第93話 停戦。遅っ。
戦場には、まだ血の匂いと煙が漂っていた。
草原に散らばるのは、折れた槍、焼け焦げた盾、無惨に転がる兵士たちの亡骸。
少しまで怒号と絶叫で満ちていた場所は、今はただ呻きとすすり泣き、そして風の唸りが支配していた。
その沈黙を破ったのは、ひとつの雄叫びだった。
「――俺たちビック軍の勝利だッ!」
返り血にまみれたフリードの声が戦場全体に轟き、伝播していく。
その言葉は呪文のように兵士たちの耳へ届き、あっという間に空気を塗り替えた。
ビック軍の兵士たちは歓声を上げ、互いに肩を叩き、涙を流しながら抱き合った。
農民兵たちは槍を掲げ、スリングを放った少年たちは地面に座り込んで嗚咽した。
彼らにとって、これは奇跡だった。百対五千。誰一人として勝利を信じてはいなかった。いや、信じることなどできなかったのだ。
土塁や木柵に守られ、直接の戦闘が少なかったビック軍だが、それでも、兵の死者は5人。重症者が15名。あとは軽症者が40名ほど。
普通に考えれば完勝だが、それでも、ビック軍では、啜り泣く声がそこかしこから聞こえた。
そもそも、ビック領には何の落ち度もない。サマーセット軍が攻めて来なければ、亡くなることなどなかった領民達だったのだから。
だが今、その奇跡は現実となり、彼らは歴史の証人となった。
一方のサマーセット軍。
敗北の衝撃はあまりにも大きく、現実を受け入れられない者がほとんどだった。
武器を放り出し、ぼう然と立ち尽くす兵士。地面に膝をつき、仲間の亡骸を抱きしめて泣き叫ぶ兵士。あるいは、黙って空を仰ぎ、己の運命を呪う兵士。
なかには剣を投げ捨て、そのまま逃げ出そうとする者もいた。だが逃げる先もなく、結局はうずくまって震えるしかなかった。
――勝者と敗者。その差は、まさに天と地だった。
オデッセイは戦場の一角に立ち尽くし、深く息を吐いた。
隣にはセリカ。彼女の肩も震えていたが、目には確かな安堵が宿っていた。
「……終わった、の?」
「ええ、オデッセイ様。……でも、まだです。アクティ様を救わねば」
セリカの言葉にオデッセイはうなずく。勝利は掴んだ。だが、彼女らにとって戦いの本当の目的は、まだ果たされていない。
その時だった。
遠くから、整然とした足音が聞こえてきた。乱戦で疲れ果てた兵士たちの歩調とは違う、規律正しい足並み。先頭に帝国軍旗を押し立て、鉄靴が大地を打つ重い響きが、戦場に緊張を取り戻す。
やがて姿を現したのは、銀色の甲冑に身を包んだ先触れの兵。槍と盾を揃えた精鋭であり、その背後には濃紺の旗がはためいていた。
「……帝国軍だ」
「なぜここに……?」
囁きが戦場に広がる。
そして、先頭に立つ伝令役が声高に叫んだ。
「聞け! 我らは帝国からの停戦使者を護衛する兵である! ――この場におわすは、皇妃殿下の父、ベントレー公爵閣下!」
その名を聞いた瞬間、ビック軍もサマーセット軍も、息を呑んだ。
ベントレー公爵が騎馬に乗って現れる。五十代半ばに見えるその男は、整った口髭をたくわえ、威厳に満ちた雰囲気を纏っていた。
ただ派手さはなく、むしろ簡素な黒衣をまとい、必要以上に自らを誇示しない姿勢が逆に人々に重みを与えた。
「……皇妃殿下の父君だと?」
「どうして、帝国が……?」
動揺する声があがる。
公爵は馬上から戦場を一望し、やがて澄んだ声で宣言した。
「ビック軍、サマーセット軍、両軍に告げる! 本日より、我が全権をもって停戦を命ずる!」
その言葉は戦場に鋭く突き刺さり、兵士たちを静まり返らせた。
「まず、この侵攻の責を負うべきは敗軍の将、スタンザ。フォン・サマーセット伯爵である! ゆえに、直ちに彼をこの地に召喚せよ。帝国軍五百を護衛につけ、サマーセット軍幕僚の将軍と共に領都へ赴き、伯爵をここへ即、連れてくるのだ!」
命令が矢継ぎ早に下される。帝国軍の規律正しい動きに、両軍はただ従うしかなかった。
そして停戦交渉の場が設けられる。
血と煙に包まれた戦場の中、急ごしらえの幕舎が立てられ、その中央にベントレー公爵が腰を下ろした。
集められたのは、ビック軍の首脳と、捕虜となったサマーセット軍の幕僚たち。
フリードとヴェゼルとオデッセイは呼び出され、公爵の前に座することになった。
公爵はうなずき、そして表情を引き締めた。
「さて……今回の戦について。皇帝陛下も、私も、誰もがサマーセット軍の勝利を疑わなかった。五千対百――この数字を覆せるなど、常識では考えられぬからだ」
公爵はそこで言葉を区切り、深くため息をついた。
