私は真実の愛を見た、と令嬢は言った
ほぼ全編シリアス。お楽しみいただければ幸いです。
――私は真実の愛を見た。
反論する者もいるだろう、否定する者もいるだろう。
けれど私は確かにその行動に。
真実の、愛を見た。
◆
「はじめまして。ガーネット」
「はじめまして、ですわ。ラディスさま」
10年前のパーティで、私は生まれる前から婚約者として内定していたガーネット・トリンクロウと出会った。
これから一生を共にする少女との対面。
あの、手に汗が滲んだ緊張は今でも覚えている。
目の前の少女は、可憐という言葉がそのまま人間になったような愛らしい存在だったからだ。
一生懸命、普段のようにあろうと装ったけれど。
大人たちの目には、緊張しているのが丸わかりだったらしい。
とはいえ、所詮は8歳と7歳の子供。
打ち解けるのは早かったし、互いの性格にも好感が持てた。
婚約者という意識は薄く、仲の良い友達という間柄であったが。
「これがね、『月光蛾の毒』っていうんだ」
「げっこーがのどく……?」
当時の私は何を考えていたのか、自分が興味のあるものならば彼女も興味があるだろう、と毒物の本まで見せていた。
彼女が辛抱強くついてきてくれたのは、救いだった。
「これをのむと、ピカピカするんだって」
「ピカピカすると、どうなりますの?」
「どくだから……しぬみたい?」
「そうなんですの……」
「こわくない?」
「いいえ、ぜんぜん。ラディスさまが、まもってくださるのでしょう?」
「うん。まもるよ、ぜったいに」
――そんな約束をした。
幼い頃だから許される、無敵のように夢見る約束を。
月日は流れ、私は立太子した。婚約者も変わらず、ガーネット・トリンクロウ。
けれど、何もかも変わらなかった訳ではない。
それは、たとえば私の立ち位置、在り方。
たとえば、ガーネットとの関係。
たとえば――この国の、行く末。
◆
王城のホールに重苦しい沈黙が満ちた。
その中心にいる人間は、繰り返しゆっくりとその言葉を告げる。
「もう一度言う。謝罪して欲しいんだよ。ガーネット」
ひどく苦しそうな声。申し訳なさそうに、だけど震えたりはしなかった。
平民、下級貴族たちに絶大な人気を誇るラディス・ゼフィリア王太子。
翠緑の瞳は穏やかさと鋭さを併せ持ち、柔らかな金の髪は芸術品のよう。左手には赤いクッキリとした刺青のような紋様が刻まれている。
王家の人間にのみ現出、偽造は不可能とされる『王家紋』だ。
今世に残された、数少ない奇跡の一つである。
その立ち居振る舞いは、まさにこの千年を誇るゼフィリア王国の王太子に相応しい威容だといえよう。
けれど、外見だけでは人気たり得ない。
分断しがちな下級貴族と上級貴族の繋ぎを行い、平民登用も積極的に行い、農民のために治水や灌漑の最新技術の導入も行っていた。
まだ18歳にもかかわらず、である。
上級貴族の間では、平民や下級貴族と親しく交流する彼を揶揄する声も多い。
そんな彼の後ろ盾となっているのは、伝統ある三大公爵家の一角トリンクロウ。そして、公爵の長女こそがガーネット・トリンクロウ。
つまり、王太子が謝罪を要求している相手であった。
「まあ。まあ、まあ、まあ」
宝石の名にふさわしく、絢爛な衣装に身を包んだ少女は広げた扇で口元を隠した。上級貴族の洗練された所作は、見る者の目を奪った。
「わたくしが、どなたに、謝らねばいけないのでしょう?」
ガーネットがそう言うと、ラディスは彼らを取り巻いている貴族たちの集団に顔を向けた。
「出てきていいよ。ルナリス・バーマイマー男爵令嬢」
「はい」
その集団から分け入って出てきたのは、一人の令嬢だった。
ドレスはかろうじて及第点、ともいえる質素なもの。宝石は胸に輝くサファイアのみ。
銀の髪は目立つが、見る者が見たならば彼女の姿勢に感嘆しただろう。
ルナリスという少女は、凛とした姿勢で佇んでいた。
だが、彼女の貧しさが溢れた格好に周囲の上位貴族たちからは失笑が漏れる。
「彼女に謝って欲しい」
ルナリスは沈黙を守っている。ニヤニヤと笑う一部の上位貴族たちは、彼女を王太子の愛人とでも考えたようだった。
「……どうして謝らなくてはいけないのか。理由をお聞かせ願いませんか?」
「君は――彼女の、筆箱を壊しただろう?」
その言葉に、ホールを再び沈黙が支配し――
やがて、誰からともなく忍び笑いが漏れ出した。
ガーネットは扇で口元を隠しているが、笑っているのは誰にでも分かる。彼女がそうやって笑うこと自体、珍しいことだった。
「まあ! 筆箱を壊したから、でございますか!」
「そうだよ。物を壊したら、謝るべきだろう?」
「ふ、ふふ。そうですわね。壊したら謝るべきですわね」
「私は、何かおかしいことを言ったかい?」
「いいえ、全然! でも、反論させていただいてよろしいでしょうか?」
ぴっ、と扇を閉じたガーネットが自身の婚約者を見据えた。
「一つ目。わたくしが何故、そちらの令嬢の……ええと、どちら様だったかしら?」
「ルナリス・バーマイマー。バーマイマー男爵の娘でございます。ガーネット様」
ルナリスは自分の名を告げると、堅苦しい仕草でカーテシーをした。
その様子を見て、ガーネットは小馬鹿にしたように顔を歪ませる。
「ええ、そうね。ルナリスさんね。ラディス様。わたくしは、なぜ彼女の筆箱を破壊したのでしょう?」
「ルナリスがそう言ったから、だけではもちろんないよ。教室に残っていた生徒たちから証言を得ている」
「それはどのような証言かしら?」
「君と取り巻き複数人がFクラスに乱入し、ルナリスを取り囲んで罵倒を繰り返した後、君が筆箱を床に叩きつけた……という証言だが」
「そうですか。では、こんなこともあろうかと。こちらも証言を用意させていただきました」
「……何だって?」
ラディスの顔が驚きに満ちる。
無表情を保っていたルナリスも僅かに眉を寄せた。
「F組の教師、マサドゥール先生から……『ガーネット・トリンクロウとその取り巻きが教室を訪れた事実はない』だそうですよ」
ラディスがさっと教職員の集団から、マサドゥールを睨んだ。
彼は素知らぬ顔で、横を向いている。
「二つ目。その動機は何でございましょう。わたくし、そんなことを行う必要性がこれっぽっちもありませんわ。名前すら知りませんでしたもの」
「名前を知らない、というのはないだろう。ルナリスは私と同じ生徒会に所属しているんだから。学年でも上位の成績を修めている」
「まあ……わたくしは首席なので、上位程度では覚えていられませんわ。まして、下位貴族ですもの」
「……そうか。君はそういう人間だったね」
ラディスの挑発的な言葉にも、ガーネットは全く揺らがない。貴族の笑みを浮かべて首肯した。
「ええ、もちろんですとも。さあ、それよりも動機を。まさか嫉妬などとは仰いませんよね?」
「……嫉妬以外には、考えられない。あまり信じたくはなかったが」
「うふふふふ。なるほど。わたくしがルナリスさんとラディス様が仲睦まじいことを知って、嫉妬したと!」
「私は彼女と交友関係にあるが、恋愛感情を抱いたことはないよ」
上位貴族たちから、失笑が漏れる。
わざわざ、男爵令嬢を担ぎ出しておいて恋愛感情がないとは!
