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Sweet&Bitter  作者: みずの
眠る時はせめて私の夢を
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 目が覚めたのはどれくらい経った頃だったのか…。

 虚ろに、段々と視界が開けてくる。見覚えのない天井が見えてきて、私はようやく首を横に傾けた。

 見たことのない部屋。だけどここがどこか私は知っている。



 引越ししてから一度も足を踏み入れていない、先生の部屋だ。



 このマンションの一室自体は部屋探しの時に一緒に訪れて知っているはずだった。

 今自分が横たわっているベッドも、前の先生の家にあったものと同じ。

 家具だってほとんど変わっていないはずなのに、そこは本当に「知らない」部屋のように思えた。

 先生と別れてから本当に別々になってしまっていたんだということを思い知らされるようで胸が少しだけ痛む。



「目ぇ覚めたか」

 声が降ってきて、私はゆっくりと体を起こした。

 ちょうど部屋に入ってきた先生がこちらへ歩み寄ってくると、そのまま大きなその手を私の額にかざす。

「熱下がったみたいだな」

 そう言えば、体がさっきより軽い。どれくらい眠っていたんだろうと気になったけれど、振り仰いで見上げた壁の時計はあれから2時間ほど経ったところだった。



「疲れてちょっと熱が出ただけだろ。もう大丈夫か?」

 ここで「はい」と答えれば家に帰されるんだろうか。だけど器用に嘘をつける性格でもなくて、ためらいがちにもはっきりと頷いて返した。

 だけど先生は、追い返すつもりはなかったようだ。フッと表情を緩めて苦笑いを浮かべた後、「知恵熱出す子どもみたいだな、お前」とおかしそうに呟いた。



「…先生、帰れって言わないんですか」

 涙目でそう尋ねたけれど、先生は小首を傾げてわずかに目線を逸らす。

「腹減ってねぇか、お前」

「え? …いえ、食欲はあまり…」

 話をはぐらかされたようで眉に皺を寄せながら答えると、先生は「そりゃそうか」とまた苦笑を漏らした。

「風呂なら入れるようにしてるから、好きに使ってさっさと寝ろ」

「…今起きたところです」

「ゆっくり休めって言ってんだ」

 そんな答えを返しながら、先生はクローゼットの方へ向かう。そこから何やら袋を取り出して、ポンと私の膝の上に乗せた。



「……?」

 首を傾げながらそれを開くと、その中に入っていたのは私の服だった。先生の家に泊まりに来ていた時に置いてあったもので、ルームウェアのようなラフなものもある。

 あんな別れ方をしたせいで取りにくることもできずにいたものだ。

「お前が使ってた物も洗面所に置いてあるから、勝手に使え」

「……先生…」

「何だよ」

「捨てて…なかったんですか、私の物」

 言うだけ言って一足先に部屋を出ようとしていた先生が、そこで肩越しにこちらを振り返る。

「…勝手に処分できねぇだろ」

「……そう…ですよね。すみません、明日持って帰ります」

「……」

 悲しかったのか嬉しかったのか、自分でもよく分からなかった。先生からしたら他人の物を無断で捨てられなかっただけのことかもしれない。

 でも私は、こんな些細なつながりも全くなくなったわけではないと思うと少し嬉しかった気がする。

 だって普通、別れた後に引越しをした人ならその時に全て処分されていたっておかしくはないはずだ。



「お風呂…使わせていただきます」

 ペコリと頭を下げて、私は前のアパートよりはるかに綺麗で広いバスルームへと向かった。




******



 ユニットバスじゃなくてきちんとセパレートのバスルームがいいという意見は、部屋探しをした時に私も先生も同じだった。

 だから選んだこのマンションの部屋。前のアパートより少しだけ広くて、かなり新しい。

 でも家の中の匂いなんかは前のままで懐かしい。それがまた私の涙腺を緩めていく。



 扉を開いて中に入り、すぐにシャワーのコックを捻る。

 温かいお湯が出てきて頭からそれをかけると、今日1日分の疲れが流れていく気がする。

 でもだからこそ、1人になったこの静かな空間で思い出すのはあの資料室での出来事で…。

 先生に傍にいてもらっておさまったようにも思えていた震えが、また指先を鳴らす。



「……っ」

 できれば何も考えたくない。だけどそう思いながらも、目の前の鏡に映る自分の姿を視界に留めてしまった。

 そこで気づかされたのは、腕と首に赤く残った蓮くんの大きな手の痕。首元に残った方は指の跡がはっきりと残っているというほどではなかったけれど、赤く痣になって誰が見ても気づくほどだ。

