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水たまり

作者: Aju
掲載日:2026/08/08

「ね? 水たまりに映る線香花火ってきれいでしょ」


 そんなふうに言って彼女がはしゃいでいたのは、大学の3年生の時だったっけ。

 今ではもう名前も思い出せない。


 就活は上手くいかず、とにかく親を納得させなければと何も考えずに選んだ今の会社は、かなりブラックな職場環境だった。

 残業は当たり前と考えている昭和感覚の()()は「頑張っているフリ」をするのが得意な50代後半の猿みたいな顔をした男で、俺たち()()は毎日それに付き合わされて夜遅くまで残っている。

 帰ればくたくたで、1人でゲームをやる気にもならない。


 このままこんな会社にいていいものだろうか。

 そう思う時もあるけれど、じゃあ何がやりたいのか? と言われれば、答えは見つからない。



 電車を降りると、夜の10時過ぎだというのに外はむっとするほど暑い。

 今夜も熱帯夜か……と思いながらアパートへの道を歩く。アスファルトが歪んで見えるのは暑さのせいだろうか?

 あと少し、あと少し……と引きずるように運んでいた足をふと止めたのは、道の真ん中に水たまりがあったからだった。


 雨が降ったのかな? と思ったが、あたりはカラカラに乾いていて、雨なんか降った形跡はない。

 よく見るとアスファルトの路面が少しへこんで、そこに水が溜まっているようだった。


「水たまりに映る線香花火ってきれいでしょ」

 そんな彼女の言葉が頭のどこかで響く。

 声は覚えているのに、名前と顔が思い出せない。


 水たまりの水は透明で、すぐ近くの街路灯の光を映していた。

 俺は特に何という考えもなく水たまりを避けて足を運び、そのままアパートまで帰った。


 ネクタイをむしり取るようにして部屋着に着替え、他に何もせずにベッドにダイブする。

 その日はそのまま意識を失ったようだった。



 翌日もまた帰りの電車は9時台だった。駅に着けば10時をまわる。

 今夜も暑い。

 毎日、夕飯がコンビニのおにぎりでは体に悪いな——と思う。

「あんた、ちゃんと食べてるの?」という母親の声が聞こえたような気がした。

 今年は実家に帰ってみるか……。とそう思ったら、故郷の町の風景が鮮明に頭に浮かんで急に懐かしくなった。でも、お盆まではまだ日がある。

 足を引きずるようにしてアパートへの道をたどっていると、やっぱり水たまりがあった。

 俺はそれを避けてアパートに向かって歩き出してから、ふと立ち止まった。


 こんな近かったっけ?


 いや、それ以上に、この暑さでなぜあの水たまりは蒸発しないんだろう?

 水道管に亀裂でも入ってるのかな?


 その日はそれ以上特に考えることもなく、俺は部屋でいつも通りベッドに倒れ込んだ。

 疲れているんだ……。



 翌日はいつも通り残業のあと、部長にビヤガーデンに誘われた。他の先輩が「いいっすね」などと言っているのに、新人(3年経ってまだ新人なんだ)の俺が「行きません」というわけにもいかない。

 疲れにアルコールが入って電車で眠りこけてしまい、危うく駅を乗り過ごすところだった。


 なんでこのクソ暑い夜に、体が火照るアルコールなんか飲みたがる?

 声には出さずに頭の中でだけ愚痴りながら、アパートを目指してふらついた足で歩く。


 アパートの階段の前で俺は足を止めた。

 水たまりだ。


 階段の登り口の手前のコンクリートが少しへこんでいるように見えて、そこに水がたまっていた。

 アパートの廊下のしらじらとした照明器具が、水面に映り込んでいる。


 そういえば、途中の道路の水たまりは無くなっていたな……


 水たまりが移動している?

 はは……まさかな。


 俺はアルコールで痺れた頭に浮かんだばかばかしい考えを追いやって、水たまりを避けて鉄骨階段を上った。

 そのまま後ろは振り返らずに、外廊下を歩いて自分の部屋の玄関の前まで行き鍵穴に鍵を差し込む。

 鍵の開く音が、ひどく大きく響いたような気がした。



 翌朝は飲んだせいか寝坊した。

 大慌てで支度して玄関を飛び出し、アパートの鉄骨階段をカンカンと駆け降りる。

 駅に着いていつもの電車に間に合ってから、そういえば水たまり無かったな……と階段下の景色を思い出した。

 そりゃそうだ、これだけ暑いんだもの。夜のうちに蒸発しただろう。


 おかしいと思ったのは、その日の帰りだった。

 アパートの鉄骨階段の3段目と4段目が濡れていたのだ。濡れていたというより水たまりになっていたのだ。

 単に表面張力というだけでなく、心なしか鉄の段板がへこんでそこに水がたまっているように見えた。

 何の判じものだ? これは……。


 なぜかそれを踏んではいけないような気がした俺は、手すりにつかまって2段を大きくまたいで上った。

 上りきったところで振り返ってみると、水たまりは上弦の月を映していた。



 その翌日、水たまりは階段の上の方の2段にあった。

 俺はそれを踏まないようにまたいで上って考える。明らかにおかしい。

 まるで水たまりが階段を上っているようだ。


 誰かのいたずらだろうか? 何のために?

 他に誰かが踏んだ跡がないということは、俺が帰ってくる直前に水を撒いたということになる。

 それはもしかすると俺が帰ってくる時間を狙って、俺に向けて仕掛けられているってことかもしれない。


 誰が?

 何のために?


 同じアパートにそんないたずらをするような知り合いなど思いあたらない。そもそも誰が住んでるのかもよく知らないのだ。


 朝になると階段は乾いてしまっていた。

 いったい何だったんだろう? と、俺は胸につっかえたようなものを覚えながら会社に向かう。


 その日会社から帰ると水たまりは2階の外廊下にあった。

 階段から俺の部屋までの中間くらいの場所だ。……水たまりが俺の部屋に近づいている?

 誰のいたずらだろう?

 水たまりは廊下の天井照明を映していた。

 直径にして70センチくらいの大きさで、やはりそこだけ廊下のコンクリートが少しへこんでいるようにも見える。


 それは朝には乾いてしまっていた。

 少し注意深く見てみたが、廊下のどこにもコンクリートがへこんだようなところは見当たらなかった。水の屈折による錯覚だったのかもしれない。


 会社の先輩に相談してみようかと思ったが、なんだか鼻で笑われそうな気がしてやめた。

 だいたい、なんて言うのだ?

 水たまりが部屋に近づいてくる?

 馬鹿にされるだけだろう。


 その日の夜。水たまりは俺の部屋の玄関の前にあった。

 心臓の鼓動が跳ね上がる。


 俺は踏まないようにそうっとドアを開けて部屋の中に体をすべり込ませた。バタンとドアを閉め、鍵をしっかりかけたことを確認してベッドに潜り込む。部屋の明かりは点けたままにした。

 時々ベッドから首を伸ばして玄関の方を見てみるが、特に変わったことはない。インターホンが鳴ったりもしない。

「へっ」と俺は自分の妄想を笑ってやった。


 寝苦しい夜だった。エアコンはつけてあるのに蒸し暑い。

 アパートの備え付けのエアコンは旧型だしな——と合理的な考え方を頭に呼び込んで変な考えが頭に浮かばないようにしようとする。


 明かりを点けたままだったせいか、その夜はあまりよく眠れなかった。

 何度か夢うつつで寝返りをうっている中で、俺はあの声を思い出していた。


 ——水たまりに映る線香花火ってきれいでしょ——


 彼女とはなんで別れたんだっけ?

 いや……別れたのか?


 顔も名前も思い出せない……



 体が重いまま朝を迎え、歯を磨いてスーツに着替えると、それでも現実がしっかりと戻ってきた。

 今日は見積もりを仕上げて取引先に持っていかなければならない。


 そうっと玄関ドアを開けると、その外の廊下は濡れてもいなかった。朝日の中でいつものアパートの風景があるだけだ。

 俺は水たまりのことは忘れて、仕事のことに頭を切り替える。

 上手くいけば大口の契約になる案件なのだ。


 その日は珍しく残業が少なく(というより部長が早く帰ったので)定時ではないが、まだ少し空に残照があるうちに会社を出ることができた。

 契約も無事に終了したし、明日は休みだ。

 駅前の弁当屋さんがまだ開いていたので、夕食を買ってアパートに向かう。


 しかし、アパートが近づくにつれて俺の胸の内に言いようのない不安が頭をもたげてくるのを抑えられなくなった。

 もし、あの水たまりが……


 しかしそんな俺の不安も、アパートの階段を上がりきるときれいさっぱり消えてくれた。

 ここまでの道すじのどこにも水たまりは無かった。

 やっぱり誰かのいたずらだったんだな。今日は俺の帰りが早くて間に合わなかったんだろう。


 俺は片方の口角だけを少し上げて、玄関ドアの鍵穴に鍵を差し込んだ。

「?」

 鍵が開いている。


 俺、朝閉め忘れたか?

 鍵を差し込んだまま足元を見ると、ドアの下から少しだけ水がしみ出ていた。


 ドアを、開けたものかどうか……




       了



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― 新着の感想 ―
おぉ……これは正体をみせない「怖さ」ですね。 陰湿な想像が掻き立てますが、語り手はリアルに疲れてしまって幻覚をみているのかも?って思ってしまってもいる。だからこそ「分からない」という怖さ。うまいです…
わーΣ(・□・;) ここに書いていいんでしょうか。 ラストが、ラストが、いいですよね? 逆転の発想で。 手前で終わらずに、すでにインルームなのが面白いと思ったんです!! あー、上手く表現出来てないかも…
 読ませていただきましたぁ。  『俺に仕掛けられたものなのか?』というところ、確かにいつも自分が見ている時にあるとそう思ってしまっても仕方ないかも(;^ω^)  じわっと忍び寄ってくる恐怖ってやつ…
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