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Sweet&Bitter  作者: みずの
side story
141/152

Ren 3


 あの時、未熟な自分ではどう和美を説得しても無駄なことは分かっていた。

 だから物分りの良いフリをして別れに納得するしかなかった。



 幸せになってくれればいいと願ったのは嘘じゃない。ただ、いつかまた再会した時に、もう一度俺の手を取ってくれればいいのにと祈ったのも本当だった。

 …だからこそ…許せなかったんだ、和美が想う男が「あの男」だったことが。





「…2日間じゃこれだけしか調べられなかった」

 学校帰りの大学生や仕事帰りのサラリーマンが多く訪れているコーヒーショップで、佐々木は一枚の書類を俺に差し出しながらそう言った。

 そこにはある人物の経歴が書かれている。出身中学から大学まで、そして大学を卒業した後の就職先。

 名前、写真と共にそれらだけしか書かれていないその書類を眺めてから、俺は眼鏡の奥の目を細めて佐々木を見た。

「佐々木、手を抜いただろう」

 責めるつもりはないけれど、佐々木は某調査会社に就職してそれなりに仕事で活躍しているはず。たった2日とは言え、これだけの情報しか引き出せないとは思えない。

「…普通に仕事しながら、その合間に調べたんだ。それで勘弁してくれ」

 温くなったカフェオレを口にしながら、佐々木はそう言う。スーツのネクタイが窮屈なのか、少しだけ緩める仕草をした。



 「ありがとう」と短く礼を言って書類を自分の鞄にしまおうとした瞬間、佐々木が少しだけ難しい顔をしてこちらを見ている。

 その目線に俺も顔を上げると、向こうは少し伏せ目がちに吐息を漏らした。

「…蓮、何を企んでる?」

 問われた言葉に、俺は眉を寄せる。佐々木は真剣な顔でテーブルの上に肘をついた。

「お前のすることにいちいち口を出すつもりはないけど…何を考えてる? その調査対象の男は何者なんだ」

「……悪いけど、そこまでは話せないよ」

「蓮…っ」

 俺の今のこの胸の内のドス黒い感情を、誰が理解してくれる? 佐々木でさえきっと分かってはくれない。

 書類を持つ手にわずかに力をこめると、端がグシャリと音を立てた。書類に記された「小塚修司」の名が歪む。

 それを見やって、まるで今の自分の感情の歪みのようだと漠然と思った。




 …どうして、俺と別れてまで好きになった男があの男じゃなきゃならなかったのか。

 もっとマシな経歴を持ち、もっとマシな職についている男がいたはずだ。法律事務所に勤める前の、夜の仕事を全て否定するわけじゃない。

 ただ、それが「和美の恋愛相手」だと思うと許せなかった。



 更に気に食わなかったのが、別れ間際に佐々木に言われた一言だ。

「そう言えば、その人、もうすぐ結婚するらしいけど」

「!?」

 彼が和美と今どういう関係なのかは知らない。ただあのジャズバーでは、「元彼」だと名乗っていた。

 和美がまだ彼のライブを見に行くほど好きなら…どうして婚約者がいる身で和美にもいい顔をするのか。

 …一番許せなかったのは、そこだ。




 あの男は、和美にふさわしくない。

 あんな男に委ねるために別れを了承したわけじゃない。

 和美を取り戻したい。そう思った時に、やることは決まっていた。




 だけど、現実はうまくいかない。

 脅しにも嫌がらせにも屈しなかったのは和美の方だ。

 卑怯な手を使ってでもいい。あんな男の手から和美を守りたい。早く目を覚まさせてやりたい。



 そう思っていたはずなのに、うまくいかないもどかしさから俺はあの自分の中に潜む「狂気」を再び呼び起こしてしまった。






 一番恐れていたはずだった。この「狂気」が和美自身を傷つけることを。

 いつかそうなる不安があったから、あの時別れを切り出した和美の手をあっさり離したはずなのに…。

 なのに今は、自分で和美を傷つけるのか。



 俺は結局、守ろうとしていた…愛していた和美の「声」を何一つ聞いてはこなかったんだ。

 喉が枯れるほど叫んだだろう和美の悲鳴に似た想いを、聞こえないフリをしていた。それを受け入れたら、俺の存在価値と意味がなくなる気がしたからだ。

 だけど目が覚めたのは…和美が俺に襲われている最中に助けを求めて呼んだ「名前」。



「本城先生!」

 縋るようなその名前を、聞いたのは初めてではなかったはずだった。和美は前に俺との話にその名前を出したはずだ。

 それなのに「嘘」だと…小塚修司を守るための「偽り」だと決め付けていた自分に愕然とする。

 …結局俺は、和美を守りたいと言いながらも彼女の声を一番聞き入れていなかったんだ。




 和美は本城先生のことを「元彼」だと言った。

 だけどどう見ても、お互いにお互いを嫌いになったようには見えない。感じ取れる想い自体は、付き合っている恋人同士と何ら変わらない気さえした。

