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Sweet&Bitter  作者: みずの
降っても晴れても。
11/152

7 side:Kazumi


 夢を、見た。


 覚醒していく頭ではもう内容ははっきりと思い出せないけれど、どこか幸せな夢だった気がする。…たとえば、先生にお礼を言われるような。「ありがとう」と、低い声で囁いて頭を撫でられたような気がした。




「おはよう」

 目覚めていく中で、うつろな顔を上げるとそんな声がかけられた。

「!」

 夢ではないその声に、私は一気に現実に引き戻される。

「お、おお、おはようございますっ」

 慌てて上体を起こすと、私の後ろで毛布がバサッと音をたてて落ちた。


 どうやら、先生がかけてくれていたみたいだ。看病していたはずがすっかり眠ってしまっていた現実を認識して、私は顔が赤くなるのを感じた。

「すみません…っ、先生も大分落ち着いてきたんで始発で帰ろうと思ってたんですけど…っ」

 今、何時だろう。最後に記憶にあるのは、朝の5時前だ。夜通し辛そうだった先生がその頃には呼吸も楽そうになってきていたので、6時前の始発で帰るつもりだった。


 私の探しているものが分かったのか、先生はリビングにしている部屋の壁を指差した。そこに、白い掛け時計がある。

「昼の1時」

「………すみません」

 どれだけ寝れば気がすむのだろう。自分で思わずツッコミを入れてしまったけれど、先生はそれほど気にしていないみたいだった。キッチンに置いてあったコーヒーメーカーから、保温してあったらしいコーヒーを淹れてくれる。


 お礼を言いながら差し出されたカップを受け取ると、「こちらこそ」と先生が呟くように言った。

「?」

 首を傾げながら見上げると、先生は自分もマグカップを手にしながら続ける。

「看病してくれたんだろ?悪かったな、面倒かけちまって」

「え、いえ、それは全然…」

 私がしたことなんて、大したことでもなかった。冷えピタでは間に合わずに冷凍庫の奥から発掘してきたアイスノンを枕代わりにし、冷たく絞ったタオルをおでこにのせていたくらいだ。


 受け取ったカップからじんわりとコーヒーの温かさが伝わってきて、私はそれに浸るように少し力を込める。それっきりまた黙り込んでしまった先生は、昨日の状態が嘘のように回復しているように見えた。私から少し離れた窓辺近くにもたれかかって、天気の良い外を少し眩しそうに眺めている。すっかり元気そうな先生に少し安堵の息を漏らしてから、自分のとんでもない状況を改めて再認識する。


 昨日の先生の状態からは仕方ないとはいえ、男の人の家に上がりこんでしまったこと。早めに帰ろうと思っていたのに結局眠って長居をしてしまい、逆に迷惑をかけてしまったんじゃないかってこと。



 自己嫌悪に苛まれそうになりながらも、私はチラリと目線を上げる。再び目に捉えた先生は、いつもとは違う黒縁の眼鏡をかけていた。そう言えば、前にいつもはコンタクトだと言っていたっけ…。学校では見られないその姿に、それだけで胸が高鳴ってしまう。



「白石、腹減っただろ」

 ぼんやりと見惚れていると、不意に先生がそんなことを言いながらこちらを振り返った。

「えっ、あ、は、はいっ」

 見つめていたことがバレたんじゃないかと瞬時に不安になって、私は不必要なほど慌ててそんな返事を返す。それに一瞬目を丸くした先生は、私の大げさなリアクションに「…ふは」と吹き出すように笑った。

「よし、なんか食いに行くか」

 続けた先生は、壁から背を離して悠然と歩きだそうとする。

「えっ、先生、まだ寝てた方が…」

 確かに元気そうではあるけれど、昨日あれだけの熱があったんだから…。ふと心配になってそう言ったけれど、先生はこちらを振り返りながらわずかに小首を傾げてみせた。

「寝すぎで余計にだるいんだ」

「……そうですか」

 それなら、仕方ない…のだろうか。言葉通り起きている方が元気そうな先生の横顔を見上げて、私は自分を納得させるように心の中でそう呟いた。


 病み上がりの先生には申し訳ないけれど、まだもう少し一緒にいられるという事実に嬉しくなってしまう。高鳴りそうな胸を抑えつつ、私は急いで椅子から立ち上がった。




******



 先生の家から一番近いのは土曜の昼ピークを越したファミレスだった。智子の家からもごく近くなので、見つかりでもしたら明日あたり質問攻めにされそうだ。そんな緊張感も相まって、私の胸は悲鳴を上げそうなくらいにドキドキしっぱなしだった。



