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第四章:日付は変わる

 残像の消えた視野に映る回転ドアは、元通りまばゆい灯りのきらめくロビー全体を静かに映し出している。


 すぐ隣のソファを見やると、ビロード張りの座席は凹み一つなくピンと張り詰めていて、穏やかで滑らかな光を返してきた。


 ここが、あの人の腰掛けてきた辺りだ。

 そこにそっと手を触れてみると、微かに温かかった。


 だが、すべらかなビロードに掌を這わせていると、返ってくる温もりが、本当にあの人が残したものなのか、私が擦って生じさせただけなのか分からなくなってくる。


 もう、コーヒーの香りはどこにもない。

 ジャスミンと、百合と、そして名前も知らない草花の入り混じった香りが辺りに漂っている。


 不意に、肩に手を置かれ、私はびくりとして、顔を上げる。


「ごめん」


 夫が見下ろしていた。

 目尻にまだ浅い皺を刻んだその顔は、すぐ近くなのに、何故かガラス一枚隔てた場所で笑っているように映った。


「やっと着いたよ」


 肩で息を吐いているこの人は、この前の誕生日で、三十一歳になった。

 まだ三十一歳なのか、もう三十一歳なのか。


「ああ」


 そうだ、私はここでこの人を待っていたのだった。

 おもてなしのジャスミンの香りに混ざって、毎朝、髪に着けていくムースの匂いがする。


 私はどうしたのかと相手から尋ねられる前に、さりげない風を装って隣のソファを撫ぜていた手を戻す。


 耳の中に自販機の重低音が蘇り、電車がどこかをゴトゴト通り抜けていく音が微かに聞こえた。


「お疲れ様」


 ペットボトルをハンドバッグに入れながら、重い腰を上げる。

 立ち上がった腰から下がひやりと湿った感触に浸された。

 ずいぶん長いこと座っていたみたい。


「何とか、電車に乗って、十二時までに着けて良かったよ」


 夫は話しながら、私の手からハンドバッグを抜き取る。

 お腹に子供が出来たと分かってから、この人は荷物を持たせようとしなくなった。


「もう十二時は……」


 そう言い掛けてから、勤めていた頃のまま、自分の腕時計を十分早く進めていたと急に思い出す。


 改めて確かめた腕時計は、十二時七分を指している。


「まだ、ギリギリ十二時前だよ」


 元から時間にルーズではなかったけれど、二人で暮らすようになってから、この人はいっそう、仕事以外の場面でも常に厳格な納期を自分の中に設けて動くようになった気がする。


「そうだね」


 まだ、十一時五十七分。

 あと、ほんの少しの間だけは嘘をついてもいい日なのだ。

 レスリーでないと告げて去って行ったあの人は、知っていたのだろうか。


 考える内にも、視野の中でエレベーターのドアが迫ってくる。


 背の高い、鈍い銀色のドアを目にするたび、開いた向こうには長い回廊が続いているのではないかと思ってしまう。


 上昇のボタンを押すと、両開きのドアは拍子抜けするほどあっさり開いた。


 こんな風にドアが開いた瞬間、やっぱりこれもただのエレベーターだったと安心し、また、軽く失望するのだ。


「遅いんだから、部屋で待ってればいいのに」


 二人きりの密室が緩やかに上昇を始めた瞬間、夫が思い出したように声を掛けた。


「一人で部屋にいると、却って不安だったから」


 ロビーに降りたのは、最初は本当にそれが理由だったのだ。


 エレベーターが加速する中、ガラス張りの壁の向こうで、東京の夜景がその全容を明らかにしていく。

 瞳を刺す人工の灯りは無数に増えていく。

 その隙間に漂う白煙じみた纏まりが、桜の花だ。


「ホテルのロビーといったって、誰が来るか分からないんだから」


 この人が最近、よくこんな風に諭す口調になるのは、私たちがもうバカをやって許される年齢でないと知っているからだ。

 まして、もうすぐ親にもなるのに。


「そうだね」


 遠ざかる夜景の中で、白い灯りの傍の桜はほの白く、オレンジの灯りに照らされた桜は山吹色に染め上げられて見える。


 外では風が吹き出したらしく、見詰める先で、山吹色の煙が奥底に白い色彩を鱗のようにきらめかせながら揺らめいた。


 真っ白なセーターの袖から抜き出た、あの滑らかに白い手が招くように私の中に蘇る。


 そう言えば、あの人、いい服は着ていたけれど、腕時計は着けていなかった。


 たまたま、時計を着け忘れて出たのか。

 それとも、時間に縛られない生活をしているのか。


 そもそも、あの人は普段どこに住んで、何をして暮らしているのだろう?

 恐らくは、ここの宿泊客でもない気がしてきた。


 私は彼について何も知らない。

 あの人が最後に嘘だと否定した話以外には。


 眺める内にも、傍らの灯りの色に染め上げられた花々は闇に紛れていく。


「夜遅くなのに、危なかった」


 後ろから届いた夫の声には、どこか詰る調子が含まれていた。


 二人きりの狭い空間は、整髪料とシトラスの香水の混ざり合った匂いが大勢を占めている。


 この人は家だと「酸っぱいものは苦手だから」と柑橘類はめったに口にしないのに、外にはいつもシトラスの香水を着けて出て行くのだ。


「ごめんなさい」


 私は目を合わせないまま、しかし、偽りなく済まない気持ちで答えた。


 返事の代わりに、エレベーターの上昇するスピードがまた緩やかに転じる。


「これからは、気を付けるから」


 目の前のドアがパッと開いて、私たちは隈なくホテルの電灯が照らし出す外に出た。(了)

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