「もしかしたら男としての情欲だけかもしれませんな」
「王太子もお盛んでいらっしゃる」
わざとらしいひそひそとした声が、ラディスの耳に届いた。
その嘲りを無視しつつ、ラディスはガーネットを見据える。
ガーネットが、再び口を開いた。
「では反論ですわ。わたくし、ルナリス様に嫉妬などしておりません。だって、そうでしょう? わたくしとラディス様の婚姻は、あくまで契約関係。ラディス様が愛妾を求めるなら、二人程度なら構わないと思っていましたのよ?」
「……ガーネット、君は……」
「あら。もしかするとラディス様、ご自分が好かれていらっしゃるとでも思っていたのですか?」
ラディスは深呼吸して、念を押すように告げた。
「つまり君は、筆箱を壊した事実はない。そう言うんだね? それが、彼女にとって母親の形見だったとしても」
「ふふふ。筆箱が形見だなんて。さぞや苦しい財政だったのでしょうね。でも、壊していないものを謝る訳にはいきませんわ」
挑発的な笑い。
ラディスは、小さなため息を吐き出した。
「では、君が筆箱を壊したことを謝罪しないというのであれば。私は、君の人格が私の婚約者として相応しくないと考えるしかない」
「あらあら。それはつまり――」
「婚約破棄を、行いたい」
上級貴族たちにどよめきが走る。
他愛ない筆箱の話が、婚約破棄に至るとはさすがに予想外だった。
「婚約破棄ですか。ふふ、でもわたくしの有責という訳にはいきませんわよね? だって、わたくしは……何もしていないですもの。いえ、それどころか。ラディス様、あなたの有責ですわ」
その言葉に、今度は下級貴族たちにどよめきが走る。
扇をゆっくりと動かすと、上位貴族の集団から二人の男女が進み出た。
精悍な若者は近衛騎士団長の息子でありラディスの側近の一人であるリンカー、そして嫋やかな少女はフェレリア伯爵令嬢。
「リンカー様。先の証言をもう一度お願いいたします」
「はい。私はラディス王太子が、自身の交際費を使ってそこにいるルナリス・バーマイマー男爵令嬢にプレゼントを贈る現場を目撃しました」
貴族たちのざわめきが一層大きくなる。
ラディスは沈黙して答えない。
「そしてフェレリア様」
「……わたくしは、ラディス王太子から愛妾になることを迫られました。『お前の家など私の一存でどうとでもなる』と脅迫され――」
「茶番はもういい!」
ラディスが声も鋭く叫ぶ。その睨みにも、言葉にも、ガーネットは全く怯むことがない。
「そういう訳で。わたくしは婚約破棄を受け入れましょう。もちろん、ラディス様の有責です」
「――勝負あったな」
声がホールに響いた。
ラディスの父、国王ベネリットが厳かな様子で姿を現した。
「父上……」
「ラディス。お前には失望したぞ。たかが男爵令嬢が物を壊された程度で謝罪を要求し、宴を台無しにするとはな」
「……この宴でなければ、ならなかったのですよ」
ラディスは父の怒りの気配にも負けず、静かにガーネットを見つめていた。
「あまつさえ婚約破棄と来たか。トリンクロウ公爵家に何と詫びればいいか。ともあれ、お前には最早王太子たる資格はない!」
その言葉に上級貴族がざわめく。
「国王陛下。婚約破棄には賛成いたしますが、その場合わたくしは――」
「もちろん、考えておる。ギルビス、前に出よ」
「はっ」
ラディスに負けず劣らず――いや、もしかするとそれを上回る美貌の青年が、王の前に進み出た。
第二王子ギルビス・ゼフィリア。ラディスの一歳下の実弟であり、ラディス以上の才能を持つ、と上級貴族から噂されていた王国の秘宝とも呼べる人物である。
「ギルビス様……」
「ガーネット、我が愛しき美姫よ。君が望むのであれば、私はここに跪いて、婚約をお願いしたい」
おお、とどよめきが走る。
ガーネットは貴族的な笑みを浮かべ、そっと手を差し出した。
「その婚姻、お受けいたしますわ」
「ありがとう、ガーネット」
「うむ。これにより、ラディス。汝は廃嫡の身となった。この王国から、直ちに去るが良い」
「どこへ行けと?」
「この王都でなければ、どこでも良い。もっとも、汝に与える物はない。その身一つで出て行け、この愚か者!」
このベネリット王の言葉で、趨勢が決まった。
男爵令嬢の色香に惑った王太子は没落し、悲運の公爵令嬢は新たな王子の熱烈な婚姻によって愛を取り戻す。
そんな、当たり前でありきたりの美しい物語。
上級貴族たちが歓喜の声を上げる。
元より、ラディス王太子に対して能力や美貌はともかく、王としての在り方を疑問視する声は大きかった。
下級貴族、平民たちに心を砕きすぎて肝心の政治がおざなりではないか、と。
「ガーネット」
「兄上。……いや、最早兄上ではないか。廃嫡されたあなたがガーネット公爵令嬢に話しかけていい身分ではない。すぐにここから立ち去るがいい!」
「お待ちくださいませ、ギルビス様。これが最後なので、せめて挨拶させてくださいまし」
ガーネットの言葉にギルビスは憂いを帯びた表情を浮かべた。
「本当に優しいね、君は」
「いいえ。優しくなどありませんわ、決して」
ガーネットは上品な微笑みを浮かべ、ラディスと対峙した。
「残念ですが、ラディス様の思い通りにはいきませんでしたわね」
「……そうだね。ここは私の敗北だ。大人しく立ち去るとするよ」
既に婚約を破棄した者たちとしては、あまりに穏やかな会話だった。
声も小さく、細く、二人きりの世界のように。
「どうかお元気で。遠い空から、ラディス様のご健勝をお祈りいたします」
「ガーネット。本当にいいんだね?」
ラディスの言葉に、ガーネットは躊躇いなく頷いた。
「――はい。もう遅いのですわ」
「ガーネット。……元気で、いてくれ」
ラディスは言葉に詰まりながらそう告げて一礼し、背を向けた。
貴族たちは笑いを堪えつつ/あるいは怒りに震えつつ、彼の退場を見守る。兵士たちは彼を拘束することもなく、無言で見送った。
「さようなら、ラディス様。……愛していました」
一瞬。周囲も、ギルビスも見逃すような刹那の時間を盗み取り、ガーネットは貴族の微笑みを忘れて、柔らかな笑顔で小さく手を振った。
それが、今の彼女にとって精一杯の、離別の挨拶だった。
「さあ、皆の者! 宴の最中だというのに、すまなかった。だが、此度はギルビスとガーネットの婚約がなった日。盛大に祝おうではないか!」
ベネリット王の言葉に、上級貴族たちが一斉に拍手と歓声を上げた。
それを背中で受けながら、ラディスは静かに己の敗北を噛み締めていた。
「お乗りください、ラディス様」
いつのまに先回りしていたのか、王宮を出てすぐに馬車がラディスを出迎えた。馬車の中にいたのは、筆箱を破壊された男爵令嬢ルナリスである。
「……ルナリス」
「王はどうか分かりませんが、第二王子は確実に暗殺者を放ちますよ?」
「そうだね。君の馬車に乗って行方をくらますことにするか」
馬車に乗り込んだラディスを確認すると、ルナリスは軽く荷車を叩いて、御者に走るよう催促した。
やや早めに走る馬車にいる二人は、上級貴族たちが勘ぐったような、愛し合う素振りは見られない。
「これで、終わりですね」
「ああ。私は混乱を避けるために、隣国へ向かうことにする」
「当初と計画は異なりますが、それもガーネット様の選択です」
「ガーネット……」
有り体に言って、この国は詰んでいた。
