クリスマスイブ
十二月に入って寒さが一段と増し、駅へと続く街路樹の枯葉が舗道に落ちて、風に吹かれる度にカラカラと音を立てている。ここは人口三十万程のある地方の中心都市、夕刻六時少し前の駅周辺には帰宅する為に駅へと向かうコート姿の人達が大勢信号待ちをしていた。井関正一もこの中にいて信号が青に変わると同時に人ごみの中に押される様に改札口を目指して足早に歩いて行く、改札口を抜け下り線のホームへと向かい、滑り込んできた電車に乗り、三十分程ゆられて五つ目の駅で降りる。そこは井関の会社がある県都から二十キロ離れたベツトタウンの町で、井関は駅裏の駐車場に置いてあるマイカーに乗り換えて、一人娘の奈美を預けてある保育園に迎えに行く、これが月曜から金曜までの井関の変わらぬ日課だった。午後七時までの延長保育、毎日だから奈美には可哀想だが現状ではどうしょうもない。たまに待ちくたびれて寝てしまううこともあるが、たいていは首を長くして井関を待つている。今夜はどうだろう、娘を迎え抱き上げる瞬間が、井関にとって最も満たされた時間でもあった
「すいません井関です、」
保育園の玄関を開けて声をかけると
「パパーッ!」
教室から駆け足でやって来た奈美が勢いよく井関に抱きついた。
「やあ、ただいま、おりこうさんにしてたか、」
この瞬間が来て初めて安心感に包まれることが出来る、何ものにも勝る瞬間、会社のこともあわただしい家のことも、両方忘れてしまう唯一の時だった。
「はい、奈美ちゃんバックよ!」
保母さんが奈美のバックを持って教室から出てくる。
{お世話さまです、ありがとうございます。奈美、ほらっ先生にちゃんと挨拶して、」
井関がバックを受け取りながら片手で奈美の肩を押すと、
{先生さようなら!」
奈美は膝に手を当てて礼儀正しく挨拶をした。
「はいさようなら、また明日ね、」
保母さんが答えるまもなく奈美はくるりと向きを変えて井関の車の方へ駆け出してゆく、このへんがまだまだ幼児そのもので、井関も挨拶をそこそこにして奈美の後を追いかけた。
車に乗ると奈美はいつでも井関の背中にくっついて立っていいる、井関の首に可愛い小さな手を回しておんぶをしている格好になる。運転するには少しきゅうくつだが、ほんのしばしの我慢、心地よい我慢だった。
{”真っ赤なお鼻のトナカイさんは、いつもみんなの笑いもの、でもその年のクリスマスの日、サンタのおじいさんはいいましたー、真っ赤なお鼻のトナカイさんはーー”」
今日保育園で習ったと言って、奈美が首を振りながら歌いだす、井関は奈美のしぐさをにこやかにミラーで見ていたが、いつのまにか一緒に歌っていた。
十分位走って井関の家に着く、四LDK築五年の小さな家だが、一応マイホーム、玄関のドアを開けて電気をつけると、靴を脱いだ奈美がまっすぐリビングへ入って行き、テレビのスイッチを入れその前に座った。
「ほらっ、奈美、お家に帰ったらどうするんだっけ?」
{ハアーイ、」
奈美は井関の言葉に立ち上がって洗面所へ早足で向かい、声を出しながらうがいを始めた。
「ガラガラガラガラガラ!」
「三回だよ、おまけなしだぞ!」
「ガラガラガラ!三回ちゃんとやったよ!」
濡れた手をブラブラさせながら洗面所から出て来ると、
「パパー、タオル、タオル、」
「パパはご飯を作るんだから奈美一人でしなさい、タオルはちゃんと洗面所の棚の中にあるはずだよ。」
「ハアーイ、」
奈美がもう一度洗面所に行って、タオルを持ってリビングに戻って来る、そして手を拭き終えると、再びテレビの前に座りこんで漫画の番組を見始めた。それから三十分程経って二人の夕食がやっと始まる、今夜の献立はクリームシチューとご飯とサラダ、そしてヨーグルト、けっこう手間ひまかけて作っている、寸評はまあまあうまい、奈美が文句を言わなければそれで良いと思っている。夕食時に一日の出来事を、と言っても奈美のことだけであるが、聞き出さなくても奈美がかってに報告するようになっている。今夜もそうだ。
「パパー、はるかちゃんのママとってもきれいだよ!」
「そうかー、」
「はるかちゃんお迎えに来た時ね、いっも遊んでくれるの、奈美、はるかちゃんのママならいいんだけどなー、」
「そうか、そんなにはるかちゃんのママはいいのか、」
「ねっ、パパ、はるかちゃんのママと結婚したら!」
当然、はるかちゃんには両親が健在な訳で、その辺の情況が良く理解出来ない奈美に井関は毎度苦笑しごまかすしかなかった。翌朝、、井関家の朝はあわただしい。まず、奈美のお弁当作り、簡単にごまかす訳にはいかない、見せ合って食べるのがならわしになっているらしい。そうなると可愛く可愛く作らねば奈美を泣かすことになる。毎日が食材の工作みたいなものだ。これで食育になるのだろうか、どうせなら給食になってくれないかと井関は思ったりする。お弁当が出来たらキティちゃんのハンカチで包んでバックに入れる、その間もなかなか制服が着られない奈美を手伝っている、それが済むとやっと自分の身の回り、スーツを着て、テーブルの上のトーストを一枚くわえて飲み残した牛乳を冷蔵庫にしまう。
「さあ出かけるぞ!行ってきますしたのかい、」
「そうそう、」
リビングの棚の上に飾ってある妻の遺影の前に行って小さな手を合わせる。
「ママ、行ってきます。」
井関も同じ様に妻の遺影を見ながら小さくつぶやく、これがふたりの朝の風景だった。その日の夕刻、仕事を終えた井関が駅へと向かう、コートのポケットから定期券を取り出して改札口にさしかかろうとしていた。反対側の改札口には今電車を降りて来た人達が並んでいる、井関はぼんやりとその人達を眺めていた。何も変わらない時に流されるままの光景、この日もそんな変わらない毎日の、一区切りの中に自分がいると思っていた。そう何も変わらないと、、、その人が現れる迄は、、、ぼんやりとした井関の視野の中に、次第にくっきりと一人の女性の姿が入って来た。その人はグレーのコートに身を包みどんどん近づいて来る、長い髪をしたかなり長身の女性、井関はすれちがいざまにはっきりとその女性顔を見た。その瞬間井関の心臓は止まった、身体も凍りついた様に動かなくなった。後ろから押し寄せて来る人の波にはじかれて転びそうになり、やっと井関の心臓と身体が動き出した
。井関は我にかえって慌てて振り返り、今すれちがった女性を目で追った。しかし、雑踏に呑み込まれたのか、その女性の姿は見えなくなってしまった。まるで消えたように、、、
