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Sweet&Bitter  作者: みずの
嘘は罪
101/152


 先生の車に乗るのはどれくらいぶりだろう。後部座席に智子と一緒に乗り込むと、記憶にあるのと同じ匂いがして胸がギュッと締め付けられる気がした。たったそれだけのことで高鳴る鼓動に、自分でも呆れてしまいそうになる。これじゃ智子の言うとおり、いつまでたっても忘れられそうにない。



「本城、うち分かるー?」

 運転席の後ろに乗った智子が、開口一番そう言った。

「本城の家の近くのスーパーあるじゃん、あそこを右に入ってってさぁ…」

 道順を説明しかけた智子は、そこまで言ってふと止める。一瞬だけ小首を傾げて、「そういえば」と何かを思い直したように呟いた。

「引越ししたんだっけ? もううちの近所じゃないんだっけ」

「近くまで行くから、その辺で道教えてくれ」

 ミラーを直しながら、先生は短く応じる。

 …そうだ、先生、引越ししたんだっけ…。一緒に選んだはずのその部屋に、結局私は一度も足を踏み入れることすらできなかった。



「白石の方がここから近いから、先に下ろすぞ」

 サイドブレーキを下げながら言った先生の言葉に「…あ、はい…」と返事をする。だけど智子が、「えぇ!?」と大きな声を上げた。

「それは困るよ! これでも彼氏いるんだから、他の男の車で二人きりなんて!」

 恐らく智子は私に気を遣ってそう言ったのだろう。珍しく声を荒げて言った智子に先生は「…だったら乗るな初めから」と呆れたように言いながらも、門を出るとハンドルを右に切った。言われるがまま、智子を先に送り届けるみたいだ。



「ねぇ本城さぁ、本気で文化祭参加しないつもり?」

 走り出した車の中で、シートに深々と背を預けた智子は急にそう話題を振った。

「? 参加しねぇなんて言ってねぇだろ」

「だってチャイナドレス着ないんでしょ?」

「んなもん着なくたってお前らの監督っつー役目があんだよ」

「本城の女装姿、ちょっと見たかったんだけどなー」

「絶っ対、やらねーよ」

 苦い表情で応じた先生の横顔を、私は斜め後ろから見つめる。前を向いている先生にバレることはないだろうから、今なら堂々とその顔を見据えられる気がした。



「じゃあさ、あのうざいイベントはどうすんの?」

「『うざいイベント』?」

「ほら、なんか女子が紙渡して…ってやつ」

「あぁ…」

 前を向く先生の目が、少しだけ不機嫌そうに細められる。やっぱり、先生もああいうイベントは好きじゃないに違いない。

「面倒くせぇけど、そっちは断りようがねぇだろうしな」

「えぇ!!? 誰か持ってきたら受け取るの!?」

「生徒が持ってきたらとりあえず断るわけにいかねぇだろ、つーのが職員室での話だ。しかも生徒同士と違ってこっちが選ぶわけにいかねぇから、一番に持ってきた奴のを受け取るしかねぇな」

「早い者勝ちってことかぁ。名取先生とか大変そうだよね」

「だろうな」

 興味なさそうに、先生は短く同意する。…そうか、やっぱり先生が受け取るのは一番早く持ってきた生徒のものなんだ…。まぁ確かに、あの生徒のものは断ったのに後で持ってきたこっちの生徒のものは受け取った、とかなったら問題だから当然だ。



「相澤先生が持ってきたらどうすんの」

「そっちは断る理由がどうとでも作れるだろ」

「そういうもんなんだ」

「お前は? 彼氏に渡せばいいから面倒くさいイベントでもないだろ」

「まぁねー。しかも私はそうでもないけど、裕貴って限定イベントとか好きなんだよねー」

 さりげなく話題を自分の方に摩り替えられたことには気づいていないのか、智子は先生に振られるまま自分の話をする。大体、智子が自分や裕貴くんの話を私たち以外の誰かにすること自体が珍しい。それくらい、先生の聞き方がうまいということなのかもしれなかった。



