表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Sweet&Bitter  作者: みずの
嘘は罪
108/152

11


 一歩でも退いたらだめだと本能で悟る。別に取って食われるわけでもないのに、何となくそんな直感が働いた。ここで少しでも弱気に出たら、今まで耐えてきたもの、隠してきたものが全て無駄になる気がしたんだ。わずかに唇を噛み締めると、蓮くんの深い瞳の色は無表情に私を見下ろし返した。



 そんな長い沈黙を破ったのは、機械的な電子音だった。メロディーすら設定されていない、無機質な音。それが蓮くんのポケットから鳴る携帯のものだと気づいた時には、思わず2人同時に視線をそちらに向ける。

「…はい」

 長い指で取り出した携帯電話に、蓮くんが隙のない声で応じた。注意が一瞬自分から逸れた隙に、私はやっとそこで詰めていた息を吐き出す。止まるかと思った呼吸がようやく解放されて、安堵と共に一時の休息が訪れた感じだった。



「……え?」

 声に、ならない声。

 そんな囁き程度のそれが蓮くんの唇から漏れたのは、電話の向こうの言葉に短い相槌を打っていた後だった。いつもソツなく冷静に会話をする彼にしては、珍しい少し動揺した空気が読み取れた気がした。



「……?」

 思わずその顔を見上げると、蓮くんは携帯電話を手にしたまま硬直しているようだった。

 電話の向こうの声がどんなことを告げているのかまでは私には聞こえてこない。それでも彼の異変は明らかだったので、私は眉を顰めた。そんなこちらの目線に気づいたのか、蓮くんはハッと我に返ったように顔を上げる。そしてそれから、滑り落ちそうな電話をもう片方の手に持ち直しながら、向こう側の相手に返事をした。

「…分かりました、すぐに向かいます。ご連絡ありがとうございました」

 そう告げてプッと即座に通話を終わらせてしまう辺りが、今の彼の余裕のなさを物語っている。そのほんの一動作ですら覚える違和感に、私は怪訝な眼差しを向けた。

「…蓮くん…?」

 さっきまで私を脅していた人物とは思えなかった。一瞬にしてどこか顔色が悪くなった蓮くんは、それでも冷静を装って振り返る。



「用ができた。まだ早いから一人で帰れる?」

「え…? うん…」

 小さく頷き返した私の前で、蓮くんはすぐに身を翻す。来た道を戻るように、公園の出口の方へ急ごうと踵を鳴らした。

「蓮くん!」

 思わずその腕を掴んで、呼び止めたのはなぜか…。

 考えるまでもない、長年見てきた彼のこんな表情を見たことがなかったからだ。たとえそれが、さっきまでの会話がどれほど険悪なものだったとしても……構わずに切り捨てることができなかったのが私の甘さなのかもしれない。だけどそんな漠然とした思いもこの時は深く考える間もなかった。ただ、掴んだ手で、走り出そうとしていた蓮くんを引きとめていた。



「どうしたの…? 何かあったの?」

「……和美には関係ないよ」

 少しの間の後に、蓮くんはそう小さく返した。だけど…その短い空白の隙に、微かな迷いが見て取れた。話さないべきか、それとも聞いてもらってもいいのか……そんな小さな迷い。それが分かったから、私は「蓮くん」と強めに促す。本気で聞かない方がいいことならきっと今もう既に私の手を振り払っているはず。



「母親が…倒れて意識不明だって…」

「…………え?」

 わずかに顔を俯けた蓮くんは、足元の土を見下ろしながら小さく言った。思いもしなかったそんな言葉に、驚愕の色を乗せた声を返すのは私の番だった。

「とりあえず、病院に行かないと…」

「どこの病院っ?」

 蓮くんが動揺するところなんて初めて見た。だけど、そうなってもおかしくない事実だった。聞いた途端に、「そういえばおばさん、最近体調が悪いことが多い」と言ってたっけ、とか、私ですら今までの色々な情報が脳内で渦を巻いたくらいだ。

