③
「あの……。申し訳ありませんでした」
「ん?」
「助けていただいたのに、暴れてしまって……」
「ああ、覚えてんのか。気にすんな、俺たち鬼人は頑丈だ。よくほかの種族からは殺しても死なねぇって言われるくらいにな」
「でも、違う方なのに、ひどいことをしてしまって……」
「俺が小僧と違うって分かったか」
山の鬼は嬉しそうに笑った。
「お声が違います……」
見掛けで見分けはつかないが、あの山の鬼と、この山の鬼は別人だと今なら分かる。なによりサチに向ける表情が全然違う。
起き抜けの混乱も去った今、サチはなにをしてしまったのか鮮明に思い出していた。なにがサチにそうさせたかも一緒に思い出したが、思い切り暴れたからか、あのとき感じた、死にたいという焦燥感や、すべてを諦めたような虚脱感はサチのなかから抜け落ちていて、今は、この山の鬼への罪悪感と、すべてを曝け出してぶつけてしまったことへの羞恥心に襲われている。
「俺はガザンってんだ。おまえ、名は?」
「サチと申します」
「サチ。いい名前だな」
ガザンはサチのすぐ側に、台の下に片足を投げ出しもう片足は台の上で組むようにして腰掛けると、嬉しそうにサチを見た。ガザンが立っているときよりは高いところから見下ろされない分、威圧感は減ったが、それでもガザンの顔を見ようとすると、サチは見上げなければならない。
「ガザン様……」
「ガザンだ」
「ガザン……さん」
「ガザン」
「……ガザン」
「そうだ。おまえはそう呼べ」
「……はい」
恩人であり、暴力を振るってしまったガザンの願いなら、サチにできることはすべて応えようと思った。
そう。サチは、ガザンに暴力を振るってしまった。
「あの、ガザン。本当にお怪我はないのですか」
「お、サチ、俺を心配してくれるのか」
ガザンはますます嬉しそうに笑った。だが、サチはガザンにしてしまったことを、すべて鮮明に覚えているのだ。
衝動のままに、叩いて、引っかいて、噛みついて、蹴飛ばした。どれもこれも加減なしの全力でやった。やってしまった。初めて会ったガザンに対して。
サチは気分が悪くなるほどの罪悪感に苛まれた。
「大丈夫、鬼人はほんとに頑丈なんだよ。サチの全力なんて、撫でられたほども感じねぇ。でもまあ、この噛み痕はすげえ嬉しかったな」
そう上機嫌に笑って、胸元をぐいっとはだけたガザンは、胸に付いたサチの歯形を見せた。サチはますます青くなったが、ガザンはその歯形をうっとりした表情で眺め、思いがけず美しい指先でなぞっている。
「この噛み痕は、初めて俺に刻まれた所有印だ。噛み千切る勢いで噛んだからこそ、こうして残すことができる。なにせ鬼人は頑丈だ、そうでもなきゃ痕も残らん。それじゃあつまらないからな」
上機嫌にガザンは言うが、サチはなにを言われたのか、とっさに飲み込めなかった。
「あの……」
「サチは俺の嫁にする。だから、俺の家に、俺の寝室に、俺のベッドに招き入れた」
「え?」
「大丈夫だ。ちゃんとサチの気持ちを俺に添わせてから進めるさ。それが鬼人の嫁取りってもんだ」
「え?」
「サチが言ったんだろ? もういらないってな」
「……あ……」
確かにサチはそう言った。叩いて、引っかいて、噛みついて、蹴飛ばして、そしてしがみついて泣き喚いたときに、サチはサチをいらないと言った。
「捨てたもんなら拾ったもん勝ちだ。おまえはもう俺のもん」
艶やかに笑うガザンの深い緑色の瞳は、まっすぐにサチを貫いた。そこには人間には抗えないしたたるような深い色香があって、その不思議に光る瞳の強さに、魅入られたように吸い寄せられた。
搦め捕られたように、目を逸らすことができない。
「まあ、ゆっくりいこうや」
ガザンはにやりと目を細めて笑った。
サチはぷはっと息を吐いた。どうやら息をつめていたようだ。ガザンが今度は楽しそうに声を上げて笑う。
「よし。サチ、メシは食えそうか? もうあっちに用意はできてんだ。こっちに持ってくるか? それともテーブルで食う?」
てーぶるってなんだろう。サチはそう思ったが、いつも身に纏わり付くようにあった体の重さを今は感じない。ふと、サチは自分が着替えているだけでなく、体が身ぎれいになっていることに気づいた。
いつの間にきれいになったんだろう?
ともあれ寝床に持ってきてもらわなくても、サチが移動できる。
サチがそう言うと、頷いたガザンは立ち上がって、片腕でひょいと軽々サチを抱き上げ、すたすた歩きだした。驚いたサチは思わずガザンに抱きついた。
「お、いいな。そのまましっかりつかまってろよ」
ガザンは上機嫌のままサチを運ぶ。サチは不思議な気持ちで、抱き上げられたことで近づいたガザンの顔を見つめた。
サチは醜く卑しいのだから、嫁だなんて言われてもどうしてそうなるのかさっぱり理解できなかった。でも、ガザンがサチを見る顔が楽しそうで、嬉しそうで、そんな顔で他人から見られることなどなかったサチの心は、その顔を見るだけで、温かく弾むようだ。
そんなふわふわした気持ちのまま、ガザンに運ばれたサチは、いつのまにか美味しそうなご馳走がいっぱいのった、脚の長い広い卓の前に来ていた。
背もたれのついた美しい細工の施された腰掛け台にサチを下ろすと、ガザンもサチのすぐ隣りに腰掛けた。