 智子の家も学校からそれほど遠くはないので、車だとすぐに着いてしまった。

「じゃーね、本城ありがとう。和美、また明日ねー」

 手を振って、智子は車を降りる。見えなくなるまで車を見送っていたので、私は後部座席で振り返って手を振った。



 角を曲がってそれすら見えなくなった頃、ようやく二人きりになってしまった実感が沸いてくる。つい先週化学準備室で一緒だったこともあるけれど、やっぱりまだ慣れない。妙な気まずさは全くなくなったわけではないからか、胸が緊張に震えた。




 智子が、あんなことを言ったから余計だ。聞きたいことは聞け、先生の気持ちになって考えろ…。

 今の私には軽く流すことのできないアドバイスに違いなかった。こういうことを、責めるわけでもなくさらりと諭してくれる辺り智子はやっぱりすごいと思う。



「進んだのか、文化祭準備」

 二人になって初めて、先生の方からそう話題を切り出してくれた。私のようには緊張していないのだろう。大人な先生はいつでもクールな対応だ。

「あ、はい…皆は結構…」

「なんだ、『皆は』って」

 一瞬吹き出しかけたらしい先生に、私は口ごもりながら答える。

「いや…裁縫苦手なので私は時間かかってて…」

「お前そんなんで男子の分も作れんのか?」

「寝ないで頑張るか…もしくは裏技を使うか…」

「裏技? …あぁ、野崎か」

 茜に手伝ってもらうという私の奥の手に気づいたらしく、先生はハハと笑った。珍しく声を立てて笑った先生に、また胸がドクンと一度跳ねる。好きな人の笑顔を見られたのが嬉しいのもあったけれど、もしかしてチャンスじゃないかと気づいたからだ。先生がこんな風に普通にしてくれていたら…聞きたいことも聞きやすい気がした。




「…先生」

 私の声のトーンが少し真剣味を帯びたことに気づいたのか、先生もふっと表情を戻す。声はなく、ただ無言で先を促された。そのせいで呼びかけてしまったのはいいものの、新たな緊張の波が押し寄せる。



「あの…明後日のライブのことなんですけど…」

 勇気を奮い立たせるかのように、膝の上に乗せた手でギュッと固く拳を握りこんだ。

「実は…メグミさんから誘ってもらっていて…見に行きたいと思ってるんですけど……」

 途切れ途切れになりながらも何とかそこまで言うと、先生は信号の手前で車を停めながら「あぁ」と頷いた。

「行けば?」

 あっさりと、そんな返事をされる。



「…でも…先生は嫌じゃないですか…? その日、ピアノで出るんですよね…?」

 元々プライベートな趣味の部分に踏み込まれることが、好きではない人だったはず。別れた私が先生のその領域を侵すように踏み入るのは、無神経な気がした。それでなくても、ああいう場には私と先生が別れたことを知っている人たちも多いんだ。冗談ぽくでも、何か言ってくる人もいるだろう。そうなったら先生には煩わしいことに違いない。



「…白石、ちょっと時間あるか?」

 少し何かを考えるように間を空けた後、先生がそんな風に再び口を開いた。その言葉に少し目を丸くした私は、「あ、はいっ」と姿勢を正しながら返事をする。それにもう一度頷いた先生は、私の家に続くはずの道を少しだけ逸れて車を走らせた。




******



「…お前に、言っておかなきゃならないと思ってたことがある」

 先生がそう話を切り出したのは、ある場所に着いてからだった。それは…先生と何度か来た場所。広い県立公園の中の、小高い丘の上だった。七夕祭りの時に初めて連れてきてもらった場所。そして、由香子さんとの話を聞かされた場所。何か話がある時はここに来ていたせいか、今日も言われたわけではないのに互いに自然と車を降りていつもの定位置に立った。