 大体、先生とファミレスというのがイメージで結びつかない。恐らく彼女とこんなところにはあまり来ないんじゃないかという気がしたから、私のためにここを選んだのかもしれない。そう思うと少し複雑な心境ではあったけれど、私はそれを振り切るように小さく頭を振ってごまかす。向かいに座った先生は、そんなこちらの様子に気づく素振りもなくメニューを開いていた。



 相変わらず無口な先生ととぎれながらの会話を少しずつしているうちに、頼んだ品物はすぐにアルバイトのウェイトレスさんによって運ばれてきた。トマトソース系やミートソースは好きな人の前で上手に食べるのが困難なので、私はあえてクリームソース系のパスタを選択した。この日ばかりは自分のチョイスに間違いはないと思う。


 先生の方は、ハーフサイズのクラブハウスサンドとコーヒーというなんだかイメージにそぐわないメニューだった。どちらかというと、なっちゃん辺りが気取って食べそうな感じだ。それが分かったからか、先生はブラックコーヒーを一口飲んでから「昔からだ」と呟くように言った。


「え?」

 聞き返すと、カップをソーサーに戻しながら先生が続ける。

「お前さ、具合悪くて食欲ない時でも『これなら食べられる』ってものあるだろ?」

「あ、はい…おかゆとかですかね」

「そうそう。でも昔から粥が苦手で、病人食みたいなのが嫌いなんだ。食欲なくても、サンドイッチなら食えるんだよな、これが」

 続いた先生の言葉は、どこか我儘な子どものようで私は思わず笑ってしまった。


 元気そうには見えるけれど、やはりまだ食欲はないということらしい。だからハーフサイズにしたんだろう。あの量じゃ茜のように小食の女の子じゃないと満腹にはならないかもしれない。



「大丈夫ですか?」

 尋ねると、「え?」と聞き返される。

「食欲、ないんですよね」

 首を捻りながら聞くと、先生はサンドを手にしながら「…あぁ」と小さく呟いた。

「でもどうせ薬飲まなきゃなんねぇしな」

 私をチラリと見やって、先生は眼鏡ごしに少し目を細めてみせる。あのまま家を出ようとした先生の後ろで、私が慌てて薬を鞄に入れてきたのに気づいていたらしい。首を竦めながら、私は鞄からそれを取り出した。先生のグラスの横に置くと、あちらも小さく肩を竦める。

「薬嫌いなんだけどな、ホントは」

「そういうこと言ってるとぶり返しますよ」

 たしなめるように言うと、先生は説教された生徒みたいだと自分で思ったのか、苦笑いを返してきた。




 気のせいかもしれないけれど、今日の先生はいつもよりどこか話しやすい気がした。学校じゃないから、だろうか。無口で壁のようなものを感じさせる普段とは、どこか違う気がして…。それは先生が本調子じゃないからかもしれなかったけれど。



 結局サンドイッチを半分で断念したらしい先生が、私が置いた薬に手を伸ばす。グラスの水でそれを飲み干して、小さく息をついた。それから、少し不自然に何かに気がついたかのように不意に動きを止める。

「…?」

 パスタを口に運びながらその一連の動作を見ていた私は、小さく首を捻った。だけどその後で、すぐに気がつく。先生の動作が止まった瞬間、店内のBGMが変わったんだということに。



 ファミレスなのに高級感を出すだめなのか、その店はずっとジャズを流し続けていた。そのBGMの曲が変わった途端、先生がどこか遠い目をする。わずかなその一瞬を、私は見逃さなかった。



「先生の部屋でも流れてた曲ですよね」

 紅茶を飲みながら、私は思い出しつつそう尋ねる。起きた時、先生の寝室の方のコンポから控えめな音で流れていた曲と同じだった。アレンジは少し違うけれど、何となく分かる。先生の部屋ではその曲がリピートになっていて、何度もかかっていたから…。



