嘘告されて傷ついた幼馴染を慰めたら監禁されました。ダレカタスケテ
どうしてこんなことになったんだろう。
私――安心院智理は、薄暗い部屋の白い天井を見上げながら、何度目になるかわからない問いを胸の中で繰り返していた。
視線を少し横へずらす。
すぐ隣では、幼馴染の嫉黒明華が、幸せそうな顔で眠っていた。
長い睫毛。白い頬。淡く開いた唇。
こうして目を閉じているだけなら、昔と何も変わらない。
守ってあげたくなるような、綺麗で、やわらかくて、少し儚い女の子のままだ。
「……明華」
小さく呼んでみても、返事はない。
当然だ。眠っているのだから。
それでも呼んでしまうのは、たぶん、怖いからだ。
この静けさに飲まれてしまいそうで。
自分の置かれている状況が、本当に現実なのだと認めたくなくて。
「こんなの、違うでしょ……」
自分でも情けなくなるくらい弱い声が、闇の中に溶けた。
数日前。
明華はサッカー部のエースである後藤蓮司に告白されたのだと、少し照れた顔で私に話してきた。
『その、急に呼び出されて……私もびっくりしたんだけど』
『へえ……』
『でも、ちゃんと前から気になってたって言ってくれて』
嬉しそうで、恥ずかしそうで、でもどこか不安そうに、明華は私の顔を覗き込んだ。
『さーちゃん、変じゃない?』
『何が?』
『その……私が、こういうの……』
『変じゃないよ』
私はなるべく明るく笑った。
『むしろよかったじゃん。明華、可愛いし』
『っ……な、なにそれ』
『ほんとのこと』
そう言うと、明華は一瞬だけ目を丸くしてから、困ったように笑った。
でも、その笑顔の奥に、なにか確かめるみたいな色があった気がした。
『……さーちゃんは、嬉しい?』
『え?』
『私に彼氏ができるかもしれないって聞いて』
不意打ちみたいな問いだった。
『そりゃ、嬉しいよ』
『ほんとに?』
『ほんとに。明華が嬉しそうなら、私も嬉しい』
その言葉に、明華は少しだけ黙った。
それから「そっか」と呟いて、笑った。
あのとき、ちゃんと気づくべきだったのかもしれない。
あの笑い方は、少しだけ寂しそうだった。
――でも、それは全部、仕組まれた告白だった。
明華に嫉妬していた北条佐天が、恋人の後藤と一緒に仕掛けた悪趣味な嘘告。
明華を浮かれさせて、傷つけて、みんなの前で笑いものにするためだけの、最低な遊び。
ネタばらしがされたのは、教室だった。
『え、マジで信じてたの?』
『ちょっと本気っぽかったよね』
『ウケるんだけど』
軽薄な笑い声が、ひどく耳についた。
明華は何も言えずに立ち尽くしていた。
顔は真っ青で、唇は震えていて、目には涙が浮かんでいた。
『や、やめて……』
『なに、泣くの? そんなつもりじゃなかったとか言う?』
『ふざけるな!!』
気づけば、私は叫んでいた。
教室が静まり返る。
それでも止まれなかった。
『人の気持ちをなんだと思ってるの!? 面白半分でそんなことして、傷つかないとでも思ったの!?』
私は思わず後藤と北条を殴り飛ばしていた。
一発じゃ収まらない。
明華はもっと傷ついたんだ。
『さーちゃん!』
鋭い声に、我に返る。
明華が私の腕にしがみついていた。
泣きそうな顔で、それでも必死に私を止めている。
『もういい、もういいから……!』
『でも、明華……!』
『お願い、行こう……ここ、いたくない……』
その声を聞いたら、もう何も言えなくなった。
私は唇を噛んで手を離した。
明華はすぐに私の手を取って、教室を出た。
細くて、少し冷たい手。
でも、離そうとはしなかった。
廊下を歩くあいだ、明華は一度も後ろを振り返らなかった。
ただ、手だけはずっと強く握られていた。
家に着いて、部屋に入った途端。
明華は糸が切れたみたいにその場にしゃがみこんだ。
『ごめんなさい……』
『明華』
『ごめんなさい、ごめんなさい……っ』
震える声で、何度もそう繰り返す。
『私のせいで……さーちゃんにあんなことさせて……』
『違うよ』
『違わないよ……! 私が、私があんなのに引っかかったから……』
泣きながらそう言う明華を見ていると、胸が苦しくなった。
私はその場にしゃがんで、そっと明華の肩に触れた。
『明華。顔上げて』
『やだ……こんな顔、見せたくない……』
『見せて』
できるだけやさしく言うと、明華はゆっくり顔を上げた。
目の縁が真っ赤で、ぐしゃぐしゃで、見ているだけで痛々しい。
『私が勝手にやったことだよ』
『でも……』
『殴ったのはやりすぎだったかもしれない。でも、後悔はしてない』
明華の目が少し見開かれる。
『だって、明華をあんなふうに泣かせたんだよ。許せるわけない』
『さーちゃん……』
『だから、明華は気にしなくていい』
そっと頭を撫でると、明華は息を呑んだ。
『どうして……』
『え?』
『どうして、そんなに優しいの……?』
責めるみたいな、縋るみたいな声だった。
『優しいっていうか……幼馴染だし』
『幼馴染だから?』
『うん』
その答えに、明華はほんの一瞬だけ、ひどく寂しそうな顔をした。
『……そっか』
『明華?』
『ううん。なんでもない』
そう言って笑う明華は、いつも通りに見えた。
でも、その笑顔を見たとき、胸の奥がざわついた。
