フラワーパークに捧ぐ
僕が人生で二度目の花束を贈るのは、まだもう少し先の話だ。
△新学期に捧ぐ
曇りとも晴れともつかない天気の中、時刻表通りにバスが来て、間抜けな音と共にドアが開いた。僕はバス停の標識に別れを告げて、指定の革靴でタラップを上がる。朝に聴くには耳障りなカンカンという音が住宅街に響く。いつも通り、この音を聞いているのは運転手と僕だけ。つつがなく開閉の儀式を終えたバスが、滑るように走り出した。
これが、普段通りの通学風景。空いている車内を歩き、つまらない気分をぶつけるように中央左側の座席に勢いよく腰を下ろした。抗議するかのように座席のスプリングがギシリと鳴る。バス通学を始めてから、僕はずっとこの席に座っている。理由は特に無い。たしか、自分だけの特等席と呼べるような場所が欲しかったとか、そんなきっかけだったはずだ。今ではここから時速四十キロメートルで流れる街並みや、バスに乗り込む人たちの眠そうな顔を見るのが日課になっていた。
学年が一つ上がったところで、朝の出来事は変わらない。他のクラスメイトにとってもそうであるように、高校三年生になって初めての通学なんてものに、大した感慨は湧かなかった。住宅街を作る家々に席替えはないし、バスで異星人と相席になることもない。予定調和のように学年が上がる、それだけのことなのだ。もちろん、それは前々から予感していたことだ。高校の終わりに大学受験があることや、部活の引退試合が散々な成績に終わり泣くこともできないことと同じように。
それでもささくれた気分で座っているのは、いつもと違うことをしようとした僕に罰が当たったせいだ。手に持っていたガーベラの花束を、隣の座席に置く。なんとなく、放り投げる気分にはならなかった。座席の上に鎮座したオレンジ色の花束は、男子高校生の右手にあるよりはおさまりが良いように見えて、それが余計に僕をつまらない気分にさせた。
発端は、学年が上がるのと同じくらいよくある話だ。二年生の中頃にある文化祭で、普段目立たない女の子と同じ役割分担にあたり、ひたむきな彼女に恋をしたのだ。群を抜くような容姿でもなく、目を引く才能があるわけでないと評される女の子が一生懸命に頑張っているのを日夜近くで見ていたのだから、平平凡凡な容姿・運動能力・学力の3冠王を持つ僕が惹かれるのは、つまらないぐらいに順当だったと言える。
「文化祭のことで連絡する必要があるかもしれないから」
なんて言ってSNSのIDを教えてもらってからやりとりが続いていたが、つい先日、『明日伝えたいことがあります、会えませんか』と送った。今日の僕がアドバイスできるなら、昨日の僕を殴ってでも止めてやりたいところだ。今朝バスを待つ間に『ごめんなさい』とだけ届き、今日の僕の手元には必要のなくなった段取りと、送り先のなくなった花束が残った。雑誌にもネットにも、花束の贈り方は飽きるほど載っていた。そのどちらにも花束の捨て方は載っていなかったから、僕は間抜けな顔でガーベラと登校するハメになった。
いっそ登校できないほど落ち込んだり、ドラマティックに失恋できたならば気持ちも幾分軽くなったのだろうと思う。残念なことに、誰が言うまでもなくつまらない恋愛と失恋で、くだらない新学期に「お前の恋も予定調和だ」と言われているような気分にすらなる。
思い返すこともなくなったころに、バスがゆっくりと速度を落とした。備え付けのスピーカーから、家から二つ隣のバス停の名前が繰り返される。バス停には沢山の人が並んでいる。一言も話したことはないけれど、毎日眺めているから自然と顔も覚えていく。先頭はいつも眼鏡のおじさん。その隣にはシルバーカーのおばあさん。同じ学校の生徒たち。列の最後尾、いつもと違う場所に立つ一人に目が留まった。
朝だというのに眠気を微塵も感じさせない意志の強そうな眼、校則の範囲ギリギリに収まる明るい茶髪、流行のアクセサリーがたくさんついた鞄。僕と同じ学校の制服を来て、短くしたスカートから惜しげもなく長い脚を見せている。たしか隣のクラス。