「ジャズ分かるのか」

 少し驚いたように、先生は目を見開いた。確かに、一般的に多くの女子高生が興味を持つジャンルではない。

「詳しくはないんですけど、うちは両親が好きなので結構聴かされてきましたから」

 答えると、「ふぅん」と先生は机に片方の腕で頬杖をつきながら応じた。

「いい曲ですよね、曲名はなんて言うんですか?」

 尋ねると、ニッと小さく笑った先生が、「宿題」と容赦のない一言を口にする。えぇーっと抗議したい気分だったけれど、先生の表情からそれ以上食い下がっても教えてもらえなさそうな予感がした。もしかしたら、先生が一瞬動作を止めたくらいだから何か濃い意味合いのある歌詞なのかもしれない。帰ってから調べることにして、私は紅茶のカップをテーブルに戻した。


「ところでお前さ」

 話題を変えようと、先生が改めて私に呼びかける。

「今日、なんか予定なかったのか?」

 尋ねられて、今度は私が首を傾げる番だった。

「いえ、特には何も…」

 用事がない、というのも寂しい女子高生だと思われるだろうか。内心でチラリとそう思ったけれど、嘘を言う必要もなかったので素直にそう答えた。


「そうか」

 頬杖をついた体勢のまま、先生は窓の外を眺めて呟く。

「じゃあ、どっか行くか」

「え!?」

 続いた先生の言葉に、私は思い切り驚いて大きな声を上げてしまった。



 どこか…って、どこだろう!?そもそも、先生がそんなことを言い出すなんて信じられない気分だった。だってそれじゃまるで……。



「看病してもらった礼。どこでもいいぜ」



 続いた先生の言葉に、私は内心で続けかけた言葉を勢いよく飲み込んだ。なんだ、と変な焦りから解放されて今度は少しがっかりした気分になる。『礼』……それはそうだろう、それ以外に意味なんてあるはずがない。


「…つっても、お前昨日も家に帰ってないんだからそういうわけにはいかないか」

 咄嗟に答えが出てこなかった私を見て、先生はどう捉えたのか自己完結するようにそう言った。

「え、いえ!それは全然問題ないんですが…!」

 家には、昨日の夜の時点で智子の家に泊まることになったと連絡を入れてある。母に頼まれていた鼻炎薬も、ちょうど帰宅途中だったらしい弟に頼んで買って帰ってもらった。元よりうちは門限やらには緩い方で、今日きちんと9時か10時に帰れば問題はないだろう。



「それより…先生はやっぱり寝てた方が…」

「別に、体調はもう大丈夫だけどな」

 言いかけた先生が、そこで一度言葉を切って私を見る。

「まぁ、嫌なら別にいい」

「えっ、嫌なわけないじゃないですかっ」

 続いた先生の言葉に、私は大慌てで否定した。大きな声を上げて首を振った私を見て、先生は少しだけ唇の端を持ち上げて笑う。



 ……やられた。


 赤くなって小さくなった私の前で、先生は声を押し殺して笑っていた。



「で、どこがいい?」

 ひとしきり笑いを堪えた後、先生は改めてそう尋ねてくる。『どこ』…がいいんだろう、こういう場合。先生が想定している範囲が想像できなくて、私は小さく首をかしげた。



 どこでもいいと言ったって、まさか先生が遊園地に行ってくれるとも思えない。動物園だってなんとなくイメージじゃないし、映画なんてカップルみたいなこと考えてもいないだろう。うーん…と散々悩んだけれど答えが出なくて、私は再び顔を上げる。先生を正面から見据えて、既に冷え始めた紅茶のカップに手を伸ばした。



