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Sweet&Bitter  作者: みずの
嘘は罪
109/152

12


 家に帰ったところでろくに眠れるはずもなく、ベッドの中でどれほど寝返りを打っただろう。

 その間思い出すのは蓮くんの辛そうな表情ばかり。そして、おばさんの容態のことが気がかりだった。

 ここで気を揉んでも仕方がないとは思う。それでも気持ちが落ち着くわけもなかった。



 明け方になってようやく自然と眠りについたのか、おかげで目が覚めた時には太陽がいつもより高い位置にあった。慌てて携帯のアラームを確認すると、どうやら寝ぼけたまま解除してしまっていたようだ。時計は既にもうすぐ8時を指そうとしていた。

「遅刻…っ!!」

 今日は父親は早朝から仕事、母は夜勤。祥太郎に至っては朝早くから家を出てしまっているんだろう。取り残されていた私は、ベッドから飛び降りると大慌てで用意した。



 奇跡的に10分ほどで支度を終え、家を勢いよく出る。

 駅までの道のりが今日ほど恨めしかったことはない。玄関の鍵をかけたことを確認してから、私は急いで走り出した。

「…あ」

 全力で駆け抜けようとしていたその時、ちょうど通った蓮くんの家の前でおじさんに会った。

「おはようございます」

 昨日のこともあり、何と声をかけていいかわからずに結局私は当たり前の挨拶しかできなかった。



「おはよう、和美ちゃん。昨日はどうもありがとう」

 おじさんはどうやら、帰ってきたところのようだ。

 そのおじさんがここにいるということは…蓮くんはもう病院に行ったということだろうか。恐らく、一睡もできなかったんだろうと思う。眠れないと思いつつも結局寝坊してしまった自分が何だか少し恥ずかしい気もした。