僕のように毎日バスから見ていなくても、学校の誰もが彼女のことを知っている。間違いなくクラスの中心で、本人も目立っていることを自覚している。そういう女の子だ。このバス停から急に混むおかげで、同じ学校に通っていながら彼女と話したことはない。スクールカーストど真ん中の僕が面と向かって話すには気後れするので、混雑のせいにしてそれぞれ平行線の毎朝を過ごしていた。
しんどそうに乗り込んできたおばあさんに席を開けるために花束を右手に持ちなおしている間に、彼女はドアの横に立ち、友人と楽しそうに話している。聞こえてくる話は昨日のテレビや流行の歌など他愛の無いものだけれど、彼女のよく通る声はまるで一大ニュースであるかのように車内にそれを届ける。遅れて、友人たちのものであろう笑い声も響いた。天は二物を与えず、を嘘だと証明している彼女はきっと恋の悩みとも無縁なのだろう。なんだか負けた気がして、これ以上の敗北を突き付けられるまえに眠りに入ることに決めた。
バスの揺れで緩やかに眠りに入った僕を起こしたのは、学校前停車を告げる運転手の低い声と、相変わらずよく通る彼女の声だった。
「ゴメン、先に行ってて」
「えー、ツバキちゃん学校行かないの?」
「そう、ちょっとね、お見舞いにいくの」
返答を聞いた女生徒たちは口々に挨拶を告げ、タラップを駆け下りていく。ツバキと呼ばれた彼女は、女生徒たちが校門をくぐり抜けるまで、ドアから見送っていた。一方僕は、寝起きで彼女のやり取りを眺めていたせいで完全に立ち上がるタイミングを逃し、ボーっとする頭のまま座席に身を任せていた。もちろん仮に頭が冴えていたとしても、彼女にどけてもらってまで降りる気力などなかった。運転手はちらりと僕らを見て、バスのドアを閉めた。車内には僕と彼女だけが残される。僕はせめて目立たないように、再び目を閉じて寝過ごしたフリを決め込むことにした。
目を閉じて深呼吸を一つした頃、バスの走行音に混じってパタパタと足音が響いた。立ち疲れてどこかの座席を目指しているのだろうと一人納得する。彼女にも特等席があるのだろうと思うと、勝手ながら少し親近感を感じる。そんな僕を完膚なきまでに叩き起こしたのは、他でもない彼女の行動だった。
突然、隣の座席のスプリングがキシリと鳴る。驚いて開いた僕の目を、彼女の大きな瞳が覗き込む。何も言えずもつれる僕の口を追い抜いて、彼女の口が淀みなく動いた。
「ねえ、その花束ちょうだい」
△フラワーパークに捧ぐ
彼女は僕が面食らうことを予測していたように、言葉を続けた。
「おはよう、アセビくん。もうその花束必要ないんでしょう?私、花束の捨て方を知ってる」
なぜ名前を知っているのだろう、なぜ花束が必要ないとわかったのだろう。訊きたいことはたくさんあったけれど、周回遅れの僕の頭はどれも言葉にできず、代わりにただ頷くことしかできなかった。
並んで座っているのが、バスの座席でよかった。多少沈黙が続いても、走行音が会話の隙間を埋めてくれる。もっとも、横目に見た彼女は会話のテンポなど意に介していないようだった。それはそれで気が楽だと思うことにして、気になっていたことを訊くことにした。
「それで、どこにいくの」
「ここから三つ先のバス停まで」
「どこだっけ、そこ」
「フラワーパークよ」
彼女の唇の端がわずかに上がる。自分だけの秘密基地を友達に教える時のような笑顔は、彼女によく似合っていた。
「安直な名前だね」
「告白に花束ってやり方を選んだアセビくんが言うの?」
「な、なんでそんなことわかるの」
「ふっふっふ」
女の子はみんなエスパーか、あるいは隣に座っているこの子は宇宙人なのかもしれない。
「それ、ガーベラでしょう?花言葉もプレゼント向きだし、お墓に供えるより気になる子にあげるほうが向いている花よ」
嬉しそうに種明かしをしてくれる。洞察力に対する賛辞が口をつく前に、スピーカーがフラワーパーク到着を告げた。
