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Sweet&Bitter  作者: みずの
雨と涙の告白
16/152


 土曜日は、梅雨入り間近さを感じさせないほどの快晴だった。空は青く、高く。雲は流れるように早い速度で形を変えていく。そんな気持ちの良い日の放課後、私は約束通り都築先輩と駅前へと向かった。



 雑貨と一口に言っても、選びきれないほど物は多い。妹さんはどういったものが好きなのかを尋ねると、先輩は小さく首を捻って答えた。

「あいつピアスしてるんだけど、ピアスケースとかなんかそういうのが欲しいって言ってたかな」

 買い物に出る前に、と一緒に入ったファストフード店で昼食をとりながら先輩はそう言う。



「じゃあ、そういうの探してみましょうか。雑貨屋さんにかわいいのあったと思いますよ」

「ありがとう、白石」

 先輩一人では入りづらい店に違いはない。「いいえ」とニッコリ笑って応じて、私はアイスティーのストローに口をつけた。



「白石はピアスとか開けてないんだ?」

 ふと話題を変えた先輩に、私は小さく頷く。

「ホントはかわいいし開けてみたいんですけどねー。ちょっと勇気がなくって」

「ちゃんとやれば全然痛くないらしいけど」

「でもなんかこう…開けた瞬間耳元で音がするのかなぁ、とか思うと背筋が…」

 その時の様子を想像するだけで、身震いがしてくる。小さく身を竦めた私の様子に、先輩は今度は声をたてて笑った。




「あ、そうだ、今のうちに…」

 不意に、思い出したように先輩が再び声をあげる。手元のポテトを食べながら小さく首を捻ると、先輩は隣の椅子に置いてあった鞄へ手を伸ばした。先輩がそこから取り出したのは、小さな袋。ウェットティッシュで手を拭いてから受け取ると、中にはCDらしきものが数枚入っていた。

「ジャズ好きだって言ってたから」

 ニッコリ笑って、先輩は言う。

「俺のお勧めのCD。良かったら聞いてみて」

 言われて、私はまたいつもの曖昧な笑みを浮かべた。

「ありがとうございます」

 言うと、先輩はこちらの気持ちには気づくわけもなく笑ったまま「いいえ」と返事を返してくれた。



 正直、複雑な面もあった。確かに、ジャズは好きだし色んなCDを聴いてみたいとも思う。でも先生と共通の話題だったから余計に楽しかったというのもあって…。そこには誰にも入ってほしくなかったという、我儘な想いもある。



 だけどそれを表に出すわけにもいかず、私はお礼を言ってそれを受け取った。





 ファストフード店から、目的の雑貨屋さんまではそう遠くはなかった。お昼を食べ終えてからまっすぐにそこへ向かうと、もうその雑貨屋さんは女子高生たちで混雑している。その人ごみを縫うようにして店内へ入りながら、先輩と目的のものを探した。

 ピアスケース以外にもかわいいものはいくらでもあって、私は自分のものを買うわけでもないのに目移りしてしまう。


「これなんかどう?」

 ピアスケースでもないブタのぬいぐるみを引っ張ってきて、先輩は笑う。私も思わず吹き出すように笑ってしまっった。ブタはブタでもかわいいブタなのだけれど、先輩にはどこか不似合いだったからだ。


