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第一章:ロビーは無国籍

「十二時までにはこっちに着くの?」


 スマートフォンで話しながら、私は見るとはなしに、ガラス張りの回転ドアの方を見やる。

 磨き抜かれたガラス板には、鏡さながらロビーの風景がまばゆく映し出されていた。

 その虚像越しに、水面下を泳ぐ魚のうろこさながら目を刺す街の灯りが無数に認められる。


 だが、いくら明るくても、もうすぐ夜の十二時というのが問題だ。


「もう、夕食は取ったんだよね?」


 夕食付のプランでホテルを予約しなくて良かったと改めて思う。


「私はもう自分だけで食べたよ」


 本当は夕方に喫茶店で紅茶とケーキを食べたのが最後だけど、正直、さほど食欲はない。

 というより、近頃は規則正しく食欲が起こらない。


 ニュッと胃の下が持ち上がる感触を覚えて、私は自分のお腹に目を落とした。

 それに、毎日時間通り食べなくても、子供を宿したお腹は日を追うごとに膨らんでいく。


「仕方ないね」


 久し振りに休暇を取って夫婦で旅行するつもりが、急遽、夫に仕事が入ってしまったという皮肉。


「平日だし、四月の一日いっぴだもの」


 前もって申し出て休みを取るはずが、日付が変わるまで働く羽目になるなんて、正に不況の日本に相応しいエイプリルフール。


「明日からは休めるんだから、ゆっくりしましょう」


 お腹を撫でながら、ロビーの高い天井を見上げる。

 そうすると、ほのかにジャスミンを含んだ甘やかな香りがした。

 嗅ぎ取れる匂いは、しかし、百パーセントジャスミンではなく、他にも雑多な草花を溶かし込んでいる。

 それが、このロビー全体に漂っている。

 これは日本ではなく、もっと暖かい南の「アジア」の匂いだ。

 このホテル自体は東京にあっても、運営会社が拠点を置いているのは香港だ。

 だから、おもてなしの香りも和風でも洋風でもなく、かといって完全な中華風でもない。


 いつまでも天井を見上げていると、いかにも呆けた風でみっともないので、向かい側のソファに目線を戻した。

 座る人のないビロード張りのソファは、まるでこちらを威圧するように膨張して見えてくる。


 近場の旅行で高いホテルを選んだとはいえ、やっぱり分不相応なところに来てしまったかもしれない。

 そう思った瞬間、今度はシュッとお腹の中が縮こまる気配がした。

 私の方ではもう妊娠を機に先月で退職して、夫の収入だけで生活しているのだから。


「じゃ、気を付けて来て」


 スマートフォンを切ると、辺りが急に静かになった気がした。

 自販機の稼動する重低音と車が外を走り抜けていく音が浮かび上がってくる。


 気付かずに随分、大きな声で喋ってたみたいだ。

 一瞬、ひやりとするが、素知らぬ体で原因の道具をハンドバッグに隠す。

 そんな風に振舞う自分は図々しくなったとつくづく思う。

 むしろ、学生時代の方が公の場ではもっとしおらしかった。


 まあ、いいよね。

 ものの五分も話してないし、このロビーだって、もうそこまで人影もないし。


 隣からふわりと甘く温かなコーヒーの香りが流れてきた。

 さっき買ったペットボトルのお茶はもう僅かだから、私も買い直すかな。


 自販機は、回転ドアのすぐ脇にもあったはず……。

 確かめるべく、そちらに顔を振り向けた次の瞬間、まるで動けなくなる呪文をかけられたように体が凝固した。


 隣のソファに腰掛けて、白いハイネックのセーターを着て、のみで彫り込んだように鮮やかな横顔を見せていた相手がつと向き直る。


 正面から見た風貌が明らかになることで、私の中の金縛りが解けるどころか、新たに全身の血が吸い込まれていく感触に襲われた。

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