第6話 シキヤシキ(2)
「見て見て、ヒイロ! この犬のロボット、超かわいい!」
「この花は造花なのに、こんなにみずみずしいんだね。何だか親近感が湧くよ」
マコトとヒイロは、施設内のあらゆるオブジェクトに興味を示し騒いでいた。特にマコトは機械に、ヒイロは植物に惹かれる傾向があるようだ。
「こんなにたくさんの機械がいるのは初めて見たよ」
「だから、キミは一体いつの時代からタイムスリップしてきたの?」
機械にも興味を示したヒイロはここでも常識の無さを発揮する。AIロボットがまるで人間のように生活に溶け込むなど、現代ではごく当たり前のことだ。
「主にここにある機械は叶苗と叶芽の『作品』で、植物はわたしとわたしのお母さんの。コシキや研究員たちも活気付くし、研究の成果が普段から目に見えるって良いよね」
「なるほど……」
施設内にはシキではない人々が忙しそうに往来し、小さなコシキたちもあちこちを駆け回っている。研究員たちは机を囲んで白熱した議論を交わしたり、ずらりと並んだ扉に慌ただしく駆け込んだりしていた。
マコトが天草研究所にいたときは、こんな風に賑やかではなかった。研究員たちは表面上は好意的に接してくれていたが、その仮面の裏ではいくつもの策略や恐怖が渦巻いていた。
あれとは全く違う、シキヤシキの人々は皆、そう───
「楽しそうでしょ?」
花奏が言った。自らの環境に誇りを持っているようだった。
「うん……すごく」
「良かった」
花奏は満面の笑みを浮かべた。
「あ……あの人、大丈夫かな」
ふと、施設を観察していたヒイロが何か気になるものを見つけたらしい。
彼が指差す方向には、分厚い書類を運ぼうとしてその場で動けなくなっている、腰の曲がった男性がいた。よく見ると、足を引きずっている。
「あら……橘さん、大丈夫?」
ヒイロが駆け寄るより先に男性に寄り添ったのは、何度も見た顔、おそらくシキの一人だった。シキヤシキに来て、三人目である。
しかし、マコトにとってはそれは重要ではなかった。
古びた白衣姿、引きずった足、そして女性のシキが呼んだ名前。それらはマコトの深い記憶を抉った。
「…………っ!」
「あ、マコト……」
マコトは気付けば彼らに背を向けて走り出していた。ヒイロが呼び止めるが、決して振り返らない。ありもしない心臓が強く鼓動し、流れるはずのない冷や汗が首筋を伝う気さえする。
どうして、どうしてあの人がここにいるんだ!
●
「……」
シキ兄弟の一人、叶苗は走り去ったからくりを横目で見送った。
橘の腕から落ちそうになる書類を持ち替え、彼の身体を支えながら起き上がらせる。
「橘さん、まだおじいちゃんなんて年じゃないのに。立てる?」
「こ、こら、叶苗。橘さんは足が悪いんだから」
「あ……花奏姉さん。いたんだ」
共に橘を支える花奏。存在すら見逃されていたことにショックを受けている。
「ところで姉さん、今、からくりが走って行っちゃったけど」
「からくり? マリアのこと?」
「ううん。男の子のからくり。マコトって呼ばれてた」
「マコトくんが? ……本当だ、いなくなってる、追いかけないと! っていうかマコトくん、からくりだったの!?」
「待って、姉さん」
駆け足でからくりを追おうとする花奏を制する。
「な、なに?」
「私が行くから。姉さんは橘さんのことと、こっちの彼岸花の相手をしてあげてよ」
「…………」
植物学者である彼女なら、初めから気付いていたはずだ。叶苗は、花奏が新たなサンプルを欲していることも知っていた。
「姉さん、大好きでしょ? 彼岸花」
●
「……いた。マコト」
「!」
建物を飛び出したものの、どこへ行けば良いのか分からずに影で丸くなっていたマコトを見つけたのは、シキの一人である女性だ。