その日は、結局そのまま明華の家にいることになった。
一人にして帰れる状態じゃなかったし、帰ると言い出せる空気でもなかった。
『ご飯、私が作るね』
『私も手伝うよ』
『だめ』
『だめって』
『今日は、私にやらせて』
少しだけ強い口調で言ったあと、明華ははっとしたように目を伏せた。
『ご、ごめん……』
『いや、謝らなくていいけど』
『その……何かしてないと、落ち着かなくて……』
消え入りそうな声に、私はすぐ頷いた。
『わかった。じゃあ、危なかったら呼んで』
『……うん』
食事のあいだも、明華は何度も私の顔を見た。
『おいしい?』
『おいしいよ』
『ほんとに?』
『ほんとに。すごいじゃん』
『そ、そんなこと……』
照れたように俯くくせに、またすぐに私を見る。
まるで私の一言一言を確かめるみたいに。
『さーちゃん』
『ん?』
『今日、いてくれる?』
箸を持つ手が止まった。
『……明華が不安なら』
『朝まで?』
『うん』
そう答えると、明華はほっとしたように微笑んだ。
けれどその笑顔は、安心というより、何かを手に入れた人の顔に見えた。
『よかった』
『そんなに一人、嫌?』
『嫌だよ』
即答だった。
『今日みたいなことがあったあとで、一人になったら、たぶん変になっちゃう』
『明華……』
『だから、いて』
その言い方が、お願いというより懇願に近くて、私は断れなかった。
『いるよ』
『ほんと?』
『ほんと』
『帰らない?』
『今日は帰らない』
そこまで言ったとき、明華がふっと笑った。
『さーちゃんって、ずるい』
『え?』
『私が欲しい言葉、簡単にくれるから』
冗談めかしているのに、なぜか笑えなかった。
『明華……?』
『なんでもない。嬉しいなって思っただけ』
夜。
部屋の灯りを落としてからも、私はなかなか寝つけなかった。
『さーちゃん、起きてる?』
暗闇の中で、明華が囁いた。
『うん』
『こっち向いて』
言われるままに振り向くと、思ったより近くに明華の顔があった。
薄暗い中でも、彼女の目だけは妙にはっきり見えた。
『近いよ』
『だめ?』
『……だめじゃないけど』
そう言うと、明華は少し嬉しそうに目を細めた。
『ねえ、さーちゃん』
『なに?』
『私、今日、すごく傷ついたの』
静かな声だった。
でも、その一言にはひどく重さがあった。
『うん……』
『まだ、ちゃんと痛い』
『……そっか』
『だからね』
明華は、子どもみたいに甘える声で続けた。
『もっと優しくしてほしい』
『明華……』
『だめ?』
断れるわけがなかった。
私はそっと、明華の頭を撫でた。
『これでいい?』
『全然足りない』
思わず手が止まる。
『え?』
『だって、撫でるだけだもん』
『じゃあ、どうしてほしいの』
『……さーちゃんが考えて』
困らせるようなことを言いながら、明華は私の袖をきゅっと掴んだ。
『私、今日だけはわがまま言ってもいいよね』
『……少しくらいなら』
『少しじゃ足りないの』
その言葉に、胸がざわついた。
『さーちゃん』
『うん』
『私が行かないでって言ったら、いてくれる?』
『今日はいるよ』
『今日だけ?』
また、その問い。
私はすぐに答えられなかった。
すると明華は、ほんの少しだけ泣きそうな顔で笑った。
『そっか』
『明華』
『ううん、責めてるわけじゃないの』
そう言って、明華は指先でそっと私の手に触れた。
『ただね、思ったの。言葉って、すぐなくなっちゃうんだなって』
『……どういう意味?』
『約束しても、朝になったらほどけることってあるでしょう?』
ぞくり、とした。
『明華、それ……』
『でも、大丈夫』
明華はやわらかく微笑んだ。
『今は、さーちゃんがここにいるから』
その笑顔が、ひどく綺麗で。
ひどく不安で。
私はそれ以上、何も聞けなかった。
そして、次に目を覚ましたとき。
私は見知らぬ部屋にいた。
白い壁。閉ざされた窓。知らない天井。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
けれど、扉に手をかけて、開かないと知った瞬間、全身から血の気が引いた。
「……うそ」
もう一度、扉を押す。
引く。叩く。
それでも、開かない。
「明華……?」
冗談だと思いたかった。
悪い夢だと思いたかった。
けれど、静まり返った部屋の中で、自分の声だけがやけに空しく響いた。
しばらくして、扉が開いた。
『さーちゃん、起きた?』
入ってきたのは明華だった。
いつもと同じ顔。いつもと同じ声。
なのに、決定的に何かが違って見えた。
『……これ、どういうこと』
『ごめんね』
明華は申し訳なさそうにそう言った。
でも、その目には、怯えも迷いもなかった。
『ごめんね、さーちゃん。でも……こうするしかなかったの』
『こうするしかって、何言って……』
『だって、さーちゃん、朝になったら帰っちゃうでしょう?』
ぞっとした。
『帰るよ。普通はそうでしょ』
『普通って、なに?』
明華は首をかしげた。
本気でわからないみたいな顔で。
『私、昨日あんなに痛かったのに』
『……明華』
『あんなに苦しくて、あんなに惨めで、やっとさーちゃんが私だけ見てくれたのに』
一歩、また一歩。