「奈緒美、、、」
井関は妻の名を呼んでしばらくその場に立ち尽くしていた。
その夜、家に戻った井関は奈美を寝かしつけてからビールを飲んだ。毎日晩酌をやっている訳ではなく、飲みたいと思った時の為に缶ビールを少し冷蔵庫の中に入れて置いた。リビングのソファーにもたれながらビールを飲む、今夜はどうしても飲みたい気分だった。井関の眼は棚の上にある妻の写真に止まっている、駅ですれちがった女性の顔と妻の顔が交互に井関の眼の中に入ってきた。
「違うよな、奈緒美がいる訳ないもんな、」
妻の写真に向かってそうつぶやき、缶ビールをいっきに飲み干して静かに眼を閉じた.ーーーー追憶ーーーー一年半前、
妻の入院している病院、臨終を迎えようとしている妻に寄り添う井関と奈美、主治医が妻の容態を診て腕時計を見る、そして深々と頭を下げて病室を出て行った。井関は嗚咽の中で奈美を抱きしめる、奈美は小さなぬいぐるみを持ったままでなにもわからずキョトンとして井関の顔を見つめていた。葬儀が済んでからも毎日、奈美は家の中のあちらこちらを探し物をしているみたいに歩き回っている、
「パパ、どうしたんだろう、ママいないよ、病院から帰って来てお部屋で寝ていたのに、どこへ行っちゃったの、、、」
奈美はあのね妻の奈緒美が死んだことをよく理解していない。どう話したらいいのか井関はわからなかった。理解させたら悲しませることになる、いっそのこと今のままで奈美が妻のことを忘れてしまったほうがいい、そうなることを井関は願った。それ以外どうすることも出来なかった。
「奈美にはパパがいるんだからいいだろう、ほらっ、怪獣だぞ!奈美は怪獣になったぞ!ガオー!」
井関は奈美を抱き上げて肩車をして家の中を大声を出して歩き回った。いつもならこの怪獣の先には妻の逃げ回る姿があった。井関と奈美が怪獣となって妻の奈緒美を追いかける、あの柔らかい奈緒美の笑い声がリビングやキッチンや他の場所で聴こえて来る、でも、この日はどこへ行っても奈緒美を捕まえることが出来ない、捕まえそうになるとスーッと奈緒美の姿が消え、別の場所で笑い声がする、次々とその声のする所を目指すのだが、どこへ行っても奈緒美を捕まえることが出来ない、井関はいつのまにか奈美を肩車に乗せているのを忘れ、とりつかれた様に奈緒美を追い続けた。
「パパー!嫌だよパパー,下ろしてよ!」
奈美が井関の肩の上で騒ぎ出した。
「パパー、パパー、」
さかんに井関を揺すって声を上げている。
[んー、何ー、」
奈美の声におこされて井関は夢を見ていたことに気付いた。
「夢だったのか、、、んー、どうしたんだ奈美、、」
「パパの声が大きくて奈美おきちゃったの、パパー、お部屋で寝なきゃだめでしょう!」
「そうかパパがおこしちゃったのか、ごめんごめん、それじゃあお部屋で寝ような、」
井関は奈美と一緒に寝室へ向かう、リビングのライトを消す前に妻の写真をもう一度見た。次の日から、井関は駅の改札口ですれちがった女性に再び会えることを願って、駅前で待つ習慣が出来た。一日だけのすれちがい、もうそんなことはないかも知れない、それでも井関の足は駅前で止まっていた。初めて出会った日から四日が過ぎた、もしやの期待を抱いてあの女性を待った、しかし、あの女性は現れなかった。
[あり得ないことだつた。」
井関は気を取り直して改札口へ向かう、駅前のロータリーに飾り付けられたクリスマスツリーのイルミネーションが光り輝いていた。
「ねえパパ、今度のクリスマスきっといいことあるよ。」
「ん、クリスマス保育園のクリスマス会のことかい、」
「それもあるけど、もっともっとすっごくいいこと、」
「何だいそれ、クリスマスのプレゼントのことかい、」
「ピンポーン!」
「奈美はクリスマスプレゼント何が欲しいんだい、言ってごらん、パパもサンタクロースにお願いしとくからさ、」
「あのね、もう決まっているの、奈美もうサンタさんにたのんじゃったもん。」
「えーっ、早いなあ、いったい何をお願いしたんだい、パパにも教えてくれないか、」
[えへへ、どうしようかなあ、秘密なの、」
「秘密、、でも、奈美一人よりパパも一緒にお願いした方が
、サンタさんよーく覚えてくれそうな気がするけどなあ、」
「ほんとー、じゃあ言っちゃおうかなあー」
ちなみに、奈美はまだサンタさんイコールパパであることを知らない、この年頃が世界中で一番サンタクロースに愛される子供達にちがいない。
「言ってごらんよ、何なのだい、」
「あのねー、奈美ねー、ママが欲しいってサンタさんにお願いしたの。」
「えーっ、ママだって本当にお願いしたのか、」
「そうよ、だって、先生が一番欲しいものをお願いしたらって言うんだもの、だから奈美、ママのことお願いしたの、」
井関は奈美に笑いながら頷いたけれど、すぐに難しい顔をして妻の写真を見やった。奈美は嬉しそうにハンバーグを食べている、井関も一緒にお願いするということになって、確実にママがクリスマスにやって来ると思い始めたのだ。
木曜日の夕刻、井関はコートの襟をつかんで改札口へ向かう
、一週間前に出会った女性のことは井関の脳裡から消え、どこを見るとでもなく以前のように俯き加減で歩き、人の波に呑まれてなされるがままになっていた。改札口を通り過ぎた所で、反対側の列の人に身体が接触して、井関は右手に持っていた定期券を落としてしまった。
「アッ、ごめんなさい、」
接触したのは女性だった。その女性が素早く井関の定期券を拾って井関に手渡そうとした。再びその女性の声が井関に届く、
「ごめんなさい、」
その女性から定期券を渡された井関はその場で凍り付いてしまった。定期券を手にしたまま呆然として彼女を見ている、その様子に彼女は再び声をかけてきた。
「どうしたんですか、」
井関は我に返って慌てながら、
「あっどうも、、ありがとう、、、」
彼女は控えめな笑顔を見せて一礼をし井関の元を去っていった。井関は振り返って彼女の後姿を見送っている、見えなくなる迄ずっと、、、、
「また会えた、、、夢じゃないよな、、、」
渡された定期券を握りしめたまま彼女温もりを感じていた。
奈美を寝かしつけた後、井関はリビングで缶ビールを飲み始めた。つまみはけんさきいかとかきの種、妻に似た女性に再び出会い、さらに今夜はその声を聞いたことで井関の頭の中は混乱していた。二缶目のビールを開けて棚の上に置いてあるラジオのスイッチをオンにした。毎朝時計がわりに朝番を聴いているが、夜ラジオをかけることはなかった。音楽か人の声、今はそれが欲しかった、たまらなく、、、ラジオから