歴史は貴族たちに腐敗を蔓延させ、平民たちに過酷な重税を課すようになった。
上級貴族の頭には、いかに王宮で栄達を極めるか。
それ以外のことは頭にない。
そしてその事を、平民たちもよく理解していた。
既に平民たちの間では、隣国から商人が仕入れたマスケット銃が徐々に広まり始めている。
立場的には平民に近い下級貴族たちも、その状況を後押ししていた。
下級貴族と一部平民たちの間でひっそりと話し合いが始まり、組織が結成され、徐々に徐々にこの国の内側に食い込んでいった。
革命軍。
ルナリスはその、リーダーであった。
「革命を起こします。これは決定事項です、ラディス」
「……血が流れるだろうな」
「あなたがここに居座る状況よりは、血は流れないかと」
「青い血も、血であることに変わりはないんだよ」
ラディス・ゼフィリアは上級貴族にとっては下級貴族や平民に心を砕く、有能なのに愚かな王太子――という認識であったが。
下級貴族と平民が中心となった革命軍にとっても、ある意味で厄介な存在だった。
ラディスがいるだけで、平民たちには希望だったのだ。
革命の際に平民たちが呼応しないという事態に陥りかねない。
それが、革命の最後の一押しをためらわせていた。
ルナリスは意を決して、彼に全てを打ち明けた。状況によっては、諸共に心中することも覚悟の上で。
ラディスは聡明な男で、この国の趨勢が自分の決断に懸かっていることも理解していた。
父も、弟も、自分を取り巻く上級貴族たちも。仮に自分が王に即位したところで、この国が良い方向に進むとは思えない。
上級貴族も父も、そして弟も健在であるならば、ラディスは自分の意見を一つ通す度に苦労しなければならないだろう。
自分が打ち出す政策は、上級貴族たちにとって我慢ならないものとなるはず。全力で妨害にかかるのは間違いない。
そして平民たちは期待した分、失望も大きくなるはずだ。
そうなれば、この国は……。
「あなたが今、ここに存在する限り――この国は滅びに傾くのです」
「……よく理解した。君たちの窮状は、私にも責任がある。私に出来ることが、この首を差し出すことであれば」
「お待ちください。そういう訳には参りません。ラディス様が死んだことが、万が一私たちの仕業だと露見すれば、革命軍は崩壊します。王国の上級貴族たちも怒りに震えて弾圧を加えるでしょう」
ルナリスの制止にラディスは苦笑した。
「死んでもいけないとはね、皮肉なものだ……」
この国を良くするためならば、命を捨てる覚悟で日々を過ごしていたのに、その命が余計な災いになるとは。
「君が行おうとしている事――革命については理解した。上級貴族たちに、なるべく私を疎んじる空気を作ることにしよう。そしてその上で、死罪ではなく、追放されるに足る状況を作る」
「それは……願ってもないですが……どうやって?」
「私の婚約者、ガーネットは知っているね?」
「ええ、もちろん話しかけたことはありませんが」
「彼女に身分を笠にきて君の筆箱を壊してもらい、謝罪させる」
「……!」
それは、かつて他国で実際にあった話。
王太子が男爵令嬢の色香に溺れ、公爵令嬢との婚約を一方的に破棄し、王太子は国王から廃嫡され、男爵令嬢と共に路頭に迷ったという。
その話においても、王太子は婚約者に些細なことで謝罪を要求させた、という話があった。
「私は王家にとって、他愛ないことで国を騒がせた愚かな王太子として裁かれるだろう。しかし、君たちにとってはそうではないはずだ」
「はい。下級貴族にとって、筆箱は立身出世のための象徴です。それを王太子の婚約者が破壊した、ということは」
「その真意を理解するだろう、君たちは」
王家は、上級貴族は、下級貴族や平民を奴隷としてしか認識していない。共に国のために働く人間とは考えていない、ということ。
「ですが、それではガーネット様は――」
「……彼女には、どうにかして謝らせるようにする」
ルナリスは熟考の末、その提案を受け入れた。
革命は決定事項。後は、どれだけ血を少なくできるかに全てが懸かっている。
そしてラディスの提案は、可能な限り血が少なくなるものだった。
ラディスは死なず追放されることで、下級貴族や平民たちは革命への支持を打ち出すだろう。
上級貴族を守る盾となっていた人間が存在しなくなれば、革命は速やかに勃発する。
「では、それを信じましょう。決行は――」
「卒業式の後の宴がいいだろう。あのパーティのみ、上級下級問わず全ての貴族が参加するのだから」
◆
ルナリスが立ち去った後、ラディスは緊張を緩めるかのように、大きく息を吐き出した。
かつて、このような話し合いなど不可能だった。
王家には『影』と呼ばれる存在がついてまわっており、一挙手一投足を監視されていたからだ。
だが、それも王家自身が『影』を嫌い、蔑んだことによって消えた。
彼らは平民の層へと潜り込み、革命軍側についている。
「……ガーネット」
革命は絶対に止められない。
ラディス自身も、止めてはならないと感じていた。
さらに言うなら、可能な限り血は流してはならないとも。
革命で国が疲弊すれば、隣国から容赦なく干渉されるだろう。
最悪、この国が滅ぶ。滅ぶだけならいい、だが……何の関係もない平民を巻き込み、多大な犠牲が生じることは回避せねばならない。
そしてそのためならば。
ラディスは父を、弟を、友であった者たちも含めて、平然と見捨てることができると己を判断していた。
だが――ガーネットだけは。
ガーネットはこの国の腐敗とその立て直しを決意したラディスを、心から慕ってくれていた。
王妃に即位次第、全力でラディスを支えると誓ってくれたほどに。
婚約者として、仲間として。
……10年前に出会った時から、変わらず愛情を寄せてくれる少女。
彼女をどうにかして救わなければ。
筆箱を壊したことを謝罪すれば、ガーネットもまた責められるだろう。
上級貴族としてあるまじき振る舞いだと。
トリンクロウ公爵もまた、ガーネットを積極的にかばい立てするようなことはしない。
とはいえ、過剰なまでの罰を受けることはない。精々が謹慎だろう。
これなら、脱出させる隙はいくらでもある。
懸念点が、一つだけある。
ガーネット・トリンクロウは……受け入れるだろうか。
自国が滅びの瀬戸際であること、上級貴族の命が風前の灯火であること、それは恐らくトリンクロウ公爵家もまた例外ではないこと。
いくら自分を慕ってくれているとしても、それらを全て受け入れてくれるだろうか? それだけが、ラディスにとっての懸念であった。
◆
「……彼女は受け入れてくれませんでしたね」
ルナリスはポツリと呟いた。
違う。そうじゃない。そうじゃないんだよ、ルナリス。
ガーネットは受け入れた。全てを……受け入れてしまったのだ。
だが、それをラディスは伝えなかった。
彼は無言で、ルナリスの視線から逃れるように馬車の窓へ目を向けた。
国境に辿り着き、ラディスは馬車から降りた。
「ではラディス様。これでお別れです。国が落ち着けば、帰還することも叶いましょう」
「でも、私が帰還する訳にはいかないだろう」
「顔と名前を変えれば済むことです」
平然と、ルナリスはそう告げる。まるで大したことのないような言い方に、ラディスは苦笑した。
「そう簡単に決意する訳にはいかないが……まあ、了解したよ」