明華が近づいてくる。
『それを朝になったら終わりにするなんて、そんなの嫌だよ』
『嫌だよって……だからって、こんなの』
『わかってる。おかしいよね』
明華は笑った。
泣きそうに、でも嬉しそうに。
『自分でも、おかしいってわかってる』
『じゃあ――』
『でも、止められなかったの』
その声は静かだった。
静かなのに、どうしようもなく重かった。
『私、もう誰にも渡したくないの』
『私は物じゃない』
『知ってるよ』
明華はすぐに答えた。
『知ってる。知ってるけど、それでも欲しいの』
『……明華』
『さーちゃんは優しいから、きっと怒るよね。困るよね。怖いよね』
そう言いながら、明華はそっと私の頬に触れた。
『でもね、それでも最後に見てほしいのは私なの』
触れられた場所が冷たくて、なのに逃げられなかった。
『さーちゃんにまで裏切られたくないの』
『裏切るとか、そういう話じゃ……』
『じゃあ、ずっとここにいてくれる?』
言葉が詰まる。
答えられない私を見て、明華は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
『ほらね』
『……明華』
『だから、言葉だけじゃ足りないの』
優しい声だった。
泣きたくなるほど優しいのに、逃げ道はどこにもなかった。
最初は、落ち着けば元に戻ると思っていた。
傷ついて、少し壊れかけているだけ。
ちゃんと話せば、わかってくれると信じたかった。
けれど、日が経つほど、その希望は削られていった。
明華は毎日、私の世話を焼いた。
ご飯を持ってきて、寒くないかと聞いて、眠る前には当然みたいに隣に来た。
『ねえ、さーちゃん』
『……なに』
『髪、触っていい?』
返事を待たずに、明華の指がそっと髪を梳く。
『やっぱり、好き。さーちゃんの髪、さらさら』
『明華……』
『怒ってる?』
『……怒ってるよ』
『そっか』
そう言いながら、明華は少し嬉しそうに笑う。
その笑い方が、たまらなく怖い。
『でも、話してくれるんだ』
『無視したって意味ないでしょ』
『うん。そうだね』
まるで普通の会話みたいに受け答えするから、余計に現実感が狂う。
『さーちゃん』
『なに』
『私のこと、嫌いになった?』
その問いだけは、いつも少し震えていた。
『……わからない』
『そっか』
明華は俯いて、それからまた私を見る。
『でも、嫌いって言わないんだね』
胸が詰まる。
嫌いだと言い切れたら、どれだけ楽だっただろう。
怖い。おかしい。間違ってる。そんなことはわかっている。
それでも、目の前の明華が泣きそうな顔をすると、突き放せない。
昔からそうだった。
明華はずるい。
弱そうに見えて、放っておけなくて、気づけばいつも私の中心に入り込んでいる。
『ねえ、さーちゃん』
『……なに』
『私ね、嬉しいの』
明華は私の肩に額を寄せながら、小さく言った。
『こうしてると、やっとほんとに近くなれた気がする』
『こんなの、おかしいよ』
『うん』
『だったら――』
『でも、私は嬉しい』
その言葉を聞いた瞬間、背筋が寒くなるのに。
同時に、どうしようもなく悲しくなる。
『さーちゃんは、優しいから』
明華の声が、耳元で溶ける。
『怖がっても、ちゃんと私を見てくれる』
『……見てるわけじゃ』
『見てるよ』
きっぱりと言い切られて、息が詰まった。
『見てくれてる。ずっと』
『それは……』
『ねえ、さーちゃん』
明華は顔を上げた。
その瞳の中には、私しか映っていなかった。
『私のこと、可哀想だと思う?』
『……思う』
『守ってあげたい?』
『っ……』
『そういうの、全部、好き』
にこりと笑う。
あまりにも綺麗で、あまりにも壊れていた。
『そうやって私を見てくれるさーちゃんが、好きで好きでたまらないの』
『明華……』
『だから、もう戻れないの』
その言葉は告白みたいで、呪いみたいだった。
私は明華が大切だ。
泣いていたら放っておけないし、傷ついていたら守りたいと思う。
その気持ちに嘘はない。
けれど今、その優しさごと、明華に絡め取られている気がする。
もしかしたら私は、このままずっと。
明華の声に縛られて、明華の涙に逆らえなくて、明華だけを見て生きていくのかもしれない。
それが怖い。
怖いのに、明華が隣で眠る夜、少しだけ安心してしまう自分もいる。
こんなの、絶対におかしいのに。
――ダレカ、タスケテ。
///////////////
『ねえ、蓮司。嫉黒のヤツに嘘告して、からかってやろうよ』
『へぇ。面白そうじゃん』
……本当に、救いようのないバカ二人。
私は自分の机に仕掛けておいた小型の盗聴器から聞こえてきた会話を聞きながら、深いため息をついた。
北条佐天は、前から何かにつけて私に嫌がらせをしようとしていた。
だから、念のためにこうして警戒していたのだけれど――まさか、こんな話まで拾えるなんて思わなかった。
「嘘告、ね……」
思わず小さく呟く。
口にしただけで、気分が悪くなりそうな響きだった。
人の気持ちを踏みにじって、笑いものにする。
しかも、それを“面白そう”の一言で済ませるなんて。
どこまで性根が腐っているんだろう。
後藤蓮司はサッカー部のエースで、顔もそこそこ整っている。