最初CMが流れてきて、それが止むとアナウンサーの声が聴こえてきた。
「ハアーイ、こんばんわ、今夜も恋するのお時間がやってまいりました。パーソナリティーの藤田めぐみです、どう、みんな、素敵な恋してますか、今夜のオープニング、福山雅治で虹、まず聴いてね、」
ーーーー曲が流れるーーーー
井関はうつろな眼をして聴こえてくるラジオをずーっと見ていた。ラジオ局の放送室にいるアナウンサアーの藤田めぐみが、マイクを前にして葉書やメールを見ながら話し出す。
「あらためてこんばんわ、藤田めぐみです。もうすぐクリスマス、恋人達の季節がやって来ますね、駅前のツリーにもイルミネーションが点灯して街はクリスマス気分一色、通り行くカップルを横目に今夜も一人でIRSにやって来た私、今年も山下達郎のクリスマスイブを聴きながら、一人さびしくシャンパンを空けるのでしょうか、三十を過ぎて急に愚痴っ
ぽくなった私、あーあー、誰か素敵な人現れないかしら、、なあーんて湿っぽい気分をこの曲でおもいっきり変えちゃいましょう、リンダリンダよ!、」
ーーーー曲が流れるーーーー
「気分も変わったところで今夜のお便りを紹介しましょう。M市にお住まいのラジオネームピーターパンさんからのメールです、ーー俺、先週K子とちょっとしたことで喧嘩しちゃったんです、それから今日で一週間K子と逢っていません。でも逢えなくなると考えるのはK子のことばかり、あらためてK子のことが好きだと分かりました。それでゴメンと一言メール送ったら、私もあやまろうとしてたってメールが返って来たんです。お互いひび割れそうになったハートを元に戻すことが出来ました。クリスマスには二人の思い出の場所、ディズニーシーに行って、愛情を再確認し合うことになりました。ーーーピーターパンさん仲直りしてよかったじゃない、あやまるタイミング難しいけど、先にあやまっちゃった方が絶対いいよね、素直になるって大事なことよ、ディズニーシーでうまくやれ、コノヤロウー!それじゃあーリクエスト曲スマップの世界に一つだけの花かけてあげちゃう。」
ーーーー曲が流れるーーーー
「今日ね私IRSに来る時、ちょっと私好みの男性に出会ったの、そう、私より少し年上の人という感じかな、とってもさびしそうな眼をしていて、たぶん失恋でもしちゃったのかしら、私慰めてあげようかなあーなんて気分になって、でも、私にはIRSのお仕事が待っているし、どうすることも出来なかった。悲しいわ、また会えるといいなー。ハーイ、それでは二人目のお便り、恋に悩む乙女こと、O町のMAさんからのお葉書です。」
井関は缶ビールを飲みながらラジオを聴いている。ラジオからはパーソナリティー藤田めぐみの声が流れていた。井関は急に立ち上がり、リビングの壁際にある棚の中をまさぐり始めた。ソファーに戻って来た時、井関の手にはボールペンと数枚のレポート用紙があった。しばらくボールペンを握って天井を見上げていたが、レポート用紙に眼を定めるとそこに何かを書き始めた。ラジオからリクエスト曲が流れている、その間中、井関は黙々とレポート用紙にボールペンを走らせた。
「藤田めぐみの今夜も恋する、そろそろお時間です、恋にお悩みのあなた、めぐみにお便りくださいね、それじゃ、今夜のラストソング、こんなイブにならいことを願って少し早めにかけちゃいます。山下達郎のクリスマスイブを聴きながらお別れ、また来週ね、」
ーーーー曲が流れるーーーー
井関はレポート用紙を破って缶ビールを飲み干し、リクエスト曲の終了と同時にラジオのスイッチを切った。井関は土日が休日、それはあくまで娘の奈美に合わせてのローテーションになっていた。今日は家の近くの川に遊びに来ている。堤防上のアスファルトの道で奈美の自転車乗りを見てやる為だ。勿、補助輪付の幼児用自転車で、最近はこの遊びが定番となった。
「今日は遊園地でなくてよかったのか?」
「うん、いいの、」
「たまには遊園地へ行ってもいいんだぞ、」
「はるかちゃんもゆみちゃんもパパとママと一緒に行くの、お絵かきの時いっつもパパとママをかくのよ、奈美は遊園地に行くとパパだけしかかけないから、いいの、」
「そうか、それで自転車なのか、、、、」
「自転車ははるかちゃんもパパだけなの、」
奈美にそう言われて、井関は情けなく思った。その情けない顔のままで奈美の自転車の後を追った。今週の休日はなんて休めない休日なのだろう。井関は妻の両親を家に迎えて、じっとしていられない時間を過ごしていた。奈美はお婆ちゃんの膝の上で、赤鼻のトナカイを首をふりふり歌っている。井関は義父と将棋の一戦、その間中も接待ゴルフの様な感じで気を配っていた。
「なあ、正一君、もう奈緒美が逝って一年半になる、そろそろいいんじゃあないのか、何も私らに気兼ねすることはないんだよ。奈美には、すぐにでも母親が必要なんだから、どうだい、再婚のこと真剣に考えてみないかい。」
義父も義母も本音ではないだろうと井関は思う。出来ることなら全てを信じたくない、今この場所に奈緒美がいないことを信じたくないのだ。
「一年半がすぎました。でも、私にはまだ一年半という感じで、奈緒美への思いはなかなか断ち切れないのです。」
同じことを何度言ったろう、、、自分の心の中に、、、、
井関にはとってもスローペースな時の流れが漂っていた。義母が涙もろくなったのか目頭をおさえている、奈美がそんな義母を見て、さかんに、おばあちゃんどうしたの、とたずねていた。」
「本当に奈緒美は幸せだねえ、正一さんにいつまでも愛されて、、、でも、再婚する機会があったら、どうかためらわずにそうしておくれ、私達はいつまでも正一さん親子を見守っているからね、」
義母の言葉に素直に頭下がった。
「ありがとうございます、お父さんお母さん、いつでも奈美に会いに来てやってください。奈美会いたがっています。」
こんな苦しい日々はいつまで続くのだろう、ありがたいことだけど、普通の再会がどれ程良かったか、井関は今になって思い知らされていた。