「ええ。最善の方策としては、あなたが顔と名前を変えて、わたしたちの新しい国家の中枢に組み込まれることです。富や地位を失ったところで、あなたの能力は変わりようがないでしょう?」
「それほどまでに買われていたとはね。嬉しいよ」
「……」
「少し、待ってくれるかな。どちらにせよ、時間が必要だと思うから」
「はい。お待ちしております、ラディス様」
か細く、囁くような声。
ラディスはその声を背中に受け、振り返ることなく進んでいく。
その歩調に迷いらしきものはなく、目標とするものが定まっているかのようだった。
「ルナリス様」
「ええ。潜伏していた同志に伝達をお願いします。時は来た。火打ち石に火を点せ、と」
「了解しました!」
かくして矢は放たれる。
千年の歴史を誇るゼフィリア王国、腐敗した果実のような悪臭漂うこの国に、遂に終止符が打たれようとしていた。
◆
さようなら、さようなら、愛しいあなた。
わたくしは愚かなので、とても賢くはないので。ただ、こうしなければいけないのだろうな、という心の声に従いました。
わたくしはあなたより賢くはないでしょう。
でも、一生懸命考えた分だけは身になったのだと思います。
あなたの企みは、失敗するでしょう。
でも、あなただけなら助かります。
だから、わたくしは拒絶するのです。
謝罪という名の、目の前に垂らされた縄を。
◆
革命は、速やかに執り行われた。
卒業式から数ヶ月後、国王が急死した。毒を飲まされたのだ、と上級貴族たちの間で噂が立った。
これは恐らく、第二王子ギルビスの仕業であろうとも。第二王子は一笑に付していたが――彼の信頼していた侍女が一人、何かを命じられた後で行方不明になったことは付け加えておく。
ともあれギルビスは次代の王として、即位式を執り行うこととなった。
国中から集まる上級貴族たちは、「どうやって王に媚びて自分の政治的立ち位置を有利にするか」に思考の大部分が割かれていた。
だから、気付かなかった。
新たに雇われた王城の使用人の多くの手に、刀傷があることも。あるいは、下級貴族たちがまったく陳情に来なくなったことにも。
彼ら彼女らにとって、平民や男爵子爵は雑草のようなもの。
適当に千切ったところで、いくらでも生えてくる。
「では、これより継承の儀式を――」
「殺れ」
殺戮劇は速やかに。
王を守っていた近衛騎士団は、着慣れぬ鎧兜に四苦八苦していたところを、使用人に扮していた兵士たちにあっさりと殺害された。
「どうした。一体、何を……」
突然倒れ込んだ近衛騎士たちを訝しむギルビスは、いつのまにか接近していた銀髪の少女に、勢いよく殴られて昏倒した。
「……!」
少女はギルビスの傍らにいた次代王妃を一瞬睨んだ後、手を掲げた。
「同志諸君! 革命の時だ! 集え!」
上級貴族たちに危機感はなかった。政争に明け暮れていた彼らにとって、土地と平民は収奪するものであって叛乱するものではなかった。
呆けたように佇んでいる彼らは、マスケット銃の銃床で殴られ、次から次へと拘束されていく。
「は、叛乱だ……!」
現実を理解した誰かの叫びに、ようやく悲鳴が迸った。
だが、もう遅い。
慌てて駆けつけようとした近衛騎士団たちは、平民たちが構えたマスケット銃を「たかが平民の銃など!」と高をくくって突撃し、その命を無駄に散らせた。
上級貴族たちが見栄のために引き連れていた私兵たちは、既に包囲されていた。
突破を試みようとした者もいたが、そのほとんどは銃殺された。
「ぶ、ぶ、無礼者……! 誰か! この下賤の者を殺せ! 今す……」
上級貴族の誰かが、怒りも露わに叫んだ。
ルナリスは彼に対して首を向けることすらもなく、手にしていた短銃で眉間に風穴を開けた。
「千年王国は、今日この日を以て終末を迎える! 新たな国に、貴様たち屑……いや、下賤の者の居場所はない!」
ルナリスはそう言って、学園の生徒たちが見たこともない凄絶な表情で、笑みを浮かべた。
彼女の笑みに、即位式のために集った上級貴族たちは文字通り震え上がった。まるで、踏みしめていた地面が突然消えてしまったかのようだった。
もちろん、その感覚は正しかった。
上級貴族たちはこの後、恨み骨髄に徹した平民、あるいは下級貴族たちから、裁判という名の私刑を受けることになる。
「では、ガーネット様。拘束させてもらいます」
「……ええ、構いません」
青白い唇、体の震え、それでもガーネットは毅然とした様子でルナリスと向き合っていた。
「ご心配なさらず。乱暴な振る舞いはいたしませんよ。可能な限り、ですが」
「信用していますわ」
ガーネットが兵士に伴われて、静かに立ち去っていく。
それを見送りながら、ルナリスは先ほど撃った短銃に弾を込めた。
上級貴族たちは次々と拘束されていく。逆らおうものなら、マスケット銃で殴り倒されるだけなので、ほとんどの者は抵抗を止めていた。
「同志諸君、ここからは王国の残存兵との戦いだ。血を流すことになるが、致し方ない。さあ、我らの革命成就までもうすぐだ!」
ルナリスの宣言に武器を手にした使用人たちが、あるいは離反済みの騎士たちが、銃を片手に吼えた。
もちろん、ここに来て上級貴族の私兵たちも慌てて宮殿へ駆けつけようとした。
だが肝心の主が人質にされている以上、動くことはできない。
何よりも、
「救出したところで、お前たちは責任を取らされるぞ!」
立て籠もった革命軍たちの叫びが、兵士たちの疑念とそれにも勝る恐怖を引き起こした。
奇跡が起きて、傷一つなく助けられたとしても。
こんな怖い目に遭ったのはお前たちのせいだ、と主である貴族は言うだろう。
助けたところで、感謝すらされまい。
あまりに腐敗していた主を、兵士たちは信用できなくなっていた。
こうして宮殿に立て籠もった革命軍たちに、包囲した上級貴族の私兵が降伏するという珍事が頻発するようになる。
――千年の歴史を誇ったゼフィリア王国は、内乱と呼べる規模の争いもなく、わずか二ヶ月で滅び去った。
「革命万歳! 革命万歳! 自由を! 自由とパンを!」
ゼフィリア王国の叛乱に介入することで、利益を得ようとしていた隣国も、そのあまりの速度についぞ手を出すことはできなかった。
それだけではない。
本来、暴力的な政権交代には官僚の混乱が生じるものだ。
誰が、何を、どうやって運営すればいいのか。
それが一切空白になってしまうため、革命によって誕生した国は、常に政権の不安定さが課題となる。
ゼフィリア王国を打倒した革命軍には、それがなかった。
まるで通常の王位交代のようなスムーズさで、政情は瞬く間に落ち着いた。
あらゆる状況を想定して、マニュアルを残していたある王太子、ゼフィリア国民を心から愛する男の仕業である。
◆
そんな革命の後には、平民たちにとって胸の空くような娯楽が待っていた。
悪趣味であるとしても、千年の間に積もった鬱憤を晴らすための儀式がどうしても必要だった。
「平民への無用な懲罰、汚職。懲罰委員会はそれらの罪状全てを確認したため、直ちに処刑にかかるものとする」
「ふざ……ふざけるな! 平民が! ドブネズミどもが! この私を誰だと思っている!」
「ノイジーエ・アラストル。元財務大臣殿だが?」
「わた、私の担ってきた役割は重要だぞ! この私がいなければ、国政は……」