「先生、休みの日によく行くところとかないんですか?」

「…え?」

「先生のおすすめの場所に行ってみたいなぁ、と思って」


 我ながら名案だと思い、そう提案してみる。先生のプライベートに立ち入るようで気が引ける部分もあったけれど、知ってみたい気持ちも当たり前のようにあったから。



「……」

 私にそう言われた先生は、少しの間黙り込んでしまった。頬杖をついたまましばらく思案し、やがて再びこちらを振り向く。

「最近行ってねぇけど…行ってみるか」

「どこですか?」

「……着いてのお楽しみ」

 言って、先生は胸ポケットから携帯電話を取り出した。「?」と眉を持ち上げてそれを眺めていると、「色々と準備がいるからな」と先生が呟く。そしてそれからどこかへ電話をかけ、携帯を耳にあてた。


「あぁ、俺。お前今からちょっと出てこれるか?」

 学校で聞くよりも少しだけ柔らかい声音になり、先生は向こう側にいる誰かと話をしている。その声のトーンに、私は一瞬ドキリとした。それが聞いたことのない響きだったことと、電話から漏れ聴こえてくる向こうの人の声が女の人のものだったからだ。


「ちょっと頼みたいことがあるんだけど」

 瞬時に、頭が白くなっていくのを感じる。先生が電話の相手と話している会話も、この時には聞こえなくなるくらいに…。




******



 電話を終えた先生とファミレスを出て、一旦先生の家に戻る。すぐには出かけずまだ準備があるらしく、「もうちょっと待っててくれ」と言われた。大人しくソファで待っていると、一度だけ先生が私の顔を覗きこむ。

「……どうかしたか?」

 聞かれて、さっきの電話が思ったよりショックだったことに気づいたけれど私は大きく首を振って笑って見せた。



 …いちいち、気にしてなんていられない。先生みたいな大人な人には、私の想像できない色んなことがあるに決まっているんだから。菅原先輩が彼女じゃなくたって、先生には恋人がいるかもしれない。女の人が頻繁に来ているような部屋には見えなかったけれど、それも家にはなかなか招き入れない事情があるのかもしれないし…。


 そう、そう言えば、恋人がいるかどうか確認したことがなかった。私が聞いたのは菅原先輩と付き合っているのかということであって、彼女がいるのかではなかったから…。たとえそういう事実をこの後知ることになったとしても、覚悟しておこうと決めて私は先生にさっきまでと同じように振舞うことにした。




 やがてアパートのインターホンが鳴らされたのは、4,50分してからだった。それまで、私が質問して先生が答える形で雑談まじりに部活やら化学の授業やらの話をしていた。チャイムの音で立ち上がった先生が、そんな会話を一時中断して玄関の方へと向かう。


 その後ろ姿を見つめながら、私はバレないように大きく深呼吸をした。…さっき、覚悟したとおりだ。何があっても…誰に会わされようと、ショックは受けないと決めた。



「お邪魔しまーす」

 しばらくして先生より前を歩いて部屋へ入ってきたのは、予想通り女の人だった。20代半ば…くらいだと思う。ロングの髪をキレイにアップにした、かわいくも美人でもある魅力的な人だった。メイクだって濃すぎないのに映える感じがしたし、なんというか…雰囲気からして好感を持ってしまうような人。


 部屋の隅に座っていた私を捉えて、彼女はニコリと笑った。

「はじめまして」

「あ、こちらこそ、はじめまして…っ」

 つられるようにペコリと頭を下げる。そして慌てて名乗ると、後ろからやってきた先生が「拓巳っていうんだ、こいつ。悪いな、すぐ連絡取れるのがこいつしかいなくて」と私に紹介してくれた。


「理沙って呼んでね、和美ちゃん」

 笑って言って、理沙さん…は、私の近くに持ってきた大きな鞄を置く。

「さて、はじめましょうか」

 ニッコリ笑った理沙さんの言葉の意味が分からずに、私は目を丸くした。後ろに立つ先生と交互に見比べたけれど、先生は何食わぬ顔でそこに立っていただけだった。









「…あの~、理沙さん…」

 数十分後、私は困り果てた声で彼女を呼んだ。そういう反応は無視することにしているのか、理沙さんは聞こえないフリをしながらも私が呼んだ方へ近寄ってくる。

 なぜか私は、理沙さんに指示されるままに先生のアパートの洗面所で手渡された服を着せられていた。

「着終わった?」

 聞きながら洗面所に顔を出した理沙さんは、私を眺めて「あ、かわいいかわいい」と満足そうに笑う。着替えるどころか、理沙さんの命令でシャワーまで借りたのだから私としては恐縮しまくりだった。