「しかし……皇妃殿下だけは違った。殿下は“ビック領は勝つ”と断言されたのだ。そして、私に命じられた。『急ぎ停戦の使者として出立せよ。間に合わぬかもしれぬが、それでも』と」
ヴェゼルは目を見開いた。
オデッセイもまた驚きを隠せなかった。
「……皇妃様が?」
「皇妃様だけが……勝利を予言していたのですか」
ベントレー公爵は静かにうなずいた。
「皇帝陛下も、私自身も、信じてはいなかった。だからこそ――まさか君たちが勝利するとは思わなかったのだ」
そして、公爵はまっすぐにヴェゼルを見据えた。
「ヴェゼル殿。君こそが、この勝利の立役者か?」
その問いに、ヴェゼルは一瞬言葉を失う。
だがオデッセイが横から口を挟んだ。
「いいえ。立役者はこの若き将来の領主一人ではありません。兵も、村人も、彼らを導いたフリードも、そして……この場に立つ者すべての力が結集した結果です」
ヴェゼルはうなずき、言葉を継ぐ。
「そうです。僕たちは奇跡を起こしたのではなく……生き延びるために、すべてを尽くしただけです」
公爵はしばし二人を見つめ、やがて小さく笑った。
「謙虚だな。しかし、その“尽くした力”が帝国の、いや世界の歴史を揺るがすことになるだろう」
その言葉に、幕舎の空気が重くなる。
幕舎の中に重苦しい沈黙が広がっていた。
ベントレー公爵の視線が、サマーセット軍の幕僚たちへと鋭く突き刺さる。
「……さて。サマーセット軍の総大将はどこにいる?」
低く響く声。
幕僚の一人が青ざめながら答えた。
「そ、それが……総大将閣下は、戦場で……ヴェゼル隊の急襲を受け、手と足を斬られて……現在は手当てを受けております。歩行は困難で……」
その場にざわめきが走る。
公爵の眉がわずかに動いた。
「……ふむ。六歳の子供と奇襲で本陣を急襲し、勝利をもぎ取ったと、そういうことか」
オデッセイは苦笑を漏らし、ヴェゼルは目を逸らした。
公爵はその二人を見やり、そして再び幕僚たちを射抜くように睨む。
「恥を知れ!」
雷鳴のごとき叱責に、サマーセット軍の幕僚たちは一斉に縮こまった。
「帝国の法を知っているか? 戦に勝った者の言い分を聞く――これが帝国の不文律である。ましてや、貴様らの仕掛けた戦は、あまりにも理不尽で卑劣だ!」
公爵の拳が卓を叩く。重い音が幕舎全体に響いた。
「小領地を相手に五千の兵を差し向けるなど――それが伯爵家の誇りか! 謂れなき因縁をつけ、領主殿の娘を拉致するとは……!」
その場にいたサマーセット幕僚は顔色を失い、身を縮め、声を失った。
公爵は冷ややかに告げる。
「勝ったのはビック領だ。この意味が分かるな?」
幕僚たちは一斉に顔を伏せ、誰一人として言葉を返せなかった。
やがて、公爵は椅子から立ち上がる。
「スタンザ・フォン・サマーセット伯爵が連れてこられ次第、改めて審議を行う。それまで両軍首脳はこの場で待機せよ。逃げ出すことは許さぬ。農民兵は帰しても構わぬ」
鋭い眼光が場を走り、両軍の将兵に重くのしかかる。
「――解散!」
その一言で幕舎は解かれ、各陣営は沈黙のまま散っていった。
ややあって、公爵は再びヴェゼルとオデッセイを呼び寄せた。
そして静かな声で問う。
「先ほど聞いた。……アクティという娘が攫われたのだな?」
オデッセイが拳を握りしめて答える。
「はい。サマーセット方の手で、領内から攫われました。無事であるかどうか……」
公爵は黙って頷き、やがて近侍の将校を呼んだ。
「帝国軍兵百名をすぐに編成せよ。サマーセット領に急行し、攫われたアクティ嬢を必ず救出して連れて来い。何があってもだ」
「はっ!」
将校は膝を折り、直ちに兵を招集するために幕舎を飛び出した。
公爵は改めてヴェゼルに向き直る。
「安心せよ。帝国の名において必ず救い出す。……そして、貴殿らの勝利は帝都にも報せねばならぬ」
ヴェゼルは深々と頭を下げた。
オデッセイもまた、胸にこみ上げる安堵を隠せなかった。
その夜、戦場にはようやく静けさが戻った。
だがサマーセット領へ向かった帝国軍の百名は、まだ見ぬ任務へと馬を走らせていた。
――やがて来る、スタンザの裁きの時と共に。
外では、帝国軍の兵士たちが規律正しく動き、戦場の混乱を収めていた。死者は葬られ、負傷者は治療を受け、サマーセット軍の残兵は監視下に置かれている。
ビック軍の兵士たちは疲労の極みにありながらも、まだ信じられないという顔で互いを見合っていた。
――百対五千の戦。
帝国の歴史に残る未曾有の戦いは、こうして終わりを迎えたのだった。




