彼が愛した絵
ペタ、ペタ、ペタ。
ここはどこ?どうして僕、裸足なんだろう。
気がつくと裸足で歩いていた僕は、辺りを見渡した。真っ暗だ。
夜なんだろうか。床が冷たい。足に張り付くほどつるつるしている。だんだん目が慣れてきた。
薄暗い、広い廊下。両側の壁には、大きなキャンバスが高そうな額に入って飾られていた。
廊下が続く限り飾られていたキャンバスは、全部真っ白だった。まるで絵だけ消えたみたいに。
「来たことがある気がする……」
すると。
チリン……チリン……。
鈴の音が聞こえる。
チリン……チリン……。
音のする方へ行くと、白い猫が一匹、キャンバスをじっと見ていた。そのキャンバスは、他とは違い、色がついていた。
茶色い外国の豪華な椅子が描かれている。ぺたぺたという、直人の足音に気づいた猫が、青く光る瞳を向けた。綿毛のように全身真っ白な猫に、直人は問いかける。
「ねぇ、君。ここ、どこか知ってる?」
猫はうんともすんとも言わず、また椅子の絵を見つめた。
「どうしようかなー。早く帰らないと、母さんに叱られる」
チリン……チリン……。
また鈴が鳴った。猫は、暗くて何があるのか分からない廊下の先を歩いていく。
すると振り返り、直人をを見た。まるで「ついて来い」と言っているような、ふてぶてしい目をして。直人は猫についていくことにした。
丸い天窓から月の光が差し込む、床に光の縁ができている広いフロアにやってきた。そのフロアからは、道が三つに分かれていた。
直人の歩いてきた道と合わせて四つある。十字路になっている。猫は正面の道に歩を進める。すると、猫の前に白い髪のきれいな女の人が現れた。女の人は優しい顔で猫を抱き上げる。肩を出した真っ赤なドレスを着た女性。床につくほど長く長い髪、肌が白い。その人の目も、猫のように青かった。
……どこかで見たことがあるような……。それにしても、きれいな人だなぁ。
猫の背中をなでる彼女に見とれていると、コツコツとヒールのかかとを鳴らして直人に近づいた。
目の前に立つと、女の人はとても背が高かった。学校近くの桜の木ほど、高かった。見上げ続けていると、首が痛い。すると、彼女は直人の目線の高さまでしゃがむ。目を丸くして緊張していた直人に、やさしく微笑みかけてる。彼女の笑顔を見て、安心した。ここがどこか聞こうとすると、
「探してきてほしい物があるの」
女性が先に告げた。
「探してきてほしい物?」
「そう。この建物の中のどこかにあるの」
「それは、何?」
「私にとって、とても大切なもの」
猫が女の人の腕からすると抜け出し、直人の右足に絡みついてきた。
「この猫は、お姉さんの? あれ……」
猫に気を取られていると、いつの間にか女性の姿がなかった。
どこに行ったんだろう……。
直人はとりあえず歩き回ってみることにした。足に絡みついていた猫は、まるで親鳥についてくる雛鳥のように、直人の後をついてきた。
探している、大切なものってなんだろう……。
探し物の大きさが分からない。廊下の隅から隅まで、探してみよう。直人は下をずっと見ながら歩いていると、
ガツン。
「いったぁ~」
行き止まりの壁に、激突してしまった。頭を押さえて、座り込んでいると。
カランッ、カランッ。
後ろで何かが落ちる音がした。
振り向いてみると、そこには棒のような物が転がっていた。一瞬にして血の気が引いた。
「なんで……これがここに……」
震える両手で、その棒を拾った。体中から汗がにじみ出る。呼吸が荒くなって、心臓がバクバク言っている。と、その時。
視界の端に、カーテンのようにひらひらした、彼女の赤いスカートが見えた。バッと振り向くと、そこにはさっきの女の人いた。とても嬉しそうな顔をして、直人に抱きついた。
