第12話 赤い友達
「……うぅ…………ん」
屋内の、金属で囲まれた無機質な部屋の硬い床……最後の記憶はそこだったのだが、頬に伝わる感触は冷たい金属などではなく、ふかふかの毛布──
「……はっ」
未来は目を覚ました。がばりと身体を起こすが、貧血でめまいがしたあとに再度身体は柔らかいものへとダイブした。
まだ頭がふらふらとしているが、ゆっくりと手と首を動かして確認する。今しがた自分が倒れ込んだ先、即ち頭の下にある物体はなにか──
もち、という感触が伝わってくる。あたたかい。
「……」
真上から、呆れる溜め息のようなものが聞こえる。おそらく女性だ。そしてすぐには状況がつかめなかったが、はたと気付く。この柔らかいものは声の主の膝の上だった、ということだ。
ふかふかのソファに座っている誰か、の上に頭を乗せている自分。覚えのない状況に困惑する。
「あれ? あれ? だ、だれ?」
その混乱を見た膝枕の主は、我が子を見る母親のように、もしくは幼い兄弟の面倒を見る姉のようにふっと笑う。
と同時に、女性は我に返ったように口元を抑えて赤面し、その膝上に乗った未来の頭を雑に押しのけた。
「わわっ」
未来はそのまま起き上がり、横になっていたソファの上に座る体勢になる。目の前に見えるはずのない星が舞った。
「あの、ここはどこ? あなたは誰なの……?」
恐る恐る尋ねる。
未来がいたのは見覚えのない部屋だった。住んでいた屋敷の部屋ほど広くはなく、現代では珍しい木目の壁床で包まれた空間に、同じく木の材質のテーブルと、白いソファがある。未来はそのソファで眠っていたようだ。
部屋の中は淡いオレンジ色の証明で照らされていて、入口と思しき扉とテーブルを挟んで反対側にはキッチンもある。一般的に言ってここはリビングというやつだろう。
しかし、部屋の奥の壁際に配置する灰色の棚は薄汚れていて、透明なガラス戸の中には金属のおもちゃのようなものがごちゃごちゃと収納されている。
さらに壁をよく見ると奇妙な生き物の彫像や鞣した皮が飾られている。この部屋の主はどういった趣味を持っているのだろうか。
主がこの女性であるのなら、それこそ信じ難いものなのだが。
立ち上がった女性は、同性でも見惚れてしまうほどの妖艶な魅力を放っていた。
まず目につくのは、彼女の身にまとう衣服だろう。こちらも現代では珍しい花柄の着物を身に着け、赤く彩る衣服は彼女の魅力をさらに引き立てている。ファッションとして着物を好む人もいるそうだが、彼女もその類なのだろうか。
年齢は十代から二十代を跨いだほどに見える。腰まである真っ白な髪はまるで絹のようで、同色の瞳から放たれる鋭い眼光にひとたび射止められてしまえば、目が離せなくなる。
頭髪の色とは逆に血の通った頬は僅かに紅潮していた。その柔らかな唇が動き出す。
「私は緋雨。ここは……社会から逃げ続けた哀れな駄目男の巣ってところね」
「だめお……?」
緋雨は虫を見るような目で、未来が座るソファの後ろに位置する扉を見つめた。誰かがその扉の奥にいるらしい。
しかしその姿を晒す気は緋雨にもその人物にもないらしく、扉の向こうからは物音一つせずに、緋雨の目線もすぐに外される。
「さあ、あなたの名前を教えなさい。……呼び名がないと不便なだけよ」
決して相手のことが知りたいわけではありません、あなたには興味はありません、という意志を込めているのだろう。こうして対話に応じてくれるあたり、少なからず寂しい気分にはなるが。
「私、未来っていうの。緋雨ちゃん、よろしくね」
「……そこは普通、『さん』でしょう。まあいいわ……聞きたいことがあれば言いなさい。後で騒がれても困るし、最低限答えてあげる」
緋雨は呆れながら言った。言動こそ無愛想だが、その根底には優しさがあるようにも見える。現に話の通じる相手であるようだし、未来にとっても好都合だった。
緋雨は最低限と言ったが、未来には知りたいことが山のようにある。
「ええと、なら、ここはどこなの?」
「さっきも言ったでしょう。なんてことないただの一軒家よ」
