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Sweet&Bitter  作者: みずの
眠る時はせめて私の夢を
130/152

17


「タクミ…先輩…」

 「その人」の顔を見て、私はその名をポロリと口にするのが精一杯だった。

 その後は絶句して、硬直してしまう。そう、今目の前に立っているのはさっき駅で会って別れたばかりの彼だった。



「何だ、知り合いだったのか」

 私と先輩の顔を見比べて、なっちゃんはそう言う。先輩の方は、私には「さっきはどうも」と短く挨拶しただけで、リビング隣の和室にいる理沙さんの方を向いた。

「これ、頼まれてたやつ」

「ありがとー、そこ置いといて」

 そんなやり取りをする先輩は、両手に大荷物だった。さっき会った時はこんなにたくさん持っていなかったため、恐らくあの後買いに行ったのだろう。

「買うの恥ずかしくなかった?」

 苦笑い気味に尋ねる理沙さんは、抱いていた奏くんをそこにあるベビーベッドにそっと下ろす。

「そう思うんなら受験間近の男子高生にこういうの頼まないでほしい」

「あら、しょうがないじゃない。頼んだの私じゃなくて貴弘だもん」

 理沙さんの答えにタクミ先輩はため息を漏らしながら、和室の隅に大量のオムツの袋を置いた。状況から察するに、駅近くのドラッグストアで買うように頼まれていたようだ。



 その時、ちょうどベッドに下ろされたばかりの奏くんが泣き始めてしまった。そんな奏くんを抱き上げ、理沙さんがそのまま先輩に押し付けるように差し出す。

「お茶いれてくるから、その間抱っこしてて」

「……」

 押し付けられた奏くんを両手でそっと抱き、先輩はそのままベビーベッドの前で立ち尽くした。無表情だけど手にした赤ちゃんの小ささにどうしていいか困惑しているようにも見える。

「で、お前ら何で顔見知りなんだ?」

 その様子を眺めていると、なっちゃんが私と先輩、どちらにとはなしに何となくそう言った。先輩は奏くんを腕に固まっているので、代わりに私が答える。

「ちょっと、学校で困ってる時に助けてもらったことがあって…」

「へぇ」

 意外そうに片方の眉を持ち上げて、なっちゃんは小さく呟く。そしてその瞬間、私は今まで先輩に自分が名乗りもしていなかったことを思い出した。

 こちらは噂で先輩の名前を聞いたことはあったけれど、向こうは私のことを「菅原先輩に絡まれていた2年」としてしか知らないはずだ。

「あ、先輩…っ、私、2年の白石和美といいます」

 そう思い当たってペコッと頭を下げると、なっちゃんは「何だ、名前は知らなかったのか」と呆れたように言った。

 先輩の方は、恐らく私の名前になんて興味はないだろう。だけど名乗らないのも失礼だと思えたからそう告げた。

「……」

 だけど、顔を上げた瞬間に見た先輩は少しだけ目を見開いていた。そしてそれから、「…キミが」と意外そうに小さく呟く。



「…え?」

 どこかで私の名前を聞いたことがあったんだろうか。…いや、それか、学校で助けた「私」と、なっちゃんたちから聞かされている本城先生との話に出てくる「私」が結びついていなかっただけかもしれない。

 首を傾げた私に、先輩は「…いや」と首を振っただけでそれ以上答えてはくれなかった。



 名前で思い出したけれど、そもそもどうして先輩がなっちゃんに「准一」と呼ばれているのかが分からない。

 さっきからひっかかっていたその疑問に、私は尋ねようとした瞬間、キッチンの理沙さんが視界に映って「…あ」とあることに気づいて声を漏らした。



 本城先生は、理沙さんのことを苗字で呼んでいたっけ。それも、大学時代の時の「旧姓」のまま…。

 それが「拓巳」だったことを思い出して、その瞬間に全てが繋がった気がした。そしてそのまま、理解した事実を口に出してしまう。

「…『タクミ』って…苗字だったんですか…!」

 急に声を上げた私に、なっちゃんと先輩が思わずと言った感じに互いの顔を見合わせた。そしてそれから、なっちゃんが吹き出すように笑う。

「何だ、気づいてなかったのか」

「す、すみません…」

「あぁ、大丈夫。昔から言われ慣れてるから」

 相変わらずの無表情で、先輩は小さく首を振るとそう答えた。



 てっきり噂で聞いた「タクミ」という名前は、下の名前だと思っていた。

 失礼なことを言ってしまったかと思ったけれど、先輩は本当に言われ慣れているのか気にした様子もない。

 だけどその無表情に、「一切笑わない人だなぁ」と漠然とした印象を抱く。無表情であることが機嫌が悪そうとか、相手に不快感を与えるタイプではないけれど、ほとんど表情が変わることがないようだ。