「ありがとう! 直人! 見つけてくれて!」
女の人は、名前を呼んだ。教えてないはずなのに。バッ!と彼女から離れて、後ずさる。
すると彼女は、無邪気な子どものように笑い、手を伸ばした。
「それをちょうだい。直人」
「え。でも、これは……きっとお姉さんの探し物じゃないよ! だってこれは」
「いいえ。それを探していたの。あなたが、自分の部屋に隠した、それを……」
「な、なんで、知って……」
緊張なんて吹き飛んでしまうほどだった彼女の笑みが、今ではピエロのような不気味な笑みに見えた直人は、怖くて、ガクガクと足が震えていた。と、その時。
「渡しちゃだめにゃ!」
なついていたはずの猫が、牙をむき、彼女にとびかかった。
「きゃあ!」
「早く逃げろにゃ!」
猫が女の人の顔にへばりつきながら、直人に向かって叫んだ。猫を引きはがそうと、もがく彼女の横を全力で走り抜けた。僕は杖を抱えて一直線に走っていった。
「はぁ、はぁ……」
走っても走っても、同じ景色。真っ白なキャンバスが入った、高価そうな額縁が延々と壁にかかっている。
直人は無我夢中で走っていたが、あの時、猫がしゃべって逃がしてくれた。彼女はこれを欲しがっている。
「でも、これは……あっ……」
ふと、壁にかかる一枚の絵を見た。あの猫と出会ったとき、猫が見ていた、誰もすわっていない外国の大きな椅子の絵。
僕はこの絵を見たことがある。一人で見たことはない。隣にいつも……。
振り向くと、昔と同じように、隣に立っていた。おじいちゃんは優しく笑って、
「久しぶりじゃのぉ。直人」
「思い出した……。ここ、じいちゃんと来てた美術館だ」
「そうじゃよ。わしはこの絵が好きで、毎日見に来ていたよ」
「この絵には、あの女の人が膝に猫を乗せて、椅子に座っていた」
「彼女はどこへ行ったんじゃろうなぁ」
おじいちゃんは、さみしそうな目で絵を見つめていた。
ここに座っていたのは、直人の持つ杖を欲しがった、彼女だ。直人の両手が震える。おじいちゃんに会って、直人は何もかも思い出した。
僕は四年前、じいちゃんを殺したんだ。
ーーあの日、おじいちゃんとケンカした。僕はおじいちゃんを困らせようと、いつも使ってる杖を、部屋に隠した。
おじいちゃんは杖を探しに行くと言って、一人で探しに行った。
夕方、一本の電話が鳴った。お母さんが出ると、真っ青な顔をして電話を切った。
「お、おじいちゃんが……事故に」
おじいちゃんの顔には、白い布がかぶされていた。みんなが声をかけても、おじいちゃんは起きなかった。寝ているはずなのに、いつもみたいな大きないびきをかいていない。
体が動いていない。
次の日からおじいちゃんを見るのは、写真だけになった。
「じいちゃん……」
「んー?」
「ご、ごめん……。僕が、杖を隠したせいで……じいちゃん、死んじゃって……」
直人は泣きながら謝った。目も鼻も熱い。ぐじゅぐじゅする。片手で杖を持って、持っていない方の腕で目をこする。鼻水をすする。肩におじいちゃんのしわだらけの、大きな手が乗る。
「直人のせいじゃないんじゃ。わしの足が悪かったせいじゃ。段差でつまづくなんて、老いぼれにはよくあることじゃ」
「でも……杖があったら」
「そうじゃな。杖があったら、わしは転ばんかったかもしれん。でも、人間いつかは死ぬんじゃ。それが早まっただけじゃよ」
おじいちゃんは直人を抱きしめた。直人は感じるはずのない、おじいちゃんのぬくもりを感じて、わんわん泣き出した。
「……そうか。彼女はこの杖を」
