第40話 長兄
叶苗は耳を疑った。この女性は今、天草社を崩すと言ったのだ。
果たしてそんなことが可能なのか?
天草社とはからくりを開発する研究所だけではなく、絶大な人気と支持を誇る一大企業でもある。数十年前から存在する熾鬼家との因縁のように、極めて私的な理由で人を殺めることができる腐った組織……とは誰も思わないだろう。
叶苗は、その因縁の理由を知らない。ただシキヤシキの創設者が、天草社から『遺物』を持って逃げたということしか。その『遺物』が何なのかさえも知らなかった。
問題は、その『遺物』が天草社にとって重要なものであるということ、それを盗んだ熾鬼椰樹は、天草社の闇は一人では解決できない事態だと踏んだ、ということだろう。
それを、この彼岸花が何とかしてみせる、と言う。
「…………何を根拠にあなたを信じれば良いの?」
信じられるわけがない。そう思っていても、叶苗の心は僅かに傾いていた。
天草社の闇を暴き、その力が削がれれば。これまで脅かされてきた熾鬼の一族は、死と隣り合わせの日常に怯えることもなく、堂々と地上を歩けるようになるかもしれない。
怯え隠れなくても良い場所を作る、それは過去に犠牲になった家族への弔いになるだろうか。
「私の弟を見たでしょう? 人間を簡単に制圧できるだけの力が、私たちにはある。厄介なのはからくりと、あそこの中枢を担う機構。それは私たちだけではどうにもならないから、あなたたちにやってもらおうというわけ。得意なんでしょう? そういうの」
自信のある言いようだが、彼岸花を見たというマコトたちの話を聞く限り、確かに彼らの生物としての強さは申し分ない。数年前から噂だけが囁かれている状態だったのが、噂という絵本の中からそのまま出てきたかのような存在だ。
そんな彼岸花にも天敵はいる。叶苗は地上のことには詳しくはないが、地上の治安を守っているのが特殊からくり率いる組織だったはずだ。この特殊からくりは一般的に流通しているからくりとは強さや性能の面で一線を画すらしく、彼岸花を凌駕できる潜在能力を秘めている。
それを抑える技量がこちら側にあったとしたら、彼女たちは本当に天草社を引きずり下ろすことができるのだろうか。
もしそうなら。これから先は、熾鬼椰樹の血を引く呪われた一族とは呼ばせない。本物の太陽の下で地を踏む光景が、叶苗にはひどく魅力的に思えた。
「…………やっぱり、駄目。私一人では決められない……」
しかし現実はそう簡単にはいかない。
彼岸花と手を組むなんて、叶苗の一存では決めることが出来ない。そんなことをしてしまえばシキヤシキの研究員たちから信用を無くしてしまうかもしれないし、花奏にも迷惑をかけてしまうかもしれない。
それにこの取引の要である『彼岸花の欠片』が、今は手元にないのだ。これでは取引にすらならない。
「花奏姉さんがいればな…………」
叶苗は自身の力不足を嘆く。花奏と奏羽は地上に出て行き、叶芽は夢遊の影響で眠っている。頼れるのはもう誰も────
「おや……私を忘れてしまったのかい?」
穏やかな口調の、男性の声。叶苗の肩に軽く手がかかる。
その声の主が誰かは即座に分かった。ただ、ここにいることがすぐには信じられなかった。
「……あら。あなたも花春?」
彼岸花の女性はその顔を見て、驚いて言う。
白衣を着た男は叶苗の前へ出てきて、首を横に振った。
「いいや。私は華向だよ」
振り向いたその人物の顔は、まるで鏡を見ているような感覚を覚える。ただし叶苗よりも背が高く、顔つきもやや異なる別人だ。
彼こそシキヤシキに存命している五人の兄弟の長兄、熾鬼華向だった。
「…………兄さん!」
「面と向かって話すのは久しぶりだね、叶苗。元気だったかい?」
自分がここにいるのは当たり前だとでも言うような堂々とした態度の華向とは対照的に、叶苗はぎこちなく頷くことしかできない。
熾鬼華向は、熾鬼家の現・長男。年齢は確か二十八歳で、両親は既におらず、兄弟もいない。叶苗にとって血縁上従兄に当たる。
花奏が植物学を、叶苗が機械学を専門としているように、彼も何らかの分野について独自の研究を行っているはずだが、叶苗はその内容については詳しく知らない。なぜなら、華向は普段から自室に閉じ籠っているからである。
叶苗が妹である叶蔦を失って少ししてから、華向も両親を失った。それ以来、彼は自室に籠ったきり、ほとんど姿を見せなくなってしまった。
叶苗には叶芽という弟の存在に支えられてきた部分があるが、華向は弱みを吐き出せる相手がいなかったのだろう。誰とでもすぐに打ち解けられるような性格の花奏とも違い、元々社交的な性格ではなかったのかもしれない。
それが、今こうして姿を現してくれた。それも彼岸花という脅威を前にして。
「人に名前を聞くなら、まずはそちらが名乗るのが先だと思うけどね。綺麗なお嬢さん」
華向は変わらず穏やかな口調で、女性に問う。
「……緋雨よ」
女性はしぶしぶ名乗った。
彼女もヒイロのように、個人としての名前を持っている。それをどこで手に入れたのかを問いただしたいところだが、ここは余計な口を挟まない方が良いだろう。
「兄さん、どうしてここに? 出て来ても大丈夫なの?」
叶苗はかつて彼が心に負ったであろう傷のことを心配していた。しかしそんな心配とは裏腹に華向は飄々としており、柔和な笑みを浮かべながら答えた。
「可愛い妹が困っているようだったからね。それに、噂の彼岸花とも会ってみたかったし」
「気を付けてね、兄さん。彼岸花には人を惑わす力があるかもしれないから……」
華向は彼岸花に興味があったようだ。叶苗は彼岸花の恐ろしさを知っているため、彼を少しだけ遠ざけて忠告する。すると緋雨の表情が曇った。どうやら彼岸花と呼ばれるのが嫌いなようだ。
「……その呼び方、やめてくれる? 折角名前を教えてあげたんだから」
「おっと、すまない。それじゃあ緋雨さん。今回の件についてだけど、残念ながら『欠片』はここにはないんだ。しばらく時間を置くか、君に直接取りに行ってもらうしかない。……ただし人員の方は手配しよう。シキヤシキにいる、天草の元研究員は数人しかいないが良いかい? 君たちが安全を保障してくれるなら、そちらへ同行させても構わないよ」
華向は最早この取引を承認するか否か、ではなく、受けることを前提とした具体的な手法を提案した。流れる水の如く出てくる言葉の数々に、彼は短い間にそこまでの思考を巡らせていたことを知る。
「同行は必要ありません。あなたたちは待ってるだけで良いわ。問題は『欠片』ね…………ここにないなら、一体どこにあるって言うの?」
「私のもう一人の妹がそれを持って地上に出た。どうやら入れ違いになってしまったみたいだね。いちおう聞くけど、『欠片』を求める理由は?」
「あなたには関係ないでしょう。黙って協力しなさい。どの道、それしかないんだから」
緋雨は背を向ける。
彼女の提示した取引の内容とは、簡単に言えば『彼岸花の欠片』と『天草研究所の元研究員』を手に入れる代わりに、シキヤシキの未来を保証するというものだ。
どうしてそこまでしてくれるのかは分からないが、天草社を潰してくれるのならそれに勝る喜びはない。
緋雨は華向たちがこの取引を拒否できないと思っているのだろう。それは正しかった。少なくとも叶苗は、これを拒否すれば問答無用で殺される、そう思っていた。
シキヤシキには選択の余地はない、分かっていても、華向は余裕のある笑みを浮かべて言った。
「それはどうかな。君には私を殺せないよ」
緋雨はぴたりと動きを止めた。
「……何ですって?」
「思うに、君がここに来たのは君だけの意思ではないんだろう? そうでなければ、私たちの欲求を的確に突いた提案を出来るわけがないからね」
僅かな動作から、緋雨が動揺するのが分かった。
それでも、叶苗には華向が何を言っているのか理解できない。彼がなぜそのように余裕を持っていられるのかも。
「何が言いたいの?」
「協力関係を結ぶことができて嬉しいよ、というだけだ。……それから、あの人によろしくね」
華向は緋雨の背に、にこやかに手を振った。
最後の言葉は、華向が意図的に声量を抑えたのか、叶苗には聞き取れなかった。
しかしそれを聞いた緋雨は一瞬の動揺のあと、すぐに踵を返して部屋を出て行ってしまった。
「……何を言ったの、兄さん?」
「別に、大したことじゃない。円滑な協力関係のための軽い激励さ」
大したことではない、ようにはあまり見えなかった。
だが、彼岸花という突然の脅威の訪問に、ここまで適切な対応を取ってくれたことには感謝しなければならない。それに叶苗は華向がまだ部屋に閉じ籠り気味になる前から、彼のことを兄としてよく慕っていたことを思い出し、口を出すのはおこがましいと感じてしまった。
「ヒイロ以外の彼岸花、初めて見た。……それより兄さん、そのまま行かせてよかったの? もしもシキヤシキの場所がどこかに知られたら……!」
叶苗の心配は別にもあった。
そもそも、緋雨はどうやってシキヤシキの場所を知ったのか。それに華向が言っていた通り、シキヤシキが望むものを明確に知っているようだった。
この場所は、本来誰にも知られてはならない場所。それが天草社にでも漏れたら、すぐにでも押し入られて全員殺されてしまうかもしれない。
緋雨は姿を隠せる謎の力を使ってここへ入ってきたわけだが、彼女がこの場所を隠さない理由はどこにもない。取引が成立したからと言って、彼女が人間を嫌っているのは変わらないのだから。
しかし華向は、そんな心配は杞憂だとでも言うように、余裕を崩さなかった。むしろ、どこか楽しそうな様子さえ見て取れる。
「彼女には誠意があった。心配はいらないよ、叶苗。この先……もっと面白いことになる」
幼い頃の頼れる兄とは変わっていない。そのはずだが、彼が内に秘めているものはまだ他にもあるような気がしてならなかった。
●
「…………はぁ。あいつの言う通りにしたけど、一体どういうことなの、花春……?」
シキヤシキを後にした緋雨は足を止めて呟いた。
待っていたのは朱兎。今回は言うことを聞いて大人しく待っていたことを褒めるべきかもしれないが、緋雨にそんな余裕はなかった。
「お、戻ッたな緋雨……今、花春っつったか?」
「シキヤシキ……熾鬼、ね。ああもう、訳が分からないわ! 行くわよ馬鹿!」
緋雨はこの状況に目眩がし、最低限必要な情報以外何の説明もしなかった『駄目男』への腹いせに、朱兎の足を蹴った。
「あァ!? なンだよ急に、喧嘩か?」
案の定朱兎はご立腹のようだが、それを気にする余裕もない。
考え込む緋雨に喧嘩を売っても無駄だと思ったのか、それとも元々の気分屋な性格が影響してか、朱兎はすぐに気を取り直して蹴られた部分の泥を払った。
「そうだ、そんでアイツはいたのかよ?」
「丁度入れ違いだったそうよ。朱兎、あなた探しに行きなさい」
「は? ヤだけど。何で俺があんなヤツのために」
「…………」
譲らない姉弟の睨み合いは、数分間に渡って続いた。