「あ、これなんかかわいいですよ」

 私が手にしたのは「ピアスケース」ではなかったけれど、蝶をモチーフにしたスタンドで、ピアスをさして保管できるものだった。私がピアスをしていれば、欲しいくらいだ。

「そっか、じゃあそれにしようかなぁ」

 手にとった先輩が、まじまじと見つめながら呟く。

「先輩、とりあえず一周して、他のものも見てみましょうか」

 候補はあがったので、後はゆっくり他も見てみればいい。そう提案して、私は更に店の奥の方へと移動した。



「白石はやっぱりこういう店来ると欲しいものとか多い?」

「いっぱいありますよー」

 私についてくる先輩に笑って応じながら、手近のものを指差した。

「そこのクッションカバーもかわいいし、ブックスタンドも魅力的だし…」

 こういうお店に来るとお金がいくらあっても足りない。

「あ、でもあそこのアロマキャンドルもかわいいっ」

 見ているだけでも、ウキウキして心が弾んでくる。我を忘れて楽しみそうになって、私はそこでハッと自分の状況を思い出した。

「…すみません、ちょっと浮かれちゃいました。妹さんのプレゼントでした」

 苦笑い気味に言うと、先輩も笑う。

「いや、いいよ。俺も楽しいし」

 笑って答える先輩の表情に、その時ようやく一瞬胸が痛んだ。



 今日、学校を出る時に智子に言われていた言葉を思い出したからだ。『あんまり期待もたせるようなこともしないようにね!』と。先輩が自分のことを好きなのかもしれないと気づきつつあるからこそ、そこは気を遣わなければいけないところだった。



 思えば、すれ違う女の子たちは友達と来ているか、それかカップルで来ているかのどちらかだ。周りから見れば当然私たちもそう見えるだろうし、なんだかそのせいで逆に罪悪感すら感じそうになる。



「白石、俺やっぱりさっきのにしようかな」

 とりあえず狭い店内を一周した頃、先輩がこちらの胸の痛みには気づくはずもなくそう言った。

「あ、はい」

 我に返って慌てて返事をしながら、私は先輩を見上げる。

「さっきの蝶のやつ」

 ピアススタンドのところまで戻りながら、先輩はそう続けた。



 会計してくるから待ってて、という先輩の言葉通り、私は店内を見回しながらそれを待つ。手にした携帯ホルダーはとてもかわいかったけれど、それももう私には見えているようで見えていなかった。ただ、やはり安易に引き受けてしまったかな…と少しの後悔と罪悪感に苛まれる。だけど先輩のこの買い物に付き合うのは成り行き上仕方のなかったことで…。そう自分に言い訳したい気持ちも少しはあった。



「お待たせ、ありがとう付き合ってくれて」

 かわいいラッピングをしてもらったらしい先輩は、その袋を手にこちらに戻ってくる。私の感情は悟られないようにニッコリ笑って応じながら、出口の方へと向かった。並んでそこを出て、他愛もない話をしながら駅の方へと向かう。来週からはテストがあるし、今日はテスト前最後の週末だ。先輩の方も、これ以上私を拘束するつもりはないようで言い合わせたわけではないけれど互いに帰路の方へと向かった。



「そういえば、部活の課題やった?」

 先輩の言葉に、私は小さく頷く。

「テスト後にやる実験の予想ですよね。一応、できたと思うんですけど…」

「俺も、『一応』って感じ。それにしてもテスト前に課題出すなんて本城はやっぱり鬼だよなー」

 先輩の口から出てきたその名前に、私は一瞬ドキリとした。別になんでもないような話題に出てきただけなのに、さっきの罪悪感のこともあって複雑な心境になる。


「そういえば本城といえば、最近変わった気しない?」

「………え?」

「なんかちょっと前より、話やすくなった気がするんだ」

 続いた先輩の言葉に、私は少しだけ目を見開いた。



「そう…ですか?」

「うん………って、あれ?」

 不意に、そこで先輩が急に足を止める。小首を傾げながら前方を見据え、「噂をすれば」と小さく呟いた。「え」とその視線の先を追って、私は大きく目を瞠る。その先にいたのは…見間違えるはずもない、人より高い長身。

「本城先生っ」

 私が驚きのあまり固まっている隣で、都築先輩はそう先生に呼びかけてしまった。



 驚いたのは、こんな場所で先生に出会ったからだけじゃない。先生の隣に…あの人がいたからだ。



「菅原?」

 都築先輩もそれに気づいて、少しだけ眉を持ち上げた。先輩の声に反応して、少し離れた場所にいた先生と菅原先輩がこちらを振り返る。先生も私たちを見て…驚いたように珍しく固まっていた。



「あれ、都築に白石さんじゃーん」

 今日もミニスカートな菅原先輩は、先生の向こう側からこちらへ歩み寄ってくる。



 …どうして……先生とこの人が今日も一緒にいるの………?



