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Sweet&Bitter  作者: みずの
眠る時はせめて私の夢を
123/152

10


 資料室は鍵がかかっているんじゃないかと気になったけれど、目の前まで行ってみればそれは難なく開いた。

 どうやら文化祭中に物置として使用していたらしい。いつも雑然とした場所ではあるけれど、祭りに使われた大道具なんかが置かれている。

 それらを避けて部屋の奥まで行き、窓から外を見下ろす。この場所からも校庭は死角になっていて、外での後夜祭が今どんなことを行っているのかは伺いしれなかった。



「……」

 窓枠に手をつき近くの椅子に座る。そうして外を眺めながらも、考えるのはこの後のことばかりだった。




 何から聞こう。知りたかったけれど聞く勇気のなかったことはたくさんある。

 やっとそれらを知る覚悟ができた今、もう何1つ疑問も謎も残したくない思いだった。



「…遅いな…先生」

 そこでどれくらい待った頃か、ふと気になって部屋の壁にある時計を仰ぎ見た。電話での呼び出しだったからすぐに終わるかと思っていたけれど、意外と面倒な用件だったのだろうか。

 そんな風に吐息を漏らしかけた時、ノックという前触れすらなく資料室の扉が静かに開かれた。



「せ……」

 顔を上げてそちらを振り返り、呼びかけようとした私はクッと声を詰まらせる。

 そこにいたのは期待していた人じゃなかった。男の人としては標準なはずだけれど、先生よりも低い背丈。

「…蓮くん…」

 漏らすように小さくその名を呼んだ私は、瞬時に喉が渇いていくのを感じる。

 それくらいに、一瞬でも蓮くんの様子がおかしいことに気がついたからだった。



 何だろう…言葉にできないこの違和感。いつも通りに整った顔立ちに映るのは無に近い表情で、こんな彼の顔も今までに見てきたことがあるはずなのに。

 それでも覚える違和感は、彼が今この瞬間に纏った雰囲気のようなものからだろうか。

 生気のないような目で私を視界に捉えた蓮くんは、やがてフッと笑って表情を少しだけ和らげる。

「サボリ?」

 なのに全然、目が笑ってない。そんな彼に問われた声に、返すべき言葉は私の唇から漏れることはなかった。だから答える代わりに問い返す。



「…蓮くんこそ…どうしてこんなところに? 今頃後夜祭じゃ…」

「……」

 資料室に入ってきて、蓮くんは後ろ手にドアを閉める。そうして一歩こちらに踏み入っただけなのに、私は何となく同じだけジリと後ろに下がってしまった自分に気づいた。

 怖い…なんだか知らない人のような彼の雰囲気に呑み込まれてしまいそうだ。



「行かないよ、あんなの」

「でも…っ、女子生徒のカード、受け取ったんでしょ?」

 私の言葉に、蓮くんはふっと視線を逸らす。窓の外を見やり少し遠い目をしたように見えた。

 それから「…あぁ…」と小さく呟く。

「そう言えばそうだっけ。今頃探してるかもね」

「……っ」

 ひどい、とは素直な感想すぎて声にならなかった。

 きっとそのカードを蓮くんに受け取ってもらえた女の子は嬉しかったはずだ。今頃どんな顔で蓮くんを探しているんだろう。

「初めから…そのつもりだったの? だったら受け取らなければ良かったのに…っ」

 行く気がないなら、断りようはいくらでもあったはずだ。それこそ本城先生のように断ってしまえばいい。

 それなのに喜ばせるだけ喜ばせておいて、後で突き放すなんて…。もしかしたらその女の子は今頃泣いているだろうか。考えただけで胸が痛い。



「最初はちゃんと行くつもりだったよ」

「…ならどうして…」

 言いかけた時、蓮くんはスッとスーツのポケットに手をやった。そしてこちらにゆっくりと歩み寄りながら、そこから一枚の紙を取り出す。