木曜日の夕刻、六時少し前、このところ二週連続で例の女性に出会っている、今日も会えるのではと井関は密かな期待を寄せて改札口の手前で待った。彼女がやって来た、白いコートにブーツ姿、長い髪をなびかせて改札口を抜けて来る、一緒に歩いている女性と話が弾んでいる様子だった。井関は彼女の姿を眼で追った、こういう時は不思議と相手も気付くもので彼女の視線も井関の存在を確認していた。お互いの視線がタイミング良く合い、一瞬ではあるが、止まった時間の中でお互いの何かを確認しあっていた。先週井関と彼女は改札口の所で接触した、その時井関は定期券を落とし、それを彼女が拾ってくれた。その時のことを彼女が覚えていて井関を見た、只、それだけのことで、それ以上のことはなく、彼女は連れの女性と再び話し始めて足早に去って行った。
その日の夜、井関は冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲み始めた。ピーナツの袋を開けてニ、三粒をほうばり、ラジオのスイッチをONにした。ラジオからは十時の時報の後アナウンサー、藤田めぐみの声が聴こえて来た。
「ハーイこんばんわ、今夜も恋するのお時間がやってまいりました。パーソナリティーの藤田めぐみです。どう、みんな素敵な恋してますか、今夜のオープニングはユーミンのこの曲、ルージュの伝言から始めちゃうよ、」
ーーーー曲が流れるーーーー
「あらためてこんばんわ、藤田めぐみです。今夜は私がとっても感動してしまったお便り、みんなに聴いてもらいたいと思います。N町のSIさんことやもめのジョナサンから少し長いお手紙が届きました。今夜はこのお手紙をご紹介したいと思います。ジョナサン聴いているといいなあー、」
井関はラジオからのめぐみの声を聴いて、飲んでいた缶ビールに突然むせり出し咳き込んでしまった。おまけに缶ビールをテーブルに置き損ね、残りのビールがテーブルの上に流れ出し、慌ててダスターで拭き取る、空のビール缶が弾き飛ばされて床を転げて行った。ここ迄が一連の出来事で、そのすぐ後、井関は周囲を確かめる様に見回して、当然であるが、誰も見ている訳がないことを知らされて、ソファーに深々と身をゆだねそれから目を閉じた。
「初めてお便り差し上げます、私のようなバツイチの者が、あなた様の番組へお便りする等、見当はずれのように思われるでしょうが、誰かに私の胸の内を聞いてもらわないと、一人でいつも迷路の中にいるようで、出口がなかなか見つからないのです。私は一年半前妻と死別し、今、四歳の娘と二人暮しをしています。男手一つで娘を育てる苦労話をするつもりはありません。娘との暮らしも、不自由ながらも慣れればけっこう楽しいもので、娘も一年位前迄はーーママどこへ行ったの?ーーと妻の死を知らないようでしたが、今ではしっかりと受け止めて、小さな手を妻の遺影に合わせて毎日保育園へ通っています。私も妻のことを忘れようと努力し、娘のように強くなれたらと思っているのですが、ふとした折に、愛しい妻の面影を偲んで言いようのないさびしさを感じてしまいます。先日も、会社の帰りに雑踏の中で妻にとても似ている女性と出会い立ちすくんでしまいました。忘れようとしているのですが、どうしても私の中の妻は消えてくれないのです。ーーねえ、パパ、今度のクリスマスにサンタさんがママをプレゼントしてくれるのよ。ーー娘がおかしなことを言うのでたずねたら、一番欲しいものをサンタさんにお願いしたらって、保母さんに言われたそうです。まさか一番欲しいものが母親だとは保母さんも思わないでしょうから仕方がありませんが、困ってしまいました。娘もママがこいしいのでしょう、いくら私との生活に満足していたとしても、それは一本足りない十二色入りのクレヨン箱なのでした。その色は残りのどの色を混ぜても出来ないのです。娘の為に再婚も考えるのですが、今のままでは自信がありません。私が妻のことを忘れなければ、新しい女性と結婚出来たとしても、多分、その女性を不幸にしてしまうでしょう。苦しい日々が続いています。雑踏の中で妻に似た女性に再び会いました。正直言って吸い込まれそうな程その女性に惹かれました。でも、それは妻の面影を追い求めているのか、それとも違うのか、よくわかりません。どこの誰だかわからない、それだから余計胸騒ぎを覚えるのです。こんなことで、私は当分立ち直れそうにもありません。私は救いようのないいくじなしです。」
ジョナサンの手紙を読んで、パーソナリティーの藤田めぐみはコメントを出した。
「んー、難しいわねえ、こんな感じよくわからないけど、別れた人より死んでしまった人の方が忘れられないって聞いたことあるわ、多分、ジョナサンもそんな風なんでしょうね。愛し合っていた二人が突然死によって引き裂かれてしまうんですもの、喧嘩とか浮気したとか、そんなんじゃないんですもの本当につらいわよね、私だったらどうするんだろう、んー、もう考えられないわ、愛する人が全てだったら、ひょっとして死んじゃうかも知れない。アッ、ごめんなさい、ジョナサン、あなたには可愛い娘さんがいるものね、私の言葉不謹慎だったわ、ごめんなさい、四歳の娘さん、ママのこと本当は恋しくてたまらないのね、それを、小さな手を合わせて毎日お祈りしてるなんて、私その姿見たらきっと泣いちゃうわね、私、それだけで、多分その娘さんのママになっちゃうかも知れない、ねえジョナサン、奥さんに似た女性に出会って胸がズキーンとしたんでしょう、それって、多分恋と同じ感情よね、奥さんの面影追い求めてのことでしょうけど、その女性は絶対に奥さんじゃないのだから、、二度目に会った時も同じ様に胸がズキーンとしたんでしょう。ねえジョナサンあなたはまだ大丈夫よ、あなたは必ず新しい恋が出来ると思うの、奥さんが胸の中にあったってかまわないから、どうどうと新しい恋をした方がいい、娘さんの為にだけなんて思わないで、あなたの為に新しい恋人を見つけて結婚してください。それが本当に娘さんの為になると思うわ。こんな勝手なこと言っちゃってごめえんなさい、てっとりばやく、私があなたの出会った女性ならいいのにね、アーッ、また不謹慎なこと言っちゃったみたい、ーーー反省ーーーまたお便りくださいね、待っています。それでは今夜のラストソング、岡本たか子の夢をあきらめないで、、私からジョナサンへ送ります。ーーーー曲が流れるーーーーー
ディレクターの岡良子が、放送室から出て来た藤田めくみにコーヒーを渡しながら話しかけた。
「お疲れ様、」
「ハイお疲れ様、」
「ねえめぐみ、今夜の凄く良かったよ、かなりの反響あると思うよ。」