 少し勝ち誇ったような表情をしている菅原先輩は、都築先輩の前までやってきた。

「なになにー?もしかして2人付き合ってんのー?」

 今時流行らないほど焼いた肌に白い歯を見せながら、菅原先輩は笑いながらそう言う。…私が先生のことを好きなのは知っているくせに……この言葉だ。

「いや、付き合ってはないけどデート」

 ニッコリ笑って、都築先輩は生真面目にそう答えていた。



「そうなんだー。でもなんか時間の問題って感じー?2人ちょーお似合いだよー」

 ライバルはこうやって蹴落とすことにしているんだろうか。わざとらしくニコニコしながらそう言った菅原先輩は、そこまで言って後ろを振り返った。

「ね、ユッキー。お似合いだよねー?」

「………」

 菅原先輩に同意を求められた先生は、無言のまま特には答えずに持っていた煙草に火をつける。


 菅原先輩と先生が付き合っているとは信じてない。だけど、2人が自分の知らないところで会っていたという事実だけで胸が痛んだ。どうせ、菅原先輩がまた無理言ってついてきただけに決まっているけれど。そう分かっていても、割り切れるほど私に余裕なんてない。



 そして、何より…。



「じゃあな、菅原。先生さよなら」

 都築先輩は、そう2人に声をかけて再び歩き出す。…私の手を、引きながら。



 何より、先生にこんなところ見られたくなかった。



 そう思うだけで、胸が軋んで悲鳴を上げる。




「………」

 先生は、最後までこっちを見なかった。都築先輩の挨拶に小さく手を挙げただけだった。




「びっくりしたなぁ」

 2人の姿から遠く離れた辺りで、都築先輩はそう呟いて少し笑う。

「やっぱりさぁ、付き合ってるって噂ホントなんだな、あの2人」

 続けて言う先輩の言葉に、私はもう一度胸が痛んだ。

「でも…」

 さりげなく繋がれた手を離しながら、私はようやくそこで小さく声を出すことができた。

「先生は…付き合ってないって言ってました」

 搾り出すようにそう言ったのは、自分に言い聞かせたかったのかもしれない。


 告げた瞬間、先輩は少しだけ目を見開く。それから少しの間の後、プッと吹き出すように笑った。

「白石~、そんなの、先生が『付き合ってます』なんてホントのこと言うわけないよ」

「………」

 それきり黙りこんだ私に、ふと先輩もそこで真顔になる。



「言うわけない」

 どういう意味があるのか分からなかったけれど…先輩は、念を押すかのようにもう一度その言葉を繰り返した。




******



 翌週の月曜日。私は多分、ひどい顔をしていたと思う。


 テスト勉強疲れだけではない疲労を感じていて、精神的にも限界が来そうだった。ふとした瞬間に気を抜けば…あの時の先生と菅原先輩が一緒にいた姿を思い出してしまう。それを振り切るように頭を大きく振る仕草を、今日何度繰り返しただろう。



 その日部活を終えた頃、周りの先輩たちも私の様子が少しおかしいことに気づいていたようだった。


 先生は、朝からびっくりするくらい普通だった。でもそんな先生に声をかけるのも怖くて、今日は私から一度も化学準備室に顔を出せてはいなかった。


「白石ちゃん、大丈夫ー?」

 私の様子に気づいた鎌田先輩が、顔を覗きこむようにしてそう尋ねてくる。いつも周りのことに気を配る…とても優しい先輩だ。私を含め、後輩たちの良き姉のような存在だった。

「今日元気ないねぇ。あ、そうだ、この後カラオケでも行かない?」

 今日も気を遣わせてしまったらしい。そう言う優しい鎌田先輩に、その後ろにいたもう一人の女の先輩が「ちょっと鎌田」と呆れたように声をかけた。

「明々後日からテストだよ?そんな時にカラオケなんて何考えてんの」

「えーちょっとくらい大丈夫だって。それに悩んだ頭で勉強したって無駄だよ。発散しないとー」

 実験器具を片付けながら、先輩はそう言う。この楽観的なところが鎌田先輩の良いところでもあり…私は好きだった。



「ああ言ってるけど…どうする?和美ちゃん」

 もう一人の先輩に尋ねられて、私は力なく笑った。



 こんなにも気を遣ってもらって…それを無下に断ることなんてできるわけもなくて。「行きます」と答えると、鎌田先輩は満面の笑みを浮かべた。



「よしっ、せっかくだから都築も誘ってやろっ」

 続けた先輩の言葉に、私は「えっ」と一瞬焦る。



 正直…もうできれば都築先輩と学校の外で遊んだりは控えたい。一昨日のことを思い出して、私は苦い表情で眉を顰めた。それでも、鎌田先輩にそれを告げるわけにもいかない。焦りながらも止めることもできず、困惑するしかなかった。



