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Sweet&Bitter  作者: みずの
眠る時はせめて私の夢を
137/152

24


 先生の温かい腕の中で、私は大きく目を瞠った。

 痛いくらいに力をこめられるそれに、それでも抗議の声なんて上げるわけもない。ただ、恐る恐るその広い背中に私も手を伸ばす。

 そしてその時になって、ようやく気づいた。先生の体が少し震えていることに。それを抑えるためにもギュッと力をこめているのかもしれなかった。



「…先生…」

 涙は留まることはなかったし、うまく声も告げられない。

 でも私が今日ここへ来たその「意味」と、先生がそれをどう受け止めてくれたのかは言葉で説明する必要はなかった。

 抱きしめられたそこから、全ては互いに伝わっているようだったから。



 …それでも、ちゃんと言葉に乗せるべき想いもある。それが分かっているから顔を上げようとしたけれど、先生が小さな声を漏らす方が早かった。

「……た」

「え…?」

 うめき声にも似たそんなささやかな声に、私は涙を溜めたままの目をわずかに見開く。

 長い髪に顔を埋めるようにした先生が、耳元で震えそうな唇をもう一度開いた。



「…もう、戻ってこないかと思った」



 そんな言葉に、ズキン、と胸が突かれるように痛む。



 どうして先生にこんな言葉を言わせるまで、私は保身以外、何も考えられなかったんだろう。今思い返せば後悔しか残らない。身勝手だ、子どもだと罵られればそれまでだ。



「先生…」

 伝えなきゃいけないことがある。そう思って顔を上げようとしたけれど、それが分かったからか先生は更に腕に力をこめた。

 私の頭を掻き抱くように包み込んでしまうから、そのせいで思うように先生の目も見れない。もしかしたら泣きそうな表情を見られたくなかったのかもしれない。




「先生、私…」

 仕方なく腕に包まれたまま、私は震えそうな声を絞り出す。ぐっと抱きしめられたせいで、先生のジャケットに私の涙が小さな染みを作っていった。

「ごめんなさい。先生に…ひどいこといっぱい言って…」

 途切れがちになる声で、それでも何とか必死で続ける。謝らなくてはいけないことはいくらでもあるんだ。



「あの日、先生のことを信じきれなくてごめんなさい」

 言っているうちに、また涙で視界が揺れてきた。

「ずっと私のことを考えてくれていたのに…私は、自分のことばっかりで…っ」

 しゃくりあげながらの声は、それでもきちんと届いていると信じたい。



「それでも先生は…いつも私が大変な時は助けに来てくれて…」

 本当は、「ごめんなさい」よりも伝えたかった言葉がある。今なら言える気がして…ううん、今言わなくてはいけないと分かっていたから、私は深呼吸するようにいつもより大きく息を吸った。




「ありがとう。…大好きです」





 今心の内を満たす、精一杯の想いを口にした瞬間、先生の指先がピクリと反応する。

 少し身を離してこちらを覗きこむ目は、予想に反して泣きそうになっているわけではなかった。でも、どこか深い色を宿したその瞳が少し細められる。



 その目に吸い込まれてしまえればいいのに、と、漠然と頭の片隅で思った時だった。目を細めた先生が微かに笑った気がした。

 そして大きな手の平が私の頬を包み込んで、そのままそっと口づけられる。



「……」

 啄ばむような軽いキスを繰り返し、段々とそれが深くなる。

 離れていた時間を埋め合わせるようなそれに、胸の奥が震えるのが分かった。



「…先生…」

 長い長いキスの後に、離れた唇で呼ぶ。声も、腕も…指先ですらも届く位置にいる彼が、また笑った気がした。

「…『先生』は、もういい」

 一瞬言われた意味が分からなくて、目を丸くする。それでもその意味を理解した時には目の前の「先生」が冗談を言っているわけではないことが分かったので、私は思わず返す言葉と息を同時に飲み込んでしまった。

「…え…っと…」

 明らかに動揺を隠せず、言葉を詰まらせる。それでも顔を覗き込まれているうちは、ごまかしたり逃げたりは許されなさそうで。



「…ゆ…き」

 蚊の鳴くような声で言いかけた私だったけれど、そこまで言って「やっぱり無理!」という思いで瞬時に顔が真っ赤になった気がした。

「先生…っ」

 やはり付け足してしまったその「敬称」に、先生は次の瞬間「ははっ」と珍しく声を上げて笑った。

「まぁいいか、今は」

 言いながらのその笑顔に、胸がキュンと切ない悲鳴を上げる。昨日までは、まさかまたこんなに近くで先生の笑顔が見られるなんて思っていなかったのに…。



 さっきまでは嫌味だと思えた頭上の蛍光灯の光も、今はもう欠片も気にならなくなっていた。










 結局そんな遅い時間から家に帰ることもできず、先生の家に泊めてもらった。

 睡眠時間はほんの数時間…いや、ぐっすり眠れたのはほんの数分かもしれない。夢を見ているように浮ついた気持ちは感動の渦にまで飲まれ、それに伴う極度の興奮のせいでほとんど眠れない。



