表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Sweet&Bitter  作者: みずの
このささやかな幸せを
2/152

2 side:Yukisada

 珍しく、その日は早朝から目が覚めた。いつもなら休みの日曜日は気が済むまで寝ている方だ。気づけば太陽が空高く昇っていることもあるし、あまり早く目が覚める方ではない。しかしこの日ばかりは勝手が違ったので、早起きしてしまうほど今自分の精神状態が思わしくないのだと自覚させられる。



「…くそ」

 ベッドから上半身を起こしてすぐ、サイドボードに置いてあった煙草に手を伸ばした。思ったより自分は機嫌がすこぶる悪いらしい。手が滑って一度で点かなかったライターにまでイライラしてしまう始末だ。




 朝食を摂る気にもなれなかったので、俺はそのまま身支度だけを整えて家を出た。もうかれこれ5年近く住んでいるボロアパートのドアを乱暴に閉めて、朝早いというのに迷惑も考えずに音を立てて階段を下りる。アパートの前に止めてあった車に乗り込み、エンジンをかけるとそのまま学校へと向かった。

 今日は日曜だから、部活の生徒以外はいない。仕事がはかどるので休みの学校は嫌いではなかった。

 どうせ今日の自分では他に何もする気がしない。ちょうど残った仕事もあったことだし、学校でそれを片付けようと思った。




 だがそんな俺の思惑も、数時間で破られることになる。静かすぎる校舎内の最も静かだった化学準備室で、仕事は思ったよりはかどっていたというのに…。昼前になって、その静寂が遠慮もなく破られてしまった。

「おつかれさん」

 軽いノックの後、こちらの返事も待たずにドアが開けられる。そんな言葉と共に現れた来訪者を見て、俺は思わず口にした煙草を噛んでしまいそうになったほどだ。イライラする休日に、この悪友の顔は見たくなかった。



「……何しに来たんだ」

 低く唸るように言うと、大学時代からの悪友・名取貴弘は俺に向けて「ゴアイサツだな」と呟いて苦笑して見せた。




******



「これ、差し入れ」

 化学準備室に入ってきながら、貴弘は手にしていた袋を軽く上げた。学校の近くにあるパン屋の袋で、ここのパンは結構うまいと生徒たちの間でも評判だった。

「どうせ今日もろくに食わずに仕事してんじゃねぇかと思ってさ」

 俺の前に袋をバサッと下ろしながら、貴弘は隣にある椅子を引いた。勧めてもいないのに遠慮なくドカッと座り、まるでそこの住人のようだ。


「…悪いな」

 短く答えて、俺は立ち上がる。近くにあるポットの元へと移動して、パックになっているドリップコーヒーをカップにセットした。…招かれざる客ではあるけれど、それなりにもてなさないと何を言われるか分かったものじゃない。



「何しに来たんだ、お前」

 ドリップにお湯を注ぎながら尋ねると、貴弘は「うーん」と首を捻る。とぼけるつもりなのか否か、こちらからは判別が難しい表情だ。

「特に用事はないんだけどよ、今日機嫌悪ぃだろうなぁと思って様子見に来た」

「機嫌悪いのが想像できてるんなら来ないで欲しかったけどな」

 サラリと答えてから、俺は貴弘の前に淹れたばかりのコーヒーを差し出した。「サンキュー」と短く礼を言いながら、あいつは肩を竦めてみせる。

「やっぱり機嫌悪ぃな」

 揶揄するように言って、小さく苦笑を漏らした。



「そもそも、何で俺の機嫌が悪いと思ったんだ?」

 自分の分のコーヒーも淹れ終わり、俺はそれを持って椅子に戻る。ギィっと音をたてながらそこに腰を下ろすと、隣で貴弘がコーヒーをすすりながらわざとらしく空を見据えた。

「それは内緒」

「…?」

 眉を顰めて貴弘を睨みつけてみたが、あいつはそれに答える気はないようだった。これ以上尋ねても無駄なことは長年の付き合いで分かっている。時間を無駄にするのも信条に反するので、俺はその話題をそこで終わらせた。