「和美ちゃん、今日夕飯も食べて行けるよね?」

 その時キッチンのカウンター越しに、理沙さんが顔を出してそう声をかけてきた。

「え、でもご迷惑じゃ…」

 言いかけたけれど、理沙さんはいつもの快活な笑顔で手を左右に振ってみせる。

「いいのいいの。っていうか、久々だから長くいてほしいの私が」

「あ、じゃあ…お言葉に甘えて」

「准一も食べて行くでしょ?」

 私の次に、理沙さんは先輩にもそう声をかけた。

「いや、俺は…」

 言いかけたそんな言葉すら、理沙さんは気にした様子もなくキッチンで忙しそうに動きまわりながら遮る。

「お父さん今出張中でどうせ帰っても一人でしょ? いいから食べて行きなさい」

 私には向けられることのない、理沙さんの「姉」らしい言葉。それに抗うのも面倒だと思ったのか、先輩は答えずに一つ息をついただけだった。



「和美ちゃん、嫌いな物ない?」

「あ、はい、大体大丈夫です」

「そう。ところで今気づいたんだけど、お醤油切らしちゃってるみたいで…」

 そこまで言って、理沙さんはニッコリと笑ってみせた。

「悪いんだけど、2人で買って来てくれない?」

 他意があるのかないのか、計り知れない笑みで理沙さんはそんなことをサラリと言ってのけたのだった。




******



 私と先輩を2人きりにするためなのか、否か…。

 醤油なんて口実かと思ったけれど、マンションを出たところでそう言うと先輩は「いや」と首を横に振った。

「あれは本気で買い忘れてただけだよ」

 理沙さんから持たされたお札を財布にしまって、先輩は流れるような声でそう言う。



 …それはそうか。今回「ラストチャンス」と銘打って何かをしたいのはなっちゃんの方で、理沙さんはどうやらそれにあまり賛成ではないようだったし。

 そう言えば、なっちゃんの言っていた「ラストチャンス」はどういうことだったんだろう。

 あの時の話から察すると、なっちゃんが本城先生に向かい合えるようになったのはタクミ先輩の一言がきっかけで…。

 そうすると、私にもタクミ先輩と話をさせたかった、ということだろうか…?




「…駅の方まで戻らないとスーパーないんだけど…」

「あ、はいっ、大丈夫です」

 考えごとをしているうちにかけられた声に、私は慌てて答える。そもそも男友達もろくにいない私は男の人とこうして並んで歩くことが珍しく、少し緊張してしまう。

 それがまた何を考えているか読めない人だし、「先輩」という立場だから余計にだ。



「…そう言えば先輩、私の名前、知ってたんですか…?」

 何か会話を、と思ってきっかけを探したけれどちょうどいい話題が見つからない。代わりに探るように、そんなどうでもいい話を始めた。

「うちの学校でキミの名前を知らない人間は多分あんまりいないよ」

「…? 私、何か悪いことでも…?」

 蓮くんとの噂もあったし、よからぬことかと思って身を縮めながら尋ね返してしまったけれど、先輩は首を横に振って返した。

「俺のクラスの男子も、2年生に美人がいるってうるさいから」

「…え!?」

 そんなバカな…と続けようとしたけれど、先輩がそういう冗談や軽口を叩くタイプには見えない。

 自分の知らないところで良い方にだろうと何だろうと、少しでも話題になっていることがあるのかと思うと恥ずかしくて仕方ない。



「あぁ、それと…」

 私の半歩先を歩きながら、先輩は続ける。

「ハルカが……あ、夏川悠花、知ってる?」

 言いかけた先輩は、不意に出した名前に一瞬我に返ったようにそう私に尋ねた。

「あ、はい、去年同じクラスでしたから…」

 そう言えば、噂では先輩が春日先輩と別れた後に付き合い始めたのはハルカちゃんだったっけ。

 そう思い出しながら答えた私に、先輩は「そう」と応じる。

「この前のミスコン、普通なら大体みんな自分のクラスに投票するところなのに速攻でキミの名前書いてたから」

「え! そうなんですか!?」

「うん。『白石さんすっごいかわいい!!』って、1人で大騒ぎしてた」

 …何だかそんなハルカちゃんと、それをクールに見守っている先輩の様子が想像できる。

 少しおかしくなって笑いかけた私だったけれど、その時先輩の顔を斜め後ろから見上げて思わず目を見開いた。



「……っ」

 途端に言葉を失ったのは、その時のことを思い出しているのかタクミ先輩が微かに笑みを浮かべていたせいだ。

 それは穏やかすぎる笑みで、これまでの無表情とは別人のような柔らかさがあった。



 そう…か、先輩は、ハルカちゃんのことだったらこんな風に笑うんだ…。



 不謹慎にも一瞬ドキリとしてしまい、そんな2人の関係が羨ましくも思えた。




 それと同時に、さっきまでよりも先輩に話しやすさを感じてしまう。

 思っていたよりも人間味を感じて、私は「先輩」と隣に並びながら改めて声をかけた。

「…なっちゃんから聞きました…私と本城先生の話を聞かされてしまったそうで…何だかすみません」

 先輩にとっては、関係も興味もない話だろう。恐縮しながらそう答えると、先輩は横目でこちらを一瞥してから「…いや」と首を振った。

「こっちこそ、個人的な話を聞いてしまってごめん」

「いえ…!」

 それは恐らく、なっちゃんが半ば無理やり愚痴まじりに聞かせたに違いない。それは確信に近いものがあった。

「それより先輩…なっちゃんに聞いたんですけど。なっちゃんが私と本城先生のことで怒ってた時、タクミ先輩に言われた一言で考えを改めた、って言ってたんです」

「…へぇ」

 他人事のように呟く先輩は、やっぱり興味なさそうになにげなく応じただけだった。

「…先輩は、なっちゃんに何を言ったんですか…?」



 スーパーまではそれほど遠いわけではない。恐らく私たちの足なら10分もすれば着いてしまう。



 私の問いに答える前に、先輩は歩く速度を緩めた。そして私の方を向き直る。

「大したことは言ってない」

 短くそう告げて、そこで足を止めた。つられるようにして私もその場に立ち止まってしまう。



「ユキ先生の何を見てきたんだ、って言っただけだよ」



「……え?」

 放っておけば聞き逃しそうなほど、透明感ある静かな声。その声が告げた言葉に目を見開いて、私は小さく尋ね返すことしかできなかった。







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