 カーテンの向こう側が薄く明るくなり始めた頃、私はほぼ一晩中眺めていた先生の寝顔を見つめる。

 ついこの前も、一度泊めてもらったことがあったっけ…。でもその時とは全然違う、胸の中の軽さと想いの重さ。



「それにしても…」

 その寝顔を見つめながら、漠然と思う。

「…よく寝られるよね、前回も今回も」

 こっちは緊張と興奮が織り交ざって寝られる気がしないのに。そう思うと苦笑が漏れたけれど、責める意図はなかった。



 だけど、「えい」と半ばふざけて眠る先生に抱きついてみる。ぎゅっと力をこめたけれど、お酒も入っていたらしい先生はそれくらいでは起きる気配もない。

「…ん」

 小さく身じろぎだけして、微かな声を洩らす。

 そうして次の瞬間、寝ぼけているのか意識を覚醒させないままギュッと私の体を抱きしめ返してきた。



「……っ」

 反則でしょ、と思いながらも、胸の奥がまたあの嬉しさと切なさの混ざった音を立てる。

 先生と別れていたこの数ヶ月の間は、こんなに近くにいられる喜びをまた得られるなんて思っていなかったから。



 …違う。



 「嬉しい」「喜び」そんな言葉じゃ説明できないこの気持ち。




「…『幸せ』?」

 生まれてから今までで一番はっきりと自覚したその「想い」に、私は胸が熱くなるのを感じながら、まだ起きない先生の腕の中で浸るように目を閉じた。




******



 休みが明けて、月曜日の朝。

「…かぁずみぃぃー!!!」

 早めに登校していた私の背後に、そんな大声がかけられた。

 振り向くまでもない、この声は由実に決まってる。そして何故か感じたデジャブ。前にもこんなことがあったっけ。

「おはよ、由実」

「『おはよ』じゃなーい!!!」

 由実の後ろには、智子と茜の姿もある。2人は由実のように取り乱した様子もなく、「おはよう和美」といつも通りの笑顔だった。



「何!? 昨日のメール何!? ヨリ戻したってこと!? つうか何であんたはいつも結果だけの報告なの!」

「…ごめん…メールで打つ内容でもない気がして…」

 とりあえず最終的に背中を押してくれたなっちゃんや修司さんには、昨日電話で報告してある。

 由実たちには会った時にと思って、前々から心配はかけているので事実だけ先に連絡しておいた。

「おかしいでしょ! 経緯まで聞かないと余計心配するっつーか気になるわ!」

「…う、ごめん……」

 由実の気迫に圧されながら、苦笑いを浮かべていると横から智子が助け舟を出してくれる。

「由実、和美はさ、きっとうちらにはきちんと会って顔を見て報告したかったんだよ。メールとか電話じゃなくてさ」

「そうそう」

 茜もニコニコしながらそれに乗っかってくれたからか、由実は「…え、そう?」と打って変わって少し照れ笑いを浮かべながら言った。



 コクコクと大きく頷き返すと、由実は「なぁんだぁ」と既に機嫌を直したらしく笑いながら私の肩に手を回す。

「それならそうと言ってよねー」

 だけど上機嫌になったらなったで、由実は手ごわい。



「で! 何で急にそうなったの!? つうかやっぱりヨリを戻したその時はあのユキサダでもメロメロなの!?」

「ゆ、由実、声が大きいって…!」

 まだほとんど登校してきている生徒がいないと言っても、全く校舎内に人がいないわけではない。

 どこで誰に聞かれるか分からない場所で先生の名前を出されたくなくてその口を封じようとしたけれど、遅かった。ちょうど私たちがいるすぐ先の角から、こちらへ向かってくる人影がある。



「…あー…」

 また由実がやっちゃったよ、と、後ろで智子が小さく呟く。

 確かに、何度かこういうことがあったなぁと思いながら、私はそのこちらへ歩いてくる人影を見つめた。

 この距離では、聞かれたか聞かれてないか…はっきりとは分からない。



「…おはようございます」

 それでもペコリと頭を下げながら挨拶すると、相澤先生は微かに笑って「おはよう」と返事をした。それに続いて、由実たちも場を取り繕うように挨拶をする。

 最後に相澤先生と話した時の空気から言って、もっと何かを言われるかと思ったけれど、彼女はそのまま私たちの横をすり抜けた。もしかしたら由実の大きな声も聞こえていなかったのかもしれない。