女子から人気があるというのも、まあ理解できなくはない。見た目だけなら、それなりに格好いい部類なのだろう。
でも、私にとってはどうでもよかった。
外面がいいだけの人なんて、薄っぺらい。
中身のないきらきらなんて、ちっとも眩しくない。
私の幼馴染である安心院智理――さーちゃんが金なら、あいつは偽金だ。
ぱっと見だけはそれらしくても、少し叩けばすぐに底が知れる。
中身はせいぜい銅かアルミ程度。
少なくとも、私の中ではそのくらいの価値しかない。
「……まあ、そんなの、ほんとにどうでもいいんだけど」
椅子にもたれ、天井を見上げながら息を吐く。
最初は、この録音をそのまま先生に持っていってやろうと思った。
証拠はある。言い逃れもできない。北条たちを叱ってもらうことだってできるだろう。
それが正しい。
たぶん、一番まともで、一番穏当なやり方だ。
でも。
その考えは、すぐに別のものに押し流された。
傷ついた私。
嘘みたいにしおらしくなった私。
そんな私を見て、さーちゃんが困ったように眉を下げる。
『明華、大丈夫?』
やさしい声が、頭の中であまりにも簡単に再生される。
きっと、さーちゃんは私を放っておかない。
慰めてくれる。
隣に座ってくれる。
泣いていたら頭を撫でてくれる。
大丈夫だよって、何度でも言ってくれる。
私のために怒ってくれるかもしれない。
私のために心を痛めてくれるかもしれない。
私だけを見て、私のことでいっぱいになってくれるかもしれない。
そこまで考えたところで、胸の奥がじわりと熱くなった。
……ずるい。
こんなの、ずるいに決まってる。
でも。
もし本当に、そんなふうにさーちゃんが私のそばにいてくれたら。
もし、私が傷ついたことで、さーちゃんの中の“いちばん大事”が少しだけ私に傾いてくれたら。
もし、そのままずっと、そばにいてくれたら。
「……最高、かも」
ぽつりと零れた声に、自分でびっくりした。
でも、次の瞬間には、口元がゆるんでいた。
嘘告をされて傷ついた私。
そんな私をさーちゃんがやさしく慰めてくれる。
私のために怒ってくれる。
私のことを心配して、そばにいてくれる。
そして、そのままずっと、ずっと、ずっと、ずっと一緒にいる。
死が二人を分かつ、その日まで。
「……うん。やっぱり、最高」
口にすると、ますます甘く響いた。
だめだと思う気持ちは、ちゃんとある。
こんなの、まともじゃない。
人の悪意を利用して、自分の願いを叶えようだなんて、最低だ。
でも、その最低さごと抱きしめたくなるくらい、私はさーちゃんが好きだった。
小さい頃からずっと一緒にいた。
転んで泣いたときも、喧嘩して拗ねたときも、うまく笑えなかった日も、さーちゃんはいつだって隣にいてくれた。
『明華、だいじょうぶ?』
『うん……』
『ほんとに? 無理してない?』
そんなふうに覗き込んでくる顔を、何度見ただろう。
私が落ち込んでいると、慰めてくれる。
困っていたら、助けてくれる。
私が笑えば一緒に笑ってくれるし、私が泣けば、自分のことみたいに心配してくれる。
やさしい。
ほんとうに、どうしようもないくらいやさしい。
だから、好きになってしまった。
幼馴染としてじゃなく。
大切な友達としてでもなく。
もっとずっと、重くて、苦しくて、みっともない形で。
さーちゃんが誰かに笑いかけるたび、胸がざわついた。
ほかの子と仲よくしているところを見ると、理由もなく機嫌が悪くなった。
将来の話なんてされるだけで、置いていかれるみたいで怖かった。
でも、ずっと我慢してきた。
幼馴染という関係を壊したくなかったから。
もし気持ちを知られて、気持ち悪いと思われたら嫌だったから。
距離を置かれたら、きっと耐えられないから。
「……でも、もう無理かも」
誰に聞かせるでもなく呟く。
限界だった。
いつか、さーちゃんが私以外の誰かを好きになってしまったら。
いつか、恋人ができて、私より大事な存在ができてしまったら。
いつか、私の知らない場所で、私の知らない顔で幸せになってしまったら。
そんなの、耐えられない。
私は、さーちゃんとずっと一緒にいたい。
誰にも邪魔されず、誰にも奪われず、ずっと二人だけでいたい。
そのためなら、少しくらい無茶をしてもいいと思った。
まずは、嘘告を受け入れる。
傷ついた私を、さーちゃんに慰めてもらう。
さーちゃんにとって、私は放っておけない幼馴染だ。
きっと今まで以上にやさしくしてくれる。
今までみたいな“みんなに向ける優しさ”じゃなくて、もっと近くで、もっと特別な優しさをくれる。
そして、その優しさに甘えてしまえばいい。
「……うん。いける」
そう呟いたくせに、すぐあとで眉をしかめた。
問題が一つだけある。
嘘告をされた以上、私は後藤と恋人らしく振る舞わなければならない。
さーちゃんに対しても、後藤と一緒にいて幸せだと思っているふりをする必要がある。
「うわ……最悪……」
想像しただけで、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
あの男と恋人のふり。
並んで歩いて、馴れ馴れしく話して、近づかれて。
