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Sweet&Bitter  作者: みずの
嘘は罪
107/152

10


 その日は部活もなかったので、数学準備室から出るとクラスの文化祭準備に参加した。皆がチャイナドレスをだんだんと仕上げていく中、何とか追いつこうと精一杯布を縫い合わせる。

 不器用なりに、時間をかけてでもキレイに縫わないと着た時に恥をかきそうだ。自分ならまだしも私の縫ったものを着なければいけない男子に申し訳ない。



「なぁ本城、ここ押さえてて」

「ユッキー、これここでいいと思うー?」

 カフェの大道具を準備する男子や小物を作っている女子が、先生にそんな風に声をかけているのが聞こえてくる。

 今日は珍しく、先生も教室に顔を出していた。そろそろ担任として真面目に参加しなくてはいけないと思ったのかもしれない。それはいいことなのだろうけれど、ふとした時に見せる生徒への笑顔が私の胸を締め付ける。

 …あまり、こんな風に笑う人じゃなかったのに。

 忘れようと思った矢先に、結局先生はいつも私の思いを覆すような何かをするんだ。



 1年前の文化祭だったら、生徒たちだって先生にこんなに親しく話しかけたりしなかった。皆が怖がっていたから、私はどこか安心していた面もあったのに…。




「……」

 ため息まじりになりながら、その日はこの前のように遅くなりすぎないように教室を出た。

 先生はまだ他の生徒の作業を手伝わされている。それを横目で一瞥してから、後ろ手にドアを閉めた。

 この前、蓮くんの車に乗っていった女の子たちもまだ残っていた。あの子たちは、今日はもしかしたら本城先生の車に乗りたいとか言い出すんだろうか…。ふと嫉妬めいた感情が燻りかけたのに気づいて、私はハッと我に返ると首を横に振った。




 18時を過ぎた頃に最寄駅に着き、そこからいつもの歩きなれた道を帰る。足取りはさほど重いわけではないけれど、軽やかになれる気分でもなかった。ただそんな自分に追い討ちをかけるように、後ろから声が降ってくる。

「和美」

 呼ばれてゆっくりと振り向いた私の目に映ったのは、スーツ姿に鞄を手にした蓮くんだった。同じ電車だったのだろうか。どうやら今日は車で出勤したのではなさそうだ。



「今帰り?」

 尋ねられて、「うん」と小さく答える。何となく足を止めてしまい、やがてそんな私の隣に蓮くんが並ぶ。この駅でこのタイミングで、まさか学校の人には会わないだろうけれど、何となく周囲を警戒してしまった。

 そんな私の様子に、蓮くんがクスリと笑う。

「何気にしてんの? たまたま会った教師と生徒が一緒に帰るだけだよ」

 …いつだったか、本城先生にもそんなことを言われた気がする。気にしすぎる方が、不自然だとか…。



「…うん」

 小さく頷いて、私は再び歩き出す。あまり誰かに見られたい光景でないこともあったけれど、今は何となく蓮くんと会いたくない気持ちもあった。

「和美、ちょっと話したいことがあるんだけど…」

 途中の人気のない公園の前を通った時にそちらを指し示して、蓮くんは言う。


 …やっぱり。こうなることが分かっていたから、今は蓮くんと顔を合わせたくなかった。

「…何?」

 吐息まじりに観念しながら、私は促されるまま公園に一歩足を踏み入れた。




******



「今日…名取先生に呼ばれたみたいだけど、どうだった?」

 心配してくれていたのか、蓮くんはそう尋ねる。もう遊んでいる子どもがいないのをいいことにブランコの一つに腰をかけた私は、「あぁ、うん…」と小さく頷いた。

「お灸を据えられました。…もう行かないように、って」

 なっちゃんには土曜の夜のことで注意なんてされていないけれど、私はそう答える。学校に言わないという代わりに、なっちゃんが私への説教役を引き受けたんだろうと分かったからだ。