 そして、それからふと思い出す。




 …そういえば…昨日……。



「貴弘」

 改めて呼びかけると、あいつは自分が俺のために持ってきたはずのパンの袋をガサガサと開けながらこちらに目線だけを返した。中に入っていたパンを俺の前に並べ、そのうちの一つだけを自分の手に収める。

「なんだよ」

 個包装を開きながら、貴弘は俺の呼びかけにそう尋ね返してきた。



「お前に、一つ謝らなきゃならねぇことがある」

 前置きでそう言うと、貴弘は甘ったるい匂いをさせるメロンパンにかぶりつきながら俺を見据え返す。言葉はなく先を促され、俺もそこにあるパンに手を伸ばしながら続けた。



「昨日…とある生徒にお前が結婚してることバラしちまった」

「……」

 言うと、メロンパンを頬張りながら貴弘は何かを考えるように一瞬俺から目を逸らす。そしてそれから、再びこちらに向き直った時には微かに唇に笑みを浮かべていた。

「知ってるよ、お前のクラスの白石だろ?」

「……聞いたのか」

「まぁ、ちょっと色々あってな」

 肩を竦めてから、貴弘はその時のことを思い出しているのかわずかに目を細める。そして俺の方を振り返り、今度はニヤッと笑ってみせた。



「別に、構わねぇよ?お前も知っての通り、別に俺は結婚してること隠してるわけじゃねぇし」

「……だったら何で公にしないんだ」

「だって、生徒からも聞かれねぇしな。先生たちは元から知ってるからそれこそ人前で聞いてくることもねぇし」

「…この前B組の生徒に『彼女いるのか』って聞かれて否定してただろ」

「『彼女』はいねぇだろ?嫁は『嫁』だし」

 貴弘が結婚したのは大学の教育学部を卒業してすぐのことで、相手は俺もよく知る女だった。大学時代、俺と貴弘が所属していたサークルの一年後輩。つまり、彼女の方は在学中に入籍したことになる。…それだけ急いでいたのにも奴らなりの理由と事情があったのだけれど、今となってはどうでもいいことだった。



「それよりさ、何でそんなにイライラしてるわけ?」

 尋ねられて、俺は遠慮なく思い切り眉を寄せて返した。

「お前が女子生徒に俺のこと根掘り葉掘り聞かれるのなんて、いつものことじゃねぇか」

 からかうような口調に、俺は更に眉間の皺を深くする。

「…お前、白石に何をどんな風に聞いたんだ」

「聞かなくても、それくらい分かる」

 本当かはったりか定かではなかったけれど、何食わぬ顔で貴弘はそう続けた。



「いつもだったらそういう女子生徒は適当にあしらうユキサダくんが、白石にだけイライラしちゃったのは何で?」

「…何言ってんだ?お前の話を生徒に延々と聞かされてイライラするのはいつものことだ」

「…これまたゴアイサツだな」

「事実だからな、悪いな」

 答えてフン、と鼻であしらうと、貴弘は再び何もかもを見透かしたかのような嫌な笑みを浮かべる。…何をどう勘違いしているのか知らないが、こいつのこういう顔は昔から嫌いだ。