もし手なんか握られたらと思うだけで、鳥肌が立つ。
「無理……ほんと無理……」
机に突っ伏したくなる。
むしろ今すぐ全部台無しにして、録音データを突きつけてやりたいくらいだ。
でも、それじゃ駄目だ。
我慢。
我慢しないと。
これは全部、さーちゃんとずっと一緒にいるため。
そう思えば、少しくらいの不快さなんて耐えられる。
……耐えないと困る。
「さーちゃん」
小さく名前を呼ぶだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
「待っててね」
誰にも聞こえないように囁いて、私は録音を止めた。
数日後。
放課後、私は屋上に呼び出された。
もちろん、呼び出したのは後藤蓮司だ。
夕方の風が少し冷たい。
髪が揺れて、頬にかかる。
私はそれを指先で払ってから、いかにも緊張しているふうを装って、後藤の前に立った。
『嫉黒。俺、お前のことが好きなんだ。付き合ってくれないか?』
……ああ、気持ち悪い。
どうして、こんな男の顔を見ながら、嬉しそうな顔をしなきゃいけないんだろう。
声を聞くだけで気分が悪い。
今すぐ踵を返して帰りたい。
なんなら黙って一発くらい殴りたい。
でも、ここで失敗するわけにはいかない。
私は頬を赤くしたふりをして、目を伏せた。
少し迷ったみたいな間を置いてから、おそるおそる顔を上げる。
『は、はい……!』
我ながら、よくこんな声が出せると思う。
後藤は満足そうに笑った。
『よかった。断られたらどうしようかと思ったわ』
『そ、そんな……』
内心では盛大に舌打ちした。
気持ち悪い。
薄い。
軽い。
そのくせ、自分が魅力的だと信じて疑っていない顔が腹立たしい。
でも、これで準備は整った。
あとは、さーちゃんに私が傷つくところを見てもらうだけ。
……もちろん、傷ついたふりなんて得意じゃない。
でも、きっと半分くらいは演技じゃなくなる。
だって私は、これからしばらく、この男の“恋人”をやらなきゃいけないのだから。
『嫉黒って、もっとおとなしいタイプかと思ってた』
『そ、そうかな……』
『意外と可愛いとこあるよな』
ぞわっ、とした。
気持ち悪い。
いちいち気安く評価しないでほしい。
私を勝手に理解した気にならないでほしい。
でも、私は笑った。
にこ、と。
できるだけやわらかく。
できるだけ恋をしている女の子っぽく。
自分でも吐きそうだった。
それから嘘告が暴露されるまで、私は後藤と一緒に放課後を過ごした。
部活の応援にも行ったし、途中まで一緒に帰ることもあった。
周りから見れば、たぶん普通のカップルっぽく見えたんだろう。
でも、私にとっては地獄だった。
『嫉黒、こっちな』
『……うん』
『なんか距離あるくね? 彼女なんだからもうちょい近く来いよ』
彼女。
その響きにすら虫唾が走る。
私の彼女でもないくせに。
恋人ごっこをしていい相手でもないくせに。
勝手にそんな立場の顔をしないでほしい。
それでも、私は一歩だけ近づいた。
さーちゃんのために。
その先にあるもののために。
後藤はやたらと私に触れてきた。
肩を抱こうとしたり、手を握ろうとしたり、恋人らしいことをしようとしたり。
『嫉黒、手ちっちゃいな』
『……そうかな』
『可愛いじゃん』
気持ち悪い。
やめて。
触らないで。
喉元までせり上がる嫌悪を、私は必死で飲み込んだ。
ここで振り払ってしまったら駄目。
ここで怒ってしまったら駄目。
全部、無駄になる。
「……さーちゃん」
心の中で名前を呼ぶ。
それだけで、ぎりぎり耐えられた。
早く。
早く、私を慰めて。
早く、私を助けて。
私がこんなに我慢したって知ったら、きっとさーちゃんは怒ってくれる。
困った顔をして、でもやさしくしてくれる。
私の背中を撫でて、大丈夫だよって言ってくれる。
そして、できるなら。
そのままずっと、私のそばにいて。
そんな願いを胸に抱えながら、私はひたすら耐え続けた。
そして、ついにその日がやってきた。
教室の真ん中で、後藤と北条が大声で笑った。
『いやー、マジで信じるとは思わなかったわ!』
『ほんと、嫉黒って単純だよね! 告白なんか本気にしちゃってさ!』
周囲から、くすくすと笑い声が聞こえる。
私は二人を見つめた。
それから、震える手で制服の裾を握りしめる。
……来た。
ようやく。
ようやく、この茶番が終わる。
後藤と恋人のふりをする日々も。
あの男に触れられる不快な時間も。
笑って誤魔化して、気持ち悪さを飲み込んで、平気なふりを続ける毎日も。
全部、今日で終わりだ。
嬉しい。
胸の奥がじん、と熱くなった。
本当なら笑ってしまいたいくらいだった。
でも今ここでそれをしたら台無しだ。
私は唇を震わせた。
目元に力を入れて、涙を滲ませる。
周りから見れば、嘘告を暴露されて傷ついた可哀想な女の子に見えるだろう。
……まあ、別の意味では本当に傷ついていた。主に精神が。
でも、それも今日までだ。
これで、さーちゃんに慰めてもらえる。
そう思った、そのとき。
『ふざけるな! 人の気持ちをなんだと思ってるの!!』
さーちゃんの声が、教室中に響き渡った。
次の瞬間、後藤が吹っ飛んだ。
続けて、北条も床に倒れ込む。
……え?