「君、何を見て逃げたの? 花奏姉さんにそっくりな私にびっくりした? それとも……」
花奏とは違った、落ち着いて暗い雰囲気のある話し声でマコトは壁際まで追い詰められる。逃がさないぞ、という意思をひしひしと感じ、その場から動けそうにない。
「ぼ、僕は、その……」
「…………橘さん。彼はここにいる研究員の中では年長の方で、私の部下なんだけど」
「……!」
その名前を聞いた途端、マコトは目を見開いて反応する。この話題がマコトにとって大きな意味を持つことが彼女に知られてしまう、と表情を取り繕おうとするが、一足遅かった。
「このシキヤシキに研究員として所属できるのは、五つの研究の責任者が能力を認めた人間だけ。橘さんは、ある功績を認められてここに来た。それが──」
「待って!」
マコトは、この先自分にとって恐ろしいことを言われるのではないかと怯えていた。
──自分を庇う一人の研究員と口論になる研究員たち。自分に書き込まれたコードを必死になって紐解こうとする開発チームのメンバー。研究所を去ろうとする背中に向けられた銃口。
それらの記憶が脳裏にしつこく浮かび上がる。
「……まあ、何でも良いけど。別に、君に何かしようってわけじゃないよ。私はただ、君に協力してほしいだけ」
●
「ほい。気を付けてね、橘さん。もうお年……ではないけど、これ以上身体を悪くしたらいけないからね」
花奏は丁寧な動作で橘を個室のベッドに腰掛けさせた。まるで介護される老人のように、橘は虚ろな目で虚空を見つめている。これでは当分仕事に手がつかなさそうだ。
「元々あまり調子が良くなさそうだったけど、最近は特に酷いね……。っと、ごめんね、ヒイロくん。手伝ってくれてありがとう。橘さんは無事送り届けたし、ちょっとだけわたしの用事に移ってもいいかな?」
「もちろん大丈夫だよ。お邪魔なら、俺はマコトを探しに行くけど」
「ううん、全然いいの! むしろ一緒に来てくれると助かるし……」
花奏は研究員の棟を離れ、自分の研究室へと向かう。ヒイロもその後を真っ直ぐに着いて歩く。
こうして見ると、なるほど彼は彼岸花だ。花奏にはひと目で分かった。身体のつくりは人間と遜色ないものだが、その純白の髪と瞳はあまりにも特徴的だ。
彼岸花とは人間の血肉を求める化物として主に知られているものだが、ヒイロにそんな様子はなく、多少一般常識が欠如している少年と言ったほうが良いだろう。
もちろん、そこに鍵があると花奏は見ている。ただの花から生まれた彼岸花がいきなり人間の社会に放り出されれば、知識や能力など生物としてのあり方の違いが浮き彫りになるだろう。花奏はその隙を窺っていた。ヒイロが彼岸花ではない万が一の可能性も考えなければならないからだ。
共にやって来たマコトとの関係も気になっていた。よく人間と彼岸花が隣にいられるものだと思ったが、彼がからくりとなると話は別だ。機械に詳しい叶苗だからこそ見抜けたのだろう。
シキヤシキにもからくりは存在するが、マコトほど人間に似せられたものは初めて見る。量産型ではないことは確かだ。一が絡んでいるのならその技術にも頷けるが、マコトは一体何の目的で作られたのだろうか。
「からくりについてだったら、叶芽か叶苗に任せておけば良いか……」
「さっきから何を呟いているの? 花奏さん。疲れているのかな」
その声で、現実に引き戻される。考えに耽りすぎて、ヒイロの存在を忘れていた。
「ああ、ごめんね。寂しかった?」
「いや、学者なのだから仕方ないことだと思うよ。ただ、疲労が限界に達する前にきちんと休んで欲しい。父も、それで倒れたことがあるんだ」
「……ヒイロくん、お父さんがいるの?」