「しかし、世の中にはこんな悲しい運命を背負った人もいるのね。私なんかいつまで経ってもいかず後家だけど、運がないなんて言ってられないわね、ジョナサンに比べたら百分の一にもならないもの。」
渡されたコーヒーカップを両手で包んで感慨深げに言葉をつないだ。
「みんなこうして頑張っているのよ、それに、めぐみ、あなたの声がジョナサンばかりでなく、沢山の人達の励みになってんだからね、あなたもそのつもりで頑張んなさいよ、」
「そうね、番組作りに力が入るわ、おかげで恋愛なんてどんどん縁がなくなっちゃうけど。」
「言いなさんな、人間なんてどこでどう結びつくかわかんないんだから、これから先まだまだチャンスはあるわよ、そうそう、先週の放送で言ってたでしょう、さびしい眼の男性、その人はどうなの、駅前で張ってて捜してみたら、」
岡良子はめぐみより一つ先輩のディレクター、既婚者で子どもが一人いる。めぐみには大切な相談相手だった。
「そうなのよ良子、それがね、今日IRSに来る時にまたあっちゃったのよ、それも今日は、ちょっとの間だけどお互い見つめ合ってさ、何か運命を感じたわ。やっぱりさびしい眼をしてたの、あんな眼見たら私もうたまんないわ。仕事がなかったら、理由なんて何でもいいから話しかけていたと思うわ。」
「それって運命よきっと、恋愛したらその人と、クリスマス迄にまだ間に合うよ。」
一方、井関の家のリビング、テーブルの上にビールの空き缶が五缶並び、ビーフジャーキーの袋が二つ空になって無造作に置かれている。まだ飲み足りないのか、井関は冷蔵庫の中を缶ビール目当てに探し回すが、日頃飲んでいる訳でもないから底がついていた。普通ならこんなに飲まないのだが、今夜は特別で、さらにウイスキーの水割りを二杯、それでも井関は酔えなかった。自分の書いた手紙が放送されるなんて思いもよらなかった。放送して貰う為に手紙を出した訳ではない、なんとなく不安な気持ちを誰かに話したい、只それだけでパーソナリティーに手紙を書いたのだ。返信なんてさらさら考えも及ばない、それがラジオの電波に乗って自分の耳に入って来たのだから驚いてしまった。そして恥ずかしさもやって来た。この二つをアルコールで追いやろうとしたのだが、井関にとって手強い相手になった。ラジオは既に次の番組を流している、井関は手を伸ばしてスイッチを切った。
「ぱぱー、ぱぱー起きて、起きてよ!」
奈美の声がする、何だろう、まだ夢の中なのか、やっと目を開けて壁の時計を見た。七時半になろうとしている、井関は慌ててソファーから起き上がった。
「しまった、寝すぎたか!」
「もうっ、パパったら起きないんだもん、」
「ごめん、ごめん、すぐ用意するから、」
携帯から会社に電話をかけて遅れて出勤することを告げ、大急ぎで奈美の朝食とお弁当を作り始めた。奈美は制服を一人で着ていたが、
「パパ、ボタンボタン、」
「ちょっと待って、今奈美のお弁当作ってるから、そこの牛乳飲んでて、靴下はいたかい、」
「はいたはいた、パパハンカチ出してねキティちゃんの、」
「ほうら出来た、奈美、今日のお弁当サンドイッチだぞ、バナナも入れとくからな、みんな食べるんだぞ、そうだ、ボタンにハンカチと、」
井関はお弁当を奈美のバックに入れ、リビングの小物入れの中からハンカチを取り出して、奈美の制服のポケットの中へ、そしてボタンをはめてやった。
「さあ、用意できたぞ!出発、出発!」
「待って、ママに行ってきます、」
井関は奈美にうながされて妻の写真に一緒に手を合わせた。
井関は大手の建設会社の営業課に所属している。遅れて出勤して来た為にさっそく課長のデスクの前でしぼられた。
「井関君、君もろそろ再婚して新しい家庭を持った方がいいんじゃないのか、家庭がしっかりしないと仕事もうまくいかないよ、会社もいつまでも君に振り回されている訳にもいかないし、私だって、そういつまでも君をかばってはいられないからね、」
結婚式で仲人をして貰った課長のMにはそれだけでも頭が上がらないが、仕事上でも、妻の死以後色々と面倒を見て貰っていた。
「はあ、申し訳ありません、御迷惑かけないよう頑張ります。本当に申し訳ありませんでした。」
井関もこれ以外の返事はなかった。別の返事をするとなれば、退職の二文字がそれ当てはまる、既に井関はそのことも考え始めていた。
「そうしてくれよ、今迄の君の実績があるからもっているけど、今年の君は最下位転落だ、正直言って来年は君の進退を決める年になる、勝負をかけるには家庭が磐石でないと無理だ、わかるかね、」
課長の言葉はきつかった。でもそれは仕方のないこと、井関は自覚過ぎる程自覚していた。課長のデスクから自分のデスクへと向かう、壁面に張られた営業成績を表すグラフが眼に留まる、井関の成績が左端に記され、ダントツに悪い、ため息をついて自分の席に戻った。営業課の事務所は二人の女子事務員と課長がいるだけで、他の社員は既に出払っている、しのぎを削る世界、井関のいる場所ではなくなりつつあった。
「井関君、何をのんびりしているんだ、君の仕事何だ、」
課長の叱責に、井関はファイルを抱え鞄を下げて、慌てて事務所を出て行った。階段を下りて一階のスペース迄辿り着くと、経理課のドアが眼に入って来た。ここはかって妻の奈緒美が結婚前に働いていた所、ドアが開いていまにも奈緒美がでてきそうな気配がした。とその時、偶然にもドアが開いて井関はドキリとして立ち止まった。出て来たのは新人の女子事務員、井関は落胆してそのまま会社を後にした。
「なあ奈美、今度なあ、パパのお仕事が変わったら、多分よその所へ引っ越すようになると思うんだけど、いいかい、」
いつもの様に夕食での親子の会話、井関の心は転職と転居に決まっていたが奈美の意見はどうだろうか、井関はためしに聞いてみようと思った。
「どこへ行くの?」
「まだ決めてない、」
「あのね、今度のクリスマスはここにいるんでしょう。」
「ああ、多分お正月もここにいるよ、」
「よかったあ、」
「奈美はここの方がいいのかい、」
「ううん違うの、クリスマスにね、どこかよそへ行っちゃうと、サンタさんが奈美の住んでるお家わかんなくなるでしょう。そしたらサンタさん来てくれなくなっちゃう、そんなの奈美いや、ぜったいぜったいいや、お家わかんなくてサンタさんママを連れて帰っちゃったら、また次のクリスマスまで待たなきゃならないのよ、そんなの奈美いや、パパもいやでしょう。」