 それらを整理することができないのは、蓮くんなら尚更だろう。



「R総合病院」

「行こう! 早く!」

 蓮くんの腕を掴んだまま、私は勢いよく引っ張る。それに一瞬驚いたように目を見開いた彼は、「…和美は帰りなさい」とこんな時にまで教師のような口調で言った。

「どうして…!」

「もう夜だし、俺だって病院に着いたら冷静でいられないし…和美のこと構ってる余裕がない」

「そんなこと頼んでない!」

 子どもを叱咤するように叫ぶと、蓮くんは大きく目を見開く。さっきの喧嘩のようなやり取りの時とはまた違う、私の怒りを含んだ大きな声を聞いたのが初めてだったからだろう。蓮くんに構ってもらいたいんじゃない。私が、こんな蓮くんを放っておけないだけだ。それに、幼なじみのお母さんのこんな状態、私だって心配じゃないはずがない。昔から私や祥太郎をかわいがってきてくれた人なんだから。



「早く! 大通りに出ればタクシー拾えるよ」

 総合病院なら学校から近いのでここからでもそれほど遠くない。だけど一駅電車に乗って歩くより、車を拾った方が得策だろう。グイともう一度強く引くと、蓮くんは諦めたように地面を蹴った。先を行こうとしていた私を軽く追い抜いて、掴まれていた腕を引き抜く。



「……」

 代わりに私の手を掴んだ彼の手は、小刻みな震えを隠すようにぐっと固く握りこまれた。




******



「蓮…和美ちゃんも…」

 総合病院に着いた時、少し前に来たというおじさんがそこにいた。

 どうやらおばさんは集中治療室に運ばれているらしい。待合室の長椅子に座ることもなく、何とも言えない不安な表情をしていた。だけど、一人息子の顔を見て少し安堵したようにも見えた。



「母さんは?」

 ようやく私の手を離し、蓮くんはおじさんに近寄る。そしてそのまま2人が空間の隅に移動したので、私は少し離れた場所でそれを見守ることにした。



 おじさんも、恐らく仕事中に呼び出されて急いで来たんだろう。いつもはピシッと締められたネクタイも緩み、スーツも着崩れていた。だけどそれも当然だと思う。




 2人で今の状況を話し合った後、蓮くんは私に手招きした。そして並んで長椅子に座り、私の隣で蓮くんは俯く。少し長めの前髪がサラリと流れるように落ちた。おじさんは、近くの壁に寄りかかって立ったまま。会話もないそんな空気の中、時計の秒針の音だけが響いてやけに耳についた。







 ストレッチャーに乗せられたおばさんと、その手術をしたという医師や看護師が出てきたのは、3時間ほどしてからだった。永遠にも感じられるほど長い時間。その痛いほどの沈黙を破るドアの音に、3人揃って顔を上げる。何かに縋るようにずっと私の手を握っていた蓮くんは、この時も手は繋いだまま椅子から立ち上がった。


「こちらへどうぞ」

 術後の説明なんかがあるんだろう。別室を促す医師に、おじさんと蓮くんは無言で続く。私は、家族でもないのにそこまでついていくのは気がひけてさっきと同じ椅子に座って待つことにした。

 手を離す瞬間、蓮くんが少しだけ名残惜しそうに…どこか不安を感じているように少しだけ躊躇したのが分かった。

「大丈夫だよ、蓮くん」

 まるで子どもをあやすような私の言葉に、彼は目線を合わせることもなく小さく頷くとおじさんの後を追った。




 おばさんの病名や詳しいことは、私は結局聞かせてもらえなかった。…いや、聞いても難しいことは分からないだろう。ただ理解できたのは、今すぐ命がどうこうという病気ではないということだけ。だけどそれで楽観できるものではないらしい。…意識が戻るのがいつになるのか…どれくらい時間がかかるのか、医師でも簡単には分からないらしい。