牧歌的な道に降り立つと、なんとなく花のような匂いがする。周りを見回すと、少しだけ舗装された道が、ゆるやかにカーブしながら続いていた。この先がフラワーパークに続いているらしい。バスに乗っている間に雲が消えたおかげで、陽の当たる中を並んで歩く。黙って歩くのは気疲れするので、先ほどの話の続きを切り出すことにした。
「詳しいんだね、花言葉」
「ハナの女子高生だからね」
歩きながら、器用にくるりと回る。スカートがふわりと浮き、脚が陽に照らされる。
「そういう意味の言葉だっけ」
彼女は僕の言葉を意に介さず、口を動かす。
「ちなみに、あたしの花言葉は“誇り”、あなたの花言葉は“二人で旅をしましょう”よ」
「へえ、さすがハナの女子高生」
「ふっふっふ」
ゆるやかなカーブを抜けると、道が舗装路に代わる。まっすぐ伸びる道の先に、微妙に年代を感じさせるフォントで『ようこそ!フラワーパークへ!』と書いた看板が見えた。彼女は看板よりも気になるものがあるようで、僕の右手のガーベラに目を向けて問う。
「それで、どう?」
僕の恋路か、あるいはこの花に対するコメントに興味があるらしかった。
「うまくいかなかったよ、呼び出すところから」
「そうじゃなくて、気持ちの話よ」
「なんというか、悲しいよ」
「いいね」
「いいわけないよ」
「そう?正直に言えるのはいいことよ」
隣から、ふっふっふと笑い声が響く。目を向けなくても、風に吹かれた草花のように肩を揺らしているのだろうと予想がついた。笑顔をなんとか崩してやろうと歩くペースを速めたけれど、彼女の長いコンパスは楽々それに追いついた。入口までの距離がなかなか縮まらず、スピードをあげて早々に、レースが始まったことを後悔する。既に若干息が上がった僕に対して、彼女は飄々としていた。
「急いじゃって、そんなに楽しみ?」
「おかげさまでね」
「しんどそうだけど、大丈夫?」
「おかげさまでね」
軽口を叩くのもしんどい。
「ふっふっふ」
「ゴール、おつかれさま」
競歩が始まって数分、やっと看板の陰がかかる入口に到着した。彼女は僕に声をかけてから、軽やかに窓口へ向かった。彼女が受付のお姉さんと会話している間、僕は日陰で息を整えられる幸せを噛みしめることにした。
彼女の足が僕のいる日陰を踏むころに、やっと息が落ち着いた。
「はい、どうぞ」
彼女が差し出したチケットを受け取りながら、言葉を返す。
「ありがとう、いくらだった?」
「うーん、飲み物一つね」
本当にそんな値段でいいのだろうか。
「ほら、行こう」
質問するより早く、彼女は歩き出した。先ほどよりは幾分遅いペース。
彼女に続いて、大人が通るには少し狭いゲートをくぐる。一人ずつしか通れないように突き出した棒を手で押すと、カラカラと心地よい感触が手に残った。
園内に入ってすぐ左、彼女は陽の当たるベンチに座って待っていた。パンフレットを開いて手招く彼女に引き寄せられるように、隣に腰を下ろす。
彼女の細い指がちょいちょいと動き、パンフレットの端を指さす。マップの外側に、ジュースの広告が載っている。オレンジ色で書かれた『フラワーパーク特製シトラスジュース』をつつく彼女の顔には満面の笑み。買ってこい、ということらしい。
手に持っていた花を教科書の入っているべき鞄に詰め込む。幸運なことに教科書の類は学校に置いておくタイプなので、花がつぶれない程度にはスペースがあった。
「とりあえず、飲み物買ってくるよ」
一声かけて、立ち上がる。
「迷子にならないようにね」
ひらひらと手を振る彼女。
「本当にそう思うなら、パンフレットを僕に渡すべきだと思う」
「ふっふっふ」
ベンチから立ち上がり、道なりに歩き出す。先ほど見たパンフレットの地図を思い出す限りでは、このまま歩いていれば到着するはずだ。
道沿いに並ぶ花の色が変わったころに、ジュースの屋台にたどり着いた。人のよさそうな顔のおじさんが、遠目からこちらにいらっしゃいと声を飛ばした。