「来るかなぁ」

 もう一人の先輩が、鎌田先輩の言葉にそう呟く。

「来るよ。白石ちゃんいるんだから」

 さらっと答えた鎌田先輩のセリフに、私は思わず顔を上げた。



 ……そっか…周りの人も気づいてたんだ…。



 私がそう思った瞬間には、鎌田先輩は少し離れたところにいた都築先輩の肩を叩いていた。

「都築、ちょっと今からカラオケ行かない?」

「カラオケ?テスト前に?」

 吹き出すように笑った都築先輩が、小さく首を捻る。

「そ。白石ちゃんの元気がないから励まそう会なの」

「…ふーん…」

 頷きながら、先輩がこちらを向くのが分かった。それに反応するように…私は思わず目を逸らしてしまう。そうした後に、露骨だったかもしれないと後悔したけれど。



「や、今日はやめとく」

 都築先輩から目を逸らした私の耳に届いたのは、そんな返事をする声だった。

「えー、なんでぇ」

 鎌田先輩の抗議の声に、都築先輩は少し笑ったようだ。

「ちょっと、これから本城に質問したいことがあるんだ」

「うへぇ。化学熱心だねぇ、あんた」

「ありがとう」

 辟易したような鎌田先輩の言葉を笑顔で受け流しながら、都築先輩は笑う。


 そのやり取りに、私は申し訳ないけれども少しホッとしてしまった。都築先輩には悪いけれど、これ以上彼とは必要以上に親しくしない方が良いだろうと思ったから。


 安堵の息を漏らして…私は帰り支度を進める。

「……あ」

 その際に、教室にノートを一冊忘れてきていることに気がついた。



 どうしたの、と言うように首を傾げる鎌田先輩に、「すみません」と謝る。

「ちょっと忘れ物取ってきます。すぐに行きますから」

「分かった。じゃあ昇降口で待ってるね」

 鎌田先輩たちに軽く頭を下げて、私はそのまま化学実験室から出た。





 長い廊下を抜けて、私は教室がある隣の校舎へと向かう。電気はついているというのに、もう薄暗くなってきていて生徒もほとんどいないためどこか不気味さもあった。足早に廊下を駆け抜けて、自分の教室へ急ぐ。こちらの校舎は部活には使われていないため、静かなものだ。自分の足音すら大きく響いて、気持ちの良いものではなかった。



 そんな足音が自分のものだけではなくなったのは、階段を上がっている時だった。上の方から、誰かが下りてくる音がする。目線を上げてそちらを見やると、向こうも同時にこちらに気づいたようだった。

「……あんた…」

 その人影は、私を見てそう呟くと不機嫌そうに眉を寄せた。



「……」

 その顔を見た瞬間に、考えたくなかった色んなことが波のように押し寄せてくる。不快感すら感じそうなそれに苦々しく顔を歪めながら、私は歩く速度を更に速めた。…できれば、話なんてしたくなかったから。

「…っ」

 だけど、無視して通り過ぎようとした瞬間に菅原先輩は私の腕を勢いよく引っ張った。



「何するんですかっ」

 階段から落ちそうになりながら、必死でこらえる。もちろん落とすつもりだったわけではなかったので、先輩は私の腕から手を離さなかった。私が態勢を立て直したのを見てからようやく手を離して、鼻であしらうように笑ってから腕を組む。