「懲罰委員会は、政治的役割によって処罰を穏当なものとはしない。あくまで、王国時にお前が何をしたかが重要視される。服を汚した使用人を怒りに任せて殺害し、平民たちに与えられるはずの援助金を横領したお前には、そもそも生存権などない」
「……!」
凍るような瞳で、臨時懲罰委員会委員長に就任していたルナリスはこう告げる。
「刑は石打ちの刑。死ぬまで石を投げられることになる」
「――え?」
「ギロチンか絞首刑とでも思ったか? そんな楽な死に方を選べるほど、お前の罪は軽くはない」
ノイジーエの周囲を取り囲んでいた平民たちが、一斉に殺意を籠めて彼を睨み据えた。その中には、ノイジーエの服を汚したことで殺された娘を持つ家族もいた。
「じ……慈悲を! 頼む! 慈悲を……お慈悲をおおおおおおお!」
処刑場へと引き摺られながら、彼は今さらながら罪業を悔いることになった。
「では、次!」
「あ、ああ……あああ……!」
待たされていた貴族は、徐々に自分の運命が『死』か『苦痛の死』の二択でしかない、と理解し始めた。
◆
ふっ、と意識が戻る。いつのまにか、眠っていたらしい。
ガーネット・トリンクロウは軋む体と鈍い頭の痛みを堪えながら、身を起こす。
王城地下牢。第一級犯罪者収容区画。
かび臭さと腐臭が漂うここは、現世の地獄のような場所だった。
悲鳴、呻き、嗚咽。
あらゆる負の感情が、渦巻いている。
それでもガーネットは、他の者たちのように騒ぎ立てることは一切なく、彼女を監視する人間もある程度の敬意を払ってくれるようだった。
「……良かった」
そう、良かったとガーネットは思う。ラディスを巻き込まないで済んだことに、心の底から安堵している。
ガーネットはラディスほど聡明である自信は無い。学園の成績だって、王太子の婚約者であることで上乗せされていたもの。実際の自分がどの程度なのかは、よく分かっている。
だが、そんな彼女でも王国の状況くらいは理解できていたのだ。
ラディスが……ガーネットだけは救おうとしていることにも。
そしてそれが、ラディスの命を危うくするものであることも。
当然の理屈だ。革命の狂乱は、トリンクロウ公爵家も巻き込むであろうし、婚約者である自分はラディスより省みられない存在だ。
そんな自分を、ラディスが助け出せばどうなるか。
――やはりラディス王太子といえども、所詮は上級貴族なのだ。
そんな声が出てこないとも限らない。
そして一旦、それが出てしまえば全て終わり。
ラディスと自分は共に処刑の道を辿るしかない。
ガーネットにも罪はある。
……トリンクロウ公爵家は清廉とはいえなかった。汚職に手を染めていたことも知っていたし、策謀によって敵対する貴族を嵌めたことも、時には自分の陣営の下級貴族すら潰して利用したことも知っている。
何もできなかった。
何かできるはずもなかった。
可能な限り、彼らのために尽力したとしてもそれは無意味な振る舞いだった。自分の無意味さ、無力さを思い知らされるだけだった。
そんな自分の、唯一の希望がラディスだった。彼ならば、この国を立て直せるかもしれない。
……難問は山積みだが、ラディスならば。
それが甘すぎる展望であると理解はしていたのに。
「ガーネット。話がある」
苦悩する表情を浮かべたラディスが語り始めたのは、想像を絶する話だった。
「――滅び、ますか」
「……滅ぶしかない。私の無力を許してくれ」
腐敗した王家、上級貴族、それに我慢できなくなった下級貴族と平民たちの叛乱。いや叛乱だけでなく、彼らで国そのものを立ち上げるという。
「証拠を残したまま筆箱を壊し、そして卒業式で私が弾劾し、君は謝罪する。君の名誉に傷がつくのは間違いない。君の御父上から叱責も受けるだろう。だが――」
「死ぬよりはマシ、ということですわね」
ガーネットはそう言って、悲しげに微笑んだ。
「承りました、ラディス様。悪役令嬢としての役割、見事果たしてみせましょう」
ガーネットは確かにこの時、ラディスの言う通りにするつもりだった。
彼の言葉はいつだって正しかったし、彼の考えたことが間違えたことは、今まで一度だってなかったのだから。
ただガーネットには一つだけ、ラディスもよく理解している美点があった。
彼女はよく考える人間だった。
それが時に、天才と呼ばれる人間にはまだるっこしいものに見える時もあるが――ラディスはその、ゆっくりとでも共に歩んでくれる資質を好んでいた。
そしてガーネットは考える。
ルナリス男爵令嬢を相手に芝居を打って、筆箱を踏みながら考える。
ラディスはいつも正しかった。
だけど、今回のこれはどうしたって賭けだ。
ガーネットが謝罪したところで、下級貴族たちの中でガーネットの悪感情は収まりがつかないだろう。
そして、それを許すラディスに対しても。
ただでさえ、ラディスは下級貴族や平民の希望の光なのだ。
その象徴が上級貴族であるガーネットを赦した時の反動は大きい。
そう。ラディスにとって、ガーネットはただ存在するだけで足を引っ張る役回りであり。
ラディスは、ガーネットを救わない方が生き延びる確率が高くなる。
「あら、それなら簡単ではありませんか。わたくしが、向こう側につけばいいのですわ」
理解した。理解してしまった。
そしてその理解は、間違いなく正しかった。
「トリンクロウ公爵家も、穢れた上級貴族ですし」
ああ、いやだなぁ。死にたくないなぁ。痛いのは嫌だなぁ。
「貴族の義務……ノブレス・オブリージュとしては当然のことでしてよ」
そんなのどうでもいい。死にたくない。助かりたい。命が惜しい。
「だか、ら。わたくしは、わたくしは――ラディス様の、敵にならなくては」
ああ、でも。自分の命より、もっと重要なことがある。
愛する人を傷つけたくないのです、幸せになって欲しいのです。
そのためならば、わたくしは――命を差し出してもいい。
◆
それから後は、流れるように上手くいった。
ラディスに果敢に反論し、厄介者だった彼を王太子から引きずり下ろしたことで、ガーネットは上級貴族からも一目置かれる存在となった。
普段、彼女を駒としか扱わなかった父親すらもガーネットを褒め称えた。嬉しくも何ともなかったが。
ガーネットにも下級貴族の不穏な動きの知らせが届いたが、彼女は全てを黙殺し、王太子となったギルビスの寵愛を受けることに全力を費やした。
そうして、革命は起こった。
ギルビスが待ち望んだ戴冠式は、あっという間に殺戮の現場へと変わる。先代になるはずだった王妃も、王となるはずだったギルビスも、そしてガーネットも、その父親も捕縛され、虜囚の身となった。
処刑は続いている。
耐え忍んでいた平民や下級貴族は、上級貴族の処刑こそを最高の娯楽とした。
平民を虫や奴隷のように考えていた貴族には、想像を絶する報いが待ち受けていた。王宮の地下牢は、啜り泣く上級貴族たちが詰め込まれていたが、その啜り泣きの声も少しずつ小さくなっていく。
ガーネットはまだ生きていたが、父親は先日、首を刎ねられた。
跡取りであった弟も、生きてはいまい。
「……ガーネット様」
涼やかな声に、ガーネットはゆるりと顔を上げた。
革命のリーダー、ルナリス・バーマイマーがそこにいた。
ガーネットは跪きたくなるのを堪えて、立ち上がって牢越しに彼女と向き合うことにした。
対等の人間である、と指し示すように。
「……この牢に入ったことに、後悔はしていますか」
ラディスが差し出した救いの手を拒んだことに、後悔はありませんか?