『夜中ずっと看病させたのにシャワーも貸してあげてなかったんですか?先輩最低っ』

 来てすぐに事情を聞かされた理沙さんは、先生に対してそう声を荒げていた。夏でもないからそれほど汗もかいていないし、朝帰る予定だったから私はそれほど気にしてはいなかったのだけれど、確かにこれからまだ出かけるとなると借りられた方がありがたい。だけど、それも先生の家の…となると私としては緊張感が倍以上に違ってくる。

 「どうせおっさんくさいシャンプーしかないと思って持ってきたの」と言いながら理沙さんがくれたシャンプーとリンスを使わせてもらい、確かにありがたかった。


 だけど、だ。



「理沙さん、これはちょっと…」

 渡された服というのが、高校生の私が着るにはもの凄く露出度の高いベアワンピだった。裾はバルーンになっていてかわいいのだけれど、かなり丈が短い。

「露出高いって?大丈夫、ほら、ロングカーデも持ってきたから」

 …そういう問題なんだろうか。長めのカーディガンを広げて見せながら、理沙さんは首を小さく傾けながらかわいらしく「どう?」と聞いてくる。

「ロングブーツもあるから大丈夫よ」

 確かにコーディネートもかわいいけれど、着慣れないせいか緊張してしまう。いつもはどちらかというと肌は見せない服を着ることの方が多いからだ。



「着替え終わったらこっち来て」

 手招きされて洗面所の外へ促されたけれど、そこに先生がいると思うとなかなか勇気が出てこない。短すぎるワンピースの裾を一生懸命伸ばしたい心境にかられながらまごついていると、理沙さんはそこで気がついたように「あぁ」と笑ってみせた。

「先輩なら、いないから大丈夫よ」

「えっ?いない?」

「うん、女の子が着替えるんだから出てけって追い出したから」

 ウィンクして、理沙さんはそう言う。一瞬目を丸くした後、私もつられるように笑ってしまった。


 さっきからも気になっていたのだけれど、もしかしたら理沙さんは先生と、私が気にしていたような関係ではないんじゃないだろうか。敬語だったことと呼び方が『先輩』だったから、ふとそう思ってしまう。

「大学時代のね、後輩なのよ私」

 まさか私の考えていることが透けて読み取れたんだろうか。タイミングよく、理沙さんはそう言った。


 驚いて目を見開くと、理沙さんはまた微かに笑う。

「和美ちゃんにさっき初めて会った時の表情で、誤解されたんじゃないかと思って気になってたの」

「え、誤解…?」

「私のこと、先輩の彼女か何かだと勘違いしなかった?」

「!……」

「やっぱり、図星?」

 少しからかうような表情をして見せてから、理沙さんは苦笑いを浮かべた。



「それはないから、安心して」

 勧められるままダイニングにある椅子に座ると、理沙さんはドライヤーを取り出してくる。髪を乾かしてもらいながら、私はされるがままに「…はい」と小さく頷くしかなかった。



 …ということは、バレてるんだろう。理沙さんには、私が先生を好きだということが。



 そう思うと恥ずかしかったけれど、口止めしたり言い訳したりするほうが何だか自分が痛々しい気がしたのでやめておいた。




 理沙さんは、私の髪をセットしてメイクまでしてくれながら色んな話をしてくれた。先生とは教育学部時代に知り合ったこと、そして理沙さん自身も隣の市で高校教師をしていること。年の離れた弟を溺愛しているのだけれど、最近弟の方が姉に素っ気無くなってきて拗ねていることなんかも。そのどれもが話上手なせいか楽しくて、私はずっと笑ってそれを聞いていた。



「さて、完成」

 私の顔を覗きこんで、理沙さんは満足そうに笑った。普段あまりメイクをして学校に行くことがない私は、これほど丁寧にしてもらったのは七五三以来じゃないだろうか。着慣れない服と髪型のせいで気分も普段と違うけれど、それは決して嫌なものでもなかった。



