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第92話 皇都にビック軍とサマーセット軍の開戦の報が届く

 サマーセット軍が宣戦布告して数日後。


 皇都の空気は、ざわめきに満ちていた。


 陽が傾きかけた石畳の広場、街路を行き交う商人や職人たちの耳にも「ビック領とサマーセット軍の戦」の報せが届いていた。


酒場では早くも安酒を片手に賭け事を始める者もいて、「一体、何時間で決着がつくか」が冗談交じりに飛び交っていた。


 それも無理はない。伝わってきた数字は、あまりに絶望的だったからだ。


「百対五千だとよ」


「そんなの、戦でもなんでもないな。すぐ降伏するだろ」


「いや、降伏する暇もなく、蹂躙されるんじゃないか? サマーセット伯爵のことだ、領主家族から村民に至るまで……」


 噂は尾ひれをつけて広がり、庶民は不安げに眉をひそめ、貴族たちはむしろ面白がるように嘲笑を交わしていた。


「ついに万年騎士爵も終わりか。帝国創建から連なる家系とはいえ、結局は弱小領のままだったな」


「サマーセット伯爵が一枚上手というわけだ。やり方は下劣だが、勝てば正義さ」


「そうそう。帝国の法では勝者の言葉が正義になる。敗者に弁明の機会など与えられはしない」


 しかし、そう口にしながらも、ある者は酒杯を回しながら小声で呟く。


「だが……あのやり口は、あまりに露骨すぎる」


「宣戦布告書とやらも、聞いたか? 言いがかりにもほどがある」


「帝国議会がどう裁くかはともかく、民草の間ではサマーセット伯爵への不信も募るだろうな」


 声は次第に細り、誰も大声でサマーセット伯爵を非難しようとはしない。帝国有数の大貴族を敵に回すのは得策ではないと、誰もが知っていたからだ。




 ――そんな噂が皇都を満たすなか、皇宮の奥深く。




 皇帝執務室からさらに奥へと続く重厚な扉の向こう、外のざわめきとは隔絶された空間がある。


 緋色の絨毯が床を覆い、天井から吊るされた黄金の燭台が淡い光を投げている。


 そこは皇帝と皇妃だけが用いる密室。帝国における真の決断は、この小さな空間から始まると囁かれていた。


 皇帝アネーロは深々と椅子に腰を沈め、手元の報告書を睨んでいた。


 その額には深い皺が刻まれ、普段は滅多に見せぬ弱さが漂っていた。


「……ビック領とサマーセット軍、すでに開戦の準備に入ったと」


 低くつぶやく声に、対面に座る皇妃エプシロンが静かにうなずいた。


「ええ。宮廷に届いた報せでは、サマーセット軍は五千。対するビック領は百。あまりに、数字がかけ離れていますわ」


 皇帝は目を閉じ、苦い息を吐く。


「百対五千……。歴史に残る数々の戦でも、これほどの戦力差を覆した例はない。瞬時に決まると、誰もがそう言っておる」


「ですが陛下」皇妃の声は揺れなかった。「その『誰も』に、私は含まれません」


 皇帝の目がわずかに見開かれる。


「……何を言いたい?」


 皇妃は柔らかく微笑みながら、手元の茶杯を揺らした。その仕草は優美でありながら、どこか底知れぬ強さを帯びている。


「私の予想が正しければ――ビック領は、勝ちます」


「勝つ、だと……?」皇帝は思わず身を乗り出した。


「百が五千に勝つなど、この世界の歴史に一度たりともない。しかも相手は帝国の大貴族サマーセット伯爵だぞ!」


「承知しております。ですが……陛下」


 皇妃は瞳を細め、遠い記憶を思い出すように言葉を紡ぐ。


「まず、あのフリード騎士爵。彼の武力は飛び抜けておりましてよ」


「それに、オデッセイ。あの女性を覚えておいでですか?」


「……忘れるものか。錬金塔の史上最年少稀代の賢者、だが彼女はすでに……」


「ええ。ですが、オデッセイが先日記した手紙の言葉を、私は覚えております。『もし、息子が才ゆえに災いを招いたときは、その折にだけ、庇護を願いたい』と」


 皇妃の声はひどく静かだった。だがその一言が、皇帝の心を強く揺さぶる。


「……まさか、その息子が?」


「はい。ヴェゼル。彼こそ、オデッセイが言う才の持ち主。鑑定ではハズレ魔法と蔑まれましたが、しかし……あのオデッセイが“普通ではない”と評した少年です」


 皇帝はしばし沈黙した。


 窓の外から夜風が入り、蝋燭の炎が揺れる。


「……だが、エプシロン。戦力差は事実だ。どれほど才ある者とて、兵の数は覆せぬ」


「いいえ、陛下。数を覆せぬのは“常人”の話。あの父フリードと、この少年と。そしてオデッセイがいる。彼女らは、常人の枠には収まりません」


 皇妃は瞳を伏せ、やや低い声で囁いた。


「影からの報せでは、オデッセイたちはすでに敵本陣を突く計画を。……常識外れの戦術を練っているとか」


 皇帝は報告書を握りしめた。


「もし本当に勝つというのなら……この帝国の秩序はどうなる?」


 その問いに、皇妃は即答しなかった。代わりに、細い指先で茶杯を机に置き、やわらかに笑んだ。


「だからこそ、先に手を打つべきなのです。間に合えば……ですが」


「手を?」


「はい。私の父――ベントレー公爵を停戦の使者として派遣してください。全権を委任し、帝国の意思として戦争が終わる前に停戦を促すのです」


 皇帝は眉をひそめる。


「だが、それでは帝国が“ビック領を助ける”と受け取られはせぬか?」


「構いません。もし彼らが敗れれば、ただの空しい停戦交渉として終わるだけ。ですが……もし勝利すれば、帝国が最初に“手を差し伸べた”という事実が残ります」


 皇帝は目を閉じ、沈黙した。


 部屋を満たすのは、蝋燭のはぜる微かな音と、皇妃の静かな呼吸だけ。


 やがて皇帝は深く息を吐き、静かにうなずいた。


「……わかった。ベントレー公爵と帝国軍を派遣しよう。全権委任だ」


 皇妃は微笑み、深く頭を下げた。


「ご英断、感謝いたします」


 しかし、皇帝の表情は晴れなかった。


「……だが、もしビック領が勝つとすれば……」


 皇帝は視線を宙にさまよわせ、重苦しい声で呟いた。


「それは領主が優秀だからか。オデッセイの知恵か。あるいは、皇妃の言うようにヴェゼルという少年が異質なのか……もしくは、全員が異質なのか」


 その言葉は誰に向けたのか、自分自身にもわからなかった。


 ただ、最後にひとつだけ確かなことを吐き出す。


「もしそれが真実ならば――帝国は、どうすればよい……?」


 蝋燭の炎が揺らぎ、二人を照らす。


 答えのない問いだけが、密室に沈殿していた。


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