第95話 アクティ救出02
朝霧が立ち込めるサマーセット領の城門前。薄曇りの空に冷たい光が差す中、ハスラーは従者を伴い、緊張した面持ちで門の前に立っていた。
今日は、アクティ救出の決行日。数日間の計画の集大成であり、失敗は許されない。
ハスラーはポケットに手を突っ込み、深く息を吸い込む。
「来るぞ……」低く呟き、従者に視線を送る。
従者は頷き、門前の警戒を強めた。視界の先には、アルトの実家から派遣された馬車がゆっくりと進んでくる。
木々の間から馬車の影が見えるたびに、ハスラーの心臓は跳ね上がる。
馬車の御者が鞭を軽く打ち、車輪が砂利道を鳴らす。やがて、馬車が門の前で止まると、アルトの弟である青年が顔を覗かせた。ハスラーは躊躇なく馬車に従者とともに乗り込む。
「すぐに説明します……」ハスラーは低く声を落とす。
アルトの弟ビュイックは目を見開き、眉間に皺を寄せる。「経緯を話してくれ」と促すと、ハスラーは手短に説明した。
「スタンザの命により、ビック領と開戦になったのはご存じだと思いますが、事前にクリッパーがアクティ嬢を誘拐して人質として連れてきました。しかし、兵士たちは面倒だと思ったらしく、その始末を私に押し付けたのです。そして私はその子をローグ様とアルト様とで保護しました。今回は彼女を無事に帰すため、ビュイック様のお力をお貸しいただけないでしょうか。当然アルト様もご存じです」
ビュイックは「卑劣な」と呟くと、怒りに満ちた表情を見せるとともに、アクティへの同情を露わにした。
「わかった……協力する。必ず安全にアクティ嬢を連れ帰らせろ」と力強く答える。
ルークスはその傍らで頷き、従者としての役割を確認する。彼の胸中は緊張と覚悟でいっぱいだった。
今日の行動一つで、姪のアクティの命が左右されるのだから。
馬車は静かに領館へと進む。
庭を抜け、離れの前を通り過ぎる時、普段は決して近づかない黒衣の影が現れる。
エコー──スタンザの執事であり、卓越した剣技の持ち主だという。黒光りする剣を腰に差し、鋭い眼光で馬車を注視する。
「……馬車を検めたい。降りていただこうか」
その声は氷のように冷たく響く。
ビュイックとハスラー、そしてルークスは従者の装いのまま、静かに降りる。
「ハスラーに案内してもらって来た。私の従者だ」
そうビュイックが答えたとき、別館の室内から、アクティとスイフトが顔を覗かせる。
アクティはその従者の顔を見るや否や我慢できず声を上げてしまった。
「ルークス!来てくれたの!」
アクティの声が響いた瞬間、場の空気が凍りついた。
エコーの鋭い眼光がルークスに突き刺さる。次の瞬間には、黒光りする長剣が鞘から滑り出し、冷たい刃先がルークスを狙っていた。
「……やはり、ビック領の者か」
低く唸るような声とともに、エコーは一歩踏み込み、剣を振り下ろす。
ルークスはとっさに腰の短剣を抜いて受け止めた。だが重さと速さが違いすぎる。火花が散り、短剣が今にも折れそうにしなる。
「ぐっ……!」
押し返そうとするルークスの額に汗が滲む。必死に足を踏ん張るが、剣技も体格も、圧倒的にエコーのほうが上だった。
騒ぎを聞きつけ、別館からローグとアルトが駆けつける。スイフトとアクティも、怯えたようにアルトの腕にしがみついた。
「やめなさい、エコー!」
ローグが叫ぶ。
「彼はアクティ嬢を自宅に帰すために来たのだ。剣を引け!」
しかしエコーは一瞥しただけで冷たく言い放った。
「幽閉されし身のあなたに、領主代理を名乗る資格はありません。黙って見ていることです」
再び剣が振り下ろされ、ルークスは必死に身を捻ってかわす。
短剣で受け流すたびに腕が痺れ、膝が揺れる。ハスラーも助けに飛び込もうとしたが、一歩踏み込んだだけでエコーの剣圧に押し返され、足を止めざるを得なかった。
「クッ……これじゃ……!」
ルークスの短剣が弾かれ、地に落ちる。エコーの刃が今にも彼の喉を掠めようとした、その瞬間——。
大地を揺るがす軍馬の振動が館を揺るがした。
領館の正門が破壊され、砂塵の中から帝国軍の軍旗を掲げた兵士たちが雪崩れ込んできたのだ。
鎧の擦れる音と、整然とした足並み。赤と金の紋章が翻り、場の全員の視線がそちらへ釘付けになる。
「帝国軍……だと……?」
ローグが呆然と呟いた。
先頭に立った兵士が朗々と声を張り上げる。
「我らは帝国より派遣された帝国軍第三騎士団である! ベントレー公爵の命により、スタンザ・フォン・サマーセット伯爵を直ちにビック領へ召喚せよとの勅命を伝えに来た!」
館に響き渡るその言葉は、剣戟よりも重く鋭く響いた。
「この命に背くことは、帝国に背くのと同義であると心得よ!」
ざわめく一同に続けて告げられる。
「また、同命によりビック騎士爵家のアクティ嬢を救出し、直ちにビック領へ送り届けることが厳命されている!」
その声を聞き、安堵の色がルークスの顔に広がる。ハスラーも深く息をつき、アルトは震えるアクティを抱き締めながら目を閉じた。
そのとき、ローグが一歩前に出て、毅然とした声で告げる。
「私も同行いたします。私はサマーセット家の嫡男。この身で、父のと弟の不始末を見届けねばならぬ。ビック領まで共に参りましょう」
その言葉に、帝国兵たちも、道を開ける。
こうして、緊迫した死闘は帝国の介入によって幕を閉じ、物語は新たな局面へと進んでいったのだった。




