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Sweet&Bitter  作者: みずの
雨と涙の告白
15/152


「すごい、和美。もうこんなに解いたの?この問題集」

 心の底から感心したように、智子が私の使っている問題集を捲りながら呟いた。しかも数ページの間全問正解しているのを見て、更に嘆息まじりに褒めてくれる。

「ちょっとね、私の今回の気合の入り方はいつもと違うの」

 少しばかり得意気に答えて、私は「ふふ」と笑ってみせた。



 先生との約束から数日、テストを来週に控えて私は化学のテスト勉強に没頭していた。何がなんでも90点以上を取りたくて…でも他の科目もおろそかにできるわけもなく、今までにないくらいテスト勉強をしている気がする。


「ユキサダと何かあったん?」

 ニヤッと笑いながら、由実も聞いてくる。教室の中だけれどざわめいているため、誰もこちらの話に耳は傾けていないようだ。それを確認してからニッコリ笑って、私は頷く。

「点数が良かったらご褒美くれるって約束してもらったの」

「へぇー…あのユキサダがねぇ」

 ご褒美の内容までは言わなかったけれど、私の答えに由実はどこか感心したように頷いていた。



「そういえば和美、明後日の土曜日例の先輩とデートなんでしょ?」

 智子が思い出したように、急にそんなことを口にする。放課後のおやつのつもりなのか、チョコレートをつまみながら聞いてきた。

「デートじゃないよ」

 思わず眉を寄せて、そう答える。

「妹さんの誕生日プレゼント買いに行くのに付き合うだけよ」

 智子から取り返した化学の問題集の続きを解きながら、私は唇を尖らせて言った。

「…ホントに妹なんているんだか」

 私の正面で、由実もそう言って小さく首を傾げてみせる。


「あ、それはホントみたいだよ」

 それまで黙っていた茜が、由実の言葉に反応して顔を上げた。

「うちの家庭科部の先輩に都築先輩と仲良い人がいるんだけど、その人からすんごい妹と仲良いって聞いたことあるから」

「…ふーん、なんだつまんない」

 由実はいつもの感想を漏らしながら、肩を竦める。そんなやり取りを眺めて笑っていた智子が、不意にそこで表情を素に戻した。少しだけ、厳しい顔つきになる。


「でも和美、色々と気をつけなさいよ」

「『気をつける』?」

 チョコレートの箱を差し出されて、私はそれを一粒受け取る。口に放り込みながら問題集を眺めたまま、智子の言葉を復唱した。

「その先輩、確実に和美のこと好きでしょ」

 いきなりな智子の声に、私は思わず目を見開く。そしてそのまま一瞬固まってしまってから、口元に苦笑いを浮かべた。

「……やっぱり?」

 問い返して、思わず吐息を漏らす。


 うぬぼれるわけじゃないけれど、自分に向けられる好意がどういうものか理解できないわけじゃなかった。今まではそうでもなかったのだけれど、ここ最近の先輩の様子は特に分かりやすい気がする。確信したのは今回の買い物に付き合う話の時で、それまではそれほど気にしていなかったのだけれど…。



「あんまり仲良くすると、本城にも誤解されるかもよ」

「…え、そうかな…」

「そうでしょ。しかも逆もありえる。あんまり仲良くすると、先輩に本城のこと好きだって気づかれるかもよ」

「……う…」

 想像してみれば安易に予想できる展開すぎて、私は言葉を失った。そこまでは正直、注意していなかったからだ。



「なんだ、楽しくなってきたなぁ」

 私が少し困った表情をしたからか、由実がさっきまでの「つまらない」という感想をひっくり返してそう呟いた。嬉しそうな笑顔に、「全然楽しくないっ」と私は頬を膨らませる。



 この時は本当に、智子の心配が現実のものになるとは夢にも思っていなかった。




******



 あの後部活に向かった3人と別れて、私は化学準備室へ足を向けた。今日はうちの化学部は休みの日だけれど、問題集を解いていて分からないところが出てきたからだ。質問したいのは嘘ではなく事実なのだけれど、それすら口実にして先生に会えると思うと足取りが軽くなる。スキップまではしないけれど軽やかに向かい、私は化学準備室のドアをノックした。

 「はい」と低い声が返ってきて、私はドアに手をかける。ほころびそうな口元を必死で引き締めて、「失礼しまーす」とそれを開けた。



「おぅ」

 いつもの椅子に座って仕事をしていた先生が、少し目線を上げた後またパソコンにそれを戻す。吸っていた煙草が短くなったのか、手近の灰皿に押し付けた。無言のまま用件を促された気がして、私はゆっくりと先生の机に近づく。