さーちゃん?
何をしてるの?
一瞬、思考が真っ白になった。
だって、予想はしていた。
怒ってくれるかもしれないとは思っていた。
でも、こんなふうに、まっすぐ感情を剥き出しにしてくれるなんて思っていなかった。
私のために怒ってくれた。
私のために、迷わず手を上げてくれた。
私が傷つけられたことを、自分のことみたいに許せないと思ってくれた。
胸が、苦しいくらいに熱くなる。
……ああ。
さーちゃん、格好いい。
格好よすぎる。
私のために怒ってくれるさーちゃん。
私のために行動してくれるさーちゃん。
私が泣かされたことを、あんなふうに真正面から怒ってくれるさーちゃん。
好き。
大好き。
もう、本当に、大好き。
嬉しさで胸がいっぱいになった。
泣きたいのか笑いたいのか、自分でもわからないくらいだった。
でも、同時に、冷静な自分もいた。
このまま教室にいたら駄目だ。
騒ぎが大きくなる。
先生も来る。
事情を聞かれて、さーちゃんが悪者みたいに扱われるかもしれない。
それだけは、絶対に嫌だった。
さーちゃんは悪くない。
悪いのは、最初から最後まで、あいつらだ。
なのに、さーちゃんが損をするなんて許せない。
私は反射的にさーちゃんの手をつかんだ。
『さーちゃん、行こう!』
『あ、明華……?』
『早く!』
そのまま教室を飛び出す。
廊下を走る。
靴音がやけに大きく響く。
それでも、私は手を離さなかった。
さーちゃんは少し驚いていたみたいだけれど、ちゃんとついてきてくれた。
私が引っ張れば、何も言わずに来てくれる。
……ああ。
やっぱり、さーちゃんは優しい。
私が手を引けば、ついてきてくれる。
私が泣けば、慰めてくれる。
私が困れば、助けてくれる。
そんなふうに、いつだって私を選んでくれる。
だったら。
このままずっと、私だけを選んでくれたらいいのに。
そんな願いが、胸の奥でひどく甘く膨らんでいく。
まだ、このときは、そこまでだった。
ただ嬉しくて、ただ愛おしくて、ただ手放したくないと思っていただけ。
でもきっと、もうこの時点で駄目だったのだと思う。
私のために怒る顔も、乱れた呼吸も、熱い手も、全部。
私の手を振りほどかずについてきてくれたこの瞬間に。
私はきっと、戻れないところまで好きになってしまっていた。
家に着くと、張りつめていた糸が切れたみたいに、私はその場で小さく息を吐いた。
教室を飛び出してくるまでは必死だった。
さーちゃんを連れてこなきゃ、とにかくあの場から離れなきゃ、そればかり考えていた。
でも、玄関の扉が閉まって、ようやく二人きりになった瞬間、急に現実が追いついてきた。
私は振り返って、さーちゃんを見る。
少し乱れた髪。
まだ息の残る肩。
私のために怒ってくれた、その熱の名残。
それを見ただけで、また胸の奥が苦しくなる。
『ごめんなさい……』
自然と声がこぼれた。
『私のせいで、さーちゃんに迷惑かけちゃった』
嘘ではない。
少なくとも、さーちゃんをあんな騒ぎに巻き込んでしまったことについては、本当に申し訳ないと思っていた。
……まあ、あいつらがどうなろうと、それについては別に何とも思わないけれど。
『明華』
やわらかな声で名前を呼ばれて、顔を上げる。
さーちゃんは困ったように眉を下げて、それから当たり前みたいに私の頭を撫でた。
その手つきが、あんまり優しくて、泣きたくなる。
『気にしないでよ。私が勝手にやったことだし』
『でも……』
『それに』
そこで、さーちゃんは少しだけ表情を強くした。
『幸せそうにしてた明華を、あんなふうに傷つけるなんて、私は許せない』
『さーちゃん……』
『殴ったことは、たしかに褒められたことじゃないかもしれないけど。でも、後悔はしてないよ』
……ああ。
もう、駄目だ。
好き。
好き好き好き好き好き。
どうしようもないくらい、好き。
喉の奥が熱くなって、視界が滲む。
私は堪えきれなくなって、さーちゃんの胸元に顔を埋めた。
『明華?』
『……ごめ、ちょっとだけ、このまま……』
そう言うのが精一杯だった。
声が震える。
みっともないくらい、甘えているってわかっている。
でも、もう取り繕えなかった。
さーちゃんは何も言わずに、そっと私を抱きしめてくれた。
温かい。
やさしい。
ほっとする匂いがする。
胸の鼓動が近い。
背中を撫でる手が、子どもをあやすみたいにゆっくりしている。
『……大丈夫だよ』
『っ……』
『今日は、いっぱい嫌な思いしたもんね』
その言葉で、また涙がこぼれた。
違う。