二人は絵の前に座り込んでいた。目がウサギみたいに赤くなった直人は、今までの出来事をおじいちゃんに説明した。するとおじいちゃんはまた、さみしそうな目をして、直人から返してもらった杖を見つめた。
「どうして、あの人は絵の外にいるのかな? それにじいちゃんの杖を」
「それは……」
おじいちゃんが言葉を出そうとした瞬間。
「みーつけた♪」
目の前に、彼女が現れた。彼女はその長い髪とドレスの裾をひらひらとなびかせながら、宙に浮いていた。直人はとっさにおじいちゃんの肩にしがみついた。
「フェブリーナ……」
と、おじいちゃんがつぶやいた。
しかし、彼女は何の反応しなかった。ただただ直人に、ピエロのような表情を向けていた。口裂け女のような口が開く。
「なおとー……杖をー」
おじいちゃんが唇をかみしめ、杖を強く握ると、
「ばかもーん!」
それでフェブリーナの頭を殴った。フェブリーナは「ぎゃっ」と声を出して、床にたたきつけられた。頭を押さえる。そして、おじいちゃんをにらみつけた。
「何をする……私はお前を想って……杖を取り返そうと」
「フェブリーナ。わしが死んだのはこの子のせいじゃない……」
「違う! この子のせいであなたは死んだの! 会えなく……なったのよぉ……」
突然、彼女の目から大粒の涙が流れる。針のように細く長い手で、顔を覆い、白く透き通るような肩を震わせながら、しくしく泣いた。
天井の窓から降り注ぐ月の光が彼女を照らした。まるで舞台にたった一人の出演者のように。
するとおじいちゃんは立ち上がり、彼女の体を包み込んだ。
「フェブリーナ……すまんのう。突然いなくなってしまって」
「もう、あなたしか、私を見に来てくれないと思ってたのよ。なのに、あの子のせいで」
「孫を責めんでやってくれ。小さなイタズラじゃよ。それに、あの時のケンカは、わしも悪かった」
おじいちゃんは直人を見て「すまんのう」と微笑んだ。直人も謝ろうとしたその時。
チリン……チリン……。
鈴の音が鳴った。猫がやってきて、フェブリーナのそばに寄り添った。
おじいちゃんは優しい顔をして「お前さんも彼女のことが好きじゃのぉ」と言って、猫の頭をなでる。すると、猫は口を開き、おじいちゃんの名前を言った。
「……すまない。俺は彼女を、止められなかった……」
「いいんじゃよ。お前さんは孫を守ってくれた。それだけで十分じゃ」
「やっぱり、フェブの気持ちを動かすのは、お前しかいない」
フェブリーナは猫を抱えて、絵の前に立つ。その姿を、直人とおじいちゃんは見守る。
すると彼女は振り返り、にこっと笑った。おじいちゃんも微笑み返す。
「またな。わしの愛しき人……」
「さよなら……私を愛してくれた人……」
「君を愛してる奴は、他にもおるよ」
と、おじいちゃんは彼女の腕の中にいる猫を指さした。「そうね」とフェブリーナは、猫の頭をなでる。猫が「にゃ~」と鳴く。
フェブリーナの後ろにあった絵が光を放ち、何もかもを白い光が包んだ。
フェブリーナも猫も、廊下も美術館も。辺りが真っ白になって、そこには直人とおじいちゃんだけが向かい合っていた。
「直人……。気が向いたら、また彼女を見に来てやってくれ。彼女は、一人が嫌いじゃからのぅ」
「じいちゃんは、あの人のことが……好き……だったの?」
「ああ、そうじゃよ……きれいじゃからのぅ」
「そうだね……分かったよ」
「ありがとう、直人……しっかり勉強、頑張るんじゃよ」
「またそれ言うの?」
おじいちゃんは意地悪くにかっと笑った。直人もにかっと笑った。その時――ドン。
目が覚めると、直人はベッドから落ちていた。水色のカーテンがお日様の光で、透き通っていた。直人は起き上がり「いててて……」と頭をかく。
終わり