「……さすがだね、和美」

「…え?」

 目の前までやってきた彼に、その紙を差し出された。



 意味も分からず目を丸くしながら受け取ったそれを、カサカサと音を立てながら開く。そこにあったのは、今日行われたミスコンの結果だった。

「さっき後夜祭でそれが発表されたよ。ずっとサボってたんなら結果も知らないんだろ?」

「………」

 票数まで記されたそれに、私は思わず目を見開く。そのミスコンの結果は2年生のものだけだった。

「うそ…」

 各学年、発表されるのは準優勝までのはずだ。だけどその紙は職員や実行委員用なのか、2年生の出場者全員の名前と票数の結果が出ていた。

 私の名前は…上から、2番目だった。

「準優勝…?」

「…しかも優勝者とたった3票差。こんな接戦は前代未聞らしいよ」

 そう説明してくれる蓮くんは、だけど興味なさそうに…いや、それどころか少し不機嫌そうに言った。

 だけど私は、その結果の方に釘付けでそんなことにもあまり意識が向いていなかったと思う。

 食い入るように紙を見つめて、目は更に丸くなっていただろう。



 正直…2位になれるなんて思っていなかった。優勝という期待には応えられなかったけれど、これでクラスの皆にも少しは何かを返せただろうか。



 ホッと安堵の息を漏らして紙を見つめていた私は、やがて蓮くんからの射るような眼差しに気づいてふと顔を上げた。

「……蓮くん?」

 小さく呼びかけた私に、彼は吐息まじりに少し目を伏せるとすぐ近くの窓にもたれかかる。そしてそのまま、私の顔は直視しないまま再び口を開いた。



「普通は、無理だよ。衣装が使い物にならなくて見慣れたクラスの出し物の格好で出場したって、優勝者と僅差なんて結果残せない」

「……蓮…くん…?」

「さすがだと思うよ、和美は」

 言われた意味が、一瞬分からなかった。だけど蓮くんの声音が言葉通りに褒めるような響きを持っていないことだけは理解できる。

「蓮くん…何で…」

 衣装が使い物にならなくなったことを、どうして知っているのか。確かにクラスの皆も知っていたし、既に噂になっていてもおかしくない。でも私は…そんな問いの答えを知っているはずだった。



 あの時はミスコンに出ることに必死で…脳内まで到達していなかった諒子さんの言葉。

『あのクソガキ…』

『さっき変に煽っちゃったからね…まさかこういう方向で出てくるとは思ってなかった』

 そう、諒子さんはあの時確かにそう呟いたはずだった。



 そして今なら分かる。彼女が言っていたのが誰だったのかということが。

 諒子さんがこの学校内に知っている人なんて、私か本城先生かなっちゃんか…あと1人しかいない。

 あの時はドレスを切り刻んだ犯人が誰なのかなんてどうでも良かった。それより重要なことがあったからだ。でも…今は違う。



「…蓮くん…だったの、あのドレス…」

 渇ききった声は喉に張り付くように掠れて、うまく言葉にならなかったかもしれない。

 それでも蓮くんは私のすぐ目の前で窓にもたれかかったまま、目も合わせずに小さく首を傾げた。

「だったら、何」

「…っ!」

 とぼけることすらしない、開き直った態度。それでもどこか悲しそうにも見えたのは気のせいだろうか。

 自分のしたことを後悔しているわけではない。ただ、そうでもしないと気がすまなかったという事実を憂いているようには見えた。




「私が…どれだけ…っ」

 どれだけ、このミスコンで頑張ろうと思っていたのか蓮くんは全然分かっていない。

 確かに初めは、皆に頼まれたから出るだけ出てみようという程度の気持ちだったかもしれない。でも、蓮くんとの噂なんかがあって一度私から離れかけていた皆の心が、それでも事態が落ち着いたらだんだんと前の通りに戻った。