嫌だっただけじゃない。
苦しかったし、気持ち悪かったし、怖かったし、ずっとずっと耐えていた。
でも今は、それ以上に嬉しい。
こんなふうに抱きしめてもらえていることが。
私だけを見てくれていることが。
私のために怒って、私のためにここにいてくれていることが。
『さーちゃん……』
『うん?』
『私、変じゃない?』
『え?』
『こんなに泣いて、困らせて……重いって思わない?』
さーちゃんは少し驚いたように瞬きをして、それからすぐ、困ったように笑った。
『思わないよ』
『ほんとに?』
『ほんとに。むしろ、もっと頼ってくれていいのにって思うくらい』
息が止まりそうになった。
だめ。
そんなこと、簡単に言わないで。
期待してしまう。
本当に、全部預けてしまいたくなる。
『……ずるい』
『え、なんで』
『だって、私がほしい言葉、すぐ言うから』
『明華?』
顔を上げる勇気がなくて、私は胸元に額を押しつけたまま、小さく笑った。
『なんでもない……』
でも、腕には少しだけ力が入ってしまった。
このままずっと、こうしていたい。
ううん。
こうしていたいだけじゃ足りない。
この先もずっと、そばにいてほしい。
誰にも邪魔されずに。
誰にも奪われずに。
私が泣いたら抱きしめて、私が苦しかったら撫でてくれて、私だけを見てくれる。
そんな未来がほしい。
私はさーちゃんを抱きしめる腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
さーちゃんは気づいていないのか、気づいても何も言わないのか、ただ静かに背中を撫でてくれる。
……ごめんね、さーちゃん。
でも、もうたぶん、引き返せない。
『ご飯、作るね』
少し落ち着いたあと、私はそう言った。
『え、いいよ。今日は私も手伝う』
『ううん。今日は私がやりたいの』
『でも』
『……何かしてないと、たぶん落ち着けないから』
そう言うと、さーちゃんは一瞬だけ黙って、それからやさしく頷いた。
『そっか。じゃあ、無理しないでね』
『うん』
キッチンに立ちながら、私は何度も深呼吸した。
手を動かしている間だけは、胸の中の熱を少し誤魔化せる気がした。
今日は、本当にいろいろあった。
きっと、さーちゃんも疲れている。
私のために怒って、私のために走って、私のためにこうしてここにいてくれる。
それが嬉しくて、苦しい。
食事のあいだも、私は何度もさーちゃんの顔を見た。
『おいしい?』
『おいしいよ』
『ほんとに?』
『ほんとに。明華、料理上手だね』
『……よかった』
ほっとしたように笑うと、さーちゃんも少し笑った。
その笑顔を見るたびに、胸の奥が甘く痺れる。
『さーちゃん』
『ん?』
『今日、帰る?』
できるだけ何でもないふうに聞いたつもりだった。
でも、自分でもわかるくらい声が細かった。
さーちゃんは少し考えるように視線を伏せてから、言った。
『明華が不安なら、今日はいるよ』
『……ほんと?』
『うん。こんな日のあとに、一人にはできないし』
その一言が嬉しくてたまらないのに、同時に足りないとも思ってしまう。
今日はいる。
じゃあ、明日は。
明後日は。
その先は。
『朝まで?』
『うん』
『……そっか』
また笑えた気がした。
でも、その笑顔の下で、別の感情がゆっくり形を持ち始めていた。
夜。
静かな部屋の中、すぐ近くにさーちゃんの気配がある。
『さーちゃん、起きてる?』
『うん』
返事があるだけで、胸がきゅっとなる。
『今日ね』
『うん』
『すごく、怖かった』
『……うん』
『恥ずかしくて、苦しくて、消えたくなるみたいだった』
言葉にすると、本当に少しだけ震えた。
演技だけじゃなくて、そこにある痛みの一部は確かに本物だったから。
さーちゃんは静かに私の話を聞いてくれた。
『でもね』
『うん』
『さーちゃんが怒ってくれたとき、すごく嬉しかった』
少しの沈黙。
それから、さーちゃんが小さく息を吐く気配がした。
『……そっか』
『私のために、あんなふうに怒ってくれたの、初めて見たから』
『明華が泣いてたからだよ』
『それでも、嬉しかった』
暗がりの中で、私はそっとさーちゃんの袖を掴んだ。
『ねえ、さーちゃん』
『なに?』
『私が行かないでって言ったら、いてくれる?』
少しだけ間があいた。
『今日は、いるよ』
やっぱり、その答えだった。
今日。
今日だけ。
今だけ。
それじゃ足りない。
そんなことを思ってしまった自分に、もう笑うしかなかった。
『……そっか』
『明華?』
