Have a nice day,
もしもあの時、あなたの手を取っていたら――
今頃、私はどんな人生を歩いていたのだろう。
そんなことを、ふと思うことがある。
ある日、海外から一枚のハガキが届いた。
「おや、珍しい……」
眼鏡をかけ直してよく見ると、真っ青の空と光り輝く海辺に浮かぶヨットの写真。
そこには丁寧な筆致で、
「 Have a nice day 」
と書かれていた。
送り主は、女学生だった私たちに英語を教えてくれていた外国人の先生。
先生といっても、歳はそう変わらなかった。
金色のやわらかい髪に青い瞳、背が高くて――。
彼の話す英語は、まるで音楽のように心地よかった。
自分の国の豊かな自然や、穏やかな人々のこと。
楽しそうに語るその姿に、私はいつしか、異国への憧れを抱くようになっていた。
いつか私も、あの海の向こうへ行ってみたい。
そう思っていた。
まあそれは、結局、は叶わぬ夢のままで終わったけれど。
――あの頃。
外国人はまだ珍しく、
人々の視線や偏見にさらされることも多かった。
それでも彼は、いつも真っ直ぐで優しかった。
私も必死に英語を勉強した。
そのおかげか、少しずつ距離が縮まり――
放課後、みんなが帰ったあと、
教室で二人きりで話をするようになった。
私はその時間を心待ちにしていた。
時には、おはじきをポケットに忍ばせて見せてみたり。
彼が目を丸くして驚き、
子どものように目を輝かせるのを見るのが、好きだった。
たまに、こっそりおにぎりを握って持っていったこともある。
どんな反応をされるか心配だったけれど。
彼は一口食べると、
「So good!」
「コンナニ オイシイ 、ハジメテ タベマシタ」
と、英語と拙い日本語を交ぜて嬉しそうに言った。
お互い流暢に話せたわけではない。
それでも――言葉以上に伝わるものが、確かにあった気がする。
二人だけにしか分からない、二人だけの温かい時間。
けれどそんな私たちは、
外を一緒に歩く事もできなかった。
無論、手を繋ぐことさえ許されなかった。
もし異性と二人きりのところを周りの人、親に見られでもしたら。
しかもその相手が異国の外国人ときたら――。
それこそ勘当ものだっただろう。
そんな折、彼は突然、帰国することになった、と報告してきた。
世界情勢のせいあっただろう。
でも深掘りして問い詰めることはしなかった。
そして、彼は別れ際、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「イツカ イッショニ、ボクノ クニ キマセンカ」
たどたどしい日本語だった。
胸がいっぱいになった。
本当は、すぐにでも行きたいと思った。
けれど――。
行けなかった。
親が許さなかった。
時代が許さなかった。
その頃、私はすでに
親同士が決めた婚約者と結婚することが決まっていた。
それが“当たり前”の時代だった。
女は結婚し、家を守るもの。
誰も疑わなかった。
私もまた、それを宿命のように受け止めていた。
――それから。
半世紀以上が過ぎた。
今では、昨日の夕飯すら思い出せないことがある。
スーパーで何を買いに来たのか忘れたり。
孫の名前を言い間違えては笑われる。
それでも――。
あなたと過ごした、あの時間だけは、
一度も忘れたことがない。
あの日の教室に差し込む柔らかな光。
あなたのきらきらした笑顔。
そして、あの美しい瞳の色――。
この人生も、決して悪くなかった。
たくさん泣いて、
たくさん笑って、
それなりに幸せだったから。
あなたの言った「イツカ」は、
もう来ないのかもしれない。
けれど私は、
あなたがどこかで、幸せに暮らしている。
と信じている。
今夜、静かに目を閉じよう。
夢の中でなら、
きっとまたあなたに会える気がするから。
そのときは――
どうか一緒におにぎりを食べて、
手を繋いで、
お花畑をゆっくり歩きましょう。