「いいえ、まったく。それだけは、後悔ないのです。あの方が何より大切なものですから」
そう、後悔はしていない。上級貴族の腐敗と、それを止められなかったことに後悔はあっても、彼を救ったことに後悔はない。
「全て理解した上で、そうなさったのですね」
ああ、やはり。彼女は承知の上で、己が身を捧げたのか。
「全てを理解した訳ではございません。ほら、今も手が震えております」
でも、やはりそう思うのだ。
ラディスがここに居なくて、本当によかった。
たとえ家族である父親を騙しても、愛してくれたギルビスを騙しても。
まったく後悔はない。
「愚かにも程があります」
「でも。貴女だって愛した人がいたら、同じことをやるでしょう?」
ルナリスの呟きに、ガーネットは思わずそう答えた。
ルナリスは悔しそうにそっぽを向いて、それから深呼吸を一度。
もう一度ガーネットに向き直った時には、平静さを取り戻していた。
「二時間後、処刑を行います。服毒にしたかったのですが、ギロチンを取るのがやっとでした」
「まあ。痛みはありませんわね」
「ええ。一瞬で終わります」
震える手を、ガーネットはそっと隠す。ギロチンが落とされる際、泣かなければいいのだけど。
そんなことを思う。
「もしかしたら、ガーネット様にとっては真実の愛かもしれません」
「あら、まあ」
真実の愛、は王国でかつて流行したフレーズだ。
平民や下級貴族と上級貴族の道ならぬ恋。それが真実の愛なのだと。
「でも、私は認めたくないですね」
ルナリスの声色が、少しだけ冷えた気がする。
ガーネットには理不尽に対する怒りのようにも感じたし、ある種の悲しみのようにも感じ取れた気がした。
何だ。とガーネットは安堵する――このルナリスという少女は、ちゃんと普通の感性を持っているな、と思ったから。
「わたくしも、これが真実の愛だとは思いませんわ」
これはただ思い上がった女が、どうにかしてひねり出した解決策でしかないのだから。
「――でも、これしか思い付かなかったのです」
「……さようなら、ガーネット様。どうか、苦痛と屈辱が僅かで済みますように」
ルナリスが立ち去り、ガーネットは一人になった。
「……怖い……ですわね」
死は恐ろしく、痛みは辛い。苦悶と絶望はひっきりなしにガーネットの心を遠慮なしに叩いている。
その内、自分の心は砕かれてしまうに違いない。
でも……あと少しだけ、我慢しなきゃ。
残り二時間。
耐え難い、あまりにも耐え難い待ち時間。
何も考えないように、と思って耐えられたのは十秒にも満たず。
地獄のような三十分が経過して、ガーネットはその足音に気付いた。
処刑の時間が前倒しになったのかしら、とガーネットは考えて檻の向こう側に顔を向けた。
顔をフードで覆い隠した男が、血の臭いを漂わせて立っていた。
「貴方は――?」
「ガーネット」
令嬢の心臓が跳ね上がった。柔らかく温かな声は、ガーネットのただ一つの救いであり、誇りだった青年のもの。
そして、この国にいてはならない者の声だった。
「うそ……」
ガーネットの声が震えている。
どうして、どうして、どうして、貴方がここにいるのです。
「ラディス、さま……!」
薄汚れたラディス・ゼフィリアが、穏やかな瞳でガーネット・トリンクロウを見つめていた。
「君の献身に気付かないほど、私は愚か者ではないよ」
「そんな状況ではございません! なぜ、貴方がここに……!」
「君と共にあるために」
ガーネットが瞠目した。
つまり、そういうことか。命を賭して――自分と、共にあるために。
ラディスが鞘から小剣を引き抜くと、ガーネットは微笑んだ。
嬉しいが、その癖に涙が溢れて止まらなかった。
幼い頃から好きだった彼を守るために、自分はこの牢を選んだというのに。自分が為したことが全て無駄だったというのに。
それでも、死の間際に彼がいることが嬉しかった。
ガーネットを連れての脱出は不可能だ。ずっと牢にいて食事も合わなかったせいか、彼女の体力は著しく衰えている。二時間では絶対に間に合わない。
その事をラディスも理解している。
だから――こうするしかないのだ、と。
◆
ルナリスは貴族の処刑に熱狂する観衆を眺めながら、淡々と業務をこなしていた。既に彼女は貴族の処刑というただの娯楽にかかずらわっている暇はなく、部下に任せている。
ただ、今回は処刑対象が因縁深いガーネット・トリンクロウということもあり、参加せざるを得なかった。
「ルナリス様」
元バーマイマー家の使用人であり、今は彼女の副官であるジエメイが、憂うような表情で声を掛けた。
彼は言う。
「因縁のガーネット・トリンクロウに同情を寄せているのですか? あるいは共感なのですか?」
「どちらもありません。ついでに言うと因縁も感じてはいません。どちらかといえば、因縁は……」
因縁を感じていたのは。
あの方だけだ、とルナリスは思う。
もし、彼が敵側に立っていれば……革命はこうも簡単にいかなかっただろう。
だが、その道を選ばないからこそのラディス・ゼフィリア。
生徒会はこの国の将来を背負うエリートたちが集まるという。そこへルナリスが抜擢されたのは、ラディスの推薦があったからだ。
生徒会のメンバーたちの目は、終始蔑みに満ちていて厄介なものだったが……。
ラディスはルナリスと対等に接してくれたし、彼がいることで他の人間への抑止力となった。
そのことには感謝すると同時、厄介なことになったとも思った。
この人は、最終的には――自分の前に立ち塞がる人間なのだから。
でも、生徒会で彼と交わす言葉の一つ一つが楽しかった。
「バーマイマー嬢、貴女の視点と思考は施政者的だな」
「……良くないでしょうか?」
「いいや、まったく。でも、これだけは覚えておくといい。その思考の下には、数字ではない無名の人間がいる」
「……はい」
「もっとも。王太子の私が言うな、という話かもしれないがね」
普段は穏やかに微笑むだけの彼が、一際華やぐ表情を見せる時がある。
「――ラディス様」
彼女が生徒会に来訪した時だ。
ガーネット・トリンクロウ。トリンクロウ公爵家の至宝、灼色の薔薇、輝けるルビーのような少女。
ラディス・ゼフィリアの婚約者。
王命による契約婚姻であるはずなのに、相思相愛であることを疑わせない二人だった。
普段、上に立つ貴族としての穏やかな態度を崩さない彼が。
普段、公爵令嬢としてあらゆる状況で隔意のある笑顔しか浮かべない彼女が。
普通の恋人のように、仲睦まじくする。
それがゼフィリア王立学院における、一つの名物だった。
◆
ガーネット・トリンクロウが何故、あそこで謝罪しなかったのか。
その理由は理解できる。
理解できるからこそ、ルナリスには許せないものがある。彼女は愛されていることを自覚していなかったのか、と。
――でも。貴女だって愛した人がいたら、同じことをやるでしょう?
「……やるでしょうね」
「何か仰いました?」
「いいえ、何も。……それにしても、今日はいつもより騒がしいですね」
ルナリスが眉根を顰め、処刑台の向こう側にいる民衆を観察した。
こんな熱狂は、上級貴族の処刑を開始した初日以来だろう。
「あのガーネット・トリンクロウの処刑が今日執行されるからでは? 彼女はラディス王太子の追放にも関わっていましたから」
「そう――ですか?」
確かに稀代の悪女としてガーネット・トリンクロウの名は平民にも知れ渡っている。
彼女の処刑に、狂喜乱舞する人間たちがいるのは必然だろう。
だが……これほどまで、だろうか?
