第3話 追手
しばらくは元気がなかったマコトを、一は慰めてくれた。
マコトの話を聞いたヒイロは自分も何かを話さなければと思ったらしいが、やはりまだ思い出せないらしかった。
自分が今どんな顔をしているか確かめようとマグカップを持ち上げる。残った紅茶を覗き込むも、その前にあまりの赤色に圧倒されてしまった。心理状態とは真逆の色だったからだろうか。
「赤はいいよなあ」
一が言った。うっとりとした表情で紅茶を眺めている。
「何といってもこの美しさだ。いつ見ても心に潤いが、彩りが宿る……」
色に対して心酔する人など初めて見た。彼が社会に馴染めないと言った理由が分かった気がした。
「色で思い出したけど、あのローブはなんで白いの? 普通、森の中を移動するなら迷彩柄とかなんじゃ?」
「あれは彼岸花のカモフラージュだ。白いと結構分かりにくいんだぜ」
その説明では何がどう分かりにくいのか理解が困難だったが、彼がそれでいいのならとひとまず納得することにした。安直に考えるなら、彼岸花の一番の特徴である白い髪にカモフラージュしている、というところだろう。迷彩の方が動きやすいのは間違いないことだとは思うが。
他にも、なぜ銃を持っていたのかとか、どうやって生活しているのかと質問すると、一は快く回答をくれた。
一はその多芸多才な能力を活かしてこの森で完全自給自足の生活を送っているという。銃は獲物を狩るためや彼岸花から身を守るために扱っているのだそうだ。彼岸花に銃は効くのかと言うと、「撃ったことがないから分からない」という返答が返ってきた。彼岸花が出るから危険だと説教しておきながら、結局自分は遭遇したことがないじゃないか、と文句をぶつけた。
それも、彼岸花は五年前から姿を現していないので当たり前のことなのだが。
「はじめんは彼岸花とからくりの味方なんだよね」
ヒイロがそんなことを言った。確かに一はそう言っていた気もする。
一は両腕をさすった。
「坊主に呼ばれると鳥肌もんだ。さっきのは忘れてくれ」
はじめん呼びを断られたのがショックだったのか、ヒイロは露骨にしょんぼりして見せた。
「なら、一さん。一つだけ教えてほしいことがあるんだけど」
「おう、なんだ」
気に障る呼び名が消えたからか、一は素直に反応した。
ヒイロは、ただこれが聞きたかったという風に言った。
「彼岸花とは、なに?」
それも当然だった。ヒイロはマコトや一に散々彼岸花だと言われていたが、その知識がないうえ本人はそのように思っていないのだ。目覚めて突然わけの分からない呼称をされては、疑問に思うのも当たり前だ。
「マコトから聞いてないのか」
ヒイロはこくりと頷く。マコトは、彼に彼岸花についての話は昔話程度のものしかしていなかったことを思い出した。
「人間になりたかった名無しの花が、その血を求めて人間を襲う化け物になった、という話しか」
「そうか……。そうだな、これ、持っとけ」
一は軽く考え込むと、リビングの奥に鎮座する棚に歩いていき、ガラス張りの戸を開いた。中には古い段ボールや比較的綺麗な小瓶、がらくたのような機械部品が入っている。一つの段ボールの中から何かを吟味し、手のひらに収まる大きさの何かを取り出した。そしてそれをヒイロに放り投げた。
「これは……?」
「お守りみたいなもんだ。今俺にできることはこれくらいだな」
それはお守りというより、ボールのようなものだった。玉入れの玉の柔らかな質感とも、野球ボールのごつごつとした感触とも違う、見たことのない真っ赤な小球。ヒイロはそれを両手で握りしめている。
一見ただのおもちゃのボールにも見えるそれは、ヒイロの彼岸花とは何かという問いに対して答える気がないようだった。
「お守り? それが何の役に立つの? 彼岸花についてそこまで知らないからって、ごまかそうとしてるとか?」
マコトがからかうように言っても、一は真剣な顔つきのままだった。