 おばさんの様子を聞いてみたけれど、事態は変わっていないようだった。

「おじさんも…ゆっくり休んでください」

 そんな気の利かない一言しか言えなかったけれど、おじさんはニコリと力なく笑った。

「ありがとう。蓮は今日休みをもらったみたいだよ。…和美ちゃんは、遅刻しないように気をつけて行ってらっしゃい」

「…はい、行ってきます」

 そこで遅刻しかけていたことを思い出し、私は手首を翻して腕時計を確認した。もう8時過ぎ…。電車がうまく来なければ、完全に遅刻だ。



 今日、文化祭の準備が早めに終わったら病院に行ってみようか…。

 そんなことを考えながら全速力で走ったけれど、結局学校に着けたのは8時半になる頃だった。朝のHRが始まっている時間だから、校内はシンと静まり返っている。

 私はいつも早めに来るほうで、遅刻なんてほとんどしたことがない。ドキドキしながら教室の後ろのドアをそーっと開くと、クラスメイトたちが一斉に振り返る。

 そんな中、一番に目が合ったのは教壇に立っていた本城先生だった。

「…すみません、遅刻しました」

 見れば分かるそんな状況なのに思わずそう言ってしまう。

 だけど先生はすぐに手にしていた名簿とファイルに視線を戻しながら、「早く席に着け」とだけ答えた。



 一番後ろの自分の席に滑りこむ。だけどその時、ふと小さな違和感を覚えて思わず顔を上げた。

 クラス中の何人もが、まだ私の方を見つめていたからだ。

「……?」

 遅刻をしてきた瞬間、目立ってしまうのは分かる。注目を集めることも。

 しかし普通なら、それはほんの一瞬のことだろう。すぐに何の興味も抱かれなくなるものなはずだ。

 なのに今は、その気配はない。そのうち何人かがヒソヒソと話している内容までところどころ聞こえてくる。



「やっぱり…本当なんじゃない?」

「つうかだとしたら朝帰り…って可能性もあるかも? 遅刻してくるくらいだし」

「向こうは休んでるみたいだしな」

 話の内容は瞬時には理解できなかった。だけど、自分のことを言われているのだけは分かる。

 思わず周囲を見回したけれど、声の出所はどこかは分からなかった。それでも好奇の目は方々からこちらに向いていた。



「ーっ」

 何とも形容しがたく嫌な空気に、耐えかねたその時…だった。



「うるせぇぞ、全員前向け」

 教壇から、低い声が降ってくる。注意をされた生徒たちは、渋々といった感じに本城先生の方を向き直った。

 それから淡々と進められるHRの続き。

 簡単な連絡事項を伝えてそれが終わるまで、私は息を詰めてただ下を向いていただけだった。




******



 HRを終えてからは尚更、周囲が自分のことでざわついているのがわかった。

 何が起こっているのか状況を正確に把握はできていなかったけれど、針の筵に座っているかのような心地だ。

「和美、ちょっと購買付き合って」

 1限はどうやら休講になったらしく、由実がそう声をかけてくる。

 購買は口実で私をここから連れ出そうとしていることが分かったので、「うん」とためらいなく答えて席を立った。



「今日どうした? 遅刻なんて初めてじゃない?」

 廊下を歩きながら、由実はそう尋ねる。明らかに足は購買へは向かっていなかった。人気のない視聴覚室にでも向かっているようだ。

 すれ違う生徒たちの視線が痛いほど私に向いているのに気づき、由実はちっと舌打ちまじりに睨み返している。

「…ちょっと…寝坊して…」

 私自身は、視線にさらされるのに耐えられずに俯いた顔を上げられなかった。そんな私の返事に、由実は「そう」と短く答えただけだった。



 視聴覚室の鍵はいつもかかっておらず、暗幕のような黒いカーテンは引かれたままだった。

 そんな教室に遠慮なく入り込み、由実は中から鍵をかけた。それから椅子にドカッと座ると、前置きなしに口を開く。

「茜は前に上級生から絡まれたことあったでしょ? 智子も、ああいうサバサバした性格だから女子の中に敵もいる。私だって結構男子と仲良いせいで、やっかまれることもあるんだけどさ」

「…由実…?」

「和美は、初めてでしょ。こんな…人の『悪意』や『好奇の目』を露骨に受けるの」

「……」

 思わず唇を閉ざして、グッと引き結んだ。そうでもないと意味の分からない不安に押しつぶされそうだった。



「朝からさ、噂になってんだ。昨日の夜遅くに…和美と成川先生が路上で抱き合ってたって…」

「え…!」

「私たちは信じてないけど…いや、それが事実だとしても何か理由があるんだと思ってる。でも…そう思わない人間も結構いてさ。特に成川先生は女子人気高いから…。今まで和美は男子にモテるけど女子にも好かれてた。でも今回を機に、僻んでる奴が騒ぎ立ててるんだよ」

「………」

 それで…あの言葉。やっと納得できた。

 女子からのあの敵意むき出しの目も、男子からの興味深そうな眼差しも…。



「実は……」

 私は由実に、躊躇することもなく昨日とこれまでの全ての事情を説明した。







「何それ! 成川先生最低じゃん…!! お母さんのことはそりゃ大変だけどさ…」

 私の話を聞き終えて、由実は予想通り憤慨していた。一つのテーブルを私と挟んで座っていたけれど、怒りを抑え切れなかったのか思わず立ち上がる。

「でも…あの時、蓮くんを放っておけなかったのは私で…」

「……そりゃあね…。私が和美の立場でもそうだと思うよ」

 小さく同意してくれたので、思わず安堵の息を漏らす。それだけで少し救われる気がした。そもそも自分が間違ったことをしてきたんだとしたら…かなり落ち込みそうだったからだ。

「朝早くから教室はその話題で持ちきりでさ。2人が抱き合ってたっていうのを、うちのクラスの生徒が見てたらしくて…。茜が思わず『昨日は和美はうちに来てたからそんなわけない!』なんて苦し紛れな嘘ついちゃったから、和美もそのつもりで話合わせなよ」