「そうじゃなくて、私、お家にいたはずだもの。どうして今、知らない人のお家にいるのかしら」
ここに来る前、未来は、丹波製薬の支社長である叔父に禁じられていたのにもかかわらず、支社にある研究施設に忍び込んでいた。愛しの『花』に会うために──
「……そうだ。おハナちゃん、どこ?」
「は? おハナちゃん……?」
緋雨は首を傾げた。彼女にとっては聞いたことのない言葉だろう。
「私、おハナちゃんのおともだちなの。おハナちゃん、どこにいるの?」
「そんなことを言われても、その『おハナちゃん』が誰なのか私には分からないわ。あなたのお友達なのだったら諦めなさい、これからあなたの自由は制限させてもらうから」
期待とは裏腹の回答が彼女の口から飛び出し、未来は落胆する。自由を制限される、という点ではなく、友達に会えなくなる、そのことが未来から望みを奪い取った。
自由がないのはいつものことだった。
未来は幼い頃から身体が弱かったのでそもそも動ける範囲が限られていたし、それでも父の気遣いで何不自由ない暮らしを送れていた。
さりとてそれは屋敷の中での話だ。未来は一度も外に出たことがなかった。故に、常にどこか息苦しさが付き纏っていた。父のことを思えばこのままでも良い、十分恵まれている、と自分を納得させていた。
しかし、未来は出会ってしまったのだ。この身を捧げても良いと思えるほどの運命に。
あるとき突然に、父に転居を言い渡された。そこには支社長に叔父を任命した支社と、未来のために建てたという屋敷があった。都会の空気よりも、町のはずれの澄んだ空気を吸って欲しいと。父はそう言った。
未来はさも喜んでいるかのように返事をした。その後に父への別れの抱擁も。
しかし未来は、心底幻滅してしまった。遠い場所に一人娘を追いやる父には、愛情はなかったのだと。
一つの会社の社長である父が、その頃は忙しそうにしていることは知っていた。それでも未来はずっと、利口な娘として父に接してきたつもりだ。
それも無駄だったのだ。愛はない。居場所もない。
転居した先では、父は無駄な財力をはたいてだだっ広い屋敷と、使用人としてのからくりを用意していた。本物のお嬢様というわけでもないのに。と、未来はそれを上辺だけの愛情だと捉えてしまった。黙々と仕事をこなし続けるからくりにも、新たな保護者となった叔父にも、心を閉ざし続けた。
父の元を離れて数週間、ようやく生活にも慣れ、新たな環境に対応できるようになり体調も安定してきた頃。未来は叔父にこんなことを聞いた。
『こんな静かな場所で、お父様の会社は何を研究しているの?』
叔父は答えた。
『とても珍しい植物が手に入ったんだ。それを研究して、みんなの役に立てるんだよ』
危ないから決して近づいてはいけないと釘を刺された。普段なら大人しく従うところだが、体調が良く浮かれていた未来は、つい好奇心から覗き見てしまった。
それはひと目にして未来の心を鷲掴みにした。誰もいない、何も無い空間で、歩みを進めるたびに引力が増していくような感覚を覚えた。そしてそれに触れた瞬間、未来は感じ取った。
────寂しい。
痛い、苦しい、悲しい。
収まりきらない感情の波が未来の中に広がった。
『……私……私もよ。私、寂しいの』
言葉を話すことなんてないはずなのに、不思議とそれが伝えたいことが未来には分かった。
その日から、それは未来にとってなくてはならない『友達』になった。
「……そんな顔をするのはやめなさい。こっちまで気が滅入ってしまうでしょう」
物思いにふけっていた未来を現実に呼び戻したのは、緋雨の声だった。未来はぱっと顔を上げて彼女の方を見る。
不機嫌にさせてしまっただろうか、と思ったがそうでもない。むしろどちらかというと、先程から三回は見たであろう、憐れむような目をしている。
「ご、ごめんなさい」
「心配するなとは言わないけれど。私たちが目的を無事果たせたら、あなたはちゃんと解放する予定よ。そのお友達のことを考えるのは一旦やめなさい」
緋雨の目的とは何なのか分からないが、彼女は未来に危害を加えるつもりはないように見える。