「サンタさんがママをねー、」
井関は首をかしげて難しい顔をした。奈美はテレビを見て笑っている、今度のクリスマスはどうなるのだろう、、、、、
この夜、井関は三通の文章を書いた。一通目は会社に出す辞表、二通目はラジオ局へ出す報告の手紙、そして三通目は妻奈緒美への詫び状だった。ーーー奈緒美への詫び状ーーー
「奈緒美、俺、奈緒美には悪いけどこの家出ることにしたよ、会社も辞めるどこか別のところへ行って、もう一度初めからやり直すことにしたんだ。この家や会社は奈緒美の思い出がいっぱいつまっている、俺はその奈緒美の思い出に押し潰されそうなんだよ。このままの情態では俺は駄目になってしまう、俺はいつまでもめそめそしている意気地なしから脱出出来ないんだ。こんな風じゃ奈美を育てられない。折角奈緒美が残してくれた宝物を大切にしなくちゃならないのに、その自信がないんだ。だから、俺は思い切って奈緒美の思い出を断ち切って、全く何もない別の所へ行くことに決めたんだ。奈緒美はきっと怒るだろうね、君を忘れようとしているんだから。でも、決して君を忘れようと本気で思っているのじゃないんだよ、君のことを思い出しても泣かないようになる迄、君の思い出から離れていたいだけなんだよ、わかってくれるといいんだけど、どうかな、怒って罰を下すとしても俺だけにしてくれ、俺はいつでも奈緒美のそばに行きたいと思っているから、、、でも、そうなると奈美が可哀そうだから、出来れば、奈美に結婚する相手が決まってからにしてくれないか、そうしてくれるとありがたいけど、、、愛する奈緒美、奈美が今度のクリスマスにサンタさんがママをプレゼントしてくれると言っているんだ。まさか、君がもう一度俺達の所に戻って来るなんてこと、そんな奇跡みたいなことありえないよなー。」
井関は書き終えた三通をそれぞれの封筒に入れて、二通は鞄の中、そして一通を妻の写真の前に置いて寝室へ向かった。
十二月二十四日、クリスマスイブ、
藤田めぐみは電車を降りるとすぐに改札口の方向を見た。今日会ったらどうしよう、声をかけようか、あつかましいと思われないかな、、そんな胸の内でいつもより騒がしい気分だった。改札口を抜けた所で立ち止まり、駅へ向かってくる人達を確かめるように見た。先週は会えたのだ、だから今日も、、多分、会えるかな、そんな期待がどんどんしぼんでいった。通勤時間の五分間は長い時間だ、その間にどれだけの人が前を通り過ぎただろう、その中にめぐみの会いたい人はいなかった。
「今日は会えないのかなあー、」
めぐみはコートの襟をつかみながらゆっくり舗道を歩き出した。さびしい眼をした男性に会えなかった、失望感にまとわれながらいつもの道を進んでいく、すると、タクシー乗り場の乗車列の中にいる一人の男性の姿が眼に入った、めぐみはーーいたあーーと声を出す位嬉しくなった。そう、あのさびしい眼をした男性がそこにいたのだ、さびしい眼の男性は鞄の他に大きな紙袋を二つ下げてタクシー乗り場の列に並んでいる、そして、めぐみが歩いている姿に気付いてめぐみと視線が合った。めぐみの足が止まって二人は明らかに見つめあっている、二人の距離は十メートル程しかない。間にあるのは人の波、越えられない程の人の波じゃない、でもめぐみは先ほど考えていた声をかける言葉を波の中にさらわれてしまった。二人は何か言いたげな表情のままじっと黙って見つめ合っていた。タクシーに乗る順番が来てしまった。さびしい眼の男性はタクシーに乗ってからも車中からめぐみを見ていた。タクシーが動き出す、車中から振り返りながらめぐみを見ている、どんどんその姿小さくなってタクシーも遠くへ去って行ってしまった。あっけない幕切れだった。舗道にとり残されためぐみが呆然と立ち尽くす、
「こんなシーンの映画見たわ、、、」
肩を落としたまま力なく歩き出しめぐみはIRSへ向かった。
「おはようさん、」
デスクで書きものをしている岡良子に声をかける、
「あっおはよう、今日も沢山来てるわよ、」
葉書やメールの山を忙しそうにチェックしている、
「本当ね、」
「何か元気ないんじゃない、」
「そんなことありません、私は元気よ、」
めぐみは両手を胸の前に持っていきガッツポーズをとる、空元気だ。
「今夜の分この中からえり分けて、」
「それじゃあ、取り掛かりますか、」
「コーヒー持ってくるから、」
隣のキッチンでコーヒーを入れまた戻って来た。
「はいコーヒー、」
「ありがとう、」
めぐみはコーヒーを飲みながら葉書やメールを一つ一つ読んで整理し始めた。
「そうそう、ジョナサンからも手紙届いてるわよ、」
メーの山の中からジョナサンの手紙を見つけためぐみは、
「あった、これだわ、一番先に読んじゃおうっと、」
手紙の封を切って読み出した。
「藤田めぐみ様へ、またお便りを出してしまいました。でも、おそらくあなた様に届く私の手紙はこれが最後の手紙になるでしょう。先週私の拙い手紙を放送していただき、ありがとうございましいた。少し照れくさく聴かせていただきました。私は妻への思いをなかなか断ち切れなくこのままでは自他共にだらしない男と認める他ありません。そこで私は一大決心をして、妻の思い出に決別する為に思いきって環境を変えることにしました。妻と知り合った会社も住んでいる町にもさよならをして別転地で新しいスタートを切ろうと思っています。娘の為にもその方が良いでしょう。私が立ち直らなければ娘に良い影響は与えられません。今のところ私新しい恋等とても無理、そんな勇気は出せそうにありません。駅の改札口ですれちがう女性に妻の面影を見てしまい、多分それだけに止まらず、私の中では恋と同じ感情が沸き起こりつつあったのですが、このままその女性を好きになってしまったら、本当は既に好きになっているのですが、それでもその女性に対してとても失礼なことと思いました。妻に似ているからという出会い、その女性は許してくれるでしょうか、妻に似ている、このことはどうしょうもありません。思い出の延長なのか、新しい恋なのか、良くわかりません。只どうしょうもなく惹かれてしまう、それだけは真です。どこの誰であるかわからないうちに、この町での最後の思い出として、私はその女性にありがとうと心の中で言うことでしょう。この次の木曜日、六時少し前に、もし再び彼女の姿を見かけたら、私は彼女に心の中でこのありがとうを、そしてさよならを言うつもりです。定期券を拾ってくれた時に触れた彼女の柔らかい手の温もりは私にとって大切なクリスマスプレゼントになるでしょう。」