「処刑台に乱入される、なんて事態は避けたいですね。ひとまず警備の人数を増やして――」
爆音。
ルナリスは即座に、音は爆弾によるものと判断。ついで音の方向を確認した。
王城の馬小屋から、煙がしゅうしゅうと上がっていた。
「直ちに現場へ――」
「地下牢へ行きます。ジエメイ、それからそこの二人。ついてきなさい」
ジエメイの言葉を遮って、ルナリスは走り出した。
「どういうことでしょうか、ルナリス様!」
「馬小屋の爆発なんて、囮に決まっているでしょう! なら本命は!」
「……ガーネット・トリンクロウ……!?」
トリンクロウ公爵家の至宝。彼女が上手く脱出できれば、そちら側につく下級貴族も出てくるかもしれない。
折角収まりつつある火の手が、また燻り出すのは回避したい。
走る、走る、走る。
ルナリスは息一つ切らさず、階段を駆け下ってガーネット・トリンクロウの牢へと辿り着いた。
そして、見た。
「……!」
遅れてやってきたジエメイ、そして部下の二人も目視した。
牢の中で男女二人がしっかりと抱き合いながら、青白く輝いている様を。
「げ、月光蛾の毒……!」
男の左手には、見誤るはずもない王家紋――つまり。
「馬鹿な、あれは……ラディス王太子……」
ゼフィリア王家に伝わる秘伝の毒。
苦痛なく緩やかに眠るように、そして死後も遺体を辱められぬように。
青白く輝く粉となって消え去っていく。
この毒の美しさもあってか、秘伝でありながら一般にも広くこの毒は知れ渡っていた。だが、まさか実在するとは……!
「と、止めなくては……」
「いや、だがどうやって……!?」
もう遅い。二人の体はさらさらと崩れていく。
ラディス王太子が選んだ道は、ガーネットと共に心中することだった。
騒ぎを聞きつけて、牢の前に人が増えていく。だが、二人に手出しできる者は誰もいなかった。
二人は青白い砂となって世界から消え、後に残されたのは、呆然と佇む人間たちだけだ。
「ふざ……けないで……! こんな! こんなのが! 真実の愛だなんて、認めない! 認めないから……!」
ルナリスが叫んだ。
意味がない。
まるで意味がない。
ラディスが考えに考えた必死の芝居も、ガーネットのそれを否定する必死の芝居も、互いの献身に意味がなさすぎる。
二人揃って死ぬことが、真実の愛であり幸福な結末だと?
「ふざ……けるな……!」
ルナリスは吼えた。怒りに身を震わせながら、強く、強く。
◆
ガーネット・トリンクロウは牢で自死したことが発覚。
革命軍は仕方なく代役として、髪の色と背丈が似ていた伯爵令嬢フェレリア・ライタートをギロチンに送り込むことにした。
幸い彼女が代役であることは気付かれることなく、熱狂の中でギロチンは落とされた。
◆
日々は過ぎていく。
革命の熱狂は去り、後には新しい国が組み上がった。
脆弱ではあったが、他国の侵略は阻まれた。古い地名であるシルフィールを冠した、最も新しい国――シルフィール共和国。
在りし日のラディスが望んだ、最善の結末に至ったのだ。
革命の立役者の一人であるルナリスは、自分がトップに立つことは拒否し、自由選挙の実施とそれに伴う選挙委員会の結成を求めた。
あまりに突出した功績は、足を掬われる原因となると自戒して。
元より、革命と共和国樹立までがルナリスの目的である。
後は国が誤った方向に向かわないよう、風紀を引き締めるだけだ。
……あの二人が死んだことも、ルナリスの中で尾を引いていたのは確かだけれども。
「だからって、王国が残した財産の目録作りとか……」
「下手な人間に任せれば、汚職の元となるでしょう。当然です」
ぶつくさと愚痴るジエメイを他所に、ルナリスは淡々と仕事をこなしていた。
「王家の蔵書はさすがに稀覯本が多いですね。どうします?」
「目録にして他国も交えたオークションにします。我が国にとって有益な本は残しますが」
そうして、蔵書を片付けていた時。
一つの本が目に留まった。
「『毒物目録』……書に刻まれた印から察すると、王家のみが閲覧を許された本のようです」
「おお、なかなか興味深いですね。読みましょうよ、ルナリス様」
もちろん、王家の許可など何の意味もない。
ルナリスは迷わず、革と羊皮紙で構成された重厚な本を開いた。
「うわあ、こんな毒がこの世にあるんですねぇ」
ジエメイが驚きのあまり呆けたようになっている。
毒物目録の毒は、ルナリスですら聞いたことのないものが多かった。
三日後に必ず死ぬ毒、死ぬ直前に狂う毒、眠るような毒、あるいは感染する毒、無味無臭の毒、毒、毒、毒。
長きに渡る宮廷と、貴族たちが生み出した悪趣味な毒の数々だ。
「使われなかったのは幸いでしたね。意味はあまりなかったでしょうが……」
だが、これらの毒はあくまで「貴族が貴族を蹴落とす時」にのみ使うものであり、怒り狂った市民たちが押し寄せてきた時に使えるようなものではなかった。
ふと、地下牢で抱き合って消えた二人を思い出す。
「……月光蛾の毒……あった」
ルナリスは、何とはなしに月光蛾の毒の項目を探して読んだ。
この毒のみ、下級貴族や平民たちにも知れ渡っていた。
苦痛なく、そして美しく死ぬための毒として。
説明にはこうあった。
青白く輝いて体が消える毒。使えば死体ですら消し去る。
神経性の痛みはないが、体を崩壊させるという性質上、強い目眩や吐き気、極度の酩酊感があり――
「……え」
強い目眩、吐き気、極度の酩酊感?
どくん、とルナリスの鼓動が弾む。
この蔵書をラディスが読んでいないはずがない。死体が辱められないためとはいえ、彼がこんな毒を使うだろうか?
知っているのに、あの毒を使った理由は?
死体が辱められることを防ぐため?
死後のことを考える余裕が、二人にあったのか?
それよりは、苦痛のない死の方が……。
……。
……。
……。
……。
……まさか。
「ついてきなさい、ジエメイ!」
走り出す。ガーネット・トリンクロウとラディス・ゼフィリアが死んだ牢は、封鎖して誰にも使わせていなかったはずだ。
既に囚われた上級貴族は残っておらず、あの牢を使う必要もなくなっていた。
何より、死体にも影響を与える月光蛾の毒を皆が恐れたというのもあるのだが。
ルナリスは牢に駆け込む。
……あの時は怒りのあまりに吼えて、その後に怒濤の如くやってきた事態の対処に追われることで、じっくりと観察する余裕がなかった。
とはいえ、そこまで異常がある訳でもない。
貴人用の比較的広めの牢。トイレにも仕切りがあるのは情けというものだろう。
テーブルと椅子がある。ここで尋問を行うためのものだ。
……ルナリスが記憶するより、隅に移動されている。
ああ……中央で二人が抱き合っていたから、テーブルと椅子は邪魔だったのだな――とルナリスは考えて、首を傾げる。
死ぬ時にそんなことを考えるだろうか?
