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Sweet&Bitter  作者: みずの
眠る時はせめて私の夢を
131/152

18



 …先生の『何』を見てきたか…?


 そう問われて、なっちゃんはどう思ったのだろう。きっと考えこんでしまったから、先生を理解しようと思い、和解する方向を選んだんじゃないだろうか。



「キミは、自分を置いて由香子さんのところに行ったユキ先生が何を考えてそうしたか…考えたことある?」

 静かな声に尋ねられて、私は目を瞠ることしかできなかった。



 考えたことがないわけがない。何度も考え、何度も悩んだ。先生はやっぱり私より由香子さんが好きなんじゃないか、と…。

 そんな先生とは、いくらなんでももうそれ以上付き合えないと思った。だからあの時、由香子さんのところへ行くなら別れると私から切り出したんだから…。



「多分、本当の意味ではちゃんと考えてないんじゃない?」

「…え…」

 私の思考回路を読んだかのようなタイミングで、先輩はそう言葉を重ねた。

 言われた意味が自分を否定されるようなものだったので、私は小さく眉を寄せる。不愉快だったからじゃない。本気でその真意が分からなかったからだ。



「ユキ先生は、多分、他の人よりももっと先を読んで考える人だと思う」

「……」

「もう一度考えてみなよ、あの時…由香子さんが『来てくれなきゃ死ぬ』って言った時、本当にユキ先生が行かなかったら…キミはどうしてた?」



 『どうしてた』…? 言われた通りに必死でシミュレーションしようとするけれど、あの時のことを思い出そうとすればするほど胸が痛んで邪魔をする。

 だけど先輩は逃げ道を与えてくれるつもりはないのか、「言葉が悪かったかな」と小さく呟いて訂正した。



「あの時、ユキ先生が行かなかったら…キミはどう思っただろう?」

 言い直した先輩の言葉に、私は変わらず固まったままだった。だって、「どう思ったか」…? 簡単には想像できない。



 あの日…あの由香子さんの電話の後、先生がもし行かずに私と一緒にいてくれたら…?

 胸の痛みを押し殺すようにして、ゆっくりと私は頭の中で一字ずつ辿るように思い起こし始めた。



「もし先生が彼女のところに行かずにキミのところに留まったままだったら、それで満足だった?」

「…っ」

 そんな風に、考えたことがなかった。

 ただ先生が私を置いて行ってしまった事実で頭がいっぱいで、別の状況だったら…なんてことは想像したこともなかった。



「多分、自分を責めたんじゃないかな。『先生は本当は由香子さんのところに行きたかったかもしれない。でも自分が引きとめたから行けなかったんじゃないか』って、そんな風に思ったと思わない?」

「……」

 目を見開いた私は、零れ落ちそうな瞳ですぐ傍の先輩を見つめ返す。でもその焦点はもちろん合っていなくて、自分が意識を向けているのはその言葉に導かれて想像したその状況だけだった。