ガッチャーン、めぐみは突然飲みかけのコーヒーカップを床に落とし、その割れる音がした。
「めぐみどうしたのよ!」
岡良子がダスターを持って来て床を拭きながらめぐみの顔を覗いたが、めぐみはその声にまるで気付かな様子でジョナサンの手紙を持ったまま完全にうろたえてしまった。
「どうしたのめぐみ!」
良子の怒鳴り声にめぐみはやっと気付いて、良子に手紙を渡して急に大声を上げた。
「アーッ!」
そして両手で髪の毛をかきむしり、それからバンバンと音を立ててデスクを叩きたした。
「アーッ、どうしょうどうしょう!」何よめぐみ、何がどうしょうなのよ!」
良子のきつい声でめぐみは一瞬我に返ったが、またすぐに焦点が合わない眼をして泣き叫んだ。正常ではなかった。
「良子もうおしまいよ、何でわからなかったんだろう、私って駄目な女よ、恋愛するなんて番組やってても、何も知らない上べだけの女だったのよ。」
「いったい何のことなのよ、めぐみ、何なのよ、」
「ジョナサンの手紙見てよ、」
良子はめぐみから手紙を受け取って読み始める。
「めぐみ、ジョナサンどこかへ行っちゃうってことだけど、そんなにジョナサンに思い入れしてたの、、、」
良子はめぐみとジョナサンはパーソナリティーとリスナーの関係それ以上の係わりはないと思っている。だから良くわからない、めぐみのうろたえ様は明らかに異常なのだ。
「違うのよ、それだけじゃないのよ、私、このところ、さびしい眼の男性のこと話してたわよね、今日も駅前で出会ったの、今日は特別だったの、私、その男性会ったら、何が何でもお話するんだって決めていたの、それが、それが、いざって時に何も言い出せなくて、黙ったまま見つめ合っていただけなのよ、多分カップラーメンが出来る位の時間、、彼もね、何か言いたそうだったの、大きな荷物両手に抱えていて、タクシーに乗って行ってしまったわ、行きすがりの人だったけど、私ずっと気になっていて、私いつの間にか彼のこと好きになっていたんだわ、その人にもう会えないの、私にとっては、これだけでも今年一番の重大事件よ、それなのに、私もう神様なんて絶対に信じない、、ジョナサンが、ジョナサンが、その男の人だったなんて、それも、私のことをずっと思っていてくれたなんて、それが、それが、みんな私の前から消えてしまうのよ、私、何にも悪いことなんかしてないのに、ひどすぎる、ひどすぎるわよ、こんな気持ちでこれからまた生きて行くの、いっそのこと、毒りんごでも食べて死んでしまいたいくらいよ、、」
めぐみは再び取り乱して泣きじゃくった。良子はめぐみの言葉に目を丸くして驚いてしまった。まるでありえない出会いである。心の中で、出来すぎーと叫んで、ジョナサンの手紙を再び読み返した。
「めぐみ、めぐみ、まだ、まだ大丈夫よ、間に合うかも知れないよ、」
良子は、デスクに顔を伏せているめぐみの肩を叩きながら声をかけた。
「気休めなんか言わないでよ、ジョナサンてラジオネームだもの、どこの誰だかわからないのよ、」
「めぐみよく聴きなさい、手紙に書いてあるでしょう、この町最後の思い出として、駅前のイルミネを娘さんに見せに来るって、」
「そんなこと書いてあったー、」
「最後迄読んでないの、駄目ねー、ほら、最後のとこ読みなさいよ、」
良子は問題のところが書いてある部分を指差してめぐみに見せた。めぐみは良子から手紙を奪うようにして読み返す、
「本当!クリスマスイブ、今夜よ、今夜駅前のツリーの所に来るって、、でも何時に来るかわかりっこない、駄目よ、」
「何言っているの、例え何時になろうと来ることは確かよ、簡単じゃない、めぐみがツリーの所でずーっと待っていればいいんじゃないの、」
「そんな訳にはいかないわよ、番組だってあるんだし、」
良子は少し考えて,いや、考えながらめぐみに言葉を並べた。番組を抜ける訳にはいかないのだ。
「んー、それはそうだけど、ジョナサンは娘さんと一緒に来る、だからー、」
ここ迄はゆっくりだったけど、何かがピーンと来たように急に早口になった。
「ジョナサン、めぐみの番組が始まる十時頃迄、四歳の娘さんを引き連れているなんて絶対ありっこないわよ、ジョナサンは良いお父さんなんでしょう。」
「そう、とっても良いお父さんよ、だから、だから私ママになっても良いと思ったんだもの、」
「その言葉本気なの、めぐみ、いい加減なことじゃ出来ないのよ、ママになるって、めぐみ、あなたの本当の子どもじゃないのだからね、只好きだからって簡単な問題じゃないのよ、よーく考えた方がいいんじゃない、めぐみにとっても一生の問題だって考えた方が、、、」
「そんなことわかってるわよ、でも、よーく考えて好きになるとか、よーく考えてママになるとか、そんな風に人間ってなれるものなの、私はなれないわ、私は、只どうしょうもなく好きだとか、ママになるとか、説明の出来ない私の純粋な気持ちでなりたいの、例え難しくったって、苦しくたって、私はあの子のママになりたいって思ったの、だってあの子には絶対ママが必要なのよ、そして、そしてジョナサンには私が、私が必要なのよ。」
「えらい!めぐみ、さすがめぐみよ、まさにピンポーンだわ、めぐみの本当の気持ちよーくわかったわ、めぐみもここらで決め時ってことだね、よしっ、それじゃ完璧にジョナサンに会えるように、もう一度よーく考えなくっちゃね、待ってよきっとどうにかなるわ、どうにかしなくっちゃね、」
良子はジョナサンの手紙を手にしてじっと見る、そして何回も頷いた。
「めぐみ、あなた今日出勤する時にジョナサンに会ったのでしょう、」
「うん、」
泣きべその顔でめぐみが頷く、
「ジョナサン、前の手紙に確かN町に住んでいると書いてあったわ、それなら多分、駅前に戻って来るのは二時間後位ね、レストランで食事してから来るみたいだから、クリスマスで混んでいるとして、そうなると、駅前にやって来るのは九時少し前になると思うよ、もしレストランより駅前に来るのが先になったとしても、いまから一時間後ってとこかしら、そうなると、めぐみがジョナサン達と会えるのは、七時半頃から九時ちょっと過ぎ迄になるんじゃないの、絶対に間違いないわよ、」
「それで大丈夫なの、本当に大丈夫なの、」