それでは、まるでこちらに見せつけるためだったように思える。
「……ジエメイ、探してください」
「探すって何をですか?」
「怪しい物、をです」
「そんな無茶な!」
ルナリスは手当たり次第、あらゆる場所を探す。元より、貴人用の牢といっても狭く簡素なものだ。探す場所はそれほど多くはない。
「血痕……」
ベッドの下に、既に茶褐色となっていたが血痕が残されていた。
かなり深手だ、とルナリスは判断する。
「ルナリス様。特に怪しい物は見当たりませんでしたが……結局、どうしたんですか?」
「ガーネットとラディスが生きているかもしれない、そう思っただけです」
さっとジエメイの顔色が変わり、声が真剣味を帯びたものに変わる。
「それは……大変なことですよ。もし知れ渡ったら、噂だけでも大騒ぎだ」
「内密にお願いします。私も確信している訳ではないので」
ジエメイがふと何かを思いだしたように笑い出した。
「あ、いや。ルナリス様。それは有り得ないでしょう」
「何故です?」
「王家紋ですよ、あの左手の! あれだけはちゃんと見ることができました。あれは王家秘伝の技術で偽造は不可能ですし、あの紋章の模様は間違いありません!」
「……!」
そうだ、肝心なことを忘れていた。
この牢でラディスが死亡したと確信できたのは、あの左手の甲にある王家の紋章を見ていたからだ。
あの左手の甲の――
ルナリスの脳内で閃光めいたものが迸った。
ベッドの下にあった血痕、左手の王家の紋章、月光蛾の毒。
全てが、つながっていた。
どうしようか、とルナリスは思う。
怒るべきなのだろうか、悲しむべきなのだろうか、落胆すべきなのだろうか。
いや、きっとどれでもない。
この場合、選択肢は一つだ。
ルナリスは思い切り笑い出した。
心の底から、こんな慶事は聞いたことがないというように。
◆
シルフィール共和国の隣国、の更にもう一つ隣の小国。
王政を敷いてはいるが、既に政治体制は共和国式に変化しており、王家はあくまで象徴としての役割を果たしている。
周囲の強国と古くからの同盟を結んでいることにより、基本的に戦争とは無縁の、穏やかな国。
そんな王都の片隅で経営されている、小さな喫茶店。
そこに、ルナリス・バーマイマーは観光客として訪れていた。
注文したコーヒーがそっと置かれると、テーブルの向こう側に店員が座った。
「大したものだね」
「それはこちらの台詞ですよ。ラディス様」
ルナリスの対面に座った店員は、かつてラディス・ゼフィリアだった男。
今は左腕のない、無名の優男だった。
◆
「いいかい、ガーネット? 時間がないから、一度しか説明できないよ。まず、この毒は知っているね?」
「月光蛾の毒……」
「そう。この毒で私たちは死を偽装する」
「……!」
「代わりに死んでもらうのは、この二人だ」
ラディスが牢の外側から引き摺ってきたのは、既に事切れている二人の死体だった。
どちらも化粧されていて、幾分かラディスとガーネットに似てはいる。
だが……。
「この程度では誤魔化されないのでは……!?」
「もちろんだ。だから、確実に死んだと思えるだけの証拠が欲しい」
手が震えて、喉が渇く。
何度も何度も繰り返し考えて、ようやく辿り着いた結論だった。
「よく見てくれ。この死体には左腕がない」
「あ……」
ガーネットは悟った。
剣は脱出口を切り拓くためのものではない。
今から、ラディスの左腕を斬り落とすためのものなのだ。
「お止めくださいませ! それでは――」
「これは贖いだ。国を捨てて、生きようとする私へのね。それでも……君が生きてくれるなら、私は腕を捨てることに躊躇いはない」
ラディスは迷いなく、自身の左腕を剣で切り落とした。それから、斬り落とした左腕を死体に添えた。
血痕が床に残るが、恐らくそれほど重要視はされないだろう。強く縛って、どうにか血を止める。
予め指定していた時間帯に爆発が起きた。
「……よし、来るな」
複数の足音――この牢に真っ直ぐやってくる。死体に月光蛾の毒を振りかける。皮膚から吸収された毒は、たちまち死体を青く輝かせ始めた。
そして二人はベッドの下に隠れた。
息を殺し、タイミングが合うことと騙されることを祈る。
はたして、その試みは上手くいった。
ルナリス・バーマイマーが叫んだ。認めない、と。
その叫びに苦笑し、ラディスの胸が少し痛んだ。
だが謝るつもりはない。
やがて、ルナリスと彼女の部下以外も続々と人がやってきて、混乱しながらも状況を統制しようとする。
予め金を掴ませて市民たちが騒ぐように仕向けていたため、革命軍は焦燥を抱くだろう。
事態を把握するよりも、事態を誤魔化す方向に出るはずだ。
適当な代役をあてがい、ガーネットの処刑を執行したことにする。
全てラディスの予想通りだった。
夜になる頃には、見張りの兵士すらいなくなっていた。
そこでようやく、二人はベッドの下から這い出した。失った腕に痛みが走るが、致命傷ではない。
茫然自失といった体のガーネットが、呟く。
「どう、して……こんなに、なってまで……」
「愛しているからだよ」
結局、ラディスはそれだけだった。
ガーネットが愛しかった。ひたむきに自分を愛してくれるこの婚約者が、ただただ愛しかった。
左腕など、惜しくはない。
「わたくしは……生きて、いいのでしょうか?」
「それは分からない。でも、ガーネットには幸福に生きて欲しい。それだけが、私の望みだったんだ」
ガーネットは童女のようにあどけない仕草で、こくりと首肯した。
◆
「少し老けましたね。髪の色も見違えました」
「目立つからね……」
ラディスは照れたように、右腕で頭を掻く。その髪の色は、野暮ったい茶色だった。あの麗しき黄金の髪は、捨てるべきものだった。
「それで、どうする? 逮捕しにきたのかい?」
「まさか」
ルナリスは一息に、ラディスが持ってきたコーヒーを飲み干した。
「この国にいる以上、私たちはあなた方に手出しすることはありません」
「その言葉を信じるよ」
ルナリスは立ち上がる。推理が正しかったことを確認できたのなら、もうこの国に用はない。
「さようなら。もう会うことはないでしょう」
「さようなら。君の人生に、幸あらんことを」
ルナリスは銀貨を弾いてラディスに渡した。
ありったけの、万感の想いを込めて。
そういう未来もあったはずだった。
シルフィール共和国の情勢は落ち着き、王国時代から民衆に慕われていたラディスは帰還。
共和国政府に組み込まれたラディスは、かつてのようにルナリスと働く。そんな未来が。
惜しい未来だったけれど。
ラディスは笑っている。それだけで充分だとルナリスは思えた。
「ありがとうございました」
呼びかける女性の店員。
ルナリスは彼女にそっと囁いた。
「どうか、お幸せに」
「……はい!」
ガーネットの屈託のない笑み。ルナリスはその笑顔を初めて見たな、と思う。
全てを捨て、左腕を失い、それでも愛を失わなかった君たちよ。
どうか生きて欲しい。幸福に生き続けて欲しい。
そんな砂糖菓子のように甘い結末を、世界でこの二人くらいは享受していいとルナリスは思うのだ。
――私は真実の愛を見た。
反論する者もいるだろう、否定する者もいるだろう。
けれど私は確かにその行動に。
真実の、愛を見た。
作品タイトル、昔のSF小説っぽくなりましたね。
かなり難しかったですが、書いていて楽しかったです。
ちょっと迷いましたが、一応貴族への「ざまぁ」ということで、
ざまぁタグつけさせていただきました。
面白かった方は、是非ポイントをお願いいたします……!