屋台の上、ひときわ大きく描かれたポップを指さして注文する。
「この、シトラスジュースっていうのをふたつ」
「はいよ!」
張りのある声を出したおじさんは、テキパキと手を動かし始めた。
メニューを見る限り、季節ごとにこだわりの果物ジュースを作るのがウリの店らしい。作業する手を止めることなく、おじさんが問いかける。
「お兄さん、ジュースふたつってことは、デートだろ?」
「違います」
おじさんの作業速度に負けないスピードで言葉を返す。
「あら、違ったか。おじさんの勘、結構当たるんだけどなあ」
おじさんは、話しかけることが楽しいといった様子で口を動かし続けた。勘が当たるかどうかにはさほど興味がないのだろう。
「まあどちらにせよ、左回りを選んだお兄さんの勘は正解だな」
「なぜです?」
「パンフを見たらわかると思うが、フラワーパークは円形だ。入って右にある花畑がそりゃあもう綺麗なんだが、そっちを先に見ちまうと、おじさんに言わせりゃあ後の花畑は消化試合みたいなもんさ」
「へえ」
それは知らなかった。彼女が左側のベンチに座っていたのは、それを知っていたからなのだろうか。
「まあさらに言うなら、右回りされるとウチのジュースがさっぱり売れねえ」
おじさんは豪快に笑いながら、かわいらしい絵のかかれたプラスチックカップふたつを差し出した。お礼を言いながらカップを受け取って、踵を返す。風で並ぶ花が揺れる中、戻るべきベンチへ足を進めた。
「はい、シトラスジュース」
「ありがと」
ジュースを受け取るために彼女が両手を伸ばす。整えられた両手の爪がカップに並ぶ。並んでベンチに座り、しばらくストローで中身をかき回した。カップの中でつむじ風が起こり、果肉のかけらが舞い上がる。
目の前の花畑を見ながら、ストローを咥えた。風が吹くたびに、一面に並んだピンク色が首をかしげる。彼女もおそらく同じものを眺めているだろう。ジュースを大きく吸い込んで、息継ぎ代わりに口を開く。
「あの目の前の花、なんていう名前だろうね」
「うーん、さあ」
「ツバキさん、花にも詳しいのかと思ってたけれど」
「私が詳しいのは、花言葉。花自体は専門外なの」
僕にはわからない理屈だが、彼女には彼女なりの区分があるらしい。
「パンフレットを見れば名前くらいは書いてあるかもしれないけど。見る?」
彼女はジュースをベンチにおいて、パンフレットを入れた鞄に手を伸ばした。鞄が重力に負けて平たくなっているところを見ると、僕と同じで勉強道具を置いておく派か、あるいは今日は校門をくぐるつもりがなかったのかもしれない。
「いや、大丈夫。わからないぐらいがちょうどいいよ」
「そうね、同感よ」
未知の女の子と並んで、名前すら未知の花を眺める体験はきっと二度とないだろう。今日の僕は、わかりきったことの多い高校生活から最も遠い場所にいるのだと思う。それが幸運なのか不運なのかは決めかねる。我ながら訳のわからない理屈だと思うが、彼女には通じたらしい。納得気に頷いている。
彼女はふんわりと立ち上がり、空になったカップをベンチの横に固定されたゴミ箱に入れた。そのしぐさがまるで花を扱うようだったので、僕も倣ってカップを仕舞った。
どちらからともなく道なりに歩き出す。こういう場所では往々にして見学の仕方が合わなくてしんどい思いをするものだけれど、幸運なことに彼女のスタンスは僕と似ていた。つまり、適当に花を見て、適当に話をして、適当に休憩をすることになった。
右手の小さな区画の花は、細い茎に小さな青い花弁がついている。園内備え付けのスピーカーから流れる洋楽のリズムギターと同じくらい整然と並んでいるのに、華奢な見た目のおかげで窮屈さはない。それ以上の感想は僕から出てこなかったので、彼女にも感想を訊くことにした。
「それで、どう?」
僕の短い質問が、足音の間を埋める。
「うーん、花だなって感じかな」