「質問に来ました」

 言って問題集を持ち上げると、先生は肩を竦めてキーボードを叩きながら言った。

「…精が出るな」

 ご褒美目当てにテスト勉強を頑張っていることを揶揄されたようだ。


 しばらくカタカタと何かを入力していた先生は、キリのいいところで「どれ」と目線を上げる。座ったままの先生の前に問題集を開いて見せて、私は手にしていたシャーペンで持っていたノートに文字を連ね始めた。


「…って、ここまでは分かるんですけどこの先のここの部分が解答例見ても理解できなくて…」

 一緒に持っていた解答集も開いて、私は行き詰った部分を示す。

「あぁ、これは…確かにここの解答例ちょっと省略してんな」

 言いながら、先生は持っていた自分のペンで簡潔にされた解答集よりも詳しい説明を書き始めた。前から思っていたことだけれど、先生は意外に字がキレイだ。…多分、昔書道でも習ってたんじゃないかっていう感じの…流れるような字体を書く。どこかの数学教師も少しは見習った方がいいんじゃないかと思うけれど、怒られそうなので口にしたことはない。



「…で、これで分かるだろ?」

 一通りの説明をして、先生は私にそう尋ねた。言われて、私は嘆息しながら大きく頷く。さすがに先生の説明は分かりやすくて、中途半端な解答例を載せる問題集に若干腹が立ったほどだ。

「やっと分かりました!ありがとうございます」

「じゃーこっち解いてみろ。さっきの応用だから」

 隣のページの問題を指して、先生は再びパソコンに向き直る。「はぁい」と返事をして近くの机に向かい、私はそこにノートと問題集を広げた。



「お前すげぇやる気だな」

 椅子に座った私に、先生がふとそんな言葉を投げかける。指定された問題文を読みながら、私は「ご褒美かかってますから!」と自信満々に答えた。

「そんなに修司に会いたいんなら連絡先教えてやるぜ」

「…先生、私確かに修司さんには会いたいですけど、それだけが目的じゃないですよ」

「分かってるよ。冗談だろ」

 真顔でそんな冗談を言わないで欲しい。頬を膨らませながらそう思った瞬間に、それが伝わったのか先生が薄く苦笑いを浮かべた。



「いや、質問内容がずいぶん変わってきたと思って」

「…え?」

「大分勉強してんな、って感じの質問をするようになったからな、お前」

 先生はキーボードを打つのがとても速い方だと思う。止まることを知らないように流れるような音をさせながら、そう続けた。

「そういうのってやっぱり分かるものなんですか」

 聞くと、「当たり前だろ」と短く答える。

「前のお前は、全く勉強してないのが丸分かりだった」

「…う…っ」

「気にすんな。質問してくる生徒の大半はそんなもんだ」

 笑ってそう言うくらいなら、わざわざそんなこと言わなくてもいいのに。

「…先生の意地悪」

「話かけといてなんだけどな、さっさと解け」

 私の抗議を完全に無視した先生は、本当に理不尽なセリフをこちらに投げて寄越した。



 さっきよりも更に大きく頬を膨らませて、私は問題に向き直る。先刻の先生の説明のおかげか、応用問題と言っても今度はかなりすんなりと解くことができた。先生に見せても合格点がもらえて、私は満足そうに笑う。そんな私を椅子に座ったまま見上げ、先生は「あ」と小さく声を上げた。

 それから、机の引き出しを引く。数日前に課題を提出した時に飴をくれた時と同じ感じだった。



「ほら、今日のご褒美」

 冗談っぽく言いながら取り出した何かを、そのまま手渡される。受け取ったそれを見ると…クリアなプラスチックケースに入ったCDだった。黒を基調とした…モノトーンのシックなジャケット。すぐにそれが何かを理解して…私はパァッと自分の顔が明るくなるのを感じた。



「聴きたいって言ってただろ、それ」

「はい…!ありがとうございます」

 あれからジャズに興味を持つようになった私は、先生とよく色んな話をするようになった。家では父親のコレクションを漁ってCDやレコードを聴き、私自身、先生のことを抜きにしてもジャズにハマってきていたのは本当だ。

 先生は当然とてもジャズに詳しくて、色々と詳しく教えてくれた。

 持っているCDの数も尋常じゃないようで、私がちょうど聴きたがっていたものはもちろん持っていたらしい。

 私がとある曲は、父も持っていたけれどそれとは違う人の演奏が聴きたかったのだ。この曲で特に有名なピアニストがいたのだけれど、父のコレクションにはそれは入っていなかったから。