「…や…」

 瞬時に思い出す、蓮くんの瞳と地を這うように低い声。

 そしてそれだけじゃない。その首元と鎖骨の辺りに散りばめられた、別の赤い痕は絞められた時のものとは明らかに違う。

「~~っ」

 涙と共に声にならない声がこみ上げてくる。華を咲かせるようにつけられたそのキスマークは、私の背筋を凍らせる。

 先生が一度、私の首元で視線を止めたのを思い出した。たった一瞬で見なかったように目を逸らしてくれたけれど、先生に…大好きな人にこれを見られたのかと思うと悔しくて悲しかった。



「……っ」

 蓮くんの唇が触れたその首と胸元、そして自分の口をグイグイと乱暴に擦る。だけどそうしたって事実までかき消されるわけではない。

 そう気づくと涙が零れ落ち、思わず自分の身を抱くようにしてうずくまり嗚咽に似た声を必死でこらえる。

 頭の上から注がれるシャワーのお湯で、今日の出来事も全て流し去れればいいのに、と切に願わずにいられなかった。






 長い長い時間をそこで過ごしたと思う。

 少しだけ気分を落ち着けた頃にバスルームを出たけれど、やっぱりうまく振り切ることなんてまだできなかった。

「…ありがとうございました」

 お風呂のお礼を言うと、リビングでソファに座っていた先生は立ったままの私を見上げる。そしてその目がまだ震えている私の手で止まると、小さく息を吐きながら立ち上がった。

「ほら、もう寝ろ」

「…えっ、わ…っ」

 ひょいと簡単に担ぎ上げられて、私は面食らう。目を白黒させたけれど、先生はそのままさっきの寝室に歩いて行った。

 ベッドに私を下ろすと、バサリと頭から布団をかける。乱雑な動作だったけれど、これが先生の優しさなんだと知っているからさっきとは別の涙が出そうだった。




「…先生…怒ってないの…?」

「……え?」

 あまりにも優しい先生に、私は思わずそう尋ねてしまう。布団からそっと頭を出し、涙目で上目づかいに聞くと先生は少し意外そうに首を捻った。



「修司さんのウェディングパーティーの時みたいに…私が隙だらけだからって…怒ってない?」

「…っ」

 よっぽど私が不安そうな顔をしていたのか、先生はその問いに弾かれたように顔を上げた。

 そして少し目を瞠った後、グイと私の腕を引く。

 ベッドの脇に腰を下ろした先生は、そのままその大きな腕の中に私の体をすっぽりとおさめてしまう。

 ぎゅっと抱きしめ、洗ったばかりの髪をそっと優しく撫でられた。



「疲れてんだよ、お前。いいから寝ろ」

 耳元で囁かれる声に、やっぱり涙が出そうになる。蓮くんには触れられるだけで体が強張ったはずなのに、先生なら声を聞くだけで全身から力が抜けて安心しきってしまうんだ。



「先生、一緒にいて」

 気を失う直前のあの時、熱の勢いで口にした言葉を私はもう一度漏らす。

 今自分が望む、たった一つの願いだった。だから普段は絶対言えないようなこんなワガママも言葉にしてしまったのかもしれない。



「いるよ、ここに」

 私が横たわったベッドのすぐ傍に座って、先生は手を差し出してくれる。

 それをぎゅっと握り返すと、その大きな手に包まれるだけでホッと胸のどこかで安心するようだった。



「…寝れねぇんだったら子守唄がわりに一曲弾いてやろうか」

 そのまま10分くらい経った頃だっただろうか。ふっと笑みを漏らして、先生が言う。顎で室内にあるピアノを指していた。

 そう言えば引っ越したらピアノを買うって言っていたっけ。実現したんだな、と思ってそれを目線で追う。

 ファミリーはあまりいない、単身者や夫婦だけの人が多いマンションだから従来のアップライトピアノは置けないんだと言っていた。

 だから先生も音量を調節できるピアノを買ったらしい。私の手を離して立ち上がり、ピアノの前に座ると隣の部屋にすら響かない程度の大きさでポーンと音を出した。

 眠るのにも邪魔にならない程度のBGMのような音量。…ううんむしろ、ささやかだからこそ逆に落ち着くようだ。



 先生が弾き始めた曲は私は知らないものだったけれど、優しい音と流れるようなメロディーは言葉の通り眠りを誘うものだった。

 疲れが抜けきっていないことと、泣き過ぎたこともあって音に包まれながら段々と意識が遠のいていく。

 一曲と言ったのに私が眠るまで何曲か弾き続けてくれたらしい先生の奏でる音は、さっきまでの胸の苦しさを嘘のように落ち着けてくれた。




 すぅ、と眠りに入った私はさっき眠った時よりも、意識を深いところへ沈めていった。




 だから、その後の物音も声も、眠った私の脳には一切届かない。

 私が眠った後、最後の一曲を弾き終えた先生がピアノを閉じる音も。



 そして、その後で誰かに電話をかける声すらも…。




「俺だ」

 さっきまで見せてくれた優しさすら欠片さえない、低い声音。




「…今から出て来いよ」

 この時の私は、それらを知る由もなかった。






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