 今まで通りに接してくれる彼らの気持ちが嬉しかったし、だからこそ文化祭で一丸となれる仲の良いクラスのためにできるだけのことはしようと思った。

 なのに…。




「卑怯だよ! こんなの…っ、正当に勝負することもできないでどれだけ悔しかったか分かる!?」

「何その言い方。あのドレス姿で出てれば優勝ぐらい簡単だって言いたいわけ?」

「…っ、違う…! そういう意味じゃない!!」

 冷たい蓮くんの声に、私は目を剥いて言い放つと唇を噛み締めた。悔しい。そんなことが言いたいんじゃない。

 応援してくれている人たちのために、フェアな状態で舞台に立てなかったことが悔しいだけなのに、今の蓮くんには何を言っても無駄のように思える。



「俺、言ったよね。和美が俺のところに戻ってくるなら何だってするって」

「…っ」

 窓にもたれかかっていた背を起こして、蓮くんが初めて私と向き合ってスッと立つ。

 その瞬間、何か悪寒のようなものが背中を駆け抜けるのが分かって、思わず私はもう一歩後ろに下がった。

「小塚さん夫婦の仲を壊すことも、ミスコンなんかのせいで和美を見て騒ぐ余計な男を全部潰すのも。何だってする」

 私が下がったのが分かったのだろう。蓮くんは冷たい声でそう続けながら、ジリともう一歩こちらに歩み寄る。

 目線は逸らせないまま彼を見上げ、私はそのままゆっくりと後退した。

「…! ……っ」

 だけど、更に少し下がったところで後ろの棚にトンとぶつかってしまった。



 逃げ道はない。右も左も文化祭の大道具ばかりで、蓮くんの隙をつく余裕もない。

 別に何をされたわけでも何かをされそうなわけでもないのに、それでもどうしようもなく恐怖感が拭えなかった。怖い…蓮くんの目を見ているだけで身が竦む。

 それくらいに今日の蓮くんは今までと違って見えた。「何か」に追い込まれているのは、私だけではなく彼もなのだろうか。

 孤独と悲痛、そしてどうしようもない「絶望感」に似た色だけが、その無に近いはずの表情に時たま浮かべられる気がする。



「……」

 だけどここで泣いて赦しを請うことも、彼の抱える痛みを受け入れることもできない。

 蓮くんと戦うんだと…自分の大事なものを守るんだと決めた時から、その覚悟はできている。

 だからこそこんな状態で右にも左にも逃げられない立場にいながら、グッと覚悟を決めた顔を上げて声を振り絞る。



「こんなことしたって、無駄なんだから…っ。…ううん違う、こんなことをするからこそ、無駄なんだから!」

 荒げた声は、まるで自分のものではないように確固たる意志を持っていたはずだ。

「私は、平気で人を傷つける蓮くんのことなんか絶対に好きにならない!!!」




 言い切った私は、自分でも思ったより緊張していたのか肩で息をするようにそれを上下させた。

「……っ!!?」

 そして決して彼から逸らさなかったその目で見たのは、一瞬で豹変した彼の表情。

 それまで負のオーラのようなものを纏っていたように見えた彼は気味が悪いほど静かだったけれど、一変して表情に激しい感情が浮かぶのが分かる。



 それは…今まで垣間見ることすらなかった、『怒り』だった。



「…っ」

 私が身の危険を感じるのよりも、蓮くんが手を伸ばす方が早かった。

 伸びてきた長い腕はまっすぐに迫ってきて、その大きな手が私の首をグッと掴む。

「……は…っ」

 そうしてそのまま乱暴に後ろの棚に押し付けられた瞬間、中の書類が揺れに応じてガタガタと音を立てるのが聞こえた。




「……れ…」

 ググ、と締められる首元から声が出ない。

 眉を顰めて苦しさに細めた目で彼を見つめ返すと、その表情で私は全てを悟った気がした。




 …誰しも、触れられたくない禁句というものがある。

 それは肉体的なものへの言葉なのか、精神的なものなのか…内容はきっと人それぞれだ。

 ただ理解できたのは、私が最後に口にした一言が…蓮くんにとっての「それ」だったんだろうということだけ。




「同じことを言われたよ、仲村さんに」

 諒子さんの名前を出した蓮くんの手が、その時のことを思い出したのか更に力をこめたのが分かった。

 両手で必死に蓮くんの手を外そうともがくけれど、彼はそんな私の動作すら簡単に押さえつけてしまう。抗う術もなく、私は喉元から湧き上がる苦しみに手と足をバタバタさせることしかできなかった。

