吉岡美里のお話③
カーテンを開けると、空には分厚い雲が立ち込めていた。美里は短く呻き声を上げて、布団から体を起こした。起きたところですることなどないのだが。
美里はもう一週間も会社を休んでいた。上司の関に電話を掛けると、少し間があったが
「分かった、気が済むまで休んでいい」と言ってもらえた。有給は十分に貯まっていた。
美里が勤める広告代理店にとって、三月は最も忙しい時期であったが、美里はどうしても働く気になれなかった。
それどころか、外に出るのも億劫になってしまった。一度都心まで出ようと試みたが、道行く人の幸せそうな笑顔と、不幸な自分を嘲笑っているんじゃないかという猜疑心に押し潰されそうになった。今はコンビニとゴミ置き場以外に、美里の外出先はない。
一度婚約まで行った手前、両親の心配は相当なようで、「一度実家に帰ってこい」と何度も電話が来たが、美里は固辞した。両親に要らぬ心配を掛けたくなかったし、何より一度福岡の実家に帰省してしまうと、二度と東京に戻って来られなくなると思った。
美里の精神状態とそれに依拠する生活環境は、崩壊の寸前でなんとか踏みとどまっているようなものだった。
失恋ってここまで辛いものだったっけ――ぼんやりと考える。美里はこれまでにも何人かの男と付き合った。振られもしたし、振りもした。だが、夜通し泣いて、親友に愚痴をこぼせば、大抵はすぐ立ち直れた。怜士が今までの中でとびきりイイ男というわけでもない。
美里はおもむろに洗面所に向かうと、洗顔フォームで顔を洗った。化粧水と乳液を顔になじませる。不規則な生活のせいで、美里の肌は大いに荒れていた。コンビニ弁当と菓子という乱れた食生活のために、おでこには大きなニキビができてしまっている。年齢のせいでもあるのだけれど。
そう、年齢のせいかもしれない――再び思案を巡らす。今年で二十九になる美里にとって、結婚は切迫した問題であった。そんな美里にとって婚約破棄とは、幸せに向かう梯子を直前で外されたも同然であり、もう一度幸せに向かって壁をよじ登るだけの気力がどうしても湧かないのだった。怜士に逃げられたというよりは、「幸せ」に逃げられたような、そんな気持ちだ。
その証拠に、美里が今一番感じているのは怜士への未練ではなく、腹立たしさであった。怜士を奪っていった名も知らぬ女に。自分を捨てて幸せを手に入れようとしている浅はかな男、怜士に。そして、そんな浅はかな男と本気で幸せになれると思っていた私自身に。
美里に後悔があるとすれば、別れを切り出されたあの場で怜士の横面を思い切り殴らなかった、しおらしい自分の行動くらいだ。
「ばかみたい」美里は呟いた。誰に対してなのか、はたまた自分自身か。
あの日の自分の怒りを代弁しているかのように、額のニキビは赤く腫れていた。