『ううん。なんでもない』
ほんとうは、なんでもなくなんかなかった。
さーちゃんはやさしい。
だから、今の私を放っておけないだけ。
でも、きっと朝になれば帰ろうとする。
また、いつもの距離に戻ってしまう。
今日みたいに私だけを見てくれる時間は、終わってしまう。
それが、たまらなく嫌だった。
ようやく手に入れたと思った。
ようやく、私のことだけで心を揺らしてくれたと思った。
なのに、それをまた「幼馴染だから」で片づけられてしまうなんて。
嫌だ。
帰したくない。
このままずっと、そばにいてほしい。
私だけを見ていてほしい。
その願いは、夜が更けるほどに輪郭を濃くしていった。
怖くないわけじゃない。
罪悪感がないわけでもない。
それでも、それ以上に強い気持ちがある。
失いたくない。
ただ、それだけだった。
次に意識がはっきりしたとき、静かな部屋の中で私はしばらくさーちゃんの寝顔を見つめていた。
無防備で、穏やかで、何も知らない顔。
……かわいい。
昔から、ずっとかわいかった。
小さい頃、私が転んで泣いていたときも、さーちゃんは真っ先に手を差し伸べてくれた。
風邪をひいたときも、心配そうな顔で何度も様子を見にきてくれた。
寂しいときは、いつだってそばにいてくれた。
ずっと、ずっと。
さーちゃんは私にやさしかった。
だから好きになった。
気づいたときにはもう、ただの幼馴染じゃ足りなくなっていた。
『……ねえ、さーちゃん』
返事はない。
それでも構わず、私は小さく続けた。
『さーちゃんは、私のこと、どう思ってるの?』
大切な幼馴染。
放っておけない相手。
たぶん、それは本当だ。
でも、私がほしいのは、それだけじゃない。
『もし、いつか……私以外の誰かを選んだら?』
その想像だけで、胸がひどく冷える。
『もし、私の知らない誰かと恋をして、その人にこんなふうに笑ったら?』
嫌だ。
そんな未来、いらない。
私はそっと手を伸ばして、さーちゃんの頬に触れた。
あたたかい。
生きていて、ここにいて、ちゃんと私の届く場所にいる。
『……大丈夫だよ』
囁いた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
『もう、何も心配しなくていいから』
たぶん、これはさーちゃんに向けた言葉で、同時に自分に言い聞かせる言葉でもあった。
この先どうなるのかなんて、わからない。
怒られるかもしれない。泣かせるかもしれない。
軽蔑されるかもしれない。
それでも。
手放すよりは、ずっといい。
さーちゃんが私のそばからいなくなるくらいなら。
私の知らない誰かのものになるくらいなら。
嫌われても、怖がられても、それでもまだ、そばにいてくれる可能性のほうを選びたかった。
最低だってわかっている。
醜いって知っている。
でも、もう止まれない。
『ごめんね、さーちゃん』
そっと指先で頬を撫でる。
『でも、私……もう、離してあげられない』
それは告白みたいで、懺悔みたいで、祈りみたいな声だった。
静かな空気の中で、私はしばらくその横顔を見つめていた。
胸の奥にあるのは幸福感だけじゃない。
罪悪感も、不安も、怖さも、ちゃんとある。
それでも最後に残るのは、やっぱりひとつだけだった。
好き。
大好き。
誰にも渡したくない。
ずっと、一緒にいたい。
幼馴染じゃ足りない。
親友でも足りない。
もっと深く、もっと近く、あなたの全部が欲しい。
あなたが怒ってもいい。
怯えてもいい。
それでも最後に私を見てくれるなら、それでいい。
私はさーちゃんの唇にキスをした。
そしてさーちゃんを抱き上げ、用意していたトランクケースに入れた。
カツラとハイヒールを履き、かるく変装をして、父が所有している別荘へと向かった。
別荘の地下には、普段ほとんど使われていない部屋がある。
そこなら、誰にも邪魔されずに過ごせる。
誰にも見つからずに、二人きりでいられる。
私は、その部屋にさーちゃんを連れていった。
扉を閉め、鍵をかける。
これで、準備は終わり。
あとは、さーちゃんが目を覚ますのを待つだけだ。
だから、どこにも行かないで。
私だけのさーちゃんでいて。
ずっとずっと、一緒にいようね。
明華にとってはハッピーエンド。
智理にとっては今はバッドエンドですが、なんだかんだでビターエンドまで行けると思います。
読んでいただきありがとうございました。
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