 蓮くんは何も本気で私を殺そうとしたりするはずがない。ただ、怒りから私を押さえつけようとしているだけのはずだ。

 そう分かってはいるのに、苦しさから逃れられずじわじわと目に涙が浮かんできた。



「俺が…どれだけ…っ」

 呟きかけた彼の口から、私のものとは異種の苦痛に似た何かが吐露されかける。

 蓮くんも、私を想うことで何かに傷つき何かに耐えてきたんだろうか。そうは思ってもその想いに応えられるはずもなく、受け入れることすら困難だった。



 喉元の苦しさからか、溢れていた涙が頬を伝う。それを見てハッと目を見開いた蓮くんは、思わずといった感じに私の首にあてていた手からフッと力を抜いた。

 操られでもしていた人間が正気に戻ったような…そんな雰囲気だった。

 だけどこの場合、彼を操っていたのはそれもまた蓮くん自身なんだ。



「…げほっ、…」

 急に解放された喉が一気に息を吸い込み、私は咳き込む。力が入らない。膝から崩れ落ちそうになったところを、蓮くんの腕がグッと支えた。



「…和美…」

 自分でもコントロールのできない感情で、蓮くんは混乱でもしているようだった。

 怒りと、憎悪と、悔恨と嫉妬。そしてそれら全てを凌駕するのは根本的な愛情。

「……っ」

 倒れないように私を後ろの棚に押さえつけた蓮くんの手は、さっきのような怒りに似た狂った感情は込められていなかった。

 だけど代わりに今度はその手が私の頬に触れる。両頬を包み込むその大きな手は、驚くほど冷たかった。

 再会してすぐの、あの髪に触れられた時のようなゾクリとした悪寒が、意図せず背中を駆け抜けるのが分かる。




「…や…っ」

 声を漏らす暇はなかった。それすらも、蓮くんの唇が私の言葉ごと塞いでしまう。

 せめてもの思いで、自分の唇は左右に引き結んだ。蓮くんの体を押し戻そうとするけれど、さっき首を絞められた恐怖からか手にも足にも力が入らない。



 蓮くんだって男の人にしては細身なのに、どこにこんな力があるんだろう。

 いくら私が今抗うことができないと言っても、本当に微動だにすらできない。

 唇は押し当てられたまま、彼の冷たい指先が頬をなぞり、その感覚に全身が恐怖と嫌悪感で粟立つのが分かった。前に付き合っていた時にキスは何度かしたはずだった。それでもその時の感触とは異なる、冷たい感覚しか残らない。



「やめ…て…っ」

 やがて蓮くんが唇を離した隙に、やっとの思いでそれだけを訴える。

 だけどそんな抗議で留まってくれるはずもなく、今度はその唇が首元に触れた。そこにはさっき締められた痕でも残っているんだろうか。何かをなぞるように蓮くんの唇が這う。

「やだ! やめて…っ」

 たまに一点を強く吸われて、ビリとした痛みが走る。それはまるで自分のものだと誇示する跡をつけているようだ。

 頭をブンと振って抵抗しようとするけれど、片手で腕を押さえつけられているだけでビクリともしないのだから、無駄でしかなかった。

 そうして蓮くんがもう片方の手を深く開いたチャイナドレスのスリットの中に差し入れた瞬間、嫌悪感よりもそれ以上の恐怖が全身を駆け巡る。



「嫌…っ、誰か…っ!」

 力で抵抗できず、声を上げることしかできなかった。それでもこんなところに誰も来ないと分かっているからか、蓮くんは気にした様子もない。



 誰か助けて、そう言いかけた声を、私は零れる涙と共に飲み下す。違う。「誰か」じゃない。




「助けて…っ、本城先生!!」

 この時出るはずの最大限の声で、私は必死の思いでそれだけを叫んだ。






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