「じゃあいつもだったらイライラしながらも適当に流せるユキサダくんが、

白石にだけは俺が結婚してることバラしちゃったのは何で?」

「………」

 続いた貴弘の言葉に、俺はイライラが最高潮に達するのを自分で感じながら手にしていたパンを机の上に戻した。口にしないままそれを手放して、隣の貴弘を睨み据える。

「何が言いたいんだ、お前」

「別に? 分からないんならいいんだ」

 クッと笑って、貴弘は立ち上がる。最高に嫌味な笑い方だった。

「ただな、ユキ」

 そのまま帰るらしく、あいつは椅子を机の中側に押し入れる。立ち上がってからポケットに手を突っ込み、座ったままの俺を見下ろした。

「いつまでもしらばっくれてると、痛い目に合うぜ」

「……何言ってんだ?」

「分からないなら、考えろってこと」

「……」

「あと、自分でも分からないイライラに苛まれる時は、周りの声をよく聞くんだな。そうすりゃちょっとは救われるぜ」

 訳の分からないことを言い置いて、貴弘はそのまま「じゃあな」と手を振って部屋を出て行った。



「……何しに来たんだ、あいつ」

 その後ろ姿を見送って呟きながら、俺は今日のうちで最悪な気分になっている自分に気がついた。




******



 せっかくはかどっていた仕事も、貴弘の余計な言葉で進まなくなってしまった。

「……」

 イライラを沈めようとするために何本目かの煙草に火を点けたが、それもすぐに燃え尽きてしまう。

「…っ」

 小さく舌打ちをすると、俺は短くなったそれを灰皿に押し付けて立ち上がった。ゆっくりと伸びをして、仕方なく今日の仕事は諦めてしまう。家に帰ってもすることなんてないけれど、それでも俺は帰り支度を整え始めた。



 時刻は午後1時を少し回った頃で、まっすぐ家に帰るのも少しもったいない気がした。だから、乗ってきた車を駅前の駐車場に止め、街をブラブラしてから帰ることにする。最近行っていなかった本屋で買いたいものはいっぱいあったし、たまにはと一人で買い物に繰り出した。



 車ではなかなか通りづらいショップ通りを、急ぐわけでもなくただ歩いて行く。季節はまだ4月上旬だというのに、今日の天候では太陽の高いこの時間に外を歩けば、少し汗ばむほどだった。



「あれぇ、ユッキーじゃん」

 とあるファストフード店の前辺りにさしかかった時、後ろからそんな声が俺の背中に投げかけられた。


 聞き捨てならないその言葉に振り返ると、そこには不必要なほどミニスカートで足を出した一人の女。一瞬誰だか分からなかったが、どこかで見覚えはある。記憶の糸を手繰り寄せていくと、やがて思い当たる顔と一致した。

「…菅原…?」

 呟くようにその名前を口にした俺に、彼女の方はニッと笑って返す。

「ユッキー、覚えてくれてるんだ。担任じゃなくて去年ただ化学担当だっただけなのに」

 そうだ、確か3年の菅原だ。学校にいる時より露出の多い服を着て、普段より大人っぽく見えた。…と言っても、それ以上に何の興味も沸かなかったが。



「寒くないのか、お前」

 階段でも上がれば下着が見えそうなほど短いミニスカートに、とりあえず忠告を兼ねて尋ねてやる。そんな俺に一瞬目を丸くした菅原は、次の瞬間には「ユッキーおじさんくさい!」と爆笑して返してきた。…忠告したのはこいつの為じゃなく、俺自身の為だったんだが…。俺は昔から、自分でスカートを短くしておいて押さえながら後ろを気にして階段を上がる女子高生に憤りさえ感じるからだ。見たくないものを見せられて因縁をつけられたらたまったもんじゃない。



「ねね、ユッキーはどこ行くの?」

「本屋行って適当に帰る」

「えぇ、マジで!?一緒に行っていい?」

「何で?」

「だってあたし、ユッキーのこと好きだもーん」

 あっけらかんとした口調で言われ、俺は自分でも意外なほど呆けた顔で菅原を見つめ返してしまった。…生徒に恐れられて敬遠されることは多々あったが、あけっぴろげにこんなことを言われるのは初めてだった気がする。……だからと言って、その軽い一言が俺の胸に響くわけもないのだけれど。



「帰って寝ろ。俺は一人で行く」

「えぇーっ、待ってよぉ」

 さっさと歩き出してしまった俺に抗議しながら着いてきて、菅原は無遠慮に俺の腕を取った。甘えるようにそれに自分の腕を絡めてきて、俺は「おい」とそれを振り払おうとする。

「何してんだ」

「腕組んでんの」

「…それはわかってる」

 ダメだ。こいつはまともに会話になるタイプの人間じゃない。呆れたようにため息をついて、俺はそれ以上拒むのを諦めた。そんな俺が無駄な抵抗を辞めたのに気づいて、菅原はご機嫌な表情で俺の腕を引っ張っていく。



 鼻歌まじりの菅原とは裏腹に、俺の気分は一向に晴れる予感もない。


 さっきまでのイライラというよりは何かを全て諦めてしまったように…俺は今度こそ本格的に大きな息を吐き出した。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