②
「……おい。おい」
どこからか声がする。
「おい。起きろ。若い娘がこんなとこで寝てたら駄目だぞ」
ふふ。なんておかしなことを言う人なんだろ。サチみたいな醜く卑しい者は、若いとかなんだとか、そんな区分に入らないのに。
サチはまだ眠りのなかにいたが、聞こえてきた言葉に思わず笑ってしまった。
「おい。笑えるんなら、起きれるだろ」
でも、この声を聞いてるのはいい気分。
サチを嘲笑う気配もない、こんな声を聞いたのはいつぶりだろうかと思っていると、サチは優しく抱き起こされた。
「起きないんなら襲っちまうぞ。……こんな美人、なんでこんなとこに落ちてんだ……。どこの誰だか分からんが、落としもんなら拾ったもん勝ちだよな?」
サチはかっと目を見開いた。
「うおっ、びっくりした! 急に目を開くなよ! 俺はなにも悪いことしようなんてしてないぞ!」
サチの目の前に、慌てた顔をした山の鬼がいた。
サチの顔から、表情が抜け落ちた。
「お? なんだ? なんでそんな目で俺を見る」
山の鬼の声に、サチを責める響きがあった。それを聞いた途端、諦めきったサチの心に、これまで感じたことがないほどの怒りが満ちた。サチの口から唸り声が漏れる。
「お?」
そこからはもう、サチは衝動を抑えられなかった。
叩いて、引っかいて、噛みついて、蹴飛ばして、そしてしがみついて泣き喚いた。
今までの恨み言のすべて、悲しみのすべて、苦しみのすべて、サチの人生のすべてを、思うがままに吐き出した。
そして、サチに怪我をさせないようにか、黙ってサチの好きなようにさせていた山の鬼の腕のなかで、すとんといきなり、子どものように眠りに落ちた。
「……おーお、いーい暴れっぷりだったな。……うーん、どっかで見た気もするんだが思い出せねぇなぁ。こんな美人、忘れるはずねぇんだが……」
その声は、村に来る山の鬼とは違っていたが、眠ってしまったサチには届かなかった。
サチはぱちりと目を覚ました。
暑くも寒くもない、とても居心地のよいその場所には、どこからかとても美味しそうな匂いがした。そんな場所で、サチは信じられないほどふかふかな布団で眠っていたようだ。
ここはいったいどこなんだろう。……布団?
「……っ」
とっさに、村の者に叱られると思い、慌てたサチは飛び起きると勢いよく布団から飛び出した。そしてそのまま宙を泳ぎ、床にべしゃっと膝から落ちた。
「……いたい……」
起きたときには気づかなかったが、サチが寝ていた布団は、床よりも高い大きな台の上いっぱいに敷かれていて、寝床とは床と同じ高さだと疑いもしなかったサチはそこから落ちたのだ。
「おいっ、大丈夫か? なんかすごい音したぞ!」
開け放たれていた扉から、山の鬼が飛び込んできた。
「ベッドから落ちたのか? おまえは俺たち鬼人と違って脆いんだから、気をつけなきゃだめだ」
山の鬼は目の前までまっすぐやってきて、サチを優しく抱き起こしてくれた。そしてサチの体をふわっと持ち上げ、先ほどまでサチが寝ていた布団が敷かれた台の上に戻してくれる。
「どっか痛むとこはあるか?」
「はい……いいえ……」
「どっちだよ」
山の鬼は可笑しげに笑った。でもそれは、村の者がサチを嘲笑うような笑い方とは似ても似つかぬ、気持ちのよい、からっとした笑い声だった。
眠っていったん落ち着いたサチは、その笑い声に気持ちを解され、気づいたときには膝が痛むと、山の鬼に教えてしまっていた。
いけない! そんな泣き言こぼしたら、叱られる!
強張ったサチの顔を見ると、山の鬼はサチの頭に手を置いて、大丈夫だというように笑いかけてくれてから、その手でサチの膝を服の上からそっと撫でた。
「どうだ? まだ痛むか?」
「いいえ……え? 痛くない……どうして?」
山の鬼が撫でてくれたサチの右膝は、じんじんひりひりしていた痛みがすっかり消えていた。いつの間にか着替えていた、すごく肌触りのよい白い伸縮性のある布でできた貫頭衣を慌ててめくりあげて、サチは両膝を確認した。
左膝は血が滲んでいて、血が滲んでいないところも皮膚の下に血がたまっているようだった。それなのに、右膝はどこもなんともなっていない。
無遠慮に一緒に覗き込んでいた山の鬼は顔を顰め、気をつけねえと、と呟いた。
「どうして……」
「いい眺めなのに不粋な傷だ。治しちまおう」
山の鬼が今度は直接左膝に触れると、そちらもきれいに傷が消えた。サチは礼の言葉も出ないほどに驚いた。
「綺麗な足だな。おまえに傷は似合わない。ほかには痛むとこないか?」
「はい……どうもありがとう……」
よく見ると、いつ治したものか古い痣や傷痕もきれいに消えていた。
サチはようよう礼を告げた。
山の鬼はこんなこともできたの? 村に来ていた山の鬼は、こんなこと、しているところ見たことない。でも、見せなかっただけかもしれない。
ああ、でも、それよりも。サチはこの山の鬼に謝らなければならない。
もうサチにも、この山の鬼と村に来る山の鬼は、違うのだと分かっていた。