続ける。

「ただ…私は先生と一緒に傷ついて、笑って…って、そんなことしかできないと思います」

 癒してあげるなんて、うぬぼれたこと言いたくない。せいぜい自分にできるのは、『一緒に』泣いて笑うことだけだ。



「………」

 私の答えを受けた修司さんが、少し口元に笑みを浮かべる。控えめに笑っていたけれど、どこか本気で嬉しそうだった。

「…由香子さんに聞かせてやりたかったな、そのセリフ」

「………え?」

 聞き逃しそうになったその声に、私は思わず眉を寄せる。それをスルーした修司さんが、不意に顔を上げた。



「…8時50分。いい時間だったね」

 修司さんの言葉の意味が分からず、私も顔を上げる。そうして隣の彼を見やると、修司さんは通りの向こうを見ていた。



 …そこに、一つの影。



「じゃあね、和美ちゃん。約束の時間だ」

 立ち上がった修司さんが、再び傘を私に握らせた。



 私はというと…その向こうの影に目を奪われていて…。そのまま立ち去ろうとする修司さんに、お礼を言うことすら忘れてしまっていた。



「ユキ、バトンタッチ」

 傘も持たずに歩き出した修司さんが、先生の横をすり抜ける時にその手から傘を奪い取る。それに抵抗することもなく譲り渡した先生が、代わりに雨に打たれることになった。



「…」

 ボソリと何かを修司さんに囁いた先生が、そのままこちらにやって来る。私はまるで、スローモーションを見ているようにそれを眺めていた。胸のどこかでは信じられないという気分があって、自分の目を疑ってしまう。



 正直、修司さんが来てくれた時点で半ば諦めていたから。それでも自分が納得できるまでは帰りたくなくて、意地になっていたから…。




「…先生…」

 自分が夢を見ているわけではないことを確認するため、私は小さく呼びかける。相変わらず険しい顔をした先生は、それに応えることもなかったけれどまっすぐにこちらに歩いてきてくれた。その姿に、夢ではないことをゆっくりと理解する。会いたかったその姿に、私は再び涙が溢れ出すのを実感した。



「…先生!」

 叫んで、私は立ち上がると同時に走り出していた。傘とバスタオルが地面に落ちて濡れたけれど、今はそんなことはどうでも良かった。水たまりを蹴って、しぶきが跳ねることすら気にならなかった。



「…っ」

 体当たりするように、私はその大きな体に抱きついた。温かい腕の中で、こらえきれずに涙が次から次へと溢れてくる。


 そうして私は、しばらくの間子どものように声を上げて泣いた。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