「いい曲ですよね、これ」

「失恋の歌だけどな」

 サラリと答えて、先生はニコニコ顔の私を一瞬固まらせた。…全く、絶対に一言意地悪を言うんだから。



「どうでもいいけどお前さっさとそれしまっとけよ。あと没収されんなよ」

「はぁい」

 返事をしながらも、私はケースを開く。「おい」と目を細めてこちらを見る先生を無視しながら、曲の解説カードを手に取った。

「先生、すごい!ライブバージョンなんですねこれ」

「…お前、人の話聞いてねぇな」

 嬉々としてカードを眺める私に、先生は諦めたように苦笑いを浮かべる。


 ………ちょうど、その時だった。



「失礼します」

 ノックと共に、部屋のドアが開けられる。先生と同時に目線を上げると、そこにいた人も私がここにいることに驚いたのか少し目を見開いた。

「おぅ、どうした」

 先生が、私が来た時と同じように訪れた生徒に尋ねる。そこにいた都築先輩は…ドアを閉めながら、「質問があって」と答えた。



「白石も来てたんだ」

 部屋の中へ入ってきながら、先輩は私に向かってニコリと笑う。それから…私の手の中のCDを見て、少し目を丸くした。

「先生の?」

 この状況で持っていたらそう気づいて当然だろう。いつもの微笑みを口元に浮かべながら、先輩は私にそう尋ねてくる。



「…え、はい…」

と首を竦めながら弱々しく答えると、先生が都築先輩の向こう側で「バーカ」と私に向けて口をパクパクさせていた。

 確かに、教師と生徒が授業にも関係のない物の貸し借りをするなんてなかなかないことだから、あまり知られて良い情報ではないだろう。



「何のCD?」

「えっと…ジャズピアノで…」

「白石ジャズ好きだったんだ?」

「はい…というか、最近目覚めたというか…」

 口ごもりながら答える私は、相当怪しかっただろう。だけど先輩はそんなことを気にもしていないのか、依然ニコニコしていた。

「言ってくれれば貸したのに。俺もジャズ好きで結構持ってるんだ」

「そうなんですか…」

「うん。先生に借りるよりは借りやすいだろ?」

 最後のその一言は、先生には聞こえないように先輩は声を潜めた。確かに、一般的には教師よりもいつも面倒を見てくれている先輩からの方が借りやすいだろう。そう思って気を遣ってくれたのかもしれないけれど…私は曖昧な笑みを返すしかなかった。



「都築、何の質問だ?」

 椅子に座った態勢のまま足を組んで、先生はポケットから煙草の箱を取り出した。持っていたライターで火をつけて、口元の煙草に灯す。

「あ、昨日の実験の結果と考察をまとめてたんですけど…」

 先生の方に歩いていきながら、先輩は鞄からノートを取り出した。



 それを眺めて、私はカードをCDケースに戻す。問題集とノートと一緒に持って、小さくため息を漏らした。



 邪魔をするわけにはいかないし、ここは退散するしかないだろう。本当は、もっと先生と一緒にいたかったけれど…。私だけの教師ではないのだから、そういうわけにもいかない。



 ノートを出しながら、都築先輩がふとこちらを見た。帰り支度をしようとしていた私に気づいたらしく、少し笑ったように見える。

「?」

 その表情に小さく首を傾げると、先輩はまたニコリと笑って再び口を開いた。

「白石も一緒に聞く?昨日の実験よくわかんないって言ってただろ」

「え、いいんですかっ?」

 先輩のありがたい申し出に、私は瞬時に沈みかけていた気持ちが浮上するのがわかった。



 なんでもいいから、少しでも長く先生と一緒にいたい。動機が不純でもなんでも、そんなことはどうでも良かった。



「あの、ちょっとだけ待っててもらえますか?昨日の実験ノート、教室にあるんですっ」

「うん、行ってらっしゃい」

「……」

 笑って言ってくれる先輩の向こう側で、先生は何も言わずに煙草の煙をフーっと吐き出していた。




 嬉しさのあまり、私はこの時盲目状態で…。先生の無言がどんな意味を持っていたのか、ということになんて気づくはずもなかった。

 智子にも、散々忠告されていたというのに、だ。




 まさか私のこの態度で、先生にとんでもない誤解を植えつけていたなんてこと分かるはずもなかったんだ。





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