 だからどうして別れたのかと尋ねた俺に、あの夜あの公園の駐車場で彼は言った。



『近くにいたら守ってやれない脅威もある』



 そうだ…確かに、俺だって昔はそう思っていたはずなのに…。






 荻野明美に和美が襲われた時、俺が近くにいるからこそ危険にさらされることもあるんだと知った。

 だけどあの時…俺はそれだけでは別れを選べなかった。和美の幸せを願いながらも、自分の幸せも守りたいとどこか自分本位だったからだ。



 しかし本城先生は、きっと何かの「脅威」から和美を守るために別れを選んだんだろう。

 そう気づいた瞬間、俺は自分がどれだけのことをしでかしたのかと、この人に本気で殴られる理由に納得してしまったんだ。





 今なら…分かる。

 和美が俺を本気で好きにならなかったのも、そして、あの人のことを別れてからも忘れられないのも。



 最初から和美のために全てを捨てられる強さを持つ人と、結局自分の手で和美を傷つけた自分じゃ勝負にもならない。






「…いて…」

 殴られた腹はいくつもの痣ができていて、大きく動くたびに軋むように痛む。

「…お前、それ誰にやられたんだよ」

 本城先生との「話し合い」から数日経っていたけれど、痛みはまだ鈍く残っていた。無理な体勢は取れないでいた俺を見て、佐々木は眉を寄せる。

「顔だけは一発しか殴ってない辺り、陰険な奴だな」

 本気で怒ったような佐々木の声に、俺はカフェの椅子に座りながら苦笑を漏らす。

 「陰険」…そこだけ言ってしまえばそうかもしれない。でも本城先生があの夜、俺の顔を殴らなかったのには訳がある。

 俺が他人の目から見ても分かるくらい顔に大怪我をしていれば、さすがに大事になるし警察沙汰にもなるかもしれない。

 今回の一件が全て明るみに出れば確実に、被害を被るのは和美だ。噂や好奇の目が彼女を蝕んでいくだろう。俺や本城先生は大人だし責任の取り方は何とでもなる。だけどこの先後ろ指をさされるようなことになれば、まだ高校生の和美には重すぎる現実だ。

 本当だったらあの時、俺を殺したいくらいの怒りを覚えていただろう彼は、そんな場面でも結局和美のためばかりを考えているんだ。



「……完敗だ」

 小さな呟きに、佐々木は首を捻る。だけどその顔は眉間に皺を寄せていて、こちらを心配していることはよく伝わってきた。




「大丈夫だよ、もう余計なことはしない」

 佐々木には事情なんて話していないけれど、小塚修司の調査を頼んだ時点で俺が良からぬことに手を出したことは分かっているはずだ。

 それでも距離を置こうともせず、問い詰めることもせず…ただ心配してくれているのが分かる。だからそんな友人の思いに応えるように、俺はそう誓った。








 佐々木と別れて駅へ向かう途中、12月の冷たい風が強く吹きすさんで舞っていった。

 頬を撫でるその冷たさに思わず首を竦めて、ハーフコートをきちんと羽織直す。そうした時に、ふと目をやった通りの向こうに2つの見知った影を見つけてしまった。




 この寒い中、防寒よりもおしゃれを優先したのか短いスカートにロングブーツを履いた和美。やはり寒さには耐えられないのか、くしゃみを数回繰り返す。

 そしてそれを見やって、「バカじゃねぇの。そんな薄着で来るか」と悪態つく本城先生の姿。

 言葉は通りを隔てた距離があるのでハッキリと聞き取れたわけではないけれど、その後、和美が頬を膨らませてむくれていたからあながち聞き間違いでもないだろう。

 俺には付き合っている時も見せたことのないそんな子どもっぽい表情。それを見た本城先生がおかしそうに笑っていた。

 そして次の瞬間、自分のしていたマフラーを和美の首にそっとかけてやる。



 今度は年相応の表情で嬉しそうに笑う和美に、先生が手を差し出す。そのまま俺には気づかずに手を繋いで歩いて行く後ろ姿を立ち止まったまま見送った。

 和美はそんな後ろ姿でも十分幸せそうだと分かる。…そうだ、本当は俺だって、こんな風に嬉しそうな和美が見られればいいと思ってきたはずだったんじゃないのか。最初はたったそれだけの純粋な思いだったはずだ。






 いくらここは学校からかなり遠い駅で知り合いにはほとんど会わないだろうと言っても、実際に俺に目撃されている時点でこの2人は大丈夫なのか。学校側にバレたらタダごとじゃすまない。

「…バカップルが」

 悪態をつくつもりで口にした言葉が、およそ「紳士的」なんて普段評される自分のものとは思えずに俺は思わず次の瞬間に吹き出してしまった。

 おかしくて自分で笑ってしまう。もっと早くこの2人の姿を見ていれば、あんな過ちは犯さずに済んだかもしれないのに。




「どうぞお幸せに」

 唇の端を持ち上げて呟いてから、俺は2人に背を向ける。

 自分の犯したことは重すぎて、謝っても許されることじゃない。だけどせめて、そう願うくらいなら今の自分にもできる気がした。







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