「茜が…」

 茜がそんな大声を上げて反論してくれるところなんて想像ができなかった。だけど由実はその時の様子を思い出しているのか、ニヤニヤと笑ってみせる。

「和美にも見せたかったなぁ。茜、やる時はやるね」

「……」

「あ…っと、私体育の山下のところに行く用事があったんだ。和美は今教室に戻っても辛いと思うから…1限の間は時間潰してから戻ってきな」

「…うん」

「茜と智子には私から話していい?」

「…うん、お願い」

 力なくだけど返事をすると、由実は一つ頷いて視聴覚室を出て行った。




「……はーっ」

 由実が後ろ手にドアを閉めて出て行くのを見送ってから、盛大なため息を漏らす。

 頭を抱え込んで伏せてしまいたい心境にかられたけれど、ここでそうするわけにもいかないだろう。



 由実はああ言っていたけれど…恐らく、噂が広がっているのはクラス内だけじゃないはずだ。

 高校生の情報の流れなんて驚くほど速いものだし、あの場を見ていた人がいたとしたらクラス以外の生徒もいたかもしれない。

 学校近くのあんな場所でああいう状況だったのだから、見られて噂されても自業自得だ。ただ…確かに由実の言うとおり、人の目線がこれほど怖いと実感したことはなかった。




 結局由実の言葉通り1限はそこで時間を潰し、2限が始まる頃に教室に戻った。

 ドアを開いた瞬間に何人もが振り返ることは予想していたので、覚悟はできていた。

 耳も塞いで思考も閉ざしたい気分だったけれど、結局その日の休み時間のたびに何らかの視線を感じることになった。

 やがて昼休みくらいになって、直接私に声をかけてくる人もいる。

「白石お前さぁ、成川と付き合ってるってマジ?」

 ニヤニヤしながら聞いてくる男子は、どうやら私本人に真偽を確かめれば友人たちに何かを奢ってもらうなんて遊び半分の取り引きをしているらしかった。

「…何の話?」

 全力で否定したって逆に面白がられる。なら、かわす方が賢明だと思った。

 こちらが本気になればなるほど、ただの「噂」は事実だと認識されてしまう。

 だからこそ口元に笑みを浮かべて、私はサラリとそんな風に返した。一瞬絶句した男子はそのまま仲間うちの方へ渋々と戻っていく。

 こんな状況の切り抜け方、まるで本城先生みたいだ…なんて、心の中でどこかそう思った。



 でもその男子の質問を機に、聞きたいことがあった女子の一部もその日初めて近寄ってくる。

「でもさぁ、抱き合ってたのは本当なんでしょ?」

「和美、彼氏いるんじゃなかったっけ?」

「あ、でもちょっと前に別れたとかなんとか聞いた気がする…もしかして成川先生の略奪愛?」

 口々に尋ねてくる女子たちは、男子よりも露骨で放っておけば段々とエスカレートしていきそうだ。

「彼氏とは別れたよ。でも、成川先生とは付き合ってない。昨日も夜遅くまで茜の家に行ってた」

 淡々と答えて、私は席を立つ。



「茜、次英語だから、相澤先生のところに行ってくるね」

 前の席の茜に声をかけて、私は椅子を押し戻した。彼女に向けてかけたそんな言葉は、実際には回りの面々にそれ以上話かけてほしくないという気持ちの表れだった。

 だけど、英語の授業があって私がその係なのは事実だ。本当は相澤先生には今日は何の準備もなくて来なくていいと言われているけれど、教室を抜け出す口実にした。




 その日はトイレに行くだけでも他のクラスや他の学年から注目されているのが分かった。

 恐らく、相手が蓮くんでなければここまで噂になりはしなかっただろう。教師との禁断の恋…なんて、周りが面白く騒ぎ立てても無理はない。

 だから、昼休みのその時もコソコソと色々な場所から声が聞こえてくる。




 視聴覚室は…次の授業で使うのか、誰かが中にいる気配がした。

 だから私が仕方なく向かったのは、これもまたあまり人が訪れない小さな資料室。

 こちらは鍵がかかっている心配があったけれど、それは杞憂でしかなく引いたドアは簡単に開いた。

「……」

 今日何度目のため息だろう。自分でも数えるのにも飽きて、定かではない。

 そうして静かな場所でゆっくりと気持ちと頭を落ち着けようとしたのに…そこでも私に静寂が訪れることはなかった。



「ねぇ聞いたー? 2年の白石先輩の話」

 廊下から聞こえてくる無遠慮に大きな声に、私はビクリと肩を震わせる。

「あのすっごい美人の先輩でしょ? 成川先生と付き合ってんだってー?」

「白石先輩って最近彼氏ができたって聞くまで全然男の影なかったらしいよね。モテるのに誰とも噂にならないっていうか…。だから男子たちも相手にされないだろうって告白もあんまりできない人多かったらしいよ」

「でも成川先生ってことは…結構ヤリ手じゃないー? 高校生じゃ満足できませんって感じー?」

「おとなしそうでかわいい顔して結構やるよね、教師落とすなんてさー」



 無神経にも程があるその話に、私は唇を噛み締める。

 聞きたくなくても、どうしても耳に入ってくる。朝より遥かにエスカレートしているそれに閉口するしかなかった。

 代わりに、ここでようやく初めてポロリと雫が一つ零れ落ちた。

「…あ、あれ…?」

 自分でも涙が出るとは思っていなかったので、手の甲で拭いながら目を瞠ってしまう。自覚しているよりもかなり精神的にダメージを受けているようだった。




 笑いながらのそんな彼女たちの会話が段々と遠ざかっていくのに、涙が止まらない。

 嗚咽まじりになってひどくなっていくそれを必死でこらえようとしている時、ふと資料室のドアが何の予告もなく音を立てた。

「…!」

 鍵はかけたはずだった。だけど、少しの間の後に無情にもそれが開く。



「…っなんだ、お前か」

 中に誰かがいるとは当然思っていなかったらしいその人は、私の姿に気づいて驚いたようにそう言った。




 資料室の鍵を手にした本城先生は、しばらく私の顔を凝視してから後ろ手に鍵を閉めた。

 それから、何かの資料を探しに来たらしく私の傍の棚の前に立つ。

「どうした」

 明らかにごまかしようのないほど号泣している私に声をかけないのも不自然だと思ったのか、先生は何食わぬ顔でそう尋ねてきた。

「………っ」

 うまく説明もできず、返す言葉もなかった。しばし落ちる沈黙に、先生もそれ以上答えを急かすこともせずに棚を開く。

 分厚いファイルをめくる音だけが響く中、外の廊下ではまた誰かが通る音がした。

 そしてそんな誰かが、例に漏れずまたあの「噂話」をしているのも聞こえてくる。



「やっぱさぁ、白石みたいな美人だと、成川くらいイケメンじゃねぇと相手にされねぇのかな」

「どっちにしろお前じゃ相手にされねぇよ」

「そもそも教師とか年上が好きなんだったら、俺らじゃ無理じゃん」

「それにしてもすげぇよな。成川なんてここ来てまだちょっとしか経ってねぇのに。その短期間で落とすって…相当じゃねぇ?」

「俺も相手してもらいたいー」

 さっきの女の子たちよりも下品にゲラゲラと笑うそんな言葉に、今度こそ本気でここからいなくなりたい。

 だけどそう思って目を固く閉じた瞬間、すぐ近くに立っていた本城先生が「…あれか」とボソリと呟いた。




「気にすんな。噂なんてすぐにみんな飽きるに決まってる。数日我慢すれば次の話題に移るだろ」

 ファイルをめくりながら、先生は背中を向けたままそう言う。励ましとも取れるそれに思わず目を見開いたけれど、私は椅子の上で体育座りをするような格好でそこに顔を埋めた。

「…まぁ、お前はこういう風に陰口叩かれるのにも免疫ねぇだろうけど」

 ポン、と私の頭に軽く手を置いて、先生は苦笑いを浮かべる。




 「皆もいつか飽きる」…そんなことは分かってる。でも、今が耐えられない。

 こうしてろくでもない噂話を…この人に聞かれることが一番耐えられないのに。



「…っそんな風に…楽観的に考えられません」

 八つ当たりまがいだとは自分でも思った。先生にそんなことを言っても仕方がないのに。

 反抗的な私の言葉に一瞬目を見開いた先生は、やがてスッと表情を変えた。

 瞬間的に冷めたようなその目線に、膝を抱えていた私は身を固くする。



「…だったら、そもそも教師と学校の近くで抱き合ったりすんな」

「!…っ」

 冷たい一言は私を打ち下ろすように降り注ぎ、また溢れてきた涙で視界が揺れた気がした。

「あんな場所でそんなことしてりゃ、誰に見られても不思議じゃねぇだろ」

 続いた言葉に、私は思わず絶句する。




 あの時、見えた気がした黒い車。

 脳裏にも蘇ってきたその映像を思い出しながら、私は涙でいっぱいの目で先生を見上げる。

「…あの車…やっぱり先生の…」

 半ば茫然としていた私の唇から漏れたそんな言葉は、震えるように心もとなかった。






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