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吉岡美里のお話①

 目の前の光景が理解できない。


 どういうこと――吉岡美里は喫茶店の片隅で、誰に向かって言うわけでもなく呟いた。


 眼前に広がる事物の一つ一つは説明できる。テーブルの上には冷めかけた二つのコーヒーと同棲するアパートの部屋の鍵、そして頭をテーブルにこすりつけたまま動かない私の彼氏、怜士――。


 ただ、それらから導かれる答えを考えようとすると、頭が分厚い霧が覆われたようにぼんやりとして、よく分からなくなる。


 「どういうこと」今度ははっきりと言葉にできた。怜士がようやく顔を上げる。


 「別れてほしい」怜士は神妙かつ沈痛な面持ちで、三分前の言葉をそのまま繰り返した。


 美里はこの言葉も理解できなかった。正確には、言葉の表面は理解できるのだが、深部、この言葉の出てくる意味が理解できないのだった。


 美里と怜士は付き合って一年半だ。出会いは友人の紹介という、ごくありふれたものではあったが、社交的で優しい彼の性格に美里は惹かれた。


 出会って三回目のデートで告白されて付き合いだした二人は、一年を過ぎた頃にアパートで同棲を始めた。「結婚する前にお互いの生活を知っておいた方がいい」という怜士の提案に美里は従った。そして三カ月前に、プロポーズされた。


 どこにでもある「ごく普通の幸せ」を美里は感じていた。元々人並みから外れるのを好む性格ではなかったので、このまま「ごく普通の幸せ」がずっと続けばいいと思っていた。


 だから、理解できない。


 「どうして」美里は震える声で尋ねた。怜士と目を合わせられず、目線はその横のコーヒーカップを捉えている。


 「…好きな人ができた」怜士の声も震えていた。もっとも、同じ震えるにしても意味合いは全く違うのだけど。


 「それだけじゃ分からないでしょう」美里は努めて冷静に問いかける。だが怜士には、その冷静さが却って恐怖なのか、貧乏揺すりを始めた。カップの中の水面が僅かに揺れる。


 「相手は俺の高校時代の同級生で、当時好きだったんだけど片思い止まりで。で、こないだ同窓会でたまたま話したときに、実は好きだったって言われて、俺の方も気持ちが盛り上がって、それで…」最後はしどろもどろになりながらも、怜士は詳細を伝えた。


 「言いたいことは分かった」美里は一つ深呼吸をすると。真っ直ぐ怜士を見据えた。


 「でもどうして。どうしてそれだけのことで、今までのことが全部なしになっちゃうの。私の気持ちはどうなるの」そう言って美里はテーブルの上に左手を置いた。薬指には、怜士が三カ月に夜景の綺麗なレストランで渡した指輪が光っている。


 「本当にすまない」怜士はもう一度深く頭を下げた。


 「結婚に対する不安は前々からあって。そのタイミングとたまたま重なったというか…。この思いを留めたままお前と幸せになるのは難しいと思ったというか…」


 美里は、要領を得ない喋り方で貧乏揺すりを続ける目の前の男のことを、突然「どうでもいい」と思ってしまった。


 もうどうでもいい。こんな男も、こんな男を好きだった私自身も。


 「分かった、もういい」美里は毅然と言い放った。


 「今から三時間あげる。その間にアパートにあるあなたの荷物を全部引き払って。引き払えない物は私が捨てるから」薬指から指輪を外しテーブルに置くと、美里は立ち上がった。


 「おい、どこ行くんだよ」怜士は泣きそうな顔で弱々しく尋ねる。


 「三時間外で暇をつぶすの。どこだっていいでしょう」里美は冷めた目で怜士を見下ろす。


 「じゃあ、お元気で」


 背中から何か声が掛かったが、美里は聞こえないふりをした。そのままレジで二人分の会計を済ませると、足早に店を立ち去った。




 感情がどこかに行ってしまったようだ。足だけを機械的に動かして、美里は歩いた。


 どうして、どうして、どうして――。さっきまで止まっていた思考が、歩調に合わせて溢れ出す。




 どうして、私がいるのに他の人を好きになるの。


 どうして、私にプロポーズなんかしたの。


 どうして、私だけがこんな思いをしなくちゃいけないの。


 どうして、私はあんな人を好きになってしまったの。




 美里は思考を巡らせ続けることで、感情の入り込む隙をシャットアウトしていた。脳内で呪文のように「どうして」を連呼しながら、里美は行く当てもなく歩き続けた。

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