答えた彼女の口角が上がる。
「こういうときの女の子って、もっとかわいらしい事を言うのかと思ってたけど」
「じゃあ、君はどう思う?」
首をかしげた彼女の肩に、明るい茶髪が広がる。
「うーん、花だなって感じ」
「アセビ君には情緒がないね」
抗議する前に青い花の区画が終わる。彼女は勝ち誇ったようにふっふっふと笑った。この話は終わり、という合図のようだった。
フラワーパークを進んで中頃、曲がり角で彼女が立ち止まった。僕も隣で立ち止まり、二人で柵にもたれて蛍色の花達と向かいあう。斜面に扇形に植えられた花は殆どがこちらを向いていて、何とはなしに中学校の合唱コンクールを思い出させた。
扇形の端っこ、明後日の方を向いた二輪を見つめたまま、彼女は言う。
「例えばクラスメイトに、なんで花をちょうだいって言ったのって訊かれたら、私は花が捨てられそうだったから、せめて仲間の傍に返してあげようと思った、っていうと思う」
「なんで花をちょうだいって言ったの」
訊くなら今しかない、と思った。あるいは、訊かさせてくれたのかもしれない。
「君が捨てられたような顔をしてたから、せめて同志として傍にいてあげようと思って」
「同志?」
思ってもない言葉に、仲間外れの二輪から、彼女に目を移す。大きな目がこちらを見る。
「君は、学校も友達も花も恋も、つまらないと思っているでしょう?そういう目をしてる。だから同志」
つまらないと思っている、と答えるつまらない男にならないために、質問を返す。
「ツバキさんは、そうは見えない」
「私も同じ、ただ隠してるだけ。期待されてるキャラクターも、クラスメイトのくだらない陰口も、親の言いなりで続けてる習い事も、短いスカートも、うっすら見える将来も面白くないの。そのうちに面白くないと思うことも忘れて、そういう気持ちを隠せるようになっただけ。人ごとのように言うけれど、つまらないわ、そういうのって、ねえ」
彼女が目線を花畑に戻した。風に吹かれた仲間外れの二輪は、他の花と違う揺れ方をして目立つ。靡く彼女の髪の間から、水平に伸びる口角が見えた。
百点満点の返答がわからなかった僕は、彼女が二輪と自分を重ねないように、あるいは僕が二輪と自分を重ねないで済むように、彼女を真似てふっふっふと笑った。彼女も遅れて、いつものように笑った。柵にもたれるのを止めて軽やかに歩き出した彼女に遅れないように、僕も勢いをつけて柵から離れた。
三十六色の色鉛筆よりも沢山の色の花を見て、パーク内のベンチにランキングがつけられるほど休憩した僕らが帰りを意識する頃には、腕時計を見るまでもなく夕方になっていた。
レンガで舗装された道に橙色の陽が落ちて、レンガの境界が滲む。緩やかにカーブした道の先に、最後の花壇が見えた。遠目でもわかる。この花は、僕も知っている。言葉を借りるならば、花言葉がプレゼント向きで、お墓に供えるより気になる子にあげるほうが向いている種類の花だ。
慣れた足取りで、二人でベンチに向かう。ベンチを囲うように、黄色のガーベラが咲いていた。花弁は夕陽を一身に受けて、橙色に染まっている。
腰を下ろした石造りのベンチは、まだ微かに昼間の熱を残していた。ジュースを売ってくれたおじさんの言葉を思い出す。ベンチから眺めたガーベラ達は、花火を真ん中から見たらこんな感じなんだろうな、と思わせるほどに咲き誇っていた。鞄をベンチに置いて、オレンジ色の花束を取り出す。夕陽の橙が花畑の花弁を染めているから、手に持った花束と同じ色に見えた。
夕陽に照らされた彼女が口を開く。橙色に染められた髪の毛が揺れている。
「どれが一番きれいだと思う?」
「あそこの、ちょっと大きいやつかな」
僕は正面を指さす。彼女は指の先を見ることなく、花束に目を向けて答えた。
「答えは、君が指差した花よ。どれだって変わらない、君がそうだと思ったものが正解。君が好きになった人とか、自分で選んだ花束とか、今日の出来事とか。誰が何というとしても、君が思ってるものが全てだと思う。君が君の周りのアレコレをつまらなくないと言えるのならば、私も私を取り巻くアレコレをつまらなくないと思えると思う」