一は立ち上がったまま、玄関の方を見ながら言った。
「そんなんじゃねえよ。大事なお客の訪問ってところなんだ」
客とは一体どういうことか。ここが普通の住宅地であれば雑誌や荷物などが届くのは日常なのだろうが、ここは立入禁止の森の中だ。マコトのように事情がない限り人が足を踏み入れることはないし、一が郵便のサービス等を利用するような人物ではないことは明らかだ。
「客? 一さんの?」
「いや、お前のだぞ」
マコトは自分宛てに何かが送られる覚えはないし、友人と呼べるものもいない。即ち、今現在マコトに用がある人物、もしくは組織と言えば、一つしかなかった。
背筋に悪寒が走った。胃がすくむような感覚。
あの監獄のような日々に逆戻りすることを想像しただけで、頭がくらくらした。
玄関の戸を叩く音がした。数秒置きに、その力は強いものに変わっていく。しまいには、がちゃがちゃとこじ開けるような音に変わった。
「俺が出る。お前らは裏口から逃げろ」
「逃げろって、一さんは?」
「俺は研究所とは何の関わりもない人間だ。禁制区域に家を建てたってところでは、お叱りがあるかもしれねえが」
そこはマコトにとっても意味不明で謎な部分だ。人間が苦手と言ったって、何も禁制区域にまで手を出す必要はないのに。
いやいや、考えるべきところはそこじゃない。逃げ出したマコトを招き入れて、その上庇うようなことになれば、一の身がどうなるのか分かったものじゃない。何より出会ったばかりの彼にとってそこまでする義理はないのだ。その優しさに甘えるしかない自分に腹が立つ。
「いいか、マコト。お前は町から逃げてきたばかりなんだろうが、一旦戻るんだ。そして今から俺が言う名前のやつのところに行け」
一はその名前を二人に告げてから、銃を片手に音を殺して扉に近づいた。
二人にはどうすることも出来なかった。ヒイロは一が指した方向の裏口に向かうが、マコトは動けずにいた。
「はじめんは俺たちの味方だよ」
味方。その存在がどれほど心強くて悲しいものなのか、マコトは生まれて初めて知った気がした。
「なに、ちょっくら話して追い出すだけだからよ。早く行ってくれないと、俺の平穏な生活がどんどん遠ざかっていっちまうんだぜ?」
●
扉が開くとそこには十人ほどの、全身を武装した集団が立っていた。おそらく研究所からのマコトの追手だろう。もしも彼岸花と遭遇してしまったときの被害を減らすための装備なのだと考えられる。
リーダー格と思われる一人が一の前に歩み寄った。
「この付近で、からくりを見かけなかったか。大人しく情報を渡せば……」
「違法建築については見逃してやる、ってか?」
名乗りもせずに人の家に押しかけようとは良い度胸だ。
社会不適合者がどこに住んでいようが関係ないだろう。そういった考えを持たれていることは予想できる。勝手に獣やら彼岸花やらでくたばっていれば良い、と思われているだろうとも。
研究所の人間は逃げたからくりを血眼になって探している。政府ならともかく、立入禁止などという規則は二の次だ。
「そうだ。白を切るようなら相応の処罰が待っているぞ」
「一般人相手に容赦ないねぇ。まあ、そこが唯一の取柄なんだったか?」
一はくつくつと笑った。
言っている意味が分からないという様子で、一を除く全員が首を傾げた。
一の前に立つ男は苛立った様子で、小銃を構えて一の肩に押し当てた。
「いいからさっさと……」
否──、もう一人存在した。凛とした佇まいの、さりとて消え入りそうなほど気配を消した何かが。
ふう、と妖艶な息遣いがその場にいる者の理性を掻き乱す。
(これは──)
一は咄嗟に口元を腕で覆った。武装集団はその空気と一の様子に戸惑いを見せたが、その効力は一瞬にして現れた。
集団は一から最も遠い場所にいる者から順に、ドミノ倒しのようにバタバタと倒れていった。
「なん……だ……」