「別に改めて言うほどのことでもないんだけどな、本当なら」

 後頭部を長い指でかきながら、先生は手すりにもたれる。それとは反対に私は手すりに手をかけて、煌びやかに輝く夜の街を見下ろした。



「お前をジャズバーに初めに連れて行ったのは俺だし、俺を通してあそこで知り合った人間も多いだろ。お前はあそこの常連客たちにかわいがられてたし、交友関係も広がったと思う。だから、俺と別れた後にそいつらと変わらずに付き合うことに対して少しためらいがあるのも分かる」

 私の思っていたことをはっきりと言って、先生は小さく吐息を漏らした。

「だけど…そんなこと気にする必要ないんだよ。あそこの連中は別に俺の彼女だからお前と仲良くしてたわけじゃねぇんだ。皆お前が気に入ってるから、お前を構ってたんだよ」

「……先生…」

「だから、変わらずに付き合えばいい。メグミのライブに行きたければ行けばいい。修司や諒子にだって今まで通り会えばいいし、貴弘とだってこれまで通りにすればいい。俺に気兼ねするなんておかしいだろ?」

「……」

 先生の、言葉の意味は分かる。むしろそれは先生の優しさだと思う。

 でも……。


「何も変わらねぇよ。全部今まで通りだ」


 だけど、そこに先生はいないじゃない…。




 ジャズバーで知り合った人たちと、変わらずに交流は持てるかもしれない。なっちゃんとだって相変わらずだし、修司さんや諒子さん、理沙さんだって自然に会ってくれる。だけどそこに、先生はいない。全部が今まで通りになるには一番大切なものが欠けている。




「メグミも待ってんだろ、行ってやれよライブ」

 微かに笑って言う先生の横顔を見つめるには、胸の痛みが邪魔をした。




「…先生は…」

 気づくと、心の傷から目を逸らすように口を開いていた。

「今まで通りじゃないじゃないですか。なっちゃんと仲良くしてくださいよ…」

 本当に言いたかったのはそんなことだったんだろうか?

 自分に問いながら、それでもやっぱり先生を見ることはできなかった。



「…そればっかりはなぁ…悪いのは俺だし、怒ってんのは向こうだしな」

 冗談っぽく笑いを含んだ声で言う先生の言葉に、目頭がグっと熱くなるのが分かる。堪えきれない涙が溢れ出しそうで、下を向いていられなかった。

「そうやって…なっちゃんと遠くなっても平気なんですか?」

 潤んだ目で、今度はまっすぐに先生を見上げる。私の真剣な声に少し驚いたような顔をした先生は、片眉を持ち上げてこちらを振り返った。



「先生が守ろうとしたものは…由香子さんは、なっちゃんと私を切り捨ててもいいと思えるくらい大事だったの?」


 

 目を見開いていた先生が、私のそんな問いにふっと眉を寄せる。その表情の変化に急に怖くなった私は、思わず自分をかばうように耳の辺りを両手で塞いだ。

「…ごめんなさい…っ、違うんです、そういうことが聞きたかったんじゃなくて…」

 もう自分がいたたまれない。どうしてそんなことを口走ってしまったのか…。今更聞いてもどうしようもないことなのに。



 俯いた私の両手首を、次の瞬間、先生がグッと掴んだ。耳から私の手を離させて、真正面から自分の声を聞かせるかのように力をこめる。

「お前が…」

 さっきまでの笑みは完全に消えて、ただ私をまっすぐに見下ろすだけ。

「本気でその答えを欲しいと思った時に、ちゃんと答える」

「……え…?」

「耳を塞いで心のどこかで聞きたくないと思ってるうちは、答えられない」

 そう言う先生の顔は、今までに見たことがないものだった。



 真摯…とも違う。何て言うんだろう、どこか…痛みを必死で押さえ込んでいるような…。



 …『痛み』?



 自分の胸をよぎったそんな単語を、思わず心の中で復唱した。



 そうだ…この先生の顔は…何かに傷ついている顔…。



「…先…」

「帰るぞ」

 呼びかけようとした私の言葉を遮り、先生は手を離す。パッと踵を返して先を歩いていく姿を見送りながら、私は自分の手首をもう片方の手で包みこんだ。



 まるで熱を帯びたように、そこだけが熱い気がしたからだ。





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