「こっちのセリフだよ」

 凄むような低い声を出しながら、先輩は私を睨みつけた。



「あんたさぁ、どういうつもり?ユッキーのことが好きなのに都築にも手出してんの?」

「…!?」

 恐らく、この前のことを言っているんだろう。思い切り眉を顰めて、私は先輩の顔を見据えた。

「あんたこないだ私に偉そうなこと言ったけどさ、自分だって褒められないことしてんじゃん?」

「…ちが…」

「都築が自分に気があるの知っててデートしたんでしょ?サイテー」

 違うと言いたいけれど、はっきりとは声にならなかった。理由はどうあれ、都築先輩の気持ちを知りながらも一緒に出かけてしまったのは事実だからだ。


「ま、残念。ユッキーあんたたち2人がデートしてんの見てもショックも受けてなかったし」

「………っ」

「あんたに少しでも可能性があったら、ユッキーもちょっとは傷ついてくれたかもしれないのにね」

 笑いながら言うその菅原先輩の顔は、意地悪く歪んでいた。でも…何も言い返せない。先生が私になんて気がないこと、先生が傷ついてもくれないこと、そんなことは分かりきっていたことだから。



「サイテー女は手ぇ引きなよ。ユッキーは私が幸せにしてあげるからさぁ」

 ニヤニヤしながら言う先輩は、畳かけるように続ける。

「あんたにユッキーのこと好きだなんて言う資格は……」

「菅原」

 先輩が言いかけたその瞬間、階段の上から第三者の声がした。


 先輩と同時に振り返ると、そこには一人の男子生徒が立っていた。ハッと目を瞠った私と、口を噤んだ菅原先輩。……もしかして、聞かれた………?




「何」

 私に畳みかけるチャンスを奪われて、菅原先輩は不機嫌そうにその人を見上げた。



 地毛っぽいのに、少し薄い色素の髪。真面目すぎずルーズすぎずに着こなした制服は薄手のニットのベストを着ているせいで学年別の襟章がなかったけれど、履いている上履きで3年生であることがわかる。菅原先輩と同じクラスか何かなのだろうか…。ゆっくりと階段を下りてきながら、その人は無表情のまま続けた。

「学年主任の澤田が探してた。職員室」

 平然と言うその人の様子に、私は少しホッとする。


 …どうやら…この様子だと聞かれてなかったみたいだ。



「澤田が何の用よっ」

「さぁ。俺は見つけたら呼んでこいって言われただけだから」

 小さく首を傾げてから、その男の人はそのまま私と先輩の横をすり抜けようとする。その横顔を眺めて、私は何となく確信した。


 …もし聞かれていたとしても、この人はきっと誰かに喋ったりはしない。不思議と、そんな風に思わされる雰囲気を持った人だった。



「うっざいな、こんな時に!」

 八つ当たりまがいに言いながら、菅原先輩は階段を下り始める。

「つうか律儀にそれを言いにくるあんたも超うざい!」

「……それはどうも」

 本気で八つ当たりな先輩の言葉に、男の先輩は気を悪くした様子もなく肩を竦めただけだった。


 それどころか、口元に薄く笑みを浮かべている。その余裕さが気に入らなかったらしく、菅原先輩は乱暴な足音をたてながら駆け下りていった。



「……っ」

 関係ないこの先輩にまで、あんな八つ当たりな態度を取るなんて…。菅原先輩の自分本位さに腹が立って、私は一言文句を言いかけた。何を言うかは決めていなかったけれど、声を出そうと口を開く。

だけどその瞬間に、男の先輩が私の肩をトントンと叩いた。

「いいよ、別に」

「でも…っ」

「いいんだ、こっちも悪いし」

「…え?」

「嘘だから。澤田が呼んでるなんて」

 言って、先輩はそのまま再び階段を下り始める。その言葉の意味がわからずに一瞬茫然としてしまってから…私は、ようやくどういう意味か理解した。



「…あの…っ、ありがとうございました」

 ペコリと頭を下げると、その先輩は少しだけ笑う。首を振って、そのまま今度こそ階段を下りて行った。




 やっぱり…聞かれてたんだ。


 それで…通りすがりなだけなのに助け舟を出してくれたんだ。



 多分、この人は今日の話を誰にもしないだろう。噂にしてしまうような人なら、そもそも私を助けてくれたりしないだろうから。




「…」

 向こうからはもう見えないと分かっていても尚、私はもう一度その人へ向けて深々と頭を下げた。






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