 ここできっちり怒られたことにしておかないと、なっちゃんの立場が悪くなる。

「…そう」

 ブランコの前の低い柵に腰を下ろして、蓮くんは膝の辺りで長い指を組んだ。こちらを見る目はやはりまだどこか心配そうで、私は少し目を逸らしてしまう。

「約束できる? 本当にもう行かないって」

 あの土曜の夜もそう答えたはずなのに、確認するように蓮くんは口にした。それにわずかに眉根を寄せて、私は小首を傾げる。




 蓮くんは…一体何をそこまで心配しているのだろう。もはや私には、未成年がバーなんて場所に行ったことだけを懸念しているようには聞こえなかった。

「この前言ったでしょ? …もう…行かない」

 本当は、すごく悲しい。もうメグミさんたちに会えないのか、生でジャズを聴けることもなくなるのか…そう思うとすごく悲しい。

 そして何より、先生が楽しそうにピアノを弾く姿をもう見れない。忘れようとしているはずな時だけれど、それでも寂しかった。



「…じゃあ、あの人にも会わない?」

 続いた蓮くんの言葉に、私は思わず顔を上げる。ゆるりと目線を戻すと、蓮くんは真顔でこちらを見据えていた。

「『あの人』?」

 その言葉を、復唱する。分かっていたはずだけれど、ここで言われるとは思っていなかったから。

「小塚さんだよ。…元彼氏だっけ?」

 言いたくなさそうに…でも蓮くんは苦い顔で続ける。そんな表情を見つめ返しながら、私の目はそれでも遠いどこかを見ているようだった。

「…何で、そんなこと…」

「和美とあの人じゃ釣り合わない」

 今度はきっぱりと、蓮くんの整った形の良い唇がそう続けた。



「いつ、どれくらい付き合ってた? あんなろくでもない男と付き合ってるとは思わなかった」

 言われた瞬間、カッとなる。思わずブランコから飛び降りるように立ち上がっていた。自分の背後で、鎖がガチャンと音を立てるのを聞く。

「何でそんな言い方…!? 蓮くんに関係ない!」

「和美」

「修司さんのこと悪く言わないで!」

 分かってる。蓮くんを欺いているのは私の方。あの状況じゃ蓮くんが修司さんの本質なんて見抜けずに人柄を誤解しても責められない。だけど…それでも悪口を言われたくなかった。

 ましてや、修司さんが蓮くんに嫌われるような態度を取るのは私のための嘘ゆえだ。私のためにそこまでしてくれる人を悪く言われるのは我慢できなかった。



 珍しく大声で反論した私に、蓮くんは一瞬目を瞠った。だけどすぐに立ち直ったかのように…大きくため息を吐き出す。

 そして自分も立ち上がってから、私を見下ろした。

「まともな男じゃないことくらい、見れば分かる! 『悪く言わないで』なんて言ってることこそ、あの男に弄ばれてる証拠だろ!?」

「違う!」

 言ってしまいたかった。本当は、修司さんは優しい人だって…。修司さんが元彼氏だなんて嘘で、あれは私のための偽りだったって…。



 でも、それを口にしたら本城先生のことも話さなければいけなくなる。修司さんのせっかくの厚意も、全て無にしてしまうことになる。だから真実と本音を押し込んで、私はグッと息をつめた。



「…和美、俺と別れる時…何て言ったか覚えてる?」

 不意に声のトーンを数段落として、蓮くんがそう尋ねる。睨み合うようにまっすぐ互いを見つめあっていた目が、少し細められた。

「『気になる人ができたから、別れてほしい』…そう言われた」

 それは、確かに覚えている。本城先生に初めて会ったあの春の日…その夜すぐさま、蓮くんにそう告げた。



「俺があっさり承諾して別れたのは、何でだと思う」

「…それ…は…」

 もう、蓮くんとはまともに会っていなかった。私は受験、蓮くんは大学生活が忙しかったから…。だから、蓮くんの方にも私を引きとめるほどの愛情なんて残っていなかったんだと思う。