「先輩もびっくりするわよー、きっと。行ってらっしゃい、楽しんで来てね」

 メイク道具やらを片付けながら、理沙さんはそう言う。

「え、理沙さんも一緒に行くんじゃないんですか?」

 目を瞠って尋ねると、理沙さんはこちらを振り返って同じように驚いた顔をしていた。それから、プッと吹き出す。

「私は先輩に『服貸して』って頼まれただけだから。ま、制服じゃ行けないところだしね」

「え……どこに行くか理沙さん知ってるんですか?」

「うん、知ってるけど…和美ちゃんは着いてからのお楽しみにしたほうがいいかもね」

 持ってきたバッグを閉めて、理沙さんは小さなかわいいバッグを私に手渡す。

「これもどうぞ」

 全身一式借りてしまうことになって、私は申し訳なさから「すみません」と頭を下げた。首を振って応じた理沙さんに促されて、私も揃って玄関の方へと向かう。


 先生は、アパートの下の駐車場のところで待ってくれているらしい。借りたロングブーツを履いて、私は高鳴る胸を押さえながら玄関のドアを開いた。







「先輩、お待たせー」

 借りていたらしい鍵で部屋のドアを閉めながら、理沙さんは二階から下にいる先生に大きく手を振った。その声に先生がこちらを振り返ったのが分かったので、私はドキリとしてしまう。見られたくないような…でも見てほしいような、複雑な感情が渦巻いた。気恥ずかしさから顔を背けたけれど、先生は「おう」と短く返事をしただけだった。



「へぇ、化けるなぁ」

 私が階段を降り始めた次の瞬間に、そんな失礼なコメントが先生の後ろから聞こえてきた。眉を寄せて顔を上げると、無表情の先生の向こう側にもう一つの見知った顔。

「なっちゃん!?」

 大声を上げて驚くと、そこにいたなっちゃんはニヤリと笑って見せた。



「なに、貴弘。あんた学校で『なっちゃん』なんて呼ばれてんの?」

 後ろから私に追いついてきた理沙さんが、なっちゃんに笑いながらそう声をかける。「かわいくて似合わない」と続けた理沙さんに、なっちゃんも「うるせぇ」と笑っていた。


 理沙さんは、なっちゃんとも知り合いなんだろうか…と首を捻ったけれど、そう言えばなっちゃんと本城先生も大学時代からの親友なんだから当然かもしれない。理沙さんにとっては、なっちゃんも先生も大学時代の先輩なんだろう。



「え、でも何でなっちゃんがここに?」

 尋ねると、なっちゃんは自分の車の運転席側に移動しながら理沙さんを顎で指し示す。

「そこのコワイお姉さんに頼まれたんだよ。イカツイお兄さんに呼び出されたから送ってけってな」

「誰がよ!」

「誰がだ」

 理沙さんと先生のツッコミが同時になっちゃんに対して発せられた。思わず私は声を上げて笑ってしまう。肩を竦めてそのまま運転席に乗り込んだなっちゃんに続くように、理沙さんもそちらに行こうとした。


 だけど、

「あ、和美ちゃん」

私を追い抜かそうとした瞬間に、理沙さんがふと足を止める。


「さっき、これを一番に見せれば良かった。簡単に誤解とけたのにね」

 言いながら、理沙さんは私の目の前で左手を掲げて見せた。先生となっちゃんには聞こえないくらいの、小さな声で。見せられたその左手には、薬指にシルバーのシンプルな指輪が光っていた。

「結婚してるの、私。貴弘と」

「…えぇぇっ!?」

 あまりの衝撃の告白に、私は目をこれ以上ないくらい大きく見開く。そんな驚いた私を取り残して、理沙さんは「じゃあね」とおかしそうに笑いながら行ってしまった。2人を乗せた車が走り出してからも、驚きのあまり茫然と取り残されてしまう。



「白石?行くぞ」

 本城先生に声をかけてもらうまで、私は自分を失ったままだった。




 絶対、わざとだと思う。理沙さんが、最後まで言わなかったのは……。



 でもそのおかげで、妙な緊張は吹き飛んでしまっていた。今なら先生の顔も直視できる気がする。



 促されるままに先生の車の助手席に乗りながら、私は心の中で理沙さんに感謝した。





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