吉岡美里のお話②
夜になり、美里は二人で住んでいたアパートに帰った。鍵が掛かっていない。
あれから五時間が経っていた。三時間というタイムリミット通りに帰らなかったのは、せめてもの優しさと、うっかり出くわすのが嫌だったのと、もしかしたらさっきの出来事は嘘だったんじゃないかという、かすかな期待があったからだ。
部屋は明らかに閑散としていた。怜士が置いていたもの――邪魔だといつも文句を言っていたギター、二人でお揃いを選んで買ったマグカップ、誕生日に美里が奮発して贈ったブランド物のコート。ほかにも、三時間とは思えないくらいたくさんのものがなくなっていた。
美里は、この部屋からなくなった大きな荷物を抱えながらアパートを出る怜士の、滑稽な姿を想像して力なく笑った。笑った瞬間、失っていた感情が津波のように押し寄せてきて、美里は激しくかぶりを振った。
泣いている場合じゃない。こんなちっぽけな出来事、さっさと忘れて次に進まなきゃ。美里は自分を奮い立たせようと頬を両手で二度叩いた。
すると不意に、机の上に置いてある一枚の紙きれに気が付いた。手に取るとそれは、怜士からの置手紙だった。殴り書きの文字を目で辿る。
「美里へ
お前が俺なんかより良い人と幸せになることを、心から願ってる。
一年半、長い間ありがとう。
そして、本当にすまない。
怜士」
手紙の横には部屋の鍵と百円玉が六枚――二人分のコーヒー代だった。
さっきまでの出来事が現実だったという実感が一気に襲って来た。美里は床にしゃがみ込むと、声をあげて泣いた。
美里は悲しいというより、悔しかった。自分がこんなにも長く思い続けた人が、一瞬でその思いを踏みにじったことに。自分の一年半という歳月が、知らぬ女に負けてしまったということに。
「なによ。ふざけないでよ。こんななら初めから告白なんかしてくんじゃないわよ。何がありがとうよ。自分だけ思い出を美化して、気持ちよく浸ってんじゃないわよ」
しかし同時に、二人楽しかった思い出が走馬灯のように頭を駆け巡るものだから、なおさら辛い。美里はしゃくりをあげた。
「ひ、一人にしないでよ。わたしを置いてかないでよ」
涙は涸れることなく、美里の心を濡らし続けた。
私なんか、もう一生幸せになれないんだ――美里は、さっきまで辛うじて持っていた前向きな心を、すっかり枯らしてしまった。代わりにどす黒い、負の感情ばかりが雑草のように、あとからあとから美里の心を覆っていった。