「ここがどこか、どうしてあなたがここにいるか、だったわね。禁制区域は知ってる? ここはそう呼ばれているらしいわ、知らないけど。私があなたをここに連れてきたのよ」
目的については、説明する気がないらしい。未来は不満を抱くことはなく、彼女の話を飲み込んだ。
連れ去られた、という認識は薄っすらとあったのだ。貧血で倒れた未来はその辺りの記憶が曖昧だが、全身に感じる夜風と、遠のいていく叔父の未来を呼ぶ声が聞こえていた。
その行き先が禁制区域だもいうのには少し驚いたが。一体何が待っているのか。未来は恐怖などよりも、むしろ興奮していた。
外に出るのはこれで二回目だった。初めては転居のための移動の際なので、特に何事もなく終わったのだが、今回は違った。
何せ、知らない誰かに連れ去られるなど、一生に一度経験できる方が貴重だろう。自由のなかった未来にとっては強い刺激だった。
「そうなのね。なら、私、緋雨ちゃんのために頑張るわ。そして早くお家に帰してもらうのよ」
緋雨に協力すれば、あの屋敷に戻れる。今回のことはもちろん刺激的で、帰るべき家には自由はない。だが、未来にとってはそれよりも重要なことがあそこにはある。
「待っててね、おハナちゃん」
未来は握りこぶしを固めて自信を鼓舞する。その様子を見た緋雨は不思議なものを見るように言った。
「あなた、なんていうか……天然ちゃんなの? 普通、自分を拉致した相手を前にしてそんなに落ち着けるわけないわよ」
今度は未来がきょとんと首を傾げる。
「だって、緋雨ちゃん、私が起きるまでお膝枕をひていてくれたでしょう? だったら悪いひとじゃないわ、きっと」
「う、うるさいわね。あなたはまだ子供だから……大人になったら人間は、みんな醜くなるのよ……」
僅かに顔を赤らめて緋雨は言うが、すぐに元の仏頂面に戻り、そこには人間に対する憎悪、嫌悪が全面に押し出されているようにも見える。
「ふん……勘違いしないことね。あなたはただ私たちが利用するだけ。変な行動を起こしたら、その血、全部吸い取ってあげる」
「……!」
緋雨の脅すような笑みに、覚えのある感覚が重なった。
「もしかして、おハナちゃんと同じ……?」
「……またおハナちゃん? 私と同じって、どんな子なのよ」
聞かれて、未来は考え込む。
『おハナちゃん』と呼んではいるが、実際性別があるのかも分かっていない。どんな声なのか、どんな話し方なのかも知らない。ただなんとなく『こんな内容の事を話している』という認識しか、未来の中ではなかったのだ。しかも叔父を含め他人にはその言葉は届いていないらしかった。
「おハナちゃんはおハナちゃんなのよ。私のたった一人のおともだち」
「そう、まあいいわよ。興味ないわ」
要領を得ない回答に、緋雨は興味を失ったようだ。未来に背を向けて、入口と思しき扉へ歩みを進める。
「あ、どこに行くの、緋雨ちゃん」
「用事です。何をしていてもいいけれど、この家から出たら許さないわよ。ああ、それから」
ガチャリ、という音とともに、緋雨は出て行こうとした。最後に念を押すように、首を捻ってこちらを振り向く。
「そこの部屋は入っちゃ駄目よ。絶対にね」
『ぜっ』と『たい』の間に小さい『つ』が何個も入っていた。余程大事なものがあるに違いない。
バタン、と扉が閉じられる。そこにあの美女の姿はない。
未来は緋雨が指さした部屋の方に目を向けた。そこは先程も彼女が見つめていたものだった。
「だめおさんが、寝てるのかな……」
物音一つしない扉の向こうの人物のことを考えながら、未来はソファの上で足をぱたぱたと揺らした。何をしても良いと言われたが、知らない家で一体何をすれば良いものか。
「……」
秒を刻んで針を動かす時計をしばらく眺めながら、そこには無の時間が過ぎる。
時計の長針が六十度ほど動いたとき。
ぐぅ、と。
腹の方から、情けない音が発せられた。
「…………冷蔵庫に、プリンあるかしら」
まだ見ぬ甘味を求めて、未来は浮足立ってキッチンのほうへと向かった。