 だけど何故か、今の彼の目を見ているとそう答えるには憚られた。



「そもそもあの時…あまり会わなくなってたのは、受験で大変そうな和美のためだった」

 思い出しながら、少しだけ眉を寄せて蓮くんは言う。

「あの時和美は背伸びして進学校を受けるから、かなり不安定だった。本当なら傍で支えたかったけど、和美がそれを望んでいないことが分かってたから…受験が終わるまではそっとしておくつもりだった」

 それは覚えてる。私はあの時自分でも嘘のように情緒不安定だった。外でイイ子にしている分、自分の心の中はグチャグチャだった。だから家族なんかには当たってしまうことも少なからずあったはず。



「だけど受験が終わって、しばらくしてから言われた言葉がそれだった。でも…それでも仕方ないと思った。和美が幸せになれるならそれで良かった」

「…蓮…くん…」

「いつかまた会った時に見直されるような男になって、それからやり直したいと思ってた」

 そこまで言った蓮くんは、「…なのに」と唇を噛み締めながら続ける。

「俺は、あんな男と付き合わせるために別れたんじゃない!」

「…蓮くん…」

 一瞬肩を怒らせた彼は、やがてそんな自分にハッと我に返ったように顔を上げた。そして、クールダウンするかのように大きく息を吐き出す。

 そうしただけでも幾分か落ち着きを取り戻したのか、小さく首を横に振ると声のトーンをまた少し落とした。



「…小塚修司、W大法学部卒業後、ジャズバーでバーテンダーとして4年弱勤務」

 吐息まじりにだけれど、蓮くんはいきなりそう言葉を並べながら私を見つめる。

「…な…に?」

「最近になって、法律事務所に転職。…2日弱だと、それくらいの経歴しか調べられなかった」

 蓮くんがまるで何でもないことのように言うので、私の背筋を冷たいものが走った。それがどれだけ異常なことなのか…考えるまでもない。普通の人なら、顔と名前しか知らない人間のことをたった2日で調べられない。

「…あぁ、あともう一個あった」

 わざとらしい声で、蓮くんは続ける。その時にはもう、いつもの紳士的な表情ではなかった。ただの無表情に、冷たい仮面を張り付かせている。



「あの人、来月結婚するんだっけ?」

「!!…」

 思わず息を飲んで、私は自分の体が強張るのを感じた。

 指一本、軽くは動かせない。冷たく凍ったようなそれは、自分の意志ではどうにもならなかった。

「…やめてよ…」

 やっとの思いで、そう口にすることだけが精一杯。



「何する気…? 修司さんの結婚の邪魔しないで!」

 必死な思いで声を荒げた私に、蓮くんはようやくそこで笑った。だけどそれは、見たこともないような歪んだ微笑。

「何必死になってんの? 和美としては、今でもライブに行くくらい好きな元彼の結婚が破談になったら嬉しいんじゃないの?」

「やめて! …余計なこと、しないで…っ」

 この時になって、ようやく私は自分が今までこの人に感じてきた「畏怖」の正体に気づく。完璧で紳士的でどこまでも優しい幼馴染みを、それでも心のどこかで怖いと思っていた。誰にも話せたことのないその感情は、彼のこの2面性を直感的に感じ取っていたからなのか。



「お願い! 修司さんには何もしないで!」

 叫んだ私を、蓮くんは冷たい笑みのまま見下ろす。

「和美次第だよ」

 どこかおかしそうに口元を綻ばせた彼に、ゾッとした。10月夜の冷たい風が、今の私の心境をあざ笑うかのように頬を撫でていく。ゴクリと息を飲んだけれど、乾ききった喉から返す言葉はすぐに出てこなかった。




 こうして、私はまた失うんだろうか。



 先生の次に、また大事な人を…。




 自分には何のメリットもないのに私のためにあんな嘘まで吐いてくれた人を、また遠ざけてしまうんだろうか。




「どうする、和美」

 答えなんて分かりきっているというように尋ねる蓮くんを、私は睨むように見上げた。





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