 だけど…。



「あ、白石さん」

 何かを思い出したように振り向いた相澤先生が、私の名前を呼ぶ。

 そのままスルーされると安堵していた私は、改めて呼ばれてしまって「…っ、はいっ」と必要以上に固く返事をしてしまった。

 それが分かったのか、相澤先生の整った顔がわずかにほころぶ。その柔らかい表情に、私は何となく違和感を覚えてしまった。

 …何かが違う気がする。今までの彼女だったら、私にこんな顔見せなかった。



「私、ジャズに全く興味なくなったの。やっぱり音楽はクラシックの方が性に合ってるみたい」

「……はぁ…」

 いきなり言われたその言葉に、頭上でクエスチョンマークが点滅する気分だ。首を傾げていると、智子たちも今の私と似たような表情をしていた。

「生でライブを聴きに行く気もなくなったから、うちの生徒がジャズバーやライブハウスにいても鉢合わせることもないと思うわ」

「……」

「…まぁ、単なる独り言だから気にしないで」

 それだけ言って、相澤先生は凛とした姿勢で踵を返す。その背筋の伸びた後ろ姿を眺めながら、私はようやく言われた意味を理解した。



 ありがとうございます、と答えるのは憚られた。お礼を言うのは違う気がする。

 それでも今のこの気持ちをどう表現すればいいのか分からず、私はただ去って行く先生の後ろ姿に向かって深々と頭を下げた。



 そしてそれと同時に、「もしかしたら」という考えが頭の中に浮かぶ。

 もしかしたら、相澤先生と本城先生の間で何かがあったのだろうか。本城先生がどうにかしてくれたんだとしたら、こんなに穏やかに相澤先生が笑ってくれるようになったのも分かる気がする。




「…何あれ」

 相澤先生の後ろ姿を顎で指した後で首を捻りながら、由実が呟く。そんな声を聞きながら、私はその自分の予想が外れていないだろうということを予感していた。




 やっぱり結局、私を助けてくれるのは本城先生なんだ。そしてそれは先生だけじゃない。昨日電話した時のなっちゃんや修司さんが自分のことのように喜んでくれたことを思い出す。

 これだけ多くの人に見守られて、助けられて…やっとここまで来れたんだと実感する。

 それはきっと、目の前の3人もそうだ。同じ目線で泣いて笑ってくれる友達がいなかったら、きっと私はここまで頑張っていないと思う。



「由実、智子、茜……ありがとう。心配かけてごめんね」

 急に改まってそう言った私に、さっきまで拗ねモードで責めていた由実でさえ「えっ」と驚いた顔をする。

「何よ和美、照れるじゃんっ。そんな改まって言われるとさぁ」

「うん。後で全部話したいから…聞いてくれる?」

 尋ねた私に、3人は同時に「もちろん」と笑って答えた。




 どこから話そう、先生とのこれまでのこと。そして皆に…3人にどれだけ救われてきたかということを。




「じゃあ今日放課後、カラオケ行こうよ。話せるし歌えるし」

「そうだね」

「あ、噂のカレシ発見」

 智子と茜が放課後の計画を立て始めた横で、由実がおでこの辺りに手をかざして遠くを見ながらそう呟いた。

 思わずその視線の先を追うと、どうやら今から化学準備室に向かうらしい本城先生が遠くに見える。

「ユキサダー! おはよー!!!」

 ぶんぶんと手を振りながらそう大きな声で挨拶する由実に、私はぎょっと目を見開いた。先生もそれに驚いたようだったけれど、すぐに呆れたような表情に戻る。

「声でけぇな、朝から」

 化学準備室は私たちの後方にあるから、急ぐわけでもなくゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。そして近くまで来て、先生はそう言って由実を見下ろした。



 カッチリとしたスーツ姿で、先生は欠伸を一つ漏らす。そのまま「じゃあな」と私たちの横を素通りして行きそうだったけれど、三歩先に進んだところでピタリと足を止めた。

 さっきの相澤先生と同じで何かを思い出したようだ。「あぁ、白石」と肩越しに振り返る。


 先生が私に呼びかけたせいで、恋人同士特有の何かしら甘い言葉を期待しているのか由実の目が少し輝いている気がする。

 そのことに気づいているのかいないのか…先生はいつも通りのポーカーフェイスで構わず続けた。

「部活の課題、お前全部やり直しな」

「えぇぇ!? な、何でですか!?」

「何でって、全部間違えてるからに決まってんだろうが。あと最後の考察が甘すぎる」

「…うぅ…」

 結構時間かかって頑張った課題だったんだけど…容赦のない言葉を私に浴びせ、先生はそのままスタスタと歩いて行ってしまう。



「…あれ? 和美、あんたたちヨリ戻したんだよね?」

 そんなやり取りに、由実は確認するように尋ねてくる。私は唇を歪めたまま頷き返すだけ。

 それを見ていた智子が、おかしそうに笑った。

「まぁでも、ヨリ戻したからって本城がうちらの前でまで和美にメロメロだったらちょっと怖いでしょ」

 そんなことを言うものだから、その姿を想像したらおかしくて何だか笑えてきてしまった。4人共言い合わせたわけではないのに同じことを思ったのか、思わず互いの顔を見合わせて笑ってしまう。



「確かに、甘いだけじゃないのがユキサダだもんねぇ」

 納得したように由実が頷いてそう言う。




 そう、私もそう思う。先生は優しいけれど私を甘やかすばかりじゃないし、口は悪いし「好き」なんて滅多に言ってくれるわけでもない。

 でもそれが、私が好きになった人。そんな先生だから好きになったんだから。




 遠回りもしたし、どれだけ泣いたか分からない。でもこれからはきっと、長い永い幸せな未来が待ってる。





 甘くて時には苦い、私と先生のそんな物語は、まだ始まったばかりだ。








---END---






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