「何めそめそしてんのよ、大丈夫よ、駅前いれば絶対会えるって、でも、ジョナサン達に会った後のことはめぐみあなたの問題よ、私はめぐみが戻って来る迄に番組の準備してるから、めぐみは今から駅前へ行っといでよ、でも、後悔しないでね、結婚するってけっこう大変なのよ、特に仕事を持つ女性にとってはね、私だって口には出せない苦労の連続なんだから、」
「良子ありがとう、」
「さあ、元気出して、答えが出たんだから後は実行するのみ、私は残って番組作りをするから、こっちのことは心配しないで、さあ、勇気出して行ってらっしゃい、でもめぐみ、言っておくけど、番組のタイムリミットは十時十五分前よ、絶対に穴はあけないでね、じゃあ、めぐみこれで全てOK、
じゃないわ、メイク、それじゃあ行けないわ、直しといで、眼の周りパンダみたいだから、」
良子が差し出した両手をめぐみはパチリと叩いて化粧室に行った。いままでこんなていたらくはほとんどない、泣き笑いのパンダの様な顔を鏡の中に見て、めぐみは嬉しくなった。
メイクを直して控え室に戻る、良子もめぐみも黙って頷いた。めぐみがドアに手をかけて出て行こうとした時、良子が声をかけて、真っ赤なりんごをめぐみの手に渡した。
「毒りんごよ!」
私は何て熱い親友を持っているんだろう、めぐみはとっても幸せな気分になった。今からもっと大きな幸せがやって来るんだ、いや作るんだ、めぐみの心の中にどんどん熱い決意が膨らんで行った。午後七時過ぎ、めぐみは駅前のツリーの前に立った。三十分程経過する、ビルの谷間を伝ってくる冷たい北風に、めぐみはコートの襟を立て両腕を胸の前で組んで温もりを保った。めぐみの視線は広場にある時計塔に注がれる、めぐみ自身がほとんど時計の様になっていた。
「ジョナサン、来て、、、」
めぐみは祈った、祈らずにはいられなかった。
「、、、昨年のクリスマスは悲しみの中で過ごしました。妻と奈美と私の三人のクリスマスがあまりにも楽しかった、その思い出ばかりがどうどう巡りして、いたたまれませんでした。でも今年は少しだけ余裕が出来ました。昨年出来なかった分も奈美には楽しいクリスマスにしてあげたいと思います。レストランで食事をし、M市の駅前のイルミネーションを見せてあげ、奈美の小っちゃな胸の中に大きな思い出を作ってげたいのです。私からのプレゼントも用意して、クリスマスがサンタクロースだけじゃないことを、少しだけでも奈美に理解してもらえたらなと思っています。サンタがママを連れて来るなんて絶対にありえないこと、楽しい思い出をいっぱい与えて、ガッカリする時間を少しだけにしたいのです。うまくいくといいのですが、、、」
めぐみはジョナサンの手紙を思い出して笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、絶対奇跡が起こるんだから、」
奇跡なんて本当は万に一つもない、運を天にまかせたその結果なんてことはほとんどない、あるのはその人の努力の結果で、それが奇跡を呼び起こしているのだ。めぐみもそう思っている。でも、今夜はそのポリシーが崩れそう、祈りの中にどうしても奇跡が欲しかった。駅前の人通りが少しづつ減り始めていく、めぐみは時計塔の秒針に合わせて呟いた。
「来る、来ない、来る、来ない、来る、」
「既に時計人間になっている、そして、祈りの中で漂って、両の手を握りしめて夜空を仰いだ。
「あー神様お願いです、」
「時計塔が九時の時報を鳴らした。人通りがまばらになってくる、ツリーの前はもうめぐ一人だけ、待ち合わせの人達はみんな約束どうりに消えてしまった。めぐみは時計塔を見上げてため息をつく、身体が震え寒さの限界が来ていた。駅前に流れているBGMがめぐみに聴き覚えのあるイントロを流しだす、山下達郎のクリスマスイブの曲が広場に聴こえて来た。めぐみは両手を顔に当てて、しばしそのままでいたが、それから、その手を払いのけて夜空を見上げた。涙が頬を伝って流れ出した。時間がなくなっ来ている、めぐみはもう一度時計塔を見てからツリーの前に立ち直し、夜空に向かって両手を広げおもいっきり何かを抱しめた。
「つかみ損ねた幸せって大きいのよね、これ以上待てないし、もういいわ、もういいのよ、やるべきことはやったし、私の努力もこれが限界かな、運命もこれ迄、神様なんてやっぱりいないんだよね、きっぱりと諦めるしかないか、、、」
めぐみはクリスマスのイルミネーションにしばし視線をやってから、ゆっくりと踵を返してラジオ局へ戻ろうとした。
「やっぱり、さよならだけが人生か、、、」
そう言ってポケットに手を入れると、良子から渡されたりんごが出て来た。
「毒りんごか、、、」
この時、めぐみはこのりんごが毒りんごであって欲しい、と願ったのかどうかわからないが、一口ガブリとやって頬張った。冷たくて甘い、気の遠くなるような味だった。
「パパー、こっち、こっち!」
「ほら、いっぱいあるだろう、」
「すっごーい!とってもきれい!」
クリスマスイブの曲が流れる中、めぐみは二人の声を聴き、歩みだした足を止めて勢いよく振り返った。
「来た!来たのよ!」めぐみの両眼からとめどなく涙が溢れ
、近付いて来る奈美とジョナサンの姿が、ぼやけてクリスタルの様に輝いて見えた。ツリーの前に立ってジョナサン達を見ているめぐみの姿に、ジョナサンが気付いて声を上げた。
「アッ、あなたは、、、」
めぐみは黙って頷いてジョナサンをじっと見つめる、ジョナサンもめぐみの瞳をじっと見つめた。奈美がイルミネーションの周囲をグルグル回ってはしゃいでいたが、ジョナサンの側にいるめぐみの存在に気付いて近寄って来た。そしてめぐみの前にしゃがみ込むと、右手を差し出してめぐみの手を握り、めぐみの顔を見上げながらにっこりと微笑んだ。めぐみも身をかがめて奈美を見つめ微笑を返した。
「アーッ!ママだあー!ねえママでしょ、サンタさんが奈美にプレゼントしてくれた、ママでしょう!」
めぐみはしゃがみ込んで、両手で奈美の手を握り、答えた。「そうよ!、、、」
-ーーーーーー完ーーーーーー
絶対あり得ないことなんてこの世に存在しません。毎日を一生懸命生きていれば必ずあり得ないことが起こるのです。それが奇跡とよばれるものです。奇跡はいつでも誰かの側にわからない様に隠れているのです。私はこの奇跡をみんなに知ってもらおうと思い、拙い文章に書き続けて行きたいと思っています。