彼女の長い睫毛の間を夕陽が通る。
「そういうものかな」
「君がそうだと言えばね」
「そうだね」
「ふっふっふ」
彼女は立ち上がり、僕の目の前に立った。何も言わずに、僕の手から花束をするりと引き抜く。こちらを向く彼女の胸の前で持たれた花束は、きっと夕陽のせいで、なんだか眩しく見えた。
彼女は目を閉じて、花束を斜め後ろに放り投げた。トスされたブーケが飛んでいく先は見なかった。きっと並ぶガーベラ達の元へ帰ったか、あるいは夕陽に溶けて消えてしまったと思う。
パークのスピーカーから流れるビートルズを背に、出口のゲートをくぐる。突き出したバーは、相変わらず心地よい重さだった。行きは急いだ道をゆっくりと歩いて戻り、並んでバスを待った。時間通りに来たバスはいつものように間抜けな音を出してドアを開け、僕らは特等席に乗り込んだ。
バスの心地よい揺れが眠気を誘う。隣を見ると、大きな目はいつもの半分くらいしか開いていない。睡魔に負ける前に、伝えるべきことを伝えておくことにした。
「花を貰ってくれて、良かったよ」
眠たさで、思っていたより小声になる。
「厳密には私が貰ったんじゃないわ、あれは他の人が貰うものだったんでしょう?私は肩が重そうだったからちょっと預かっただけ」
返す彼女の声も眠たさに満ちている。
「それでも、ありがとう」
「それに、どうせ貰うなら椿の花がいいわ」
彼女は小さく欠伸をする。
「今のところ、送る予定はないけど」
「私の誕生日は一月二十五日ね」
話を聞かない彼女に文句を言う前に、隣から寝息が聞こえた。もちろん、僕も程なく睡眠欲求に負けて意識を失った。
△毎日に捧ぐ
それから月がバトンタッチする頃に家に帰った僕は、学校から無断欠席の連絡が来ていたおかげで母親にしこたま怒られた。彼女も同じように怒られているんだろうかと考えるとなんだか笑えてきて、それでまた三十分叱られるハメになった。
前日に何があろうが毎日は順調に進むもので、時間通りに乗り込んだバスは、昨日と同じ交差点で赤信号に引っかかる。タイヤを転がして低速で進むバスは、いつも通りに家から二つ隣のバス停で止まる。乗り込む列の真ん中に、昨日一日で大分見慣れた顔が見えた。
昨日バスで寝ていたのが噓のような眼、肩まであった髪を短く切って、流行のアクセサリーが少しだけついた鞄。いつもより長くしてあるスカートから覗く脚は、彼女のスタイルの良さを示している。
先頭で乗り込んできた会社員が僕の前に立って、バスのドア側はちょうど見えなくなる。彼女の友人達の話声と、彼女のよく通る声だけが僕の席まで届く。
「おはよう、ツバキ変わったね」
「あれ、カバンどうしたの、女子力下がってるよ」
「珍しいね、スカート折ってないじゃん」
予期していたのだろう、彼女は矢継ぎ早に来る質問をいなすように受け答えしている。彼女は変わったのではなくて、自分への、あるいは他人への優しい誤魔化しを止めたのだろう。
バスが段々とギアを落とし、学校前に近づく。
「ゴメン、明日なんだけど、私用事あるから先に行ってて」
「またお見舞い?明日、土曜日だけど進路説明の授業があるよ」
友人が心配したような声を掛ける。彼女はうんとも、ううんともつかない声の後、一言だけ言った。
「花を見に行くの」
それぞれに、お見舞いの花だと納得したのだろうか。女生徒たちは定期券を通して、タラップを降りて行った。それが遠回りな遊びの誘いだとわかるのは、僕だけだ。
僕は通路が空いた頃に立ち上がり、前方のドアへ向かって進む。タラップを降りた先、見慣れた顔に声を掛ける。
「そっちの方が似合ってるよ」
「おかげさまでね」
「土曜日の予定は埋まったね」
「おかげさまでね」
二人でふっふっふ、と笑う。
僕が人生で二度目の花束を贈るのは、まだもう少し先の話だ。