心配してくれたことはありがたいが、それよりも興味を引くことが彼の口から発せられた。しかし、花奏の問いにヒイロは一瞬だけきょとんとしてから恥ずかしそうに言った。
「あれ……無意識に言っていたみたいだ。忘れて欲しいよ」
忘れられるはずはない。植物から生まれた生命体である彼岸花に父がいるなどあり得ないからだ。
ヒイロには記憶がないとは聞いているが、今の言葉が無意識なのだとしたら、彼の塞がれた記憶の中に彼岸花の秘密が隠されているかもしれない。その憶測は研究者としての心をくすぐった。
そうしているうちに、目的の場所が見えてくる。人通りがほとんどなくなり、騒がしかった辺りが静かになる。普段はメインの研究室にいるため花奏自身もあまり立ち寄らない場所だ。
「着いたよ、ここがわたしの個人研究室。散らかってるけどごめんねー」
「構わないよ、お邪魔します」
ヒイロは律儀に扉の前で礼をしてから足を踏み入れた。
室内は薄暗く、道具があちこちに散乱している。片付けを怠っていたせいだ。何かを踏むのを警戒してか、ヒイロはその場から動こうとはしない。
「あ、こっちこっち。今電気を点けるから、こっちに来て」
花奏の研究室のさらに隣の部屋。案内したのは、特別な研究をするための──即ち、彼岸花のための部屋だ。
彼岸花について、シキヤシキが一連の研究を通して得られた情報は決して多くはなかった。なぜなら対象が不足しているからである。
彼岸花が人々の前に姿を見せたのは五年前、それが最初で最後だった。
その頃は花奏の母親が植物科学研究の責任者を努めており、花奏は他の研究員やコシキたちと共に母親の手伝いをしていたので、花奏が母親から引き継いで彼岸花の研究に着手し始めたのは最近のことだった。
しかしその研究も行き詰まっていた。シキヤシキには、新たな対象が必要だったのだ。
「……? この部屋……」
ヒイロは案内された通りに硬い扉の向こうへと入り込む。決して疑うことなく。
「……ごめんね、ヒイロくん」
ヒイロは違和感に気付いたようだが、それは意味をなさない。断熱加工が施された扉は重々しい音を立てて無慈悲に閉じられる。
ヒイロが入った部屋は、この部屋よりも極めて気温が低く設定されている。
なぜかというと、研究で得られた彼岸花の性質の一つ、それは『寒さに弱い』ということだからだ。
彼岸花は、人間の体温と同等の温度を保てないとその形を保てないのだ。
五年前に現れた彼岸花は、周囲の人間を数人襲った後に、突如訪れた寒波によって運良く活動を停止したという記録がある。後の研究により、一つの仮説は証明された。即ち、彼岸花の動きを止めるには気温の低い空間に閉じ込めてしまえば良い、ということだ。
ヒイロのいる部屋の気温は今もなお下がり続けている。ヒイロは今、崩れ落ちる自らの身体を震わせて悶えているだろうか。それとも、それに抗うべく扉を蹴破ろうとしているだろうか。
したくもないことを想像してしまう。考えるな、あれはただの植物だ。人間の見た目を模倣し、人間の言葉を話し、人間と同じ感情を持つだけの──ただの植物。
しかし……そのような特徴を持ちながら、それが人間ではないとどうして断言できる?
母親がコシキをつくったときも、幼い花奏はそれが分からなかった。他人に言われるまで、コシキたちを本当の兄弟だと思っていたくらいだ。
言葉を話せば人間、涙を流せば人間。からくりや彼岸花、コシキの存在が、そういった前提を否定しているように思う。そうなのだとしたら、一体何をもって私たちは自分を人間だと証明できるのだろう。機械が、植物が自分の考えを持っていては駄目だと、一体誰が決めたのだろう……
そこまで考えて、花奏は思考を振り払った。答えのない問いに割く時間はない。探し求めたとしても、個人の思考ひとつで答えが出せるわけがないのだ。