表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Sweet&Bitter  作者: みずの
side story
140/152

Ren 2

 俺の中には狂気が潜んでいる。

 未だに手の中に残る感触が、本当の自分を蝕んでいく気さえした。








「…蓮…っ」

 この時間なら、荻野明美とその友人たちはサークルの部室にいるはずだ。

 今日は練習がないので他の連中は来ていないだろうけれど、あのグループはよく部室で時間を潰している。



 それを知っていたから、迷いはなかった。病院を飛び出てまっすぐに大学へ向かう。




「…っ」

 荻野明美の胸倉を掴んだ手の中で、小指の先が自分の手の平に食い込む。力をコントロールできず、血が滲んだけれど痛みは感じなかった。

「蓮…っ、やめて…」

 周りの女が制止するように声をかけるけれど、俺は無視して胸倉を掴んだまま荻野明美を壁に叩きつける。

 したたかに背中を打ち付けて、小さな悲鳴がその真っ赤な口紅を塗った唇から漏れた。



 女に手をあげるなんて最低だ。そんなことは自分でも分かってる。

 だけどこいつらは「女」でも「人間」でもない。俺と付き合ってるというだけで和美をあんな目に合わせるこいつらは、「人」の仮面をつけた化け物だ。



「う、うちらが…明美が何したって言うのよ…っ」

 尚も荻野明美から手を離さない俺に、あいつの友人の一人が震える声でそう訴えかけてくる。

 ギロリとそちらを肩越しに振り返って、俺は睨み据えた。

「とぼけるな。和美をあんな目にあわせておいて」

「し、知らないよ! 証拠はあんの!?」

 証拠? おかしくて俺は歪んだ笑みを口元に浮かべる。



「そんなもの必要ない」

 和美が、荻野明美にやられたと言っている。それだけで俺には十分だ。

 それに、そんな証拠なんてなくても、こいつらの今の顔を見ていれば真実は分かる。




「…っ」

 再び向き直った俺に、荻野明美は恐怖におののいた目をしていた。震えるあまり奥歯がかみ合わず、カチカチと細かい音を立てる。

 後悔したって遅い。…いや、後悔なんてさせてやらない。

 そう思って胸倉を掴んだ手とは逆の利き手を、勢いよく振り上げた時だった。




「やめろ! 蓮!」

 いるはずのない佐々木の声がした。

 目を瞠った俺は、振り返ろうとしたけれどそれより早く振りかざした腕を掴まれる。

 息せき切って走ってきたらしい佐々木が、俺の腕を力強く掴んで制した。



「…離せよ」

「お前の気持ちは分かるけど…!! でも、こんな奴らお前が殴る価値もない!」

「……」

 一瞬だけ油断した隙に、佐々木が俺のもう片方の手も握る。そうしてそのまま荻野明美の胸倉から離され、支えを失ったあの女はその場にズルズルと尻餅をついた。



 佐々木はつい数時間前まで俺と一緒だった。そこに和美のお母さんから和美が怪我をしたと連絡があったので、俺だけ病院へ向かったんだ。

 そこで別れたから、どうして佐々木が事情を知っているのか、どうして今ここにいるのかが分からなかった。

 荻野明美から離した俺の手を掴んだまま、そんな佐々木は真剣な目でこちらを見下ろしている。



「やっぱり俺も気になって、お前のすぐ後に和美ちゃんのところに行ったんだ」

 いつもふざけたお調子者のくせに、今日ばかりはそんなところ欠片さえ見せない。

「でもお前が飛び出て行った直後で…それを追いかけようとしていた子どもがいたから、捕まえて話を聞いた」

 祥太郎…か。それで佐々木も、俺ならここへ来るだろうと思ったということか。



「…蓮、頼むから落ち着いてくれ」

 その頃には、俺の気迫に怯えきっていた女たちは慌てふためきながら部室を出て行くところだった。

 ホラー映画で化け物か何かに追いかけられるような仕草で去って行く姿を、俺は視界の片隅に映す。

「……」

 そうして、吐息まじりに腕の力を抜くと佐々木も俺を拘束する手を緩めた。





 俺の中には、狂気が潜んでいる。

 荻野明美やその仲間を見下ろす、氷のような冷めた目を自覚すればするほどそのことを思い知らされた。

 和美を傷つける者は誰だろうと許さない。そのためになら自分はどんなことでもするんだろう。




******



「蓮くん…っ」

 気持ちに整理をつけ怒りを何とか押し込め、病院に戻れたのは面会時間ギリギリだった。

 再び病室を訪れた俺の顔を見て、和美はどれだけ心配していたのか少し安堵の色を表情に浮かべる。

 だけどそんな顔を見ていたら、尚更胸が軋んで悲鳴を上げる。



「和美…ごめん」

 俺のせいで、こんな目にあったようなものだ。そう謝って頭を下げると、和美はフルフルと首を横に振った。

「そんなこと言わないで、蓮くん」

 分かってる。和美は俺が自分を責めると分かっていたから隠そうとしたんだ。見知らぬ人に殴られたということにして、警察に被害届を出すことも拒んで…。

「それに…そんな顔しないで」

「…?」

 どんな顔をしているのか、自分でも分からなかった。

 力のない目で和美を見つめ返すと、困ったような笑みを浮かべる。

「怖い顔してる」

 言いながら和美は、俺の眉間の辺りに指を指して示した。