「先生は、そこまで分かってたと思う。『自分の意志で行かなかった』のに、君が後で気にすることも理解してたと思う」

「……そんな…」

「そこから不安に陥ることも。先生は、キミの性格をきちんと理解してるだろうから」

 …確かに、そう言われればそうだ。私の性格からして、あの時先生が行かなかったとしたら自分の一言のせいだと気に病んだだろう。

 そして、先生が本当は由香子さんのところに行きたいくらい好きなのに私に遠慮して行けなかったんじゃないか、と思いそうだ。

 先輩に促されるまで考えたこともなかったことだったけれど、それは今の自分になら想像に難くない。




「ユキ先生の愛情は深いと思うよ。その場その場の感情なんて押し付けないと思う。キミが将来どう考えるか、どう思うか…自分の想いよりそっちの方を優先する」

「……っ」

 目の奥がツンとしてくる。溢れそうな涙を必死でこらえて、唇を引き結んだ。

「それくらい先のことも見越して…覚悟を決めたんだと思うよ」

「かく…ご…?」

 先輩の言葉を、繰り返す私の声は確実に震えている。

「覚悟って…それは、私と別れることになってもいいっていう…覚悟ですか?」

 私の問いに、先輩は微かに笑ったようだった。宥めるような…そんな笑み。そしてそれから、「違うよ」と小さく続ける。



「キミに別れられて、たとえそのままキミがいつか立ち直って他の男の人を選ぶ未来が来ても…」

 そこで一度言葉を切った先輩は、まっすぐに私の目を見下ろした。その瞳は真剣で、一点の曇りもない。

「それでもキミだけを想い続ける、っていう覚悟だよ」




 どうして…今までそんな風に考えられなかったんだろう。

 どうして、私は先生を信じることができなかったんだろう。



 その後先輩は、「まぁ俺の予想の範囲でしかないんだけどね」と小さく苦笑いを浮かべた。…だけど、今の自分になら分かる。

 先生なら、きっと先輩の言うように私のことを考えてくれたはずだ、と…。



「…どうしよう…っ、私、先生にひどいことを…」

 いっぱい傷つけたと思う。身勝手なワガママで振り回したと思う。

 別れると言ったのは自分なはずなのに、諦めきれずに頼ったり縋ったりしてしまった。あの人の、愛情の深さも理解できないままに。



「取り返そうと思って、手遅れなものなんて実はこの世にそれほどないと思うよ」

 そう言った先輩は、ポケットからハンカチを出して私の方へ差し出した。それでようやく気づいた。私の頬を涙がとめどなく伝っていく。



「…先輩は…どうしてそんなに先生のことが分かるんですか…?」

 尋ねた私に、タクミ先輩は少しだけ片方の眉を持ち上げたようだった。

 先輩の言葉は、あくまで予想だと自分で強調していたけれど、今となっては疑う余地もないくらいに納得できるものだ。それくらいに先生のことをどうして理解できているのか不思議で尋ねた問いだった。だって、修司さんやなっちゃんでさえ、こんな風には先生のことを理解していなかったはずなのに…。

 その私の問いに、先輩は少し顔を仰向けて考えこむ。しばらく黙した後、やがて再びこちらを向いた。

「少しだけ、俺の話をしてもいいかな」

「? はい、もちろんです」

 小さく頷き返した私に、先輩は「じゃあ今度は歩きながら」と続けて私を促した。




******



「初めて人を好きになった時、俺には他に彼女がいたんだ」

 歩き始めてすぐ、先輩はそう話を切り出した。

 『初めて人を好きになった』のに、『彼女』がいた…?

 それは、その『彼女』のことは好きではなかったということだろうか?



「…事情があって、付き合ってた」

 私が頭の中で疑問を浮かべたのが分かったのか、先輩は前を向いたままそう付け足す。その「事情」までは踏み込んでいいものではない予感がしたので、尋ね返しはしなかった。



「好きになった子も自分のことを想ってくれているのは分かってた。でも『彼女』と別れることはできなかったから、自分の感情を押し殺そうとした。気づかないフリをしようと思ったんだ。でも…」

 うまくいかなかった、と続ける先輩の言葉に、私はまるで自分のことのように胸がキュッと軋むのを感じた。



「そうやって全部をごまかそうとしても、結局は何もかもがすれ違っていくだけだった。自分の気持ちを自覚した瞬間、『彼女』にもそれを悟られて、歯車がかみ合わなくなった。結果的に2人共傷つけることになったんだ」

「……」

「それでも何とかやっと自分の気持ちに整理をつけて、彼女とも別れて好きな子に向き合おうとした時…もう、遅かった」

「…え…」

 漏らした声は、先輩の耳にまで届いたか分からない。また最初の時のように私の半歩前を歩いていたので、どんな表情をしているのか真正面から伺うことはできなかった。

「好きな相手は、もう俺から離れていったところだった。長々と結論を出さずにいた自分が一番悪いんだけど」

「そんな…」

「『背を向けられても当然だ』『もうこっちを向いてくれなくても当たり前だ』『いつか自分の目の前で他の男を好きになるかもしれない』…そんなことばかり考えてた」

 でも、と付け足して、先輩は一度言葉を切る。

 足はまっすぐに行く先を向いていて、もう視線の先には目的のスーパーが見え始めていた。



「その時、思ったんだ。全部自分の行動が招いた結果だって。それなら仕方がないと思って、受け入れる覚悟をした」

「かく…ご…」

 さっきの先生の話の時にも出た単語を、私はもう一度弱々しい声で繰り返した。



「そう。この先ずっとすれ違ったままでも、自分はその子だけを想い続けるって覚悟」

「……」




 返すべきうまい言葉は、見つからなかった。

 ただ先輩のその時の胸の痛みはまるで自分のことのように感じた。

 思わずズキンと疼く胸を押さえて、私はまた泣きそうになっている自分に気づく。



 先輩は…こんなことがあったからこそ、先生のことを理解できたんだと納得する。誰にも分からなかった先生の本音に、気づくことができたんだ。

 状況は全く違っても、その胸に抱えた想いは似たようなものだったから…?




「聞いても…いいですか」

 話を終えた先輩に、私は後ろから改めて声をかけた。

 言葉なく振り返った先輩は、何も言わないままだったけれど先を促す。



「その後、結局その人とは…?」

「……」

 問いに、先輩は答えてくれなかった。ただ、その瞬間目を細めてふわっとした柔らかい笑みを浮かべる。

 ずっと無表情であることが多い先輩にしては珍しい笑み。だけどそれはさっきハルカちゃんの名前を出した時の先輩のものと同じ気がして、私は応えのない「答え」を受け取った気がした。



「…私も…間に合うでしょうか」

 先輩がどうやってその後その状況を乗り越えたかは分からない。

 でも、先輩がさっき言ってくれたように「手遅れ」にならないことを信じたい。



「生きている限り、取り返せないことなんてないと思うよ」

 そう最後に呟いた先輩は、話の規模を広げたようにそんな言葉を口にした。

 その真意は計り知れなかったけれど、もしかしたら誰か大事な人を亡くした経験があるのかもしれない。




「そう…ですよね」

 そんな風に小さく同意した時、私たちの前には目的のスーパーが大きくその姿を現していた。





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