 長い説明を受け、おじさんが入院の手続きをしている間にそれだけ蓮くんがポツリと話してくれた。




「蓮、一旦家に戻りなさい」

 一通りの手続きを終え、おじさんが言う。時刻はもう22時を回る頃だった。頭を横に振った蓮くんに、おじさんは苦笑いを浮かべる。

「気持ちは分かるが、和美ちゃんをいつまでも付き合わせるわけにはいかないだろう。送ってあげなさい」

「……」

「明日、朝一番に荷物を持ってきてもらいたい。夜中に何かあれば連絡するから」

 蓮くんは答えなかった。顔をわずかに俯けたまま、目線を少し逸らしている。

「あ、あの…私は一人で大丈夫です…」

 遠慮がちにそう口を挟んだ瞬間、おじさんがこちらを振り返った。

「和美ちゃん、ちょっといいかい」

 手招きするように私を促して、どこかまだ茫然としたままの蓮くんと少し距離を置いた。




「後数時間で目が覚めるという確証があるなら蓮の好きにさせたいところだけど…生憎長期戦になるかもしれない」

「……」

 伏せ目がちに、おじさんは苦い表情で続ける。それはそうだ。最愛の人の意識が戻らないのだから、その辛さは計り知れない。

「休める時には休ませたい。あの子は…最近ろくに眠っていないはずなんだ」

「……え?」

「和美ちゃんも知っての通り、蓮は生真面目すぎる。完璧に何でもこなそうとする分、その用意も怠らない。臨時としてだけど新しい学校に赴任して、夜中まで勉強やら授業の準備やらでろくに寝てないはずだ」

「……っ」

 確かに、蓮くんの性格を考えればその様子は安易に想像できる。昔から、蓮くんは完璧だけど努力家だった。

「蓮を、連れて帰ってやってほしいんだ」

「…分かりました」

 おじさんの言いたいことも分かる。ここで2人が無理して2人共倒れたりしたらそれこそ大変だ。

「ありがとう」

 おじさんの言葉に大きく頷くと、私は身を翻す。蓮くんのところに戻ると、椅子に置いたままの鞄を手にした。

「帰ろう、蓮くん」

 私が差し出した鞄を、蓮くんはゆっくりとした動作で受け取る。おじさんの思いも私の意図も読み取ったのか、それ以上抗う言葉はなかった。手を振るおじさんに軽く会釈をし、私は歩き出す。蓮くんは無言のまま、おじさんも、病室のおばさんをも振り返らなかった。




******



 少し冷静になりたいところもあったんだろう。

 蓮くんは帰りにはタクシーを呼ばず、夜の静かな道を歩き出した。その半歩後ろを歩きながら、私は冷たい風に一度だけ身震いする。10月の夜は、この時間になると思っているよりも冷えた。



「…っ」

 歩くには少し長い距離を、どれくらい行ったところだっただろう。蓮くんがまた、声にならない声を漏らした。



 彼の家族が、どれだけ仲が良く温かい関係だったのか私はよく知っている。一人っ子の蓮くんが、おじさんとおばさんにどれほど愛されてきたか分かっている。そしてその愛情に返すように、蓮くんが2人を大事にしていることも。そんな彼にとって、今の状況の辛さは私なんかの想像を遥かに超えているはずだった。




「蓮くん…」

 わずかに下を向いたまま歩いていた蓮くんにそう声をかけたのは、学校の近くの見慣れた道に出た時だった。労わりの言葉も慰めの言葉も、口にすれば陳腐なものでしかない。それが分かったから、呼んでみたものの次の言葉を継ぐことができなかった。



「……和美…っ」

 だけど、私の気持ちも伝わったんだろう。蓮くんは歩みを止めて、私の名前を呼ぶことでやっと留めていた辛い気持ちを吐き出したように思えた。それは、あの電話がかかってくる前に私とあんな会話をしていた人と同一人物だとは思えないくらいに弱々しい声だ。



 後ろを歩く私を振り返り、蓮くんは手を伸ばす。気づくとグイッと引き寄せられ、驚いている瞬間にその胸に抱きこまれていた。

「…れ…」

 だけど、私の首と後頭部に回された手がまだ震えていて、それに抗うことすらできない。蓮くんの今の気持ちを思うと、その時その手を振り払うなんてことできるわけがなかった。




「和美……」

 この先への不安と、もしもの時のことを考える恐怖で頭がグチャグチャなんだろう。自分を落ち着けるかのように、蓮くんは腕に力をこめて何度も私を呼ぶ。



 見たこともない彼のそんな様子に、気づくと私の方が目にうっすらと涙を溜めていた。




 歩道のすぐ傍の車道を走る車はまだそれなりに多くて、行きかうそれらのヘッドライトが眩しい。


 蓮くんの肩越し…涙の滲む目で見たそれらのうちの一つに、見覚えのある黒い車に似た影があった気がした。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