最後の一人が、一の方へと手を伸ばしながら倒れた。そして一の視界に現れたのは、真っ赤な人の形をした何か。
美しい女性だった。深紅の長い髪、ルビーのような瞳、花柄の着物に身を包んだ妖美な美女。男を惑わすような恥じらいを含んだ視線と艶のある唇が印象的で、白く細い指先は日を遮っている和傘の柄を支えていた。
一はその特徴に見覚えがあった。
「……よお。また来てくれたんだな、ヒサメちゃん」
ヒサメは名前を呼ばれ、不機嫌な表情に変わった。
「ちゃんは不要です。死にたいの?」
「物騒なこと言うなよ。せっかく可愛いのが台無しだぜ?」
言われ慣れていないのか、ヒサメは顔を赤らめた。和傘で表情を隠しているのも、絵になるほど美しい。
「そ……そう言って良いのは、お母様とお父様だけです。へらへらしていられるのも今の内なのよ」
「そうかい。この人たちは大丈夫なのか? ぐっすりだけど」
二人は、地面に倒れたまま動かない武装集団に目を向ける。ヒサメは見下しながら、興味がないという風に言った。
「ふん……死にはしません」
妖しげな雰囲気を纏った霧が晴れる。それと同時に、ヒサメの髪と瞳の色は抜け落ちて、絹のような白い色へと変化していった。そのさまもまた美しい。
「赤の方が良かったのになあ」
「人の話を聞いていなかったの?」
ヒサメはさらに不機嫌そうな表情になったが、溜息をついてから身体をゆらりと動かす。倒れた武装集団の上を縫うように踊るように、一歩ずつ一に近づいて行く。さながら風に吹かれて舞う花弁のように。
「それで……答えは出たのかしら?」
「……」
一は、逃がした二人のことが気になっていた。別の追手に見つかってはいないだろうか、迷わず森から出ることが出来ただろうか。
二人の味方だ、などと言っておきながら、これからする選択は二人を苦しませてしまうかもしれない。後で追いつく、なんてありがちなセリフを言わなくて良かった。
「せっかく助けてもらったとこ悪いけどさ、俺はあいつらの心配をしなくちゃならない……」
ヒサメの瞳が紅くぎらりと輝いた。その威圧感に、全身がびりびりと押しつぶされそうになる。冷汗が頬を伝った。
ここから事態がどう転ぶかは、一にも予想がつかなかった。
(丹に、秀呂……か)
ヒサメの顔が近づく。一は反射的に瞼を閉じた。
彼岸花は、人間の手には負えない。一にはそれが分かっていた。手に握っていた銃が滑り落ちる。
からくりと彼岸花。不思議な巡り合いであろう二人の顔を瞼の裏に浮かべた。
●
「はあ、はあ……」
息を切らしていたのはマコトだった。無駄にこういうところで人間味が出てしまうのはマコトとしても少しだけ嬉しくはあるのだが、今はそう言っている場合ではなかった。
というのも、マコトの身体は機械でできているにも関わらず、過度な運動をしていると認識されると自らの意思に関係なく力が出せなくなってしまうのだ。
「待って、ヒイロ……」
ヒイロは呼吸一つ乱さず、マコトの一歩先を常に走っていた。普通なら、どんな生き物であろうと運動をすると疲れが出るものだ。しかしヒイロにはそんな様子はない。
「あ……ごめん。マコトは疲れたの?」
ヒイロは呼び声に応じてぴたりと止まり、肩で息をするマコトに近寄る。
「逆に、キミはなんで何ともなさそうな感じなの……?」
「……なぜだろう。俺が彼岸花だって言われたことと、関係があるのかな?」
「僕にも分かんないよ。彼岸花は体力が無限にあるとか、聞いたことないし」
聞いたことがなくとも、そういった生態を持つ可能性はあるが、マコトには把握しかねることだ。
「……」
二人の間に沈黙が流れる。おそらく、考えていることは同じだった。
「一さん、大丈夫かな……」
流れに身を任せて走り出してしまったものの、安全なところまで来てからそれを後悔するなど、虫のいい話だ。マコトは自分の無力さに、身体が言うことを聞かなくなるのを感じていた。