「…ごめん…」

 言うなと言われた一言を、俺はこの時もう一度口にしていた。脱力したような腕を何とか持ち上げて、そのままベッドの上に上体を起こしていた和美を抱き寄せる。

 長い髪に顔を埋めて、声を絞り出した。

「もう…絶対にこんなことさせない。和美は俺が守るから」

「…蓮くん…」

 誓うように言った言葉に、和美はまた困ったような複雑そうな声で俺の名前を呼んだ。




******



 だけどどんなに誓っても、たとえそれが本気の想いでも…24時間傍にいられるわけじゃない。

 そもそも今回の件は、和美は俺の彼女でさえなければあんな目に遭わずにすんだんだ。

 傍にいるからこそ危険にさらしてしまうこともある。守りたい対象が、近くにいるから傷つくこともある。

 そんなことを知って、俺はその矛盾に頭を抱えたい心境にもなっていた。




 荻野明美たちがあの後何かをしてくることはなかったけれど、俺にとってはあの一件は恐ろしいものだった。

 和美が襲われたことはもちろん、自分の中に潜む暗く黒い感情に気づかされてしまったからだ。

 …正直、佐々木があの時止めてくれなかったらどうなっていたのか…考えただけでゾッとする。






 あの後、和美とはそれまで通りの関係に戻ったつもりだった。

 だけどやがて向こうは高校受験へ向けての勉強が本格化し、あまり思うように会えなくなったりした。

 押し切れば…時間さえうまく取れればどうにかなったとは思う。それでもレベルの高い高校を受験するプレッシャーとストレスを抱える彼女の、邪魔をしたくない思いもあったので見守っているつもりだった。

 …今思えば…それが全ての間違いだったんだろうけれど。




「…蓮くんは、もう姉ちゃんのこと好きじゃないの?」

 いつだったか、遊びに来ていた祥太郎がそんなことを尋ねてきたことがあった。

「…え?」

「だってもう全然会ってないよね?」

 会えるものなら会いたい。だけど俺には、理由としていた和美の受験の他に、恐らく自分自身への不安もあったんだ。

 心の奥底でいつ爆発するかも分からない、燻り続ける想いがある。守りたいはずなのに、俺が和美のために何かをしようとするたびに彼女は少し悲しそうな顔をするんだ。

 だから…自分に言い訳をしながら、距離を取りたい気持ちもあったのだろうと思う。



「和美、受験勉強大変そうだし」

「まぁね。昨日も情緒不安定で部屋の中からすげぇデカイ音がしてた」

「ガラスでも割った?」

 揶揄するように言うと祥太郎も苦笑いを浮かべる。「さすがにそこまではいかないけどね」と、肩を竦めていた。

「…受験が終わったら会いに行くよ」

 あの一件の後、心配した和美のお母さんは和美にすぐに携帯を持たせた。だから連絡を取ろうと思えば今はいつでも取れるのだけど、そうすることすら何故か今の自分には憚られる。

 今一歩、せめて指先の分だけでもこの手を伸ばせていたら未来は変わっただろうか。…そんなこと、考えても無駄なことだけど。







 受験が終わってしばらくして、「会いたい」と連絡をしてきたのは和美の方からだった。

 その時には春休みに入っていたし、もうすぐ入学だ。会っていなかったからちゃんとお祝いもしていなかった。合格祝いと卒業、入学祝いも兼ねてプレゼントを買い、久しぶりに会う緊張で胸を高鳴らせながら待ち合わせ場所に行ったのを覚えている。



 だけど…現実は非情だと思う。

「…ごめんなさい、別れたいの」

 会って他愛もない話をしている間、和美はずっと浮かない顔をしていた。

 どうしたのかと理由を聞くと、そう本題を切り出された。




 頭を殴られたかのような衝撃が走る。これは夢か現実か。他人事なのか自分の身に起こったことなのか…それすらも瞬時には判断できないほど動揺する。



「…なんで…」

 声を絞り出すのもやっとだ。



「…もしかして、あの時のこと? 俺のせいで和美があんな大怪我して…」

「違う。…蓮くんのせいじゃない…っ」

「じゃあ…もう嫌になった? 俺のことが」

「違う!」

 大きく首を横に振る和美の目に、涙が溜まっていく。

「気になる人が…いるの」

 そう言うのがやっとだったのか、和美は声を詰まらせながら口にした。




 驚きとか哀しいとかより、ただ目の前が真っ白になった。

 和美は浮気なんてするタイプじゃない。だけど、嘘を言っているとも思えない。

 だから気づいたんだ。和美は本気の恋愛をするほど大人になっていないわけじゃなかった。



 ただ…悲しいけれど、それほどの相手に今まで出会っていなかっただけだ。…俺も含めて。




「…分かった」

 そう言う以外、どうすれば良かった? もっと早く何とかしていれば、和美はいつか俺のことを本気で好きになってくれたんだろうか。

 …なんて、そんな考えても仕方のないことをどうしても思ってしまうんだ。




 守りたかったのは本当だった。ずっと傍にいたかったのも。

 だけど……。




 せめて、幸せになってくれればいい。自分の狂気が和美を傷つける前に。




 そう思いながら、俺は繋いでいた手をそっと離した。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