第7話 先輩!現実に帰還しました!
<エクスペリエンス・リンク、解除。ダイブから帰還確認。主観視野:安定>
視界が動転する。
そこは、現実の世界だった。
フローリングの部屋、壁の時計のカチコチと言う針の音。
薄いベッドの上で、蛇室正司はゆっくりと目覚めた。
まばたきの度に、世界が鮮明になる。
「……ああ……」
気が付けば、肥大した世界観は萎んで、正常に頭上に戻っていた。
「……俺は……」
「おはようございます。蛇室くん」
蛇室の視線が、ベッドの横を見る。そこには、青年が屈んでいた。
「貴方は……」
「葦原です」
葦原が、そっと微笑んで頭を下げた。
「夢見てました……彼女が……」
探るように、蛇室が言葉を零す。葦原が、うなずいた。
「はい。貴方の世界観の中に、<視えなかった記憶>が残ってました」
ゆっくりと、葦原が語り始める。
「でも、貴方自身、最後にはちゃんと《《視ようとした》》……だから世界観が正常に戻ったんですよ」
蛇室の目尻から、じわりと涙が潤む。
「怖かった。あの時、目を逸らした自分を、ずっと責めてた。彼女の顔を、最後まで視なかったことが、俺の一生の罪だと思ってた……」
書類をめくりながら、建早が淡々と言葉を添える。
「だが……その罪を直視した時、前に進めた。認知の暴走は収まり、世界観は安定している。経過観察の必要にあるが、お前はもう《《視ることができる》》」
蛇室は、ふっと天井を見上げた。
「視界がある……」
溜まった涙が、零れて落ちた。
「視界があるって、こんなにも……怖くて、あったかいものなんですね……」
葦原は、柔和な表情でうなずいた。
「それが人の《《視る》》ってやつなんだと思います。綺麗な部分も、苦しい部分も、全部視るからこそ、生きていられる」
蛇室はしばらく沈黙していたが、ややあって、絞り出すように言った。
「……ありがとう……」
涙が次々に零れて行く。
「本当にありがとうございました……」
「こちらこそ。世界観が正常に戻って、嬉しいです」
葦原は、涙ぐみながら、鼻の下を擦った。建早が、書類を閉じて言った。
「これで治療完了だ。だが、<視えた記憶>を受け入れて、どう生きるか。これからが本番だ。それを忘れずにな」
建早の言葉に、蛇室はこっくりとうなずいた。
葦原と建早の二人は、蛇室の自宅を後にした。時刻は夕間暮れに差し掛かっていた。
事務所に帰るために車に乗る。今度は、建早が運転すると申し出てくれた。
車が出発し、静かなエンジン音が、暮れなずんでいく街の中を走っていく。夕餉の香りがして、遠くで人の騒めきが聞こえた。
車内には、ラジオも音楽もかかっていない。
ただ、静かだった。
助手席の葦原は、窓の外を歩いている道々の人々をぼんやりと眺めていた。
歩道を行く人たちの頭の上には、無数の<世界観>が浮かんでいる。
炎のように揺れる者。羽のように広がるもの。透明な水槽のような者。
ただ、黒い球体が浮かんでいるだけの者。その全てが、その人だけの心の形だった。葦原は思った。
(人